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1巻
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❖ ◇ ❖
そして数か月後。
婚約披露パーティーを開催する運びとなったのだが――そのパーティーの最中に、『悪女マグノリア』は私の前で膝をついていた。ワインレッドのドレスにあしらわれたフリルが、潰れてしまっている。
両隣にいる騎士たちが、無理矢理彼女の頭を押さえつけて垂れさせる。
抵抗していない相手にそこまでするな、と喉元まで出かかるが、彼女にかけられている疑いを思うと下手に口を出せない。
髪をぐしゃぐしゃに乱されたマグノリアに向かって、私は重い口を開く。
「マグノリア・キャリントン。君には、私の婚約者であるロッティ・バーネット侯爵令嬢のワイングラスに毒を盛り、殺害しようとした容疑がかけられている。異論はあるか?」
「……」
「……ないのなら、君はこのまま投獄され、処刑となるが」
マグノリアはわずかに顔を上げ、虚ろな目でどこかを見つめている。
憔悴しているというより、まるですべてを諦めているかのような不思議な眼差しだった。
口を結んだまま否定も肯定もしない。
「……」
「異論は……ないのか? あるいは、自分がやったと認めるのか?」
私の声が聞こえているのかいないのか、マグノリアはその虚ろな瞳から涙を流す。声も上げずに、ただひっそりと。
自分の犯行を後悔したのとは違う、何かに深く絶望したようなあまりに儚い姿だ。私は言葉を失った。
人を陥れることに快楽を覚えると言われている悪女が、こんな顔をするか? 弁解の一つもせず、ここまで無抵抗を貫くことなんてあるのか?
噂では、『悪女マグノリア』に人生を潰された被害者の数は計り知れないという。人々の恨みを聞きながら、当のマグノリアはやられる方が悪いと高笑いをするのだと……
――心に落ちたインクの染みが広がっていく。
拭えない違和感。
噂の悪女と、目の前にいる彼女の姿がどうしても噛み合わない。
「王太子殿下が質問されている! 答えんか!」
兵士の一人が、マグノリアの後頭部を強く殴打した。
その弾みで彼女は床に頭を打ちつける。打ちどころが悪かったのか、マグノリアは再び頭を上げた際に少しふらついた。思わず顔をしかめる。
「君、余計なことをするな……マグノリア嬢、何か言いたいことはないのか?」
兵士の行動を咎めてから、再度マグノリアに問いかけた。すると彼女は涙をこぼして嘲けるような笑みを浮かべた。
「……言ったって、誰も信じてくれないじゃない。信じてくれなかったじゃない」
「どういう……ことだ?」
「私はただ普通に生きたかっただけ。でも、もういい……どうでもいいわ。すべてがどうでもいい」
マグノリアが胸元のペンダントを強く握りしめる。
「どうか私を――殺してください」
そしてバラの形をした赤く輝くルビーにそっと口づけた。
その瞬間、ルビーがまばゆい光を放った。
目が眩むほどの明るさに、私は顔を背けて目を瞑る。
ペンダントから放たれた光は徐々に和らいでいった。
そっと目を開けた私は、目の前の光景にぎょっとする。
「な……なんだ?」
そこには、身体から白い光を発する女性が浮遊していた。
髪は床につきそうなほど長く、身にまとうのは白い布のような見たことがない衣装だ。
目を閉じて笑みを浮かべているその姿は、明らかに人ではない。
神秘的な雰囲気を醸し出す相手に、私は問う。
「何者だ……?」
「私は運命を司る女神、アイネと申します」
「め、女神……?」
にわかには信じられないワードに困惑する。
女神アイネは左手を伸ばし、指を差した。
「私はそこにいる哀れな娘を救うためにここへ来ました。お願いを聞いてくれますか?」
「……哀れな、とはマグノリア嬢のことか?」
宝石に口づけるマグノリアは、石像のようにぴくりとも動かない。
「……!」
私はそこでやっと周囲の異変に気付いた。
このパーティー会場に集った人々の動きが、私以外すべて止まっている。まるで時を止められたかのようだ。
自称女神が現れたことに気を取られて、変化に気付くのが遅れた自分を大いに恥じる。
「マグノリアの運命を、あなたたちの手で変えてほしいのです」
自省していると、女神が話しかけてきた。
「運命を変えるだと……? 彼女は数々の悪行を働いたと噂される人物だぞ。なぜ救おうとするんだ?」
「マグノリアは元より悪女ではありません。そうならざるを得なかったのです」
「それはどういう……」
「環境が彼女を悪女に仕立てあげたのですよ。要因は他にあります……ところで王子レイの隣に立つ騎士よ、いつまで止まったフリをしているのですか?」
……名乗った覚えはないが、私の名前を知っているのか。
