夜霧家の一族

Mr.M

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十章 永いお別れ

<人定 亥の刻> 陰陽

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月が雲に隠れていた。

先ほどまでの豪雨が嘘のように小降りになり、
今は気持ちばかりの雨が
ぽつりぽつりと地面を濡らしていた。

蚊母鳥の「キュキュキュキュ」という啼き声と
美しくも悲しげな笛の音が妖しく響いていた。

それらの音に紛れて
静まり返った夜霧の敷地に足音が一つ聞こえた。
その足音の主は陰陽だった。
陰陽は巽の宅の方へ向かって歩いていた。
表情にはやや疲れが見えたものの、
その足取りはしっかりとしていた。

その時、不意に陰陽の足が止まった。

陰陽がゆっくりと振り返った。
視線の先に編み笠を被った男が立っていた。

男の着ている若芽色の着物に
「芒に月」
が刺繍されているのが暗がりの中にも確認できた。

「・・兄さん」
陰陽が男に呼びかけた。

「驚かないのか、陰陽?」
男の問いに陰陽が小さく微笑んだ。

「これでも驚いてるんだよ。
 でも・・。
 ほんの僅かだけど声の調子が違うね」

「・・知っていたのか」
僅かな間が空いて、男がぽつりと呟いた。

「ボクに隠し事はできないよ」
「貴様の『地獄耳』については
 俺も槍も警戒していたんだがな」
陰陽がハッと息をのむのがわかった。
それから陰陽は男に鋭い眼差しを向けた。

「何を驚いてる?
 貴様だけがこの家のすべてを
 知っているとでも思っていたのか?」
編み笠から覗く男の口元が小さく笑っていた。

「貴様の摩訶不思議な術の正体はその耳だ。
 その耳はどんなに小さな音も
 そしてどんなに離れた場所の音でも
 聞くことができる。
 昔、孤独が言っていた。
 貴様が天の気を操ったと。
 しかしそれは風の音、
 遠くの動植物の声、
 それらを頼りに天候の変化を予測したにすぎん。
 貴様のその『地獄耳』
 俺には通用せんぞ」

刹那の突風に陰陽の髪がなびいた。
木々のざわめきが、
地に落ちる雨音と流れる笛の音を掻き消した。

「貴様を含めて殺らねばならんのはあと三人か」
「・・三人?」
陰陽の表情に微かな戸惑いが見えた。
「まずは貴様からだ、陰陽」
男の抑揚のない声が風の中に消えた。

「一人になった兄さんに
 ボクを殺すことができるかな?」
「孤独も同じことを言っていたぞ」
男が編み笠を脱ぎ捨てた。
闇夜に銀色の髪が浮かび上がった。
その下には一槍斎にそっくりな顔があった。
ただその左目には鍔の眼帯はなかった。
二つの目が陰陽を冷ややかに見つめていた。

「・・本当にそっくりだね」
陰陽は大きく息を吸い込んでから
「フッ」と笑った。
「先手を打たせてもらったよ、一双斎兄さん。
 ボクを殺せば夜霧の家は断絶する。
 つまり兄さんはボクに手を出せない」

その言葉に一双斎が首を傾げた。
「言ってる意味がわからんな」
「ついさっき、ボクは狐狸を始末した。
 つまり夜霧の家にはもう女は残ってないんだよ」
「先ほどの卯の宅の火事は貴様の仕業だったか。
 貴様の話が本当なら一二三を殺ったのは狐狸か」
一双斎が納得したように頷いた。

「その通り。
 残念だったね、兄さん。
 一二三姉さんは狐狸に殺られ・・」
そこで陰陽は口を噤んだ。
しばしの沈黙の後、
陰陽は腕を組んでぽつりと呟いた。
「一二三姉さんが愛していたのは
 死んだ一槍斎兄さんの方だった・・」
陰陽の四白眼が一双斎を真っ直ぐに捉えた。
「・・何を考えている、陰陽?」
一双斎の切れ長の目が陰陽を見つめ返した。

「孤独兄さんの話が気になってたんだよ。
 以前に、孤独兄さんが
 予見と一槍斎兄さんの逢引きを
 目撃したと話してたけど。
 今わかったよ。
 予見と逢っていたのは、
 一双斎兄さんの方だったんだね」
「ほぅ」
一双斎が顎の無精髭をそっと撫でた。

