夜霧家の一族

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九章 夜霧家の崩壊

<人定 亥の刻> 二更

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日が落ちて静まり返った夜霧の敷地に
美しくも悲しげな笛の音が妖しく響いていた。

「闇耳のこの笛の音の調べ、
 近頃よく耳にするわね」
陰陽はその言葉には答えず、
空になった狐狸のお猪口に酒を注いだ。
「ねえ。
 こんなところで油を売ってて大丈夫なの?
 今の話が本当なら
 まだ双兄ぃが生きてるんでしょ?」
狐狸が話題を変えた。
陰陽の四白眼が真っ直ぐに狐狸を見た。
狐狸は頬を赤く染めて
その瞳をうっとりと見つめ返した。

「・・心配ないよ。
 兄さんはボクを殺せない」
「凄い自信ね」
狐狸は頭を振ると
「ふぅ」と溜息を吐いてお猪口を呷った。

その時、
雨粒がパラパラと屋根を叩く音がした。
その音が笛の音に重なって、
ある種の不穏な調べを奏でた。

「この音色、何だか不快だわ」
狐狸は忌まわしげに呟くと
空になったお猪口を差し出した。
陰陽は「飲み過ぎだぞ」と軽く窘めつつも
お猪口に酒を注いだ。

「久しぶりに聞きたいわ、陽兄ぃの笛」
陰陽の表情に微かに動揺の色が広がった。
「アタシ、子供の頃に陽兄ぃが裏山で一人、
 笛を吹いてるのを見たことがあるのよ。
 闇耳の横笛と違って、
 陽兄ぃの縦笛は子供心にも
 いやらしく見えたわ」
狐狸は目を細めて「うふふ」と笑った。
「闇耳に比べたらボクの笛は児戯に等しいよ。
 それに・・。
 ・・あいにく笛は置いてきたんだ」
陰陽はその話題を避けるように
狐狸から視線を外すと障子窓の方へと顔を向けた。
開いた窓から僅かばかりの雨粒が
ぱらりぱらりと部屋に降り込んでいた。

「・・何だか体が重いわ。
 ・・酔ったのかしら?」
そう言いながら
赤く火照った頬の狐狸が着物の胸元を開いて
その短い赤髪を官能的に掻き上げた。
そんな狐狸の振る舞いに気付いてないのか、
それとも敢えて見ぬふりをしているのか、
陰陽は障子窓から降り込んでくる雨粒を
じっと眺めていた。
狐狸は小さな溜息を吐くと、
陰陽の前に置かれたぐい呑みに目を留めた。
「あら?
 陽兄ぃ、さっきから全然飲んでないじゃない」
ぐい呑みには酒が並々と注がれたままだった。
いつの間にか陰陽の四白眼が
正面から狐狸を見つめていた。
次の瞬間、
その瞳孔が大きく開いて妖しく光った。

「陽兄ぃ・・まさか・・」
狐狸の表情に緊張が走った。
「大丈夫かい、狐狸?
 心の臓の音が激しくなったよ」
陰陽の目が静かに笑っていた。

「陽兄ぃぃぃ!」
高らかに叫んだ狐狸の手からお猪口が落ちて、
その手が畳の上にある茜色の鞘へ伸びた。
「何をしたの!」
次の瞬間、
狐狸が素早く太刀を抜いて
その切っ先を陰陽の眼前に突き付けた。
朱い刀身が行燈の灯に照らされて
炎のように光っていた。

「どうしたんだい、狐狸?
 そんな物騒なモノは仕舞って、
 楽しく飲もうよ。
 夜はこれからじゃないか」
陰陽は転がったお猪口をちゃぶ台の上に立てると
そこにぐい呑みの酒を注いだ。
「さあ、座って」
陰陽は懐から扇子を取り出して
狐狸に微笑みかけた。
その美しく妖しい微笑みに狐狸の意識が一瞬、
吸い寄せられた。

その時、陰陽の扇子が狐狸の右手の甲を打った。

「っ!」
太刀が畳に転がって狐狸は咄嗟にその身を引いた。
「陽兄ぃ、どういうつもり!」
狐狸の目が陰陽を睨み付けた。
「さっき、お前が着替えに部屋を空けた時、
 酒に痺れ薬を入れておいたんだよ」
「気でもフれたのっ!」
狐狸の金切り声が開いた障子窓から
薄暗い虚空へ抜けた。

蚊母鳥の「キュキュキュキュ」という啼き声が
屋根を叩く雨音と笛の旋律を乱した。

「至って冷静だよ。
 ボクはお前を殺るためにここに来たんだからね」
陰陽は扇子を広げてしとやかに扇いだ。
「はっ?
 あはははははは。
 何を言ってるの?
 アタシを殺す?
 アタシは夜霧に残ったただ一人の女よ?
 アタシを殺せば夜霧の血は断絶するわ。
 アタシに手を出せる人間は
 今この家にはいないのよ!」
「・・そうだね」
陰陽が涼しい顔でさらりと答えた。

