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クリスマス・イヴ

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 希美は、救急病院に搬送されることになる。

 病院に着くと、入院申込書に必要事項を書くのであるが、カバンの中に見慣れない粗品でもらうようなボールペンが入っていた。

 これがもし、豪華なボールペンだったら、あの時玲子さんに盗られていたかもしれない。

 いつの間に?と考え込んでいたら、そういえば女神様が不思議な魔法のペンと言っていたような気がする。

 3回までは、何でもどんなことでも、願いをかなえてくれるとか、言