女神に指摘され、隣で身を固くしていた騎士――フィルがぴくりと動く。
「気付いてんなら声をかけないでくれよ、女神サマ」
「すみません。ですが、あなたともお話がしたいのです」
「フィル、お前……」
私が非難する視線を向ければ、フィルは面倒くさそうに頭を掻いた。
「……申し訳ありません、殿下」
「今は私とお前しかいないようなものだ。いつものように砕けた口調で構わない。お前の畏まる姿は面白いが、少し気味が悪いんだ」
「ふん、俺だって好きで畏まってるわけじゃねえよ……で、女神サマとやらは何をしてほしいって?」
フィルは目つきを鋭くし、うんざりとした表情で女神に尋ねる。心の底から関わりたくないというオーラが滲み出ていた。
「マグノリアが悪女になるのを阻止してほしいのです」
「いや、そんなもん無理だろ」
断言するフィルに向かって、女神が首を横に振る。
「今、あなたたち以外の者の時を止めているように、私には時間と空間を操る力があります。マグノリアがまだ悪に染まっていない頃まで時を戻すので、あなたたちに彼女の『悪女化の芽』を摘んでいただきたいのです」
「『悪女化の芽』を摘む? なんだそれ?」
「簡単に言えばきっかけのことです。マグノリアが悪女になるきっかけ……つまり要因を潰してください」
女神の意図は理解したが、腑に落ちないことがある。
「ご婦人……いや、女神よ。どうして私たちなんだ? マグノリア嬢の時を戻し、本人に人生をやり直させたらいいのでは?」
「そうしたいのは山々ですが……もはや、それはできないのです」
「なぜだ?」
「理由はいずれわかる時が来ます。今は話すことができません。とにかく、もう頼れるのはあなたたちしかいないのです」
「俺は嫌だぜ。その女に関わるなんてまっぴらごめんだ」
フィルが動かないマグノリアを睨み、吐き捨てた。
友人の人生を壊した『悪女マグノリア』を、こいつは反吐が出るほど嫌っている。そんな相手を助けることなど、許容できるはずないか。
「……そうですか。では、王子レイはどうですか?」
女神はフィルの返答を聞いて残念そうに眉を下げると、私に期待を移した。
「私は……」
私は迷っていた。
女神を名乗り、人ならざる力を振るっているからといって、その言葉をすべて信用していいものか。
現在、マグノリアには私の婚約者であるロッティを殺害しようとした疑いがかけられている。
いくら悪女らしくない態度に違和感を持っていたとしても、それで疑惑が晴れるわけではない。
すべてが演技で、彼女が本物の悪女であるとしたら……私は迷いを振り切れない。
しかし、先ほどの言葉も引っかかる。
「私はただ普通に生きたかっただけ」
マグノリアは確かにそう言った。
もしもそれが本心なら、女神の『マグノリアは元より悪女ではありません』という発言の信憑性が増す。
……どうするべきか。
そんな迷いを感じ取ったのか、女神が口を開く。
「一つ教えて差し上げましょう。マグノリアはロッティのワイングラスに毒を盛っていません」
「!? それは本当か?」
思わず尋ねると、フィルが声を上げた。
「嘘だろ!? だってあの女が毒を入れたのを見たって証言したのは、騎士団長で――」
「その者は嘘をついています」
「ふざけるな! 団長はそんな人じゃねえ!」
「私は真実だけを話しています。あなたの気持ちは理解しますが、盲目的に信じ込み、卑劣を見逃そうという態度は、騎士たるものとしていかがでしょうか」
「!」
フィルが言葉を詰まらせた。
――騎士たるもの、卑劣を許さず。
それはフィルが持つ騎士道精神の一つだ。騎士団へ入団してからというもの、彼がよく口にしていたので私も記憶している。
騎士団長を信ずる心は立派だが、もし悪に手を染めているならば、騎士道精神に則って真偽を確かめる必要がある。
いくらマグノリアに恨みがあるとはいえ、卑劣な行いを見逃す理由にはならないのだから。
フィルが反論できずに黙り込んだのを一瞥し、女神は私に問いかけた。
「王子レイ。あなたも物事の上辺しか見られないとはあまりに見識が狭い。それでこの国の将来を背負うつもりですか?」
鋭い指摘に返す言葉がない。
確かに、ロッティのワイングラスには毒が盛られていた。ただ、騎士団長という信頼の置ける立場からの証言を鵜呑みにしてしまい、本当にマグノリアによる犯行なのか調べていなかった。
女神が言うには、マグノリアは冤罪だ。それも、誰かに陥れられたのだと。
彼女を犯人に仕立てあげた人物は、思い通り事を運べて、裏でほくそ笑んでいることだろう。
もちろんこの女神の言うことをすべて信用するわけではないが……マグノリアのあの憂いを帯びた瞳には、やはり何か隠されていることがあるとしか思えない。
――私の心は、決まった。
