月に落ちていくように

月日

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夢心地

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胸の中から湧き上がる悲しみを感じながら、直也は目覚めた。
寝ぼけ眼のぼんやりした視界に、黒の背景に月のようにきらきらと輝くオレンジ色を捉える。

「ナオヤ、起きたか?」

ぼうっとしてその月を見ていれば、最近聞き慣れた優しい囁き、そしてふわりと降ってきた指先が目尻に触れてくる。
それに意識すれば、自分が泣いているのだとわかった。

優しい手付きにほっとしたが、先ほど夢で見た地球ではありえないファンタジーのような光景は、ここでは現実にありえそうで……。
夢で聞いた怒りのようでいて、やりきれない悲しみの、心からの叫びを思い出す。
胸が締め付けられて、どうしようにもならない。

最近、妙に涙腺が弱くなったのか、目に新たに溢れる涙の膜が張る。
膨れ上がって目尻からこぼれた一滴が、こめかみに落ちる前に、親指で拭われた。

「大丈夫か?」

こちらを気遣うように向けられる視線を感じながら、頬を覆ってきた大きな手に自身の手を重ねる。
ふと、頭の中で音が浮かぶ。
その音が、震える唇からこぼれた。

「なとらーじゃ、だい、じーうぶ」

多めに区切ってしまったし、音程が少しずれたのがわかる。
だからか、頬に触れる大きな手がぴくりと微妙に跳ねた。

彼の表情を見ようと、邪魔な涙を押し遣るようにぎゅっと目を瞑った瞬間、浮遊感が襲う。
驚いて頭が一気に冴えた。
見開いた目には、真っ黒しか映さない。

「っ……ナオヤ、言葉を…………」

声を詰まらせて短く呻いた後、ナトラージャの擦れた呟きが肩口に触れられ、くすぐったさに肩を竦める。
それをすることで、後頭部には手、背には腕がまわされ、少し痛いぐらいに抱きしめられているのだとわかった。

腕は自分の身体とナトラージャの筋肉質な身体に挟まっていて、動かせそうにない。
それよりも気になるのは、首に当たっているナトラージャの唇。
吐息のくすぐったさに、逃げるように直也は身を捩る。

ナトラージャは何を勘違いしたのか、手と腕に力を更に籠めてきて、押し潰されそうなその息苦しさに唸った。
また、ぽつりと一滴の雨が降ってきたように、異国の言葉が音と共に落ちてくる。

「…………くる……しー」

小さな訴えはナトラージャにも伝わったようで、拘束と言って良いそれから解放された。
肺に入ってくる新鮮な空気を思う存分吸う。

「すまない」

反省をしたような小さな声のトーンに、直也はナトラージャの顔を覗き込む。
器用に眉を八の字にさせた彼に、猫がにゃーんと寂しそうに鳴いた時のような哀愁が漂っている――――ように直也は見えた。
見え方はどうであれ、いつもは頼もしく大人びた彼もまだ十代なのだと実感する。

先ほど湧いて出た音がまた脳裡に浮き上がってきて、日本語の『大丈夫』と頭の中で一致した。
こちらの言葉をしゃべれた喜びと、道が開けるような喜びが胸に広がる。
安心させるようにと微笑みながら彼の頬を手で擦り、

「ナトラージャ。だいじーうぶ。……だいじー。だいじょぶ」

言い間違いを何度もしながらも成功をして、直也は満面の笑みになった。

「ッ……ナオヤ!!」
「うぐっ!!」

ナトラージャがまた感極まったように抱き付いてきて、何かが潰されたような声が直也から上がる。
すると、ドタバタと慌ただしい足音が聞こえて、ドアが勢い良く開かれる音が部屋に響いた。

「ナトラージャ様! 今、変なうめき声が!!」

切迫したようなユアンの問いが、ドアを背にしているナトラージャに向けられた。

「ゆぁ……」
「ナオヤ様!?」
「……くる、しー」
「貴方という人はッ! ナオヤ様を抱きしめ殺す気ですか!!」

ほんの少しの届いたかわからないようなか細い声だったが、ユアンはちゃんと拾って、ベッドに乗り上げてナトラージャを引きはがす。
直也を守るように後ろ背に隠し、両手でナトラージャを突き飛ばした。

