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32話 再生
しおりを挟む月の光の最後の音は、静かに沈む夜露が一滴、月明かりの中へ溶け込むように余韻を残す。
鍵盤から指を離すと同時に、ピアノの世界から現実へと浮上する。
弾けた……ちゃんと、震えずに最後まで弾けた。
私を見る観衆の目に、もう怯えたくなかった。耳障りな雑音を掻き消したくて、ほとんど無意識に指が動いて、抑え込んでいた感情をラフマニノフの旋律に乗せてさらけ出した。
フェイク動画を作った奴ら、誤解した世間からのバッシング、騒ぐだけ騒いであとは見て見ぬふりしたメディア、私がピアノを弾けないと今も見下す者たち。怒りと恨み、やるせなさ、そして逃げ続けた自分への嫌悪。
胸の奥で渦巻いていたぐちゃぐちゃの陰鬱な靄をすべて解放したら、もう何も怖くなくなった。
自分の傷に向き合い、そして最後に残ったのは、ピアノへの愛だった。
侮辱に塗れた私の月の光が浄化されていく。四年前、心から純粋にピアノを楽しんでいたあの時と同じ気持ちで、奏でられたのだ。
……良かった。もう大丈夫。怖くなんかない。私はまた、ピアノを弾くことが出来る。
席を立ち、観客を真正面から見据える。
観客たちは呆然として、心をどこか遠くへやっているようだった。静止画のように、動きが見られない。
しかし、その静寂を破るように誰かが手を打ち鳴らした途端、皆がハッと我に返る。正気を取り戻した人が一人、また一人と手を叩くと、次の瞬間、ホール中に万雷の拍手が沸き起こった。観客は一斉に立ち上がり、手が痛むのも構わずに私へ力強い拍手を送る。
二度とピアノを弾くなと否定する声はない。心からの称賛の音。……私のピアノは、想いは。ちゃんと観客へと届いた。
これ以上ない賛辞を受け取り、礼を込めて丁寧に頭を下げる。胸の奥から湧き上がる感情に押し出されるようにして、涙が頬を滑り落ちていった。
鳴り止まない拍手を背にして、舞台袖で待つ綾瀬恭平の元へ向かう。
彼は微笑んで私を迎えながら、その目に静かに涙をたたえていた。涙の筋が頬を伝うことさえも気に留めない彼に、ハンカチを差し出す。
「……泣いてるの?」
「はは……ずっとこの日を待っていたんだ。君がピアニストとして生き返るこの日を」
この涙は、きっと嬉しいだけじゃない。彼の抱える複雑な胸中は、簡単に推し量ることは出来ない。
綾瀬恭平がハンカチを受け取ろうとする手を、私はそっと握り締める。
「私は、アンタの願いを叶えられた?」
「うん。終わらせてくれてありがとう。君が生き返った瞬間、僕の『天才』の名は死んだ。でもそれでいい。君がいない世界でピアノを弾き続けるほど、僕は強くなかったから」
「……どうして、そこまで……」
ただ私への罪悪感だけとは思えない。贖罪だけでもない。執着でも意地でもない、綾瀬恭平が私をピアニストとして取り戻したかった根底にある何かを、私は知りたかった。
「僕は四年前の春、君の月の光を聞いて衝撃を受けただけじゃない。君の姿が脳裏に焼き付いて、ずっと……今もずっと忘れられないんだ」
「……」
答えを聞いても意図を掴みかねる私に、綾瀬恭平は陽だまりに包まれるような眼差しで微笑む。
「わからない? 僕はあの日君に恋をしたんだよ」
「……えっ?」
「僕はずっと君が好きだ──杏梨」
驚いてハンカチごと手を離すと、「杏梨!」と奥の方から名前を呼ばれた。
振り向くと、関係者の出入口からママとパパが揃って私の方へと来てくれていた。
「ママ、パパ……」
二人が並んでいる姿を見るのは、いつぶりだろう。目に涙を浮かべるママの肩を、宥めるようにパパが優しく撫でている。
ママは駆け出して、勢いよく私を抱き締めた。
「ごめんなさい、杏梨……! 今まであなたがずっと苦しんでいたのは知っていたのに、私……自分のことばかりで……」
「ごめんな、杏梨。私も父親失格だ。美影からも、杏梨からも……私は向き合うことなく逃げてばかりだった」
パパは私の頭を撫でながら後悔を口にする。目を真っ赤に染めながら話すパパは、きっと娘の前で泣くのを我慢しているのだろう。
ママは大粒の涙をこぼして、私の肩口を濡らしていく。
「あなたのピアノを聴いて、目が覚めたの。……私も、いつまでも部屋に篭もるのは辞めるわ。時間はかかっても、また元に戻れるように頑張るから」
「私も、これからは逃げない。家に帰るよ。ずっと君たちの苦しみに寄り添わず、放置しておいて……本当にすまなかった。杏梨が勇敢に立ち向かった姿を見て、自分がいかに愚かだったか思い知らされたよ」
ごめんね、杏梨。両親からの謝罪に、感情が胸の中で波のように押し寄せ、溢れそうなほどに心が満たされていく。
壊れかけていた家族の関係が、修復する可能性に期待なんてしていなかった。もう、元に戻ることはないと思っていた。でも、今ママとパパは私の元にいる。きっとここからやり直せる。
「うん……うん……!」
手を伸ばしてママとパパを抱き締める。……あたたかい。
しばらく三人で抱き合ってから、今までの空白を埋めるように会話を交わす。
ふと綾瀬恭平がいた方を見ると、彼はいつの間にか消えていた。
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