15 / 44
12話 ピアニストたちの思考
しおりを挟む「……で。今度は水族館と」
『ここ来てみたかったんだよね』
ドーナツカフェから移動して、彼から指定された水族館に来た。
日曜日なので家族連れやカップルで溢れており、今からここを一人で歩くのかと、ちょっとげんなりする。
チケット売り場に並ぼうとしたら、彼から止められた。
『杏梨、待って。今入場チケット君に送ったから』
短い着信音と共に、ポップアップがスマホに表示される。
メッセージに貼られたリンクをタップすると、水族館の入場チケットのQRコードが出てきた。
「このまま入場ゲート行けばいいやつ? 助かる、ありがとう。お金は明日礼拝堂のベンチに置いとくわ」
『いらないよ。僕の奢り』
「いや、奢られる理由ないし」
『なんで? デートじゃん。僕が誘ったんだから』
「……デートねえ……」
果たしてこれをデートと呼んでいいものか。近くで手を繋いで歩くカップルを見ながら思う。
彼に礼を言い、イルカのぬいぐるみを抱いて接客する係員のいるゲートを通り抜けた。
「水族館とか何年ぶりだろ。ドイツに住んでた時以来かも」
『じゃあ少なくとも四年半以上は来てないんだね』
「雰囲気とか空気感とか結構好きなんだけどさ、なかなか行く機会がなくて」
『僕も。ピアノやってるとこうしてゆっくり出かける時間もないよね』
プロのピアニストを志す者は、毎日ピアノの練習に明け暮れる。それは平日も休日も変わらずだ。
一日でも触れない日があれば、やはり指が鈍る感覚がある。それに、私にとってピアノを弾くのは呼吸するのと同じくらい重要なことだ。
今日このあと帰ったら真っ先にピアノへ向かうだろう。それはきっと彼も同じに違いない。
青い光に包まれた大きな水槽と、目を輝かせてそれに張り付く子どもたち。キャッキャと騒ぐ声、すごいと驚く声、可愛いと喜ぶ声。それを見ながら、先へ進んでいく。
とても穏やかで居心地がいい。ここでピアノを弾くならどんな曲がいいだろうか。
「……ラヴェルの『オンディーヌ』かな」
考えていたことがポロッと口に出てしまう。しまった。
『そこは僕の好きな『水の戯れ』って言って欲しかったな。……ま、僕もオンディーヌを思い浮かべてたんだけど』
彼も同じことを考えていたらしい。
せっかく水族館に来たのに、二人ともこの雰囲気に合うピアノ曲をイメージしている。ピアノ病だ。
一番メインの巨大水槽は、まるで海の中に潜っていると錯覚するほど深い青だった。
ガラス越しに迫るイワシの群れや、ヒレを優雅に動かすマンタの姿、そして王のような貫禄を見せつけるジンベイザメが、まるで私たちを海の奥深くへ誘うように泳いでいる。その迫力に飲み込まれてしまいそうだ。
「『ショパン『大洋のエチュード』』」
ほぼ同時に曲名を言う。まさかの被りで、私たちは互いに笑う。
「感性同じすぎでしょ」
『嬉しいな、杏梨と同じイメージだった』
「……なんか、結局ピアノと結びつけちゃうんだよね。こうやって何の曲が合いそうかとか考えたり、誰かの話し声とか何かの鳴き声とかが音階に見えたり」
『杏梨は本当にピアノが好きなんだね』
「……そうだね。嫌いになれない。結局今も音楽科に通ってるのも、未練がましいと自分でも思うよ」
人前で弾けなくなっても、コンクールに出られなくなっても、ピアノを断ち切れない。
私の人生からきっと一生離れることはない。自ら手放すことはできないから。
ポーン、とどこかからピアノの音が聞こえる。
振り向くと、キッズ向けのコーナーに可愛らしいサイズのピアノが置いてあり、三歳くらいの女の子がはしゃぎながら弾いていた。
旋律もリズムもぐちゃぐちゃな、何の曲でもない即興のメロディ。
それでも女の子は楽しそうで、それを見守る子どもや保護者の大人たちは優しい眼差しを送っている。
「……いいな。私もあんなふうに……」
弾いてみたい。何も気にせず、何も知らず、純粋にピアノを心から楽しんでいたあの頃のように。
そんな願望を口にしそうになり、途中で口を噤んだ。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
フラレたばかりのダメヒロインを応援したら修羅場が発生してしまった件
遊馬友仁
青春
校内ぼっちの立花宗重は、クラス委員の上坂部葉月が幼馴染にフラれる場面を目撃してしまう。さらに、葉月の恋敵である転校生・名和リッカの思惑を知った宗重は、葉月に想いを諦めるな、と助言し、叔母のワカ姉やクラスメートの大島睦月たちの協力を得ながら、葉月と幼馴染との仲を取りもつべく行動しはじめる。
一方、宗重と葉月の行動に気付いたリッカは、「私から彼を奪えるもの奪ってみれば?」と、挑発してきた!
宗重の前では、態度を豹変させる転校生の真意は、はたして―――!?
※本作は、2024年に投稿した『負けヒロインに花束を』を大幅にリニューアルした作品です。

切り札の男
古野ジョン
青春
野球への未練から、毎日のようにバッティングセンターに通う高校一年生の久保雄大。
ある日、野球部のマネージャーだという滝川まなに野球部に入るよう頼まれる。
理由を聞くと、「三年の兄をプロ野球選手にするため、少しでも大会で勝ち上がりたい」のだという。
そんな簡単にプロ野球に入れるわけがない。そう思った久保は、つい彼女と口論してしまう。
その結果、「兄の球を打ってみろ」とけしかけられてしまった。
彼はその挑発に乗ってしまうが……
小説家になろう・カクヨム・ハーメルンにも掲載しています。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
「ノベリスト」
セバスーS.P
青春
泉 敬翔は15歳の高校一年生。幼い頃から小説家を夢見てきたが、なかなか満足のいく作品を書けずにいた。彼は自分に足りないものを探し続けていたが、ある日、クラスメイトの**黒川 麻希が実は無名の小説家「あかね藤(あかね ふじ)」であることを知る。
彼女の作品には明らかな欠点があったが、その筆致は驚くほど魅力的だった。敬翔は彼女に「完璧な物語を一緒に創らないか」と提案する。しかし、麻希は思いがけない条件を出す——「私の条件は、あなたの家に住むこと」
こうして始まった、二人の小説家による"完璧な物語"を追い求める共同生活。互いの才能と欠点を補い合いながら、理想の作品を目指す二人の青春が、今動き出す——。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ARIA(アリア)
残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる