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一章「害虫駆除に、疑問をもつ人間がいますか?」

六話

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 透の母親が殺されたのは、十年前だ。
 専業主婦だった母親は、透たちが留守のときに入ってきた強盗に、頭を数え切れないくらい殴打されて殺されていた。警察とともに遺体と面会した叔父が、「見ない方がいい」と言って泣き崩れるほど、損傷が酷かったそうだ。透が母親の姿を再び見たのは、火葬場で骨となったときだった。本当は焼かれてしまう前に一目でもいいから母に会いたかった。だが、変わり果てた母親の姿を見るのが怖くて、「会いたい」と言うことができなかった。
 美しい母親だったのだ。
 陳腐な例えだが、それこそ女優のようだった。
 そんな母親が「見ない方がいい」とまで言われた姿に変わり果ててしまった事実を、当時八歳になったばかりの透が受け入れるのは、あまりにも難しかった。
 親族たちが骨を拾う。
 母を、壺の中へと閉じ込めていく。
 その光景は薄暗く記憶に残っている。
 それまで泣かなかった透も、そのとき初めて涙を流してしまった。
 泣かないようにしていたのに。
 幼いなりにみせようとした長男としての矜持でもあったし、この期におよんで鉄面皮を崩そうともしない父親に対する反感でもあった。あの父親は骨を拾うときすら、まるで空き缶でも拾うかのようなつまらなさそうな目をしていたのだ。叔父が何も言わないのが、透には不満で仕方がなかった。何か、言ってほしかった。胸ぐらくらい掴んで欲しかった。
 虚しかった。
 ずっと、胸の中が苦しくて重たかった。
 その重さに、耐えられなかったのだ。つまらない意地はあっさりと崩壊し、爆発する感情は滂沱の涙に変わって止め処なく溢れた。
 泣き叫んだ。
 母さん、母さんと名前を呼びながら。
 返事はないと、分かっているのに。






