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26話 聖女の選択②

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「アイヴィ嬢、大丈夫か?」

 ライナスが心配そうに私の顔を覗き込む。
 きっと今の私は酷い顔をしているに違いない。

「……着替えてくるわ。それから少し休みたいの。この治療院、確か中庭があったわね。そこへ行ってもいいかしら」

「……わかった、休んでくれ」

 ライナスの了承を得て、席を外す。
 レグランから受け取った替えの服に着替えてから、私は中庭へと向かった。


 中庭は緑と花が一面いっぱいに広がっており、陽の光を浴びてキラキラと輝いて見える。
 患者達の心のオアシスとなっているのか、散歩する大人や遊ぶ子供達の表情は穏やかだ。

 中庭の中心にある、大きな噴水の縁に腰掛けてぼんやりとそれを眺める。

 私はどうするべきなのかしら。

 このまま聖女を続ければ、あのメッセージの聖女のように少しずつ身体が弱り、死を迎える。
 それが嫌なら逃げるしかない。上手く逃げられる保証なんてどこにもないけれど。

「おねえちゃん?」

 呼ばれてふと横を見ると、いつの間にか女の子が立っていた。

 その顔には見覚えがあった。
 以前ニーナを治療して体調を崩した後、レグランの反対を押し切って私が治療した患者の内の一人だ。

「やっぱり、治してくれたおねえちゃんだ! わたしね、こんなにも元気になったの! 一生走るのなんてムリだってあきらめてたのに、おねえちゃんがわたしを救ってくれたんだよ! おねえちゃん、本当に本当にありがとう!」

「…………」

 純真無垢な笑顔は、私の心を抉るように傷付ける。
 私が聖女の立場を捨てて逃げる選択肢を思い浮かべていたことが、どれだけ罪深いことか突き付けられているようで、ひどく息苦しい。
 そんなことも知らずに、少女はにこやかに話す。

「おねえちゃんはね、わたしのおともだちも助けてくれたの! その子とね、おとなになったら治療師さんになろうねって約束したんだよ」

「……そう」

「だっておねえちゃん一人じゃみんなを助けるのたいへんでしょ? だからわたしたちがお手伝いするんだよ!」

「…………」

 何も言えずにいると、少女は他の子に呼ばれ、私に笑顔で手を振る。
 そのまま友達らしき子達とどこかへ行ってしまった。

 俯き、膝元に置いた自分の両手を組む。

 私が逃げたら、今も苦しみながら私の救いを待っている人達を当然見捨てることになる。
 さっきの少女のことも、裏切ることになる。

 私はそこまでして……彼女達の希望を奪ってまで、生きたいのかしら。
 例え上手く逃げ延びたとして、私は幸せに生きられるのかしら。人に胸を張って生きられるのかしら。

 ……いいえ。
 待っているのは、ずっと罪悪感に苛まれ続ける人生。
 後ろめたい気持ちを背負って生きていくだけの、惨めな人生よ。

 ──それなら、私は。

 たくさんの人を救って、後悔することなく生きたい。
 命尽きる時に、色んな人の希望になれたと、自分を褒めて死にたい。
 ……ジェナのように、誰かから死を望まれるような、恨みを買うような終わり方を、私はもうしたくない。

 そうよ。前世は悪役令嬢としての人生を全うしたのだから、今世は聖女として立派に生きてやるわ。

 メッセージを残してくれた聖女は、私のことを馬鹿だと思うでしょうね。
 せっかく教えてくれたのにごめんなさい。
 私には図太く生き抜くような賢さは、残念ながらないのよ。

「アイヴィ嬢」

 聖女として生きる覚悟を決めるために随分と時間が掛かってしまったようで、ライナスがわざわざ声をかけに来てくれた。
 顔を上げて、慌てて立ち上がる。

「あ……休みすぎたわね。もう大丈夫よ。戻れるわ」

「いや、もう戻る必要はない。私が患者の様子を見て来た。皆君に直接感謝を言いたかったと残念そうにしていた」

「そう。別に感謝の言葉はいらないわ。それより明日から聖女の業務を詰めてくれる?」

 唐突な私の申し入れに、ライナスは不意打ちを食らったかのように目を見開く。

「……どうしたんだ、急に。君は無理をするとすぐに倒れるだろう。さっきだって君の手は震えていた。祈りを捧げて体調を崩すのが怖かったんじゃないのか?」

「そんなに繊細な女じゃないわよ。大量の血を見て少し驚いただけ。とにかくこれからはちゃんと聖女として、もっとたくさんの人を救いたいの」

 怖がっていた本当の理由は誤魔化して、私は決意を示す。
 ライナスは急にどうしたと言わんばかりに困惑し、怪訝な表情を浮かべた。

「……君は本当にアイヴィ嬢か?」

 疑うのも無理ないわ。
 急に心を入れ替えたようなこと言ったら誰だっておかしいと思うわ。
 何を企んでいるんだと問い質したくなるわよね。
 信用してとは言わないけれど、これからの態度で私が聖女の務めをちゃんと果たすのだと示してみせるわ。

「そうよ。私は聖女アイヴィよ。何か文句あるかしら?」

 唇の片端を上げて、悪役令嬢さながらにニヤリと笑みを浮かべてみせる。

 少しばかり悪態はつくけれど──聖女、私の命が尽きるその日まで、やってみせるわ。

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