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九章 夜霧家の崩壊
<人定 亥の刻> 奇襲
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月明かりが夜霧の屋敷を優しく照らしていた。
美しくも悲しげな笛の音が妖しく響いていた。
本宅の酉の間で八爪が二本の蝋燭の灯りの下、
文机で書物を開いていた。
その時、
笛の音に紛れて
蚊母鳥が「キュキュキュキュ」と啼いた。
不意に襖が音もなく開いた。
部屋に一筋の風が吹いて蝋燭の炎の一つを消した。
続いて黒い影が足音を立てずに部屋に入ってきた。
「・・こんな夜更けに何の用だ?」
八爪は書物に目を落としたまま
闖入者に語りかけた。
返事はなかった。
「隠しているつもりかもしれんが、
その殺気、
襖の向こうからひしひしと伝わってきたぞ」
八爪はそこでようやく書物から顔を上げた。
八爪の大きな目が闇に立つ影を見据えた。
「二人を殺したのはお前か?」
八爪が静かに問い掛けた。
影はそれには答えず背後でそっと襖を閉めた。
直後、影が動いた。
「ヒュッ」という音の後に、
もう一本の蝋燭の炎が消えた。
酉の間に闇が落ちた。
次の瞬間、その闇に閃光が走った。
真っ暗な部屋の中で男が二人、対峙していた。
仄かに射し込む月明かりが八爪を照らした。
着物の右肩の辺りが破れて
その生地が赤黒く滲んでいるのが見えた。
「一人か・・」
そう呟いて八爪は着物の帯を緩めた。
その呼吸は僅かに乱れていた。
「今の一突き。
よくかわしたな、親父」
男の左手に握られている長い柄の先端には
その髪と同様に銀色に光る鋭い穂先が付いていた。
そしてその穂先には着物の切れ端が掛かっていた。
「・・槍か。
刀なら・・。
儂にもう少し深手を与えられたであろうに。
隻眼のお前では儂に勝てぬぞ」
「それはどうかな?」
一瞬、鍔の眼帯の奥の目が光ったように見えた。
「お前、本当に・・」
八爪が口を開いたと同時に
男の鋭い突きが八爪に襲い掛かった。
銀色の穂先が八爪を貫こうとしたその瞬間、
八爪の上体が水平に後ろに折れた。
穂先が八爪の着物を僅かに掠めた。
八爪はそのまま体をくるりと横に回転させて
男の左に回り込んだ。
銀色の穂先が八爪の体を追いかけるように
横に流れた。
八爪が今度は足を大きく左右に開いて
腰を畳に落とした。
穂先が八爪の頭上ギリギリを通ったその時、
槍の動きが止まった。
同時に白髪が数本、闇に舞った。
見ると
槍の螻蛄首に真っ黒い帯が巻き付いていた。
その帯の両端を
八爪の左右の手がしっかりと握っていた。
「柔よく剛を制す。
儂の体のことは知らぬわけではあるまい。
儂は全身六十八か所の関節を自在に外せる。
お前の槍は儂の体を貫くことはできん」
八爪は
「ふぁふぁふぁ」
と笑いながら立ち上がると
背後に下がりつつ帯を引く手に力を込めた。
男が槍を取られまいとその場で足を踏ん張った。
八爪の帯を握る手にさらに力が込められた。
「力比べをするのに左手だけでは心許なかろう」
八爪が歯のない口を大きく開けて笑った。
その大きく開いた口の中には
周囲に漂う闇よりももっと深く暗い闇があった。
男の左手の槍が
じりじりと八爪の方へ引き寄せられ、
ついには小指が石突に掛かった。
「柔よく剛を制するんじゃなかったのか、親父?」
暗闇の中、
男は表情を変えずに八爪を正面から見据えた。
「剛よく柔を断つ場合もある」
八爪の目がギロリと光った。
「・・そんなにこの槍が欲しければ
冥途の土産にくれてやる」
次の瞬間、
男は握っている手を勢いよく離した。
槍が八爪を目掛けて飛んでいった。
銀色の穂先が八爪の右胸に迫ったその瞬間、
八爪の上半身だけがぐるりと右に捻られた。
槍は八爪の胸元を掠めて、
背後の壁に突き刺さった。
「ふぁふぁふぁ」
笑い声と共に
八爪の上体がゆっくりと正面を向いた。
「安易に武器を手放すなと教えたことを忘れたか」