 あのとき。
 あのとき、香澄はずっと後ろに控えていた。
 母親の見送りをするこのときでさえ、彼女は周囲に対して控えめに振る舞っていた。当時わずか七歳の少女が、大人よりも大人の対応をみせていたのだ。
 皆、そんな香澄のことを褒めていたことを覚えている。
 悲しくて辛いはずなのに、毅然としている。そう口々に褒め称えて。
 だけど、違う。
 今ならはっきりと、そう言える。
 透は、一瞬、見ていたのだ。
 後ろで静かに佇む香澄が、笑っているところを。
 まるで、母親の死を喜んでいるかのように。
 気のせいだと思っていた。なにかの見間違いだと、思っていた。どこにぶつければいいのか分からない悲しみと怒りがみせた、恐ろしい幻想だと思っていたのだ。
 だが、あれは、見間違いなんかではなかった。
 イカれた世界の中心で、支配者のごとく振る舞う香澄は、あのときと同じ表情をしていた。
 透き通るほど純粋に、笑っているのだ。
 ――この世から、兄さんと私以外の人間がいなくなればいいんです。
 その言葉は、戯言なんかではない。
 後ろの化け物たちと死屍累々の世界が、行間となって教えてくる。
 香澄は、この世界の中心に君臨している。
 そして、化け物たちを使って、この世界にいる人間を皆殺しにしようとしている。
 彼女の言う、楽園を創るために。
 透と香澄の、二人だけの世界を――。
は……」
 訊かなくても、分かっている。
 だが、訊かずにはいられない。
は、お前がやったのか?」
「これ?」
 香澄が小首を傾げる。
「おまえが、この化け物たちを造って、街にいる人たちを……」
 殺したのか。
 その先の言葉が、言えなかった。
「ああ、そういうことですか。まあ、正確に言うなら造ったわけではなく、召喚したといった方が正しいんですけどね」
 香澄は、肩をすくめて言った。
「その辺の理屈は、兄さんには分からないでしょうが。……あ、そんなことが知りたいんじゃないんですよね。ふふ、研究者の性でしょうか。自分の研究成果について訊かれると、ついつい説明したくなってしまいます」
「……研究成果?」
「はい。『みなごろし』……いま兄さんが目の当たりにしているこの事態は、私の最高の研究成果です。だから、兄さんの質問に答えるならイエスでしょうね。この化け物たちも、この世界も、私が呼び寄せたのですから。害虫どもを、一匹残らず駆除するために」
 すごいでしょう?
 香澄の瞳は、ガラス細工のようにきらきらと輝いていた。
「……イカれてる」
 もう何度、そう思ったかわからない。
 だが、これは、あまりにも常道を外れすぎている。
「お前……人間じゃねぇよ」
「そうですよ。私は、人間じゃありません」
「なんでそんなに、平然と笑っているんだ。……自分がなにをしているのか、分かっているのか?」
「分かっていますよ。当たり前じゃないですか」
「分かってんのか、本当に!」
 透の声は、怒りと恐怖で震えていた。それでも怒声をぶつけなければ、いますぐにでも発狂してしまいそうだった。
 透は立ち上がろうとした。だが、脚がない。無様に転がり、化け物たちからの嘲笑を受けた。
 歯を噛み締めて、香澄を睨んだ。
「なにも、なにも感じないのか!? これだけの人間が死んだんだぞ! 自分のやっていることに疑問も、罪悪感も覚えないってのかお前は!」
 香澄は鼻を鳴らし、一笑した。
「あなたの脚を切り落とした相手に、そんなナイーブな感覚があると思っているのですか? そんなものはね、ランドセルよりも早く捨ててしまいましたよ」
「……っ」
「二の句がつげませんか。口が弱いくせに説教なんてしようとするから無様なことになるんですよ。それに、状況を分かっていないのは、あなたの方ではないですか?」
 絶望を自由に与えられるのは、誰でしょう?
 香澄は、自分を指さして口角を上げる。
「悪魔め……」
「兄さん、今日は本当に酷いですね。私のことを化け物だとか悪魔だとか、好き放題言ってくれるんですから。私だって一応女子高生なんですからね。そんな風に言われたら、流石に傷つきます」
 香澄は頬を膨らませて、お腹に手を当てた。
「ね、澄空そら。お父さん、酷いね」
「……」
 こいつは、もう救いようがない。
 透はそう思った。
 精神の隅から隅まで腐りきっている。兄と二人きりになりたいから、人間を皆殺しにしようという気色の悪い発想は、いったいどう捻くれてしまえば出てくるのだろうか。一切、理解ができない。気持ちが悪すぎる。
 どうしようもない。
 妹は、落ちるところまで落ちてしまったのだ。
「さて、そろそろ帰りましょうか」香澄が、空に目を向けて言った。「雪が降っていますからね。身体が冷えてしまいますよ。それに、ここ、蝿もうっとうしいですし」
 心臓が早鐘を打つ。
 透は無意識に、身体を後ろへずらそうとした。
 記憶が、フラッシュバックしたのだ。
 ベッドに縛られ続けた日々が、スタンガンに焼かれた日々が、なんの肉かもわからない肉を無理やり食わされた日々が、辛い監禁の日々が、重苦しい感覚を伴って蘇ってくる。
「嫌だ」
 あの日々には、戻りたくない。
「あと、もう少しですから」
「嫌だ、絶対に嫌だ」
「もう、わがままですね。そんなこと言ったって脚がないんですから、私のお世話になるしかありませんよ? 自力では、トイレもいけないじゃないですか」
「お前のせいだろうが! ふざけんな」
 返事は、轟音となって返ってきた。
 驚いて横を見ると、地面に穴が空いていた。それも、透の左手から小指一本分もないほどに近いところで。
「いいから、はやく帰ろうよ。お腹、冷えちゃうでしょ?」
 冷や汗が止まらない。 
 香澄が敬語を忘れるのは、完全に堪忍袋の緒が切れたときだった。
「いいかげんにしてほしいな。私、身重なんだよ? どうして私のことを気遣いもしないで、わがままばっかりして困らせるのかな?」
「……」
「答えてよ。答えないなら、今度は本当に手を」
 香澄が怯える透を覗き込み、不穏なことを言おうとした瞬間だった。
 周りから、一斉に断末魔が上がった。
「――え?」
 香澄が顔を上げ、目を白黒させていた。
 化け物たちが、赤い円錐型の槍に貫かれていたのだ。それは地面から、もっと正確に言うなら地面を汚す血の海から無数に伸びていた。
 何が起こったのか、理解できない。
 香澄が驚くほどの事態だ。ついていけるわけがない。
「なにが」
 戸惑いに揺れる香澄の言葉は、続かなかった。
 槍が、香澄の腹部を貫いた。
 音が遅れてやってきたかのように感じるほど、その瞬間は静かだった。透の側から槍が跳ね上がり、香澄を貫く。まるで現実味のない光景。すべてが鮮明なのに、処理できた情報が圧倒的に不足している。脳の混乱が、時間まで狂わせたかのように思えるほど、すべてがゆっくりと収束していく。
「――あっ」
 血が、噴き出した。
 赤ん坊の眠る、香澄の腹部から。
「あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁァっ!」
 時間が加速する。
 金属の弦を弾いたがごとき不協和音が、世界を破壊した。香澄の絶叫はあまりにも破滅的で、この世の不吉をすべて孕んでいるかのように、聞くに堪えないものだった。香澄の怪物じみた右半身が、膨らんだり縮んだりを繰り返した。すべての目が破れんばかりに見開かれ、無数の手が苦しげにうごめき、昆虫の顎が忙しなく空を噛み続ける。
 香澄の絶叫は、留まることを知らない。
 刺された腹を手で抑え、首を振り回しながら、口から血を撒き散らす。悪魔の断末魔。狂気の破調。
 圧倒的な、絶望。
「私の赤ちゃんがあああっ! 澄空がああああああああああぁっ!」
 香澄の叫びは慟哭へと変わる。
 氷のように冷たいあの目から、涙が溢れていた。透の脚を切り落としたときですら色の変わらなかった瞳が、悲壮と憤怒で爛々と赤く染まり切っていた。
 そのとき、透はたしかに見た。
 香澄の背後に、黒い人影がいるのを。全身を黒い服で身を包み、フードを被ったその人物は、顔がよく見えなかった。だが、狼のような獣の顔をしているのがわずかな隙間からも伺えた。人のシルエットをしているが、明らかに人外の存在だ。
 いつの間にそこにいたのか、まったく分からなかった。音もなくいきなり現れたのだ。
 そいつは、取り乱した香澄に向かって刃物を振り上げた。赤く輝く円月のような刃を。
 香澄は、気づいていない。
「――」
 刃が、香澄の頭に突き立てられた。
 断末魔が止んだ。
 化け物たちの叫びも、香澄の慟哭も、すべてが静寂に返り。
 残ったのは、滝のように、噴水のように流れる血の音だけだった。
 雪が、降っていた。
 槍にさされ死に絶えた化け物たちと、延髄の辺りまで刃で叩き切られ動かなくなった香澄に、ゆっくりと降り注ぐ。
 シンシンと、血に溶けていく。
 香澄を襲った人外が、言った。
「――シネ、狂愛ファム・ファタル














「死ぬのは――お前だ」












 
  
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