「……女神よ、あなたに協力しよう。私もマグノリア嬢の態度には違和感を抱いていた。あなたの言う通り、彼女が何者かによって悪女に仕立てあげられたと言うならば、私は一国の王太子として真実を見極めるべきだろう」
「そうですか、感謝いたします。それでは、騎士フィルはどうしますか?」
「俺は……あんたに団長の名誉を傷つけられたんだから、シロだって証明しなきゃ気が済まねえ。ただ時を遡るのは構わねえが、俺はその女を助ける手伝いはしねえよ。あくまでレイの護衛としてついていくだけだ」
「承知しました。それでは時を巻き戻します。あなたたちの健闘を信じていますよ」
女神が天に向かって両手を掲げた。
「待ってくれ、マグノリア嬢を陥れた人物というのは――」
黒幕を確認しようとしたが、質問は間に合わなかった。
女神の手のひらからとてつもない量の光が放出される。
私とフィルは光に呑み込まれるようにして意識を失った。
第二章 幼少期マグノリアとの出会い
風に溶ける爽やかな花の香り。
混濁する意識の中、鼻を抜けるその匂いを心地よく感じる。
ああ、私は夢を見ているのか。
婚約披露パーティーでの事件も、自称女神が現れたことも、時を遡ってマグノリアの『悪女化の芽』を摘んでほしいという依頼も、全部夢だったのか……
「――いだっ‼」
突然ガンッと頭を殴られたような衝撃が走る。私は一瞬で意識を覚醒させた。
「いつまで寝てんだよ、レイ」
どうやらフィルが私の頭をチョップし、叩き起こしたようだ。
「どういう起こし方を――」
あまりに乱暴なやり方に抗議しようとするが、フィルを見た途端、言葉を失ってしまった。
「……お前、その姿は……」
「あの女神、俺らが子どもの頃まで時を戻したようだぜ。だいたい十年前ってところか。ったく、八歳の俺じゃ、レイの護衛じゃなくてただの従者じゃねえか。やってらんねえな」
「八歳……」
言われて私は自分の身体を見てみる。
子ども特有の小さな手に短い足。着ている服も見覚えがある。幼い頃の私がよく着ていたものと同じだ。
「マグノリア嬢は確か……私たちより二つ年下だったはずだ」
「ふーん、じゃあ、あの女は今六歳か」
顔をしかめたフィルを横目に、私はあたりをキョロキョロと見回す。
「ところでここはどこなんだ? 庭園のように見えるが……」
周囲には、美しい色とりどりの花がいっぱいに広がっていた。
ここまで立派な庭は見たことがない。庭園と言うよりも花畑と言った方がいいのではと思うほど、花で埋め尽くされていた。隅々まで手入れが行き届いていそうだ。
先ほど感じた花の香りは、この庭のせいだったのか。
「さあな。どっかの貴族様のお屋敷とかだろ。それよりこれ、俺ら勝手に入り込んだ侵入者になるんじゃねえか?」
女神アイネは時間と空間を操る力があると言っていた。王城にいた私たちを、別の場所に転移させることができたとしてもおかしくはない。
「それはまずいな。早くここから出ないと」
私たちは出口を探して歩きだした。
「それにしても、無駄に広いなこの庭園。どっちに行けばいいのか全然わからねえ」
「困ったな。今見つかったら言い訳ができない」
「……残念だな。もう見つかったみたいだぜ」
「何?」
フィルが指差す方を見ると、美しい金色の髪をふわふわとさせた、可愛らしい女の子が立っていた。
生花のような朱色の髪飾り。カナリアのようにきれいな、思わず触れてしまいたくなるほどに柔らかそうな金髪。それをさらに引き立たせるようなアイリス色の瞳は、つい先ほど見た彼女と同じだ。
圧倒的な存在感を放つ女の子の彩りに、その髪と瞳はほどよいアクセントを与えていた。
「マグノリア嬢……」
「え……? どうして、私の名前……?」
「あ……いや」
墓穴を掘った。今の私たちは初対面だ。いきなり名前を呼ばれて、マグノリアは困惑している。
……まずい、ここで彼女に騒がれたら終わりだ。
私は頭をフル回転させて、納得させられそうな言い訳を探す。
「マ、マグノリアの花だ。後ろに咲いているマグノリアがとてもきれいで、君がまるで花の精みたいに見えたから」
苦しい言い訳だと、自分でも思う。
フィルが小声でボソッと「いや、キツくねそれ?」と言ってきたので、鳩尾を肘で突いて黙らせた。
「……本当っ!?」
「え?」
私の心配をよそに、マグノリアは満面の笑みを浮かべた。
将来悪女と呼ばれることになる子だとは思えない、純真無垢な笑顔。
不覚にも、その顔に見惚れてしまった。
「お母様、お花が大好きなの。特に好きなのがマグノリアでね、だから私の名前もマグノリアなの!」
「そ、そうなのか」
「お兄ちゃんたち、迷ったんでしょう? この前もね、女の子がここへ迷い込んだんだよ。出口に案内してあげる!」
マグノリアが私の服の袖を掴み、無邪気に引っ張る。
この女の子は、本当にあの『悪女マグノリア』なのか?