「うわッ!?」

ベッドから落ちて背を強く打ったナトラージャをユアンは見下す。
そして、目は睨んだまま口角を上げた。

「ああ、嘆かわしい。二日も寝込んでいらっしゃったナオヤ様に、あんなことをするなんて……再教育が必要ですかぁ?」

不穏な空気が立ち込めてきた気配に、直也はユアンの背中部分の服を引っ張る。

「ユアン。だいじーうぶ」

また発音に失敗した。どうにも、小さい『ょ』が言い難い。
だが、とにかく、ユアンは電源を切った機械のようにピタリと止まった。
最初の意図は達成したが、ユアンはそのあと彫刻のようにピクリとも動かない。

顔が見えなくて心配なのだけれど、助けを求めるようにナトラージャを見ると、面白いというように静かに肩を震わせている。

「………ユアン?」

ナトラージャは当てにならないと悟って、直也はユアンの服の裾を遠慮気味に引っ張りながら呼ぶ。
すると、ユアンがゆっくりと振り返る。
目が合うと、

「ナオヤ様、もう一度。もう一度だけ『ユアン、大丈夫』と言ってもらっても良いですか?」

日頃見ないユアンのぐいぐいと押すような雰囲気に気圧され、何かぎらついた眼差しを向けられた直也はおずおずと頷く。

「ユアン。だいじー。だい、じーぶ。だいじょぶ―――――……」

直也は何度か言って、むむっと口を引き結んだ。
頭には、言葉の音が正しく響いていると思う。
だけれど、どうにもうまく発音できない。
その苛立ちと、恥ずかしさが複雑に入り混じって、顔が熱くなって俯く。

「な、何ですか、この可愛い生き物は!?」
「ぐぅッ!?」

ユアンはきらきらと目を輝かせて、直也を強く抱きしめて頬ずりをしはじめた。
背中も、よしよしと赤子に接するようなそれで擦られる。

「あー、癒される~」
『……ちょ、え? どういうこと!?』

今までにないユアンに、直也が目を白黒させてわたわたしていると、ナトラージャが耐え切れないと大笑いをした。
それを尻目に、ユアンに抱きしめられながら、彼からかなりのアルコール臭がすることに気付く。

「しゃけ?」

それは、言葉も発音も鮭だ。
言いたかったのは、酒。
直也は、いきなり頭に思いつく音の表現のできなさに肩を落とす。

「ユアン。酒の飲み過ぎだ」

一頻(ひとしき)り笑い終わったのか、ナトラージャが直也からユアンを引きはがす。
一連の流れのように、ベッドの端に腰かけたナトラージャは、自身の膝の上にシーツに包んで直也を乗せる。

ユアンの雰囲気がいつもと違っていて、それに気を取られ、直也はいつもならするだろう抵抗が出来なかった。

直也の居なくなってもなお、ユアンは両腕を中に掲げ、自分の掌をじっと見詰めている。
アルコールでほんのりと赤く染まる頬とは反対に、目は諦めたような冷めたような―――そんな陰りがあった。
両手を握りしめ、ユアンには珍しくベッドへごろんと寝ころんだ。

それを眺めていると、ナトラージャが水の入ったコップを直也の口に当てきた。
喉の渇きを実感して、直也はコップを受け取ってゴクゴクと飲む。

「神官長様が、行方不明になってしまうなんて…………。ジルが、神官長様を手に掛けるはずがありません」

なのに、疑いを掛けられ囚われてしまった。
ユアンの悲しげな言葉に、はっと直也はコップから視線を上げる。
少し開いた口から顎へ一滴、水が伝う。

急に手に力がなくなって、コップを落としそうになったが、直也を見守っていたナトラージャが気付いて受け止めた。

(――――神官長。ケリー、エフィー……)

なんで、忘れていたんだろう。
いつから、忘れていたのか。
ケリー達の夢を見た次の日には、すでに忘れていて……。
そういえば、市場でナトラージャ達とはぐれて―――それから?