「わかってると思うけど、
 選ぶ権利はアタシにあるのよ!
 アタシは双兄ぃだろうが陽兄ぃだろうが
 どっちだっていいの!」
「それを言うならボクにしたって
 別にお前でなくてもいいんだよ」
そう言って陰陽は扇子を狐狸に向かって投げた。
狐狸は横に転がってそれをかわしつつ
畳の上の太刀を拾った。
「本当に頭がイカれたみたいね!
 いいわ、陽兄ぃがそのつもりなら
 お望み通り殺ってあげる。
 この程度の痺れ薬で勝ったつもりでいるなら
 後悔するわよ!」
狐狸の手に握られた朱い刀身が
不気味に光っていた。

「・・一二三姉さんを斬った業物か」
「よく知ってるじゃない。
 『童子切安綱』またの名を『血吸』。
 この刀は人の生き血を吸って
 より切れ味を増すのよ」

ふたたび蚊母鳥が啼いた。
風に打たれて戸口の木戸が
カタカタと小さな音を立てた。

陰陽が静かに立ち上がった。
それからゆっくりとした動きで着物と帯の間から
鈍色に光る鉄扇を取り出した。
「先ほど、お前の手を打った扇子とは
 わけが違うよ。
 この『羅刹』で打たれると肉は切れ骨は砕ける」
「その鉄扇がアタシの体に触れる前に
 陽兄ぃは全身から血を噴き出すことになるわ」
狐狸が大袈裟に「あははは」と笑った。
それを見た陰陽が大きな溜息を吐いた。
その瞬間、狐狸が動いた。
狐狸は着物の胸元から黒い玉を取り出すと、
陰陽目掛けて投げた。

体に当たる紙一重のところで
陰陽はそれを鉄扇で弾いた。
パンッという破裂音と共に
粉塵が陰陽の頭から降りかかった。
「ゴホッゴホッ!」
「あははは!
 まんまと掛かったわね、
 これでしばらくの間、目が見えないわよ」
狐狸の高笑いが響いた。


いつの間にか屋根を打つ雨音が止んでいた。
開いた障子窓から
ひんやりとした風が吹き込んできた。

「・・こんなモノを用意していたとはね。
 お前も父さんに勝るとも劣らず歪んでるね」
「お互い様でしょ?
 アタシ達兄妹は誰もが
 あのくそ親父の血を引いてるんだから。
 それより、どうするの?
 視覚を奪われた今の状況で
 このアタシとやり合うつもり?
 アタシの剣術の腕は
 あのくそ親父のお墨付きよ?」
「・・やれやれ。
 お前はもう少し賢い女だと思ってたけど、
 ボクの見当違いだったようだ」
陰陽はふたたび溜息を吐くと、
ゆっくりと髪を掻き上げた。
「必ずしも腕の立つ者が勝つとは限らない。
 『柔よく剛を制す』
 父さんもよく口にしてただろ?」
「ふんっ!
 くそ親父の戯言なんて聞きたくもないわ!
 それに賢い女が皆、
 男に従順だと思ったら大間違いよ!」
語気を強めた狐狸が太刀を八相に構えた。

「地獄で後悔しても遅いわよ!」
不意に
狐狸の体が左右にゆらりと揺れた。
次の瞬間、音もなくスッと間合いを詰めると
狐狸は太刀を袈裟に振り下ろした。
陰陽は素早く後に飛んでそれをかわした。
ちゃぶ台が真っ二つに裂けて畳の上に転がった。
間髪を入れずに
狐狸は一歩踏み込むと
振り下ろした刀を左に切り上げた。
陰陽は体を丸めてぐるりと前に転がって、
起き上がると同時に後ろ手で
狐狸の左の脹脛を打った。
バキッという音がして狐狸の体が左に揺れた。
狐狸は体勢を崩しながらも振り返って
今度は逆袈裟に刀を振り下ろした。
狐狸のその渾身の一太刀をも
陰陽は半身になって紙一重でかわすと、
隙のできた狐狸の右脇腹に
ふたたび鉄扇を打ち込んだ。
「ぐふっ」
という狐狸の呻き声と共に
あばら骨の折れる鈍い音が部屋に響いた。
狐狸はよろよろと後ろに下がったところで
壁に背を預け、
そのまま畳に尻から崩れ落ちた。

「今のは致命傷だ」
「め、目が見えないのに・・。
 ど、どうして・・」
狐狸が苦しそうに顔を歪めた。
「ボクの術は人の心と体の動きを読む」
目を閉じた陰陽が静かに手の中の鉄扇を広げた。

「目に見えるモノは恐れるに足らぬ。
 本当に怖いモノは姿形の見えぬモノ」
そして陰陽は鉄扇で軽く扇いだ。

狐狸が額に浮かんだ脂汗をそっと拭った。
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