交流会で出会った彼女は、警戒心を隠そうともせず、近寄りがたい雰囲気だった。周りに人を寄せつけまいとする圧があった。
こんなにも年相応の少女らしく振る舞っていた時期があるとは……なかなか信じられない。
女神が言っていた『マグノリアは元より悪女ではない』という言葉を思い出す。
「あれ? お兄ちゃん、怪我してる! 大変!」
「ん? 怪我だと?」
「おでこのあたり、赤くなってるよ」
思い当たる節がなく、私はマグノリアが指差す場所にそっと触れてみる。
「あー。そういやさっき俺の手が当たっちまったわ。悪いな」
フィルが悪びれもせず口先だけで謝ってきた。
こいつ、幼なじみという立場に胡座をかいて、何をしても許されると思っていないか? 私は王太子なのだが……
「痛そう……よかったら私のお家に来て! 冷やした方がいいよ!」
「いや、これぐらい平気――」
「メア! メアーー‼」
断る間もなく、マグノリアが大声で誰かの名を叫んだ。
するとどこからともなくメイドがすっ飛んできた。よほど慌てていたのか、血相を変えて走ってきた彼女はひどく息を切らしている。
「お嬢様、捜したんですよ! ……ってあら、こちらの二人は?」
「メア、あのね――」
マグノリアが私たちのことを説明する。
メアというのはこのメイドのことらしい。オリーブグリーン色の髪の毛を後ろでお団子に結い上げた女性だ。年齢は二十代後半といったところか。
マグノリアはメアの両手を掴んで左右に振り、楽しそうに話している。ずいぶんと慕っているようだ。
マグノリアの説明を受けて、メアは私とフィルを不審がるどころか、額の手当てをすることを快諾した。
かくして私たちはキャリントン伯爵家に招かれることになったのだ。
屋敷に入ると、至るところに飾られた花が私たちを出迎えた。
赤、黄、青、白、ピンク、緑……ここにはすべての色があるのではと疑うほどカラフルで、多種多様な花を揃えている。
目を喜ばすほどに花の数は多いのに、不思議と香りは喧嘩せずに調和している。
マグノリアの母親はよほど花を愛しているのだろう。
目を奪われながらもメアの案内についていき、私たちは応接室に通された。そこで手当てを受ける。
フィルは憎きマグノリアが近くにいることが不愉快らしい。座りもせずに窓辺で腕を組み、つまらなそうに景色を眺めている。
メアは手際よく私の額を消毒すると、安心させるように優しく微笑んだ。
「さあ、手当ては終わりましたよ。迷ったとのことですが、お帰りの手段はありますか? 見たところ、どこかの貴族家のご令息のようですが……」
「よかったらうちの馬車を使って! 送っていってあげる!」
「そうだな……フィル、どうする?」
マグノリアの提案を聞き、私はフィルに呼びかけた。
「いったん戻った方がいいんじゃねえか? ここには改めて礼に来りゃいいだろ」
今の私たちは護衛を連れずに城から離れている状態だ。もしかしたら今頃、城中の者が顔を真っ青にして捜しているかもしれない。
マグノリアとの面識はできた。フィルの言う通り、ここは一度城に戻ろう。
「ああ、ではカルヴァンセイル城まで送っていただけないか」
「えっ、お、王城……ですか?」
メアが表情を曇らせると、マグノリアは怪訝そうな顔をした。
「? メア、どうしたの?」
「いえ、あの……」
私の身なりから、なんとなく身分が高いことを察していたみたいだが……
「名乗りもせず失礼した。私はこの国の王太子、レイ・ケイフォード。そこの窓辺にいるやつは私の護衛……いや、従者のフィルだ」
「えっ! 王子様だったの!?」
「も、申し訳ありませんでした! そうとは知らず失礼な態度を……」
私が身分を明かすと、マグノリアは目を丸くした。
メアが顔を青くして、勢いよく頭を下げる。
「いや、気にしないでくれ。こちらこそ敷地内に勝手に入ってしまってすまなかった。マグノリア嬢、また後日礼を言いに来てもいいか?」
「お礼なんていいよ! でも、会いに来てくれるのは大歓迎!」
「……そうか、よかったよ」
喜んで両手を挙げるマグノリアの姿は、私が記憶する彼女の印象と著しく乖離している。
このまま朗らかに成長すれば、悪女だと世間から非難されることなんてまずないだろう。一体何があって、悪女と呼ばれるようになってしまったのだろうか?