「兄さん達の秘密を知る唯一の人間が予見だった。
 そしてそんな予見が邪魔になった。
 だから兄さんは予見を手にかけたんだ。
 自分を愛してくれた人間を
 あんなにも残忍に殺せるなんて、
 感情のない兄さんにしかあんな真似はできない。
 兄さんには予見の気持ちはわからないだろう。
 予見は自分の運命を知っていてなお、
 愛する兄さんの手に
 かかったんじゃないのかい?」
そこまで話して陰陽は僅かに目を細めた。
「貴様が感傷にふけるとは
 どういう風の吹き回しだ?」
そんな陰陽を一双斎は冷めた目で見ていた。
「それに狐狸を手にかけた貴様に
 俺を責める資格はなかろう。
 知っているぞ、
 狐狸が貴様に好意を持っていたことを。
 もっとも俺には責められる謂れは無いがな」
陰陽の頬がピクリと動いた。

雨脚がさらに弱くなった。
月は相変わらずその姿を雲中に隠していた。
蚊母鳥が「キュキュキュキュ」と啼いていた。

「下らぬ話はもういいだろう。
 狐狸が死んだ今、残るは貴様と闇耳の二人だ」
そう言うと一双斎は左手で脇差を抜いた。
周囲の黒とは対照的な白い刃が
ぼんやりと闇に浮かんだ。

「いくぞ、陰陽」
一双斎が陰陽めがけて一直線に駆け出した。
陰陽はすかさず懐から苦無を取り出して投げた。
一双斎は走りながら脇差でそれを弾いた。
陰陽はもう一本の苦無を投げた。
一双斎が僅かに右へと体を傾けると
苦無が一双斎の左肩に刺さった。
それでも一双斎は足を止めずに
そのまま陰陽へ飛び掛かった。
同時に一双斎は右手で抜刀し、
右薙ぎに太刀を振った。
陰陽はさっと後ろに飛んで、
その太刀を交わした。

一瞬の出来事だった。

「ふぅ」
一双斎は大きく息を吐くと
右手の太刀を地面に突き立ててから
左肩に刺さった苦無を抜いた。

「流石だよ、兄さん。
 最小限の動きで避けつつ
 攻撃を仕掛けてくるなんて」
「貴様こそよくぞ今の一太刀をかわしたな」
「ボクには兄さんの動きが手に取るようにわかる。
 呼吸、着物の擦れる音、足が地面を蹴る音。
 その太刀筋までも。
 残念だけど
 兄さんの刀がボクの体に触れることはない」
陰陽がそう言って微笑んだ次の瞬間、
その顔が大きく歪んだ。
「うぐっ・・」

見ると陰陽の着物の腹の辺りが一文字に裂けて、
赤く滲んでいた。

「・・太刀筋がわかったところで
 『一胴七度』の前では無意味」
一双斎の言葉が闇の中で冷たく響いた。
それから一双斎は
ゆっくりと左手の脇差を鞘に納めた。

「か、完璧に避けたはずなのに・・」
陰陽が腹を押さえたまま片膝をついた。
そして視線の先の地面に突き立っている
黒い刀身を睨み付けた。
それからゆっくりと一双斎の方へ視線を移した。

「この刀がなぜ『一胴七度』と呼ばれているか、
 貴様に教えてやろう。
 それは普通の刀であれば刃こぼれをして
 一度で使い物にならなくなる
 一の胴の試し斬りを
 七度も成功させたことにある」
「あ、生憎、刀に関しては
 それほど詳しくないんだ・・」
陰陽がぎこちない笑顔を作って苦しそうに呟いた。

「この刀の秘密は太刀風にある。
 『一胴七度』は空気を刃に纏ったまま
 相手の体を切り裂く。
 故に、刃こぼれがない」
「・・そ、それは素晴らしい業物だ」
「だが、この刀の真価はそこではない。
 たとえ貴様が俺の攻撃を完全に避けたとしても、
 風圧が貴様の体を切り裂く。
 それこそが
 この『一胴七度』の極意『鎌鼬』だ」
「か、かまいたち・・」

蚊母鳥が騒がしく啼いた。
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