銀髪が似合う淡い褐色の肌を持つ少年。
少年を襲う、塀に絡まる薔薇の蔦の群れ。
掻き分けても掻き分けても、棘が指に刺さってただ赤く染まっていく手。

(あの薔薇の蔦は、ケリーとエフィ―を捕えていたものと同じ?)

では、あの銀髪の少年を助けようとして、気を失いそうになったとき、

『みぃーつけた』

そう耳元近くで聞こえた、あの楽しげな声の正体は―――……。

今更ながらに、ゾクッと背筋を駆け上がった恐怖に直也は思わずぶるっと震え、自分自身を守るように膝を抱えて丸まる。

みんな助けられなかった。
見つけられてしまった。
どうすれば、良い?
どうすれば………。

混乱して、叫びそうになった時だった。



――――まだ、思い出さなくても良いよ。僕が今だけ、嫌な思い出は預かるから………ごめんね、ナオヤ。



どこかで聞いた青年の声が脳を揺さぶって、電源を切った時のようにプツリと思考が途切れた。

(―――――――あれ……? 今まで、何を考えていたんだっけ?)

ふと意識を戻せば、何を考えていたのか直也は忘れていた。
考えが散漫で、ぼんやりする。
妙に、自分の呼吸音がうるさかった。

「…………ヤ」

不意に、直也の冷め切ってしまった頬を温かい大きな手が覆った。

「ナオヤ」

強く低い脳に響く声が、マヒした思考を少し揺り起こした。
大きな手が頬から顎へ滑って、痛くないぐらいの力で掴まれ上向かされる。
そこには、ナトラージャの心配そうな顔。
ナトラージャの髪は、あの日の月のように今日もオレンジ色で、サイドテーブルに置かれた火が灯ったロウソクの光に照らされて、キラキラと輝いている。

ああ。この世界で、自分を慰めてくれる月だ。
絶望の淵から救い出してくれる月だ。

上向いたまま、目の前の胸に頬を寄せると、とくとくと心地よい音が聞こえ耳を澄ませる。
目を瞑り頬を擦り付ければ、その温かい身体がぴくりと動いた。

今は冬のはじまり、夜は寒い。
空気が冷たく、温かい場所を見つけてしまって、どうにもならなかった。

頬にあった大きな手が、離れていく。
それを残念に思う前に、苦しくないように優しく、大切なものを扱ってくれているような腕が身体に回ってきた。
その腕をそっと自分の腕と手で抱え込む。
温かい熱がじわじわと伝わってきて、ナトラージャの熱に腕が同じ体温になっていく。
いつの間にか強張っていた身体からへにゃりと力が抜け、自然と安堵の溜息を小さくついた。

「――――ナオヤ……」

いつもと少し違う擦れた声に目を開けようとして、けれど、柔らかく少し熱いものが、両方の瞼に頬に額にふわりふわりと降ってきた。
ナトラージャが何をしているのかわからないが、悪い事にはならないだろう。
彼は、いつだって直也のために最善を尽くしてくれるのだから。

(そうだ。何故だかわからないけど、こちらの言葉を口にすることが出来るようになったから、しっかりお礼を言わないと)

それと、ユアンにも。
直也が、思っていることをうまく伝えられないときに、彼は直也を良く観察して、何を言いたいのか理解してくれた。
小さなことでも、目敏く発見して直也を助けてくれる。

二人は、直也が求めていた兄のような、両親のような……家族の温かさのようなものや、我儘ができるようこちらに手を差し伸べてくれる、何もかも信頼できる存在だ。

少しだけで良い。
半年ぐらいでこちらで一人で暮らしても困らないように何とかするから、二十五歳の男が見苦しいとは思うし、大人としては恥ずべき行為だとしても、今だけは甘えさせてほしい。
本当に、全力で甘えられたのは二人だけだから、そうさせてもらおう。

そういえば、ユアンはどうしたのだろう? 