「奇襲こそが暗殺の神髄じゃなかったか?」
「ただし、
奇襲は必ず成功させねばならぬ
と念を押したはずだ」
どこからか隙間風が流れ込んできて
酉の間の温度が僅かに下がった。
二人は目を合わせたまま互いに動かなかった。
蚊母鳥が「キュキュキュキュ」と啼いていた。
不意に、八爪の表情が緩んだ。
それから「ふぅ」と小さく息を吐き出した。
「まあよかろう。
今宵のことは不問に付すから早く家に戻れ。
お前の相手は儂ではなく弟達だ、
そこを勘違いするな」
八爪は黒い帯を手元に手繰り寄せながら
男を諭した。
男の口元がフッと緩んだ。
「勘違いではない。
俺の目的は親父、貴様だ」
そう言うや否や
男は八爪めがけて飛び掛かった。
瞬間、八爪の手が動いたかと思うと、
真っ黒の帯が男の頭部を包み込んだ。
直ぐ様、男の足が止まった。
「窒息は人が経験する苦痛の中で
ある種、最も辛く耐え難き苦しみである
と言われている。
何よりもその苦しみは
永遠に感じられるほど長く続く。
何故なら心の臓が止まってからも
完全に死ぬまでに凡そ四半刻を要するからだ」
八爪が「ふぁふぁふぁ」と笑いながら
腕を忙しく動かした。
男の頭を包み込んだ帯が
その腕の動きに合わせて
さらに二重三重と巻き付いた。
「今の状況で聞こえているかわからんが、
お前に一つ、忠告してやろう。
憎しみ以外の感情を持たぬお前の欠点は
それ故に他人の心がわからぬことだ」
八爪の腕に力が入り、
男の頭に巻き付いている帯が
徐々に締まっていった。
その時、男が畳を蹴って前に飛んだ。
「馬鹿め、槍がなくて何ができるっ!」
八爪の両手が左右に広がり、
男の顔を一気に締め上げようとした次の瞬間、
八爪の口から「うぐっ・・」という
くぐもった声が漏れた。
同時に八爪の体が後ろへ吹き飛んだ。
八爪は聚楽壁に背をぶつけ、
そのまま畳に尻餅をついた。
八爪の両腕は力なく畳に投げ出された。
八爪の左胸には男の脇差が突き刺さっていた。
男の頭を締め付けていた帯がはらりと畳に落ちた。
男の切れ長の右目が闇の中で光っていた。
美しくも悲しげな笛の音が妖しく響いていた。
本宅の酉の間で八爪が二本の蝋燭の灯りの下、
文机で書物を開いていた。
その時、
笛の音に紛れて
蚊母鳥が「キュキュキュキュ」と啼いた。
不意に襖が音もなく開いた。
部屋に一筋の風が吹いて蝋燭の炎の一つを消した。
続いて黒い影が足音を立てずに部屋に入ってきた。
「・・こんな夜更けに何の用だ?」
八爪は書物に目を落としたまま
闖入者に語りかけた。
返事はなかった。
「隠しているつもりかもしれんが、
その殺気、
襖の向こうからひしひしと伝わってきたぞ」
八爪はそこでようやく書物から顔を上げた。
八爪の大きな目が闇に立つ影を見据えた。
「二人を殺したのはお前か?」
八爪が静かに問い掛けた。
影はそれには答えず背後でそっと襖を閉めた。
直後、影が動いた。
「ヒュッ」という音の後に、
もう一本の蝋燭の炎が消えた。
酉の間に闇が落ちた。
次の瞬間、その闇に閃光が走った。
真っ暗な部屋の中で男が二人、対峙していた。
仄かに射し込む月明かりが八爪を照らした。
着物の右肩の辺りが破れて
その生地が赤黒く滲んでいるのが見えた。
「一人か・・」
そう呟いて八爪は着物の帯を緩めた。
その呼吸は僅かに乱れていた。
「今の一突き。
よくかわしたな、親父」
男の左手に握られている長い柄の先端には
その髪と同様に銀色に光る鋭い穂先が付いていた。
そしてその穂先には着物の切れ端が掛かっていた。
「・・槍か。
刀なら・・。
儂にもう少し深手を与えられたであろうに。
隻眼のお前では儂に勝てぬぞ」
「それはどうかな?」
一瞬、鍔の眼帯の奥の目が光ったように見えた。
「お前、本当に・・」
八爪が口を開いたと同時に
男の鋭い突きが八爪に襲い掛かった。
銀色の穂先が八爪を貫こうとしたその瞬間、
八爪の上体が水平に後ろに折れた。
穂先が八爪の着物を僅かに掠めた。