私は無垢な笑顔を、複雑な気持ちで眺めた。
そして数か月後。
婚約披露パーティーを開催する運びとなったのだが――そのパーティーの最中に、『悪女マグノリア』は私の前で膝をついていた。ワインレッドのドレスにあしらわれたフリルが、潰れてしまっている。
両隣にいる騎士たちが、無理矢理彼女の頭を押さえつけて垂れさせる。
抵抗していない相手にそこまでするな、と喉元まで出かかるが、彼女にかけられている疑いを思うと下手に口を出せない。
髪をぐしゃぐしゃに乱されたマグノリアに向かって、私は重い口を開く。
「マグノリア・キャリントン。君には、私の婚約者であるロッティ・バーネット侯爵令嬢のワイングラスに毒を盛り、殺害しようとした容疑がかけられている。異論はあるか?」
「……」
「……ないのなら、君はこのまま投獄され、処刑となるが」
マグノリアはわずかに顔を上げ、虚ろな目でどこかを見つめている。
憔悴しているというより、まるですべてを諦めているかのような不思議な眼差しだった。
口を結んだまま否定も肯定もしない。
「……」
「異論は……ないのか? あるいは、自分がやったと認めるのか?」
私の声が聞こえているのかいないのか、マグノリアはその虚ろな瞳から涙を流す。声も上げずに、ただひっそりと。
自分の犯行を後悔したのとは違う、何かに深く絶望したようなあまりに儚い姿だ。私は言葉を失った。
人を陥れることに快楽を覚えると言われている悪女が、こんな顔をするか? 弁解の一つもせず、ここまで無抵抗を貫くことなんてあるのか?
噂では、『悪女マグノリア』に人生を潰された被害者の数は計り知れないという。人々の恨みを聞きながら、当のマグノリアはやられる方が悪いと高笑いをするのだと……
――心に落ちたインクの染みが広がっていく。
拭えない違和感。
噂の悪女と、目の前にいる彼女の姿がどうしても噛み合わない。
「王太子殿下が質問されている! 答えんか!」
兵士の一人が、マグノリアの後頭部を強く殴打した。
その弾みで彼女は床に頭を打ちつける。打ちどころが悪かったのか、マグノリアは再び頭を上げた際に少しふらついた。思わず顔をしかめる。
「君、余計なことをするな……マグノリア嬢、何か言いたいことはないのか?」
兵士の行動を咎めてから、再度マグノリアに問いかけた。すると彼女は涙をこぼして嘲けるような笑みを浮かべた。
「……言ったって、誰も信じてくれないじゃない。信じてくれなかったじゃない」
「どういう……ことだ?」
「私はただ普通に生きたかっただけ。でも、もういい……どうでもいいわ。すべてがどうでもいい」
マグノリアが胸元のペンダントを強く握りしめる。
「どうか私を――殺してください」
そしてバラの形をした赤く輝くルビーにそっと口づけた。
その瞬間、ルビーがまばゆい光を放った。
目が眩むほどの明るさに、私は顔を背けて目を瞑る。
ペンダントから放たれた光は徐々に和らいでいった。
そっと目を開けた私は、目の前の光景にぎょっとする。
「な……なんだ?」
そこには、身体から白い光を発する女性が浮遊していた。
髪は床につきそうなほど長く、身にまとうのは白い布のような見たことがない衣装だ。
目を閉じて笑みを浮かべているその姿は、明らかに人ではない。
神秘的な雰囲気を醸し出す相手に、私は問う。
「何者だ……?」
「私は運命を司る女神、アイネと申します」
「め、女神……?」
にわかには信じられないワードに困惑する。
女神アイネは左手を伸ばし、指を差した。
「私はそこにいる哀れな娘を救うためにここへ来ました。お願いを聞いてくれますか?」
「……哀れな、とはマグノリア嬢のことか?」
宝石に口づけるマグノリアは、石像のようにぴくりとも動かない。
「……!」
私はそこでやっと周囲の異変に気付いた。
このパーティー会場に集った人々の動きが、私以外すべて止まっている。まるで時を止められたかのようだ。
自称女神が現れたことに気を取られて、変化に気付くのが遅れた自分を大いに恥じる。
「マグノリアの運命を、あなたたちの手で変えてほしいのです」
自省していると、女神が話しかけてきた。
「運命を変えるだと……? 彼女は数々の悪行を働いたと噂される人物だぞ。なぜ救おうとするんだ?」
「マグノリアは元より悪女ではありません。そうならざるを得なかったのです」
「それはどういう……」
「環境が彼女を悪女に仕立てあげたのですよ。要因は他にあります……ところで王子レイの隣に立つ騎士よ、いつまで止まったフリをしているのですか?」
……名乗った覚えはないが、私の名前を知っているのか。
女神に指摘され、隣で身を固くしていた騎士――フィルがぴくりと動く。
「気付いてんなら声をかけないでくれよ、女神サマ」