「ユアンは?」
「寝ている」

上瞼と下瞼がくっついてしまっていて、目では確認できないので、直也は耳を澄ます。
くうくうとユアンらしい小さな寝息と、また柔らかい何かが顔中に降ってきた。
くすぐったくって、身を捩りながらくすくすと笑う。
笑ったから血流でも良くなったのか、身体を温め続けてくれているナトラージャの体温が僅(わず)かに上がったように感じた。
耳を押し当てている胸から聞こえる鼓動も、ちょっとはやくなったような―――。

それにしても、眠い。
先ほどまで、寝ていたのに。

「――――んっ……」

うつらうつらしていたら、柔らかなそれは、唇にも降ってきた。
最初は、ちょん。
次は、少し長く。
その次は、もっと長くて、そして下唇をその何かで挟まれた。
そこで、直也は急に不安に駆られた。

(なんか……だめなきがする………)

抱え込んでいた、ナトラージャの腕に置いた力の入らない手を弱々しく動かす。
すると、その不安な柔らかい何かが離れて行った。

「ナトラージャ、いま、なに?」

重い重い瞼を一生懸命に開けて、思い浮かんだ単語を並べた。

うっすら開いた目と蜂蜜みたいな色の目が合うと、困ったような、申し訳なさそうな感情が複雑に混じる苦笑いを向けられた。
ナトラージャにしては珍しい表情だな、なんて思いながら大きな欠伸をしてしまう。

「ふぁっー」

くあーっと大口を開けて、子供っぽい欠伸だった。
自分でも自覚はある。
この家の人達に子ども扱いされ、自分が砂糖漬けされているように甘く甘く接せられてきたから。
直也は二十五歳なのをすっかり棚に上げて、鎧のような何かが一つ一つ落ちて行くのと同じ具合に、子供のように二人に少しずつ甘えていった。

静かに笑ったナトラージャが、直也を横抱きしながら立ち上がった。

なんでだろうと、直也が彼を見てわずかに首を傾げただけなのに、それに目敏(めざと)くナトラージャは察してくれる。
口端を上げ、

「ユアンが、大の字でお前のベッドで寝ている」

珍しいのだと教えてくれて、直也がユアンの寝姿を見れるように態勢を変えてくれた。

そこには、万歳をして足を左右に広げ、直也のベッドを占領して、ぐっすり眠っているユアンが居た。
王子様という印象とかけ離れたユアンの寝相に、ナトラージャと向き合って、小さな秘密を共有したように二人で微笑んだ。
そのまま、彼が動き出すので、目の前の首にしがみ付く。

あっという間にナトラージャの部屋について、ベッドに下ろされた。
ここでもう眠気の限界が来て、這うように奥に寄って横になる。
眠いのに寒さで寝れなくて、そういえばナトラージャは温かいのだと思い立った。

「ナトラージャ」

だいぶスペースが開いたであろうそちらに寝返りを打って、目を閉じたままトントンと叩く。
『一緒に寝よう』という単語が出てこなかったので、ジェスチャーで伝えた。

「…………」
「…………」

沈黙が流れる。
いつもならすぐに何か答えるなり、行動に移してくれるのに。
それとも、横柄な態度だっただろうか。
不安になって、謝罪の言葉が頭に浮かぶ。

「ナトラージャ、ごめん……さい」
「何故、謝るんだ?」

ベッドに上って来たらしいナトラージャが、柔らかい口調で直也に質問した。

隣りが温かくなって、布団が掛けられた。
薄ら目を開ければ、ナトラージャが向き合うように横になっている。
何故、謝ったのか。
理由を言うには、どうにもこちらの言葉を知らな過ぎて、どうすればいいだろうか。
うつらうつらしながらしばらく考えて、結局、何も思いつかなかった。

二人の間に空間ができていて、寒い。
その方がどうにも今の直也には重要で、もう一度ナトラージャも問うことをしないから、そんなに気にしていないのだとわかる。
だから、冷気が入らないように引っ付く。
その方が、彼も温かいだろうと自己満足して眠りの態勢をとった。

抱きしめられる気配に、身をゆだねた。
眠りを誘うように、温かくて大きい手が背中を撫でてくる。

はぁー、と頭上で深いため息が聞こえた。

「――――そうだよな。これが、普通だよな」

ナトラージャが、照れくさそうにそんなことを呟いたのを直也は、完全に意識を手放す一歩手前で聞いた。
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