亡き少女のためのベルガマスク

二階堂シア

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12話 ピアニストたちの思考

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「……で。今度は水族館と」
『ここ来てみたかったんだよね』

 ドーナツカフェから移動して、彼から指定された水族館に来た。

 日曜日なので家族連れやカップルで溢れており、今からここを一人で歩くのかと、ちょっとげんなりする。
 チケット売り場に並ぼうとしたら、彼から止められた。


『杏梨、待って。今入場チケット君に送ったから』


 短い着信音と共に、ポップアップがスマホに表示される。
 メッセージに貼られたリンクをタップすると、水族館の入場チケットのQRコードが出てきた。


「このまま入場ゲート行けばいいやつ? 助かる、ありがとう。お金は明日礼拝堂のベンチに置いとくわ」
『いらないよ。僕の奢り』
「いや、奢られる理由ないし」
『なんで? デートじゃん。僕が誘ったんだから』
「……デートねえ……」


 果たしてこれをデートと呼んでいいものか。近くで手を繋いで歩くカップルを見ながら思う。

 彼に礼を言い、イルカのぬいぐるみを抱いて接客する係員のいるゲートを通り抜けた。


「水族館とか何年ぶりだろ。ドイツに住んでた時以来かも」
『じゃあ少なくとも四年半以上は来てないんだね』
「雰囲気とか空気感とか結構好きなんだけどさ、なかなか行く機会がなくて」
『僕も。ピアノやってるとこうしてゆっくり出かける時間もないよね』


 プロのピアニストを志す者は、毎日ピアノの練習に明け暮れる。それは平日も休日も変わらずだ。

 一日でも触れない日があれば、やはり指が鈍る感覚がある。それに、私にとってピアノを弾くのは呼吸するのと同じくらい重要なことだ。

 今日このあと帰ったら真っ先にピアノへ向かうだろう。それはきっと彼も同じに違いない。


 青い光に包まれた大きな水槽と、目を輝かせてそれに張り付く子どもたち。キャッキャと騒ぐ声、すごいと驚く声、可愛いと喜ぶ声。それを見ながら、先へ進んでいく。

 とても穏やかで居心地がいい。ここでピアノを弾くならどんな曲がいいだろうか。


「……ラヴェルの『オンディーヌ』かな」


 考えていたことがポロッと口に出てしまう。しまった。


『そこは僕の好きな『水の戯れ』って言って欲しかったな。……ま、僕もオンディーヌを思い浮かべてたんだけど』


 彼も同じことを考えていたらしい。
 せっかく水族館に来たのに、二人ともこの雰囲気に合うピアノ曲をイメージしている。ピアノ病だ。


 一番メインの巨大水槽は、まるで海の中に潜っていると錯覚するほど深い青だった。

 ガラス越しに迫るイワシの群れや、ヒレを優雅に動かすマンタの姿、そして王のような貫禄を見せつけるジンベイザメが、まるで私たちを海の奥深くへ誘うように泳いでいる。その迫力に飲み込まれてしまいそうだ。


「『ショパン『大洋のエチュード』』」


 ほぼ同時に曲名を言う。まさかの被りで、私たちは互いに笑う。


「感性同じすぎでしょ」
『嬉しいな、杏梨と同じイメージだった』
「……なんか、結局ピアノと結びつけちゃうんだよね。こうやって何の曲が合いそうかとか考えたり、誰かの話し声とか何かの鳴き声とかが音階に見えたり」
『杏梨は本当にピアノが好きなんだね』
「……そうだね。嫌いになれない。結局今も音楽科に通ってるのも、未練がましいと自分でも思うよ」


 人前で弾けなくなっても、コンクールに出られなくなっても、ピアノを断ち切れない。
 私の人生からきっと一生離れることはない。自ら手放すことはできないから。


 ポーン、とどこかからピアノの音が聞こえる。
 振り向くと、キッズ向けのコーナーに可愛らしいサイズのピアノが置いてあり、三歳くらいの女の子がはしゃぎながら弾いていた。

 旋律もリズムもぐちゃぐちゃな、何の曲でもない即興のメロディ。
 それでも女の子は楽しそうで、それを見守る子どもや保護者の大人たちは優しい眼差しを送っている。


「……いいな。私もあんなふうに……」


 弾いてみたい。何も気にせず、何も知らず、純粋にピアノを心から楽しんでいたあの頃のように。

 そんな願望を口にしそうになり、途中で口を噤んだ。
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