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江戸時代編

文明開化

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 温室栽培でゴムの木から、ラバーテックスを抽出することに成功した。
 凛太朗は、ゴムの利用で自転車を作り、江戸時代の京の町で、普及させた。大人も子供も練習さえすれば、すぐ乗りこなせる自転車は、馬より安価で軽く、手軽に利用されるようになった。

 少しぐらいの荷物なら、自転車の前かごや後ろに括り付けて運べる。
 リヤカーとつなげれば、大量の荷持ちが運べるようになった。

 御所から、上賀茂、嵯峨、日向大明神、乗り手を後退すれば、伏見へも日帰りで行けるようになり需要が増した。

 日向大明神といえば、「京の伊勢」と呼ばれる神社で、伊勢にあるすべての社に京にいながらお参りできる場所である。また、信州の戸隠神社にある「天岩戸」もこの地にあり、節分の頃は、この岩戸を1度くぐると厄がひとつ落ちるとされていることから、現代でも大変賑わう。遥拝所からは、現代では見えないが伊勢まで見渡せた。御所のほうを見やると船岡山、衣笠山と一直線に並んで見える絶景がある。

 琵琶湖のミシガン船からヒントを得た凛太朗は、もうこの江戸の時代には、当たり前に水車が普及していることから、水車を利用した外輪式の船を発注した。

 そういう船の発想自体がなかったらしく、船大工に驚かれたが、すぐに完成した。「井戸船」と名付けられた。

 日本人は、昔から手先が器用だったのだなぁ、と改めて感心することしきり、わずか3か月ほどで実際できた。特に、外輪式は、早かった。

 進水式を行い、無事、帆をかけなくても風任せにしなくても船が進んだ。
 江戸へ行くのに、大井川を通らず、海路で江戸へ行けるのは、画期的なことだった。

 また、「あの御方」は、井戸船に乗りたがられて、淀川に乗るのは、危ない(?)ということから、嵯峨の広沢の池で乗船された。

 風任せでもなく、手漕ぎでもない井戸船は、速やかに航行した。
 京の町のいろいろなところで、活用されたが、保津峡下りだけは、船頭の長年の勘が必要とされたため、手漕ぎになった。

 次に開発したのが、木炭自動車である。
 木炭を燃やし、不完全燃焼を起こさせることにより一酸化炭素を燃料としてガス化したものを動力として、走らせる自動車である。

 もとは、ヨーロッパで開発されたものであるが、日本で普及したことから、凛太朗はこの方式で車を作った。松根油の利用も考えたが、1本の松からわずかしか取れないために、誰でも安く手に入る木炭のほうが、有効性があると考え、木炭自動車の開発を進めた。

 車体は、現代から取り寄せた。まず、二台、木炭車の中古を買って、一台は、分解用、もう一台は完成見本として、鍛冶屋の工房に持ち込み、そこで試行錯誤して、同じようなものを復元してもらった。

 江戸では、調達できない材料はすべて現代から取り寄せた。
 こうして、江戸時代に木炭自動車を走らせることに成功した。

 まさに文明開化である。
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