「すみません。ですが、あなたともお話がしたいのです」
「フィル、お前……」
私が非難する視線を向ければ、フィルは面倒くさそうに頭を掻いた。
「……申し訳ありません、殿下」
「今は私とお前しかいないようなものだ。いつものように砕けた口調で構わない。お前の畏まる姿は面白いが、少し気味が悪いんだ」
「ふん、俺だって好きで畏まってるわけじゃねえよ……で、女神サマとやらは何をしてほしいって?」
フィルは目つきを鋭くし、うんざりとした表情で女神に尋ねる。心の底から関わりたくないというオーラが滲み出ていた。
「マグノリアが悪女になるのを阻止してほしいのです」
「いや、そんなもん無理だろ」
断言するフィルに向かって、女神が首を横に振る。
「今、あなたたち以外の者の時を止めているように、私には時間と空間を操る力があります。マグノリアがまだ悪に染まっていない頃まで時を戻すので、あなたたちに彼女の『悪女化の芽』を摘んでいただきたいのです」
「『悪女化の芽』を摘む? なんだそれ?」
「簡単に言えばきっかけのことです。マグノリアが悪女になるきっかけ……つまり要因を潰してください」
女神の意図は理解したが、腑に落ちないことがある。
「ご婦人……いや、女神よ。どうして私たちなんだ? マグノリア嬢の時を戻し、本人に人生をやり直させたらいいのでは?」
「そうしたいのは山々ですが……もはや、それはできないのです」
「なぜだ?」
「理由はいずれわかる時が来ます。今は話すことができません。とにかく、もう頼れるのはあなたたちしかいないのです」
「俺は嫌だぜ。その女に関わるなんてまっぴらごめんだ」
フィルが動かないマグノリアを睨み、吐き捨てた。
友人の人生を壊した『悪女マグノリア』を、こいつは反吐が出るほど嫌っている。そんな相手を助けることなど、許容できるはずないか。
「……そうですか。では、王子レイはどうですか?」
女神はフィルの返答を聞いて残念そうに眉を下げると、私に期待を移した。
「私は……」
私は迷っていた。
女神を名乗り、人ならざる力を振るっているからといって、その言葉をすべて信用していいものか。
現在、マグノリアには私の婚約者であるロッティを殺害しようとした疑いがかけられている。
いくら悪女らしくない態度に違和感を持っていたとしても、それで疑惑が晴れるわけではない。
すべてが演技で、彼女が本物の悪女であるとしたら……私は迷いを振り切れない。
しかし、先ほどの言葉も引っかかる。
「私はただ普通に生きたかっただけ」
マグノリアは確かにそう言った。
もしもそれが本心なら、女神の『マグノリアは元より悪女ではありません』という発言の信憑性が増す。
……どうするべきか。
そんな迷いを感じ取ったのか、女神が口を開く。
「一つ教えて差し上げましょう。マグノリアはロッティのワイングラスに毒を盛っていません」
「!? それは本当か?」
思わず尋ねると、フィルが声を上げた。
「嘘だろ!? だってあの女が毒を入れたのを見たって証言したのは、騎士団長で――」
「その者は嘘をついています」
「ふざけるな! 団長はそんな人じゃねえ!」
「私は真実だけを話しています。あなたの気持ちは理解しますが、盲目的に信じ込み、卑劣を見逃そうという態度は、騎士たるものとしていかがでしょうか」
「!」
フィルが言葉を詰まらせた。
――騎士たるもの、卑劣を許さず。
それはフィルが持つ騎士道精神の一つだ。騎士団へ入団してからというもの、彼がよく口にしていたので私も記憶している。
騎士団長を信ずる心は立派だが、もし悪に手を染めているならば、騎士道精神に則って真偽を確かめる必要がある。
いくらマグノリアに恨みがあるとはいえ、卑劣な行いを見逃す理由にはならないのだから。
フィルが反論できずに黙り込んだのを一瞥し、女神は私に問いかけた。
「王子レイ。あなたも物事の上辺しか見られないとはあまりに見識が狭い。それでこの国の将来を背負うつもりですか?」
鋭い指摘に返す言葉がない。
確かに、ロッティのワイングラスには毒が盛られていた。ただ、騎士団長という信頼の置ける立場からの証言を鵜呑みにしてしまい、本当にマグノリアによる犯行なのか調べていなかった。
女神が言うには、マグノリアは冤罪だ。それも、誰かに陥れられたのだと。
彼女を犯人に仕立てあげた人物は、思い通り事を運べて、裏でほくそ笑んでいることだろう。
もちろんこの女神の言うことをすべて信用するわけではないが……マグノリアのあの憂いを帯びた瞳には、やはり何か隠されていることがあるとしか思えない。
――私の心は、決まった。