八爪はそのまま体をくるりと横に回転させて
男の左に回り込んだ。
銀色の穂先が八爪の体を追いかけるように
横に流れた。
八爪が今度は足を大きく左右に開いて
腰を畳に落とした。
穂先が八爪の頭上ギリギリを通ったその時、
槍の動きが止まった。
同時に白髪が数本、闇に舞った。
見ると
槍の螻蛄首に真っ黒い帯が巻き付いていた。
その帯の両端を
八爪の左右の手がしっかりと握っていた。
「柔よく剛を制す。
儂の体のことは知らぬわけではあるまい。
儂は全身六十八か所の関節を自在に外せる。
お前の槍は儂の体を貫くことはできん」
八爪は
「ふぁふぁふぁ」
と笑いながら立ち上がると
背後に下がりつつ帯を引く手に力を込めた。
男が槍を取られまいとその場で足を踏ん張った。
八爪の帯を握る手にさらに力が込められた。
「力比べをするのに左手だけでは心許なかろう」
八爪が歯のない口を大きく開けて笑った。
その大きく開いた口の中には
周囲に漂う闇よりももっと深く暗い闇があった。
男の左手の槍が
じりじりと八爪の方へ引き寄せられ、
ついには小指が石突に掛かった。
「柔よく剛を制するんじゃなかったのか、親父?」
暗闇の中、
男は表情を変えずに八爪を正面から見据えた。
「剛よく柔を断つ場合もある」
八爪の目がギロリと光った。
「・・そんなにこの槍が欲しければ
冥途の土産にくれてやる」
次の瞬間、
男は握っている手を勢いよく離した。
槍が八爪を目掛けて飛んでいった。
銀色の穂先が八爪の右胸に迫ったその瞬間、
八爪の上半身だけがぐるりと右に捻られた。
槍は八爪の胸元を掠めて、
背後の壁に突き刺さった。
「ふぁふぁふぁ」
笑い声と共に
八爪の上体がゆっくりと正面を向いた。
「安易に武器を手放すなと教えたことを忘れたか」
「奇襲こそが暗殺の神髄じゃなかったか?」
「ただし、
奇襲は必ず成功させねばならぬ
と念を押したはずだ」
どこからか隙間風が流れ込んできて
酉の間の温度が僅かに下がった。
二人は目を合わせたまま互いに動かなかった。
蚊母鳥が「キュキュキュキュ」と啼いていた。
不意に、八爪の表情が緩んだ。
それから「ふぅ」と小さく息を吐き出した。
「まあよかろう。
今宵のことは不問に付すから早く家に戻れ。
お前の相手は儂ではなく弟達だ、
そこを勘違いするな」
八爪は黒い帯を手元に手繰り寄せながら
男を諭した。
男の口元がフッと緩んだ。
「勘違いではない。
俺の目的は親父、貴様だ」
そう言うや否や
男は八爪めがけて飛び掛かった。
瞬間、八爪の手が動いたかと思うと、
真っ黒の帯が男の頭部を包み込んだ。
直ぐ様、男の足が止まった。
「窒息は人が経験する苦痛の中で
ある種、最も辛く耐え難き苦しみである
と言われている。
何よりもその苦しみは
永遠に感じられるほど長く続く。
何故なら心の臓が止まってからも
完全に死ぬまでに凡そ四半刻を要するからだ」
八爪が「ふぁふぁふぁ」と笑いながら
腕を忙しく動かした。
男の頭を包み込んだ帯が
その腕の動きに合わせて
さらに二重三重と巻き付いた。
「今の状況で聞こえているかわからんが、
お前に一つ、忠告してやろう。
憎しみ以外の感情を持たぬお前の欠点は
それ故に他人の心がわからぬことだ」
八爪の腕に力が入り、
男の頭に巻き付いている帯が
徐々に締まっていった。
その時、男が畳を蹴って前に飛んだ。
「馬鹿め、槍がなくて何ができるっ!」
八爪の両手が左右に広がり、
男の顔を一気に締め上げようとした次の瞬間、
八爪の口から「うぐっ・・」という
くぐもった声が漏れた。
同時に八爪の体が後ろへ吹き飛んだ。
八爪は聚楽壁に背をぶつけ、
そのまま畳に尻餅をついた。
八爪の両腕は力なく畳に投げ出された。
八爪の左胸には男の脇差が突き刺さっていた。
男の頭を締め付けていた帯がはらりと畳に落ちた。
男の切れ長の右目が闇の中で光っていた。
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