亡き少女のためのベルガマスク

二階堂シア

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30話 指先の熱

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 学内コンクール本選当日。

 綾瀬恭平が出るということもあって、ホールは観客で満員だった。

 生徒、保護者、各音楽大学関係者。それだけに留まらず、『保護者』に該当しない生徒の家族やその友人など、明らかに便乗して観に来ているであろう人の姿も多く見かける。

 ホールの後ろからそれを眺め、私は肘をついていたポールに項垂れた。

 やばい……こんな人前で弾くの、無理かも。もう手が震えてきてる。

 私の演奏順は一番最後の大トリを飾る。抽選らしいけど、よりにもよって綾瀬恭平の次だ。
 なんか仕組んでないかと思うけど、公正な抽選結果……らしい。


 本選参加者は予選を勝ち抜いた六人と、推薦枠各学年一人ずつの三人、計九人だ。
 予選と同じく一人の持ち時間は十分。その間なら何曲、何を弾いてもいい。


 しばらくポールにしがみついていたら、通りがかった人に体調不良かと心配されてしまった。
 大丈夫です、と丁寧に会釈してから、一度外の空気を吸おうとホールを出た。


 本当は本選出場者は控え室にいないといけないけど、空気に耐えられそうにないのでこうして一人歩き回っている。
 一応ヒステリック……指導室の教師には一言言ってあるから、私を探す人もいない。

 適当にうろついていたら噴水広場を見つけた。既に観客はホールへ入っているから、今は誰もいない。
 噴水のへりに座って、心を落ち着かせようと息を吐く。

 絶え間なく弾ける水が柔らかな飛沫となり石の縁を叩いている。穏やかな風が清らかな水音と絡み合って心地よく耳を撫でた。

 しばらく座っていると、手の震えは少しだけ収まった。……でも、実際に観客の姿を目に入れてしまうと、途端に恐ろしくなる。


 今すぐピアノ辞めろ! お前のピアノなんか誰も聞きたくねえよ! 消えろ!

 書き込まれた誹謗の言葉がフラッシュバックする。……やばい、吐きそう。


「──杏梨!」


 遠くから名前を呼ばれる。顔を上げると、綾瀬恭平がこちらに向かって走って来ていた。

 遠目でよく私ってわかったな。そう思っていると、近くに来た綾瀬恭平は私を見て今更驚いたようだった。


「どうしたの? その髪」
「変?」
「かわ……似合ってるけど」


 昨日の夜ママと話をしたあと、私は美容院へ駆け込み、髪を黒く染めてもらった。
 もう金色に染めている理由がなくなった。金髪は普通に痛むし、手入れ大変だったし。黒に戻したのは良かったけど、自分じゃないみたいでしっかり見られるのはちょっと恥ずかしい。……でも似合ってるならとりあえず良かった。


「校則の三つ編みは見た目無理すぎて結わなかったけどね。……てか、何でここに?」
「先生に聞いたんだ。多分外にいるって。……それに、今日出場するって本当?」


 綾瀬恭平は私の隣に座って、心配そうに私の顔を覗き込んでくる。礼拝堂で微妙な空気のまま別れたから、少しだけ気まずい。


「大丈夫? ……怖い?」
「……少しだけ。でも……弾くよ。どれだけ酷い演奏になるかわからないけど……ちゃんと弾くから」


 だから心配いらない。そのつもりで少し笑みを浮かべたつもりだったけど、どうやら不発に終わったらしい。私の硬い表情は、綾瀬恭平の不安を更に煽ってしまった。


「ごめん……僕の話のせいだよね。君を追い込むつもりはなかったんだ。だからそんなに無理しなくても……」
「ううん。アンタの話聞いて、自分で考えて決めたことだから。変に罪悪感持たないで」
「顔、真っ白だけど」
「……言わないで。本当はめちゃくちゃビビってるんだから」


 やっぱり顔に出ちゃってる。さすがに誤魔化しきれない。

 ……怖い。本当は死ぬほど怖い。舞台に立つことが、観衆の目に晒されることが。
 さっきから恐怖に支配されてばかりで、余裕なんて全くない。少しでも油断したら泣きそうだ。

 風が噴水の水を揺らして、流れた水滴が綾瀬恭平の手に一滴飛んだ。


「じゃあ、もし途中で弾けなくなったら、僕と一緒に連弾する?」
「……あ、その提案意外とアリかも」
「僕が高音部プリモ弾くから、なるべく杏梨の姿が客席から見えないように隠すよ」
「いいね、それ。本当にダメそうだったら助けて」
「うん、すぐに駆けつける」


 私を安心させるために、綾瀬恭平は軽口を叩いてくれる。
 彼が私に優しくするのは、あがないの気持ちかもしれない。でも、……それでも、私は彼の存在に助けられているのは確かだ。

 告解室で交わした何気ない会話。周りの人間は全て敵だと常に張り詰めていた私にとって、唯一解放される時間だった。周りから見たら取るに足らない、そんな風に見えるかもしれない。でもその時間が、私にとってどれだけ貴重なものだったか。
 そして……ピアノの楽しさを思い出させてくれた連弾。ずっと心の奥深くに閉ざしていた、また以前のようにピアノを弾きたいという気持ちを、私に認めさせてくれた。
 彼がいなかったら、私は今日、きっとここに来ていない。

 気付くと、手の震えが完全に収まっていた。指を眺めていると、綾瀬恭平が隣から包むように握り締める。

 不安を感じていると思われたのかもしれない。……絡んだ指先がひどく熱い。その熱は徐々に広がって、私の頬へと伝っていく。
 別に大丈夫だと言おうとして綾瀬恭平の方を見ると、彼は穏やかに口元を緩めた。


「……出番まで、このまま一緒にいてもいい?」


 あまりに優しい声で言うものだから、つい言いそびれてしまった。……いや、違う。私が指を離したくないから、言わなかったんだ。
 だから返事の代わりに、彼の手を握り返した。
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