「……女神よ、あなたに協力しよう。私もマグノリア嬢の態度には違和感を抱いていた。あなたの言う通り、彼女が何者かによって悪女に仕立てあげられたと言うならば、私は一国の王太子として真実を見極めるべきだろう」
「そうですか、感謝いたします。それでは、騎士フィルはどうしますか?」
「俺は……あんたに団長の名誉を傷つけられたんだから、シロだって証明しなきゃ気が済まねえ。ただ時を遡るのは構わねえが、俺はその女を助ける手伝いはしねえよ。あくまでレイの護衛としてついていくだけだ」
「承知しました。それでは時を巻き戻します。あなたたちの健闘を信じていますよ」
女神が天に向かって両手を掲げた。
「待ってくれ、マグノリア嬢を陥れた人物というのは――」
黒幕を確認しようとしたが、質問は間に合わなかった。
女神の手のひらからとてつもない量の光が放出される。
私とフィルは光に呑み込まれるようにして意識を失った。
第二章 幼少期マグノリアとの出会い
風に溶ける爽やかな花の香り。
混濁する意識の中、鼻を抜けるその匂いを心地よく感じる。
ああ、私は夢を見ているのか。
婚約披露パーティーでの事件も、自称女神が現れたことも、時を遡ってマグノリアの『悪女化の芽』を摘んでほしいという依頼も、全部夢だったのか……
「――いだっ‼」
突然ガンッと頭を殴られたような衝撃が走る。私は一瞬で意識を覚醒させた。
「いつまで寝てんだよ、レイ」
どうやらフィルが私の頭をチョップし、叩き起こしたようだ。
「どういう起こし方を――」
あまりに乱暴なやり方に抗議しようとするが、フィルを見た途端、言葉を失ってしまった。
「……お前、その姿は……」
「あの女神、俺らが子どもの頃まで時を戻したようだぜ。だいたい十年前ってところか。ったく、八歳の俺じゃ、レイの護衛じゃなくてただの従者じゃねえか。やってらんねえな」
「八歳……」
言われて私は自分の身体を見てみる。
子ども特有の小さな手に短い足。着ている服も見覚えがある。幼い頃の私がよく着ていたものと同じだ。
「マグノリア嬢は確か……私たちより二つ年下だったはずだ」
「ふーん、じゃあ、あの女は今六歳か」
顔をしかめたフィルを横目に、私はあたりをキョロキョロと見回す。
「ところでここはどこなんだ? 庭園のように見えるが……」
周囲には、美しい色とりどりの花がいっぱいに広がっていた。
ここまで立派な庭は見たことがない。庭園と言うよりも花畑と言った方がいいのではと思うほど、花で埋め尽くされていた。隅々まで手入れが行き届いていそうだ。
先ほど感じた花の香りは、この庭のせいだったのか。
「さあな。どっかの貴族様のお屋敷とかだろ。それよりこれ、俺ら勝手に入り込んだ侵入者になるんじゃねえか?」
女神アイネは時間と空間を操る力があると言っていた。王城にいた私たちを、別の場所に転移させることができたとしてもおかしくはない。
「それはまずいな。早くここから出ないと」
私たちは出口を探して歩きだした。
「それにしても、無駄に広いなこの庭園。どっちに行けばいいのか全然わからねえ」
「困ったな。今見つかったら言い訳ができない」
「……残念だな。もう見つかったみたいだぜ」
「何?」
フィルが指差す方を見ると、美しい金色の髪をふわふわとさせた、可愛らしい女の子が立っていた。
生花のような朱色の髪飾り。カナリアのようにきれいな、思わず触れてしまいたくなるほどに柔らかそうな金髪。それをさらに引き立たせるようなアイリス色の瞳は、つい先ほど見た彼女と同じだ。
圧倒的な存在感を放つ女の子の彩りに、その髪と瞳はほどよいアクセントを与えていた。
「マグノリア嬢……」
「え……? どうして、私の名前……?」
「あ……いや」
墓穴を掘った。今の私たちは初対面だ。いきなり名前を呼ばれて、マグノリアは困惑している。
……まずい、ここで彼女に騒がれたら終わりだ。
私は頭をフル回転させて、納得させられそうな言い訳を探す。
「マ、マグノリアの花だ。後ろに咲いているマグノリアがとてもきれいで、君がまるで花の精みたいに見えたから」
苦しい言い訳だと、自分でも思う。
フィルが小声でボソッと「いや、キツくねそれ?」と言ってきたので、鳩尾を肘で突いて黙らせた。
「……本当っ!?」
「え?」
私の心配をよそに、マグノリアは満面の笑みを浮かべた。
将来悪女と呼ばれることになる子だとは思えない、純真無垢な笑顔。
不覚にも、その顔に見惚れてしまった。
「お母様、お花が大好きなの。特に好きなのがマグノリアでね、だから私の名前もマグノリアなの!」
「そ、そうなのか」
「お兄ちゃんたち、迷ったんでしょう? この前もね、女の子がここへ迷い込んだんだよ。出口に案内してあげる!」
マグノリアが私の服の袖を掴み、無邪気に引っ張る。
この女の子は、本当にあの『悪女マグノリア』なのか?
