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最後の懺悔
しおりを挟む僕は彼女に何も伝えないまま、セレモニーの会場へ来ていた。
ここまで暑くなるとは予想出来なかったのか、それとも既に会場のセッティングを済ませていて変更は難しかったのか、暑い中セレモニーは強行された。
ジリジリと強い日差しが僕の肌を焼く。顔中に広がる汗は、暑さと焦燥感が混じって妙に冷たかった。
多くの取材陣だけでなく、彼女のファンや僕たちコンクール参加者も集まっていた。それだけ彼女の注目度は高かったんだ。
彼女のための会場ステージはオーガンジーで造られた花モチーフが飾り付けられ、とても上品な雰囲気だった。
ステージの壁には大型のスクリーンが設置され、そこには彼女を祝福するメッセージが表示されていた。……僕はそれを見てゾッとした。
あの男たちは、恐らくあそこにフェイク動画を映し出すつもりだろう。
自分が天才ピアニストとして再び君臨したい隠れた願望と、企みを妨害して僕がピアニストとして死ぬ覚悟のなさ、そして彼女に軽蔑されることへの恐怖が、足を止めさせる。
今止められるのは自分だけなのに、僕は何も出来なかった──いや……違う。何もしなかったんだ。
そしてついに……ステージ上に司会の女性が現れてしまった。
彼女が呼ばれ、盛大な拍手を受けてステージに立つ。僕は息が苦しくなって、自分の喉を押さえた。
木に密集した蝉の鳴き声が耳の中で反響して、頭が割れそうになる。見たくない。この後起こることが恐ろしくて、とても見ていられない。でも目を離せない。離すことは許されない。
汗が一筋、僕の顔を割るように縦に流れた。
鮮烈なデビューを果たした、あの伝説の月の光の動画を簡単にご紹介します! スクリーンをご覧下さい!
司会の掛け声でスクリーンがパッと変わる。そして映し出されたのは、男性にしなだれかかる女性の姿。
顔が不自然なほどくっきりと見えるその二人は、彼女の母親とコンクールの審査委員長だった。
有名ピアニストと審査委員長がホテルへと入って行く不倫動画。そのフェイク動画の終わりに、『不正で取った一位のピアニストに鉄槌を!』とメッセージが浮かんだ。
次に映ったのは彼女の月の光の演奏動画。その動画に誹謗中傷のコメントが次々と書き込まれていく。それは編集とかじゃなくて、リアルタイムにしか見えなかった。
僕はすぐにスマホを取り出して、つぶやきアプリを開いた。そして目を疑った。
フェイク動画は既にネットに拡散され、大炎上していたんた。
『不正で取った一位は嬉しいですか?』『こいつのピアノ人生を潰せ!』『不倫女の娘の演奏とか汚くて聞けねえよ。今すぐピアノやめろ!』『真面目に練習してコンクールに臨んでいる人たちに失礼だと思いませんか? 最低』『不正で簡単に一位取れて、マジ人生楽勝~! 羨ましー!』『お前のピアノなんか誰も聞きたくねえよ! 消えろ!』
フェイク動画に騙された人々の無数の言葉の刃が彼女を切り刻む。彼女の『月の光』が汚されていく。
自分の母親が不倫する姿と、動画に流れるコメントをその瞳に映す彼女は、透明な血を流していた。
誰も彼女を助けなかった。いや、助けられなかった。
既に切られた彼女を救うことは、もうできなかったんだ。
ものの数十秒、誰も動けなかった。何が起こっているのかわからなかったんだろう。混乱と動揺で、空気が固まっていた。
突然、ブツっとスクリーンから映像が消えた。その瞬間、人々は我に返った。
彼女を称賛するために集まったはずの記者は、スキャンダルを追求する敵へと変貌した。そして観客席にいた彼女の母親の元へと殺到する。
舞台上の彼女は、ただ呆然として立ち尽くし、何も映っていないスクリーンを見続けていた。記者たちはその姿さえもおいしいと、写真に収めた。何度も、何度も。追い打ちをかけるように。
……僕は後悔した。いや、後悔だなんてもんじゃない。
彼女が傷付く姿なんて、見たくなかった。自分が傷付くよりももっともっと辛くて、胸が破れてしまいそうだった。
どうして自分の保身に走ってしまったんだろう。どうして僕は自分のピアニストの人生を選んでしまったんだろう。
彼女がピアニストとして死んだところで、僕は彼女に一生勝てない。
何度褒められても、何度首位を取っても、何度賞を取っても、僕の中には彼女という絶対的なピアニストがいる。
彼女という越えられないピアニストがいる限り、僕は生涯二位のままなんだ。
そんなピアニスト人生に、一体なんの意味がある?
僕が犯人に仕立てあげられた方が良かった。どれだけ彼女に嫌われようが、彼女が死んでいくのを黙って見ているより、ずっとマシだった。
僕は泣きながらすぐに『これはフェイク動画だ』とコメントして、鎮静をはかった。
でもネットの炎上の勢いはそんなコメント一つで収まるものじゃなく、どんどん彼女や彼女の母親を誹謗中傷する声で埋め尽くされていった。……もう遅かったんだ。
彼女は……春若杏梨の心は、殺されてしまった。
その日のうちに君の母親の所属事務所が動いて、不倫は事実無根であることを発信した。
しかし、動画の出来が良く、フェイク動画だとすぐに見抜けなかったネット上の人々は、ならば証拠を出せと更に燃え上がった。
フェイク動画だと証明するまで、君たちへの糾弾は止まらなかった。
勝手な憶測が憶測を呼び、歯止めが効かなかった。ネットの恐ろしさを、僕は嫌というほど思い知らされたんだ。
数日後、フェイク動画だと証明され、動画を投稿した奴らの方へと炎上の矛先は向かった。
投稿した奴らは後日訴えられて、自身のピアノ人生を潰したよ。……まあ、彼らは元々大した実力なんてなかったから、どちらにせよそのうち潰れていただろうけど。
君の母親の疑惑は晴れた。でも、君たちが傷つけられた事実は変わらない。
身勝手な正義に駆られたネットの声によって君の心は引き裂かれ、無実だとわかると手のひらを返して君を可哀想だと同情した。
君を傷つけたのは彼らであり、止めなかった僕だというのに。
加害者が加害した自覚なく、被害者を慮るだなんて、反吐が出るだろうね。
おかげで君はピアノを人前で弾けなくなってしまった。
弾こうとすると、手が震えてしまうんだろう? 君をよく指導している教師から聞いたよ。
……謝って許されることじゃない。僕の罪は、それほど深いものなんだ。杏梨。
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