交流会で出会った彼女は、警戒心を隠そうともせず、近寄りがたい雰囲気だった。周りに人を寄せつけまいとする圧があった。
こんなにも年相応の少女らしく振る舞っていた時期があるとは……なかなか信じられない。
女神が言っていた『マグノリアは元より悪女ではない』という言葉を思い出す。
「あれ? お兄ちゃん、怪我してる! 大変!」
「ん? 怪我だと?」
「おでこのあたり、赤くなってるよ」
思い当たる節がなく、私はマグノリアが指差す場所にそっと触れてみる。
「あー。そういやさっき俺の手が当たっちまったわ。悪いな」
フィルが悪びれもせず口先だけで謝ってきた。
こいつ、幼なじみという立場に胡座をかいて、何をしても許されると思っていないか? 私は王太子なのだが……
「痛そう……よかったら私のお家に来て! 冷やした方がいいよ!」
「いや、これぐらい平気――」
「メア! メアーー‼」
断る間もなく、マグノリアが大声で誰かの名を叫んだ。
するとどこからともなくメイドがすっ飛んできた。よほど慌てていたのか、血相を変えて走ってきた彼女はひどく息を切らしている。
「お嬢様、捜したんですよ! ……ってあら、こちらの二人は?」
「メア、あのね――」
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マグノリアはメアの両手を掴んで左右に振り、楽しそうに話している。ずいぶんと慕っているようだ。
マグノリアの説明を受けて、メアは私とフィルを不審がるどころか、額の手当てをすることを快諾した。
かくして私たちはキャリントン伯爵家に招かれることになったのだ。
屋敷に入ると、至るところに飾られた花が私たちを出迎えた。
赤、黄、青、白、ピンク、緑……ここにはすべての色があるのではと疑うほどカラフルで、多種多様な花を揃えている。
目を喜ばすほどに花の数は多いのに、不思議と香りは喧嘩せずに調和している。
マグノリアの母親はよほど花を愛しているのだろう。
目を奪われながらもメアの案内についていき、私たちは応接室に通された。そこで手当てを受ける。
フィルは憎きマグノリアが近くにいることが不愉快らしい。座りもせずに窓辺で腕を組み、つまらなそうに景色を眺めている。
メアは手際よく私の額を消毒すると、安心させるように優しく微笑んだ。
「さあ、手当ては終わりましたよ。迷ったとのことですが、お帰りの手段はありますか? 見たところ、どこかの貴族家のご令息のようですが……」
「よかったらうちの馬車を使って! 送っていってあげる!」
「そうだな……フィル、どうする?」
マグノリアの提案を聞き、私はフィルに呼びかけた。
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「ああ、ではカルヴァンセイル城まで送っていただけないか」
「えっ、お、王城……ですか?」
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「? メア、どうしたの?」
「いえ、あの……」
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「えっ! 王子様だったの!?」
「も、申し訳ありませんでした! そうとは知らず失礼な態度を……」
私が身分を明かすと、マグノリアは目を丸くした。
メアが顔を青くして、勢いよく頭を下げる。
「いや、気にしないでくれ。こちらこそ敷地内に勝手に入ってしまってすまなかった。マグノリア嬢、また後日礼を言いに来てもいいか?」
「お礼なんていいよ! でも、会いに来てくれるのは大歓迎!」
「……そうか、よかったよ」
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このまま朗らかに成長すれば、悪女だと世間から非難されることなんてまずないだろう。一体何があって、悪女と呼ばれるようになってしまったのだろうか?
私は無垢な笑顔を、複雑な気持ちで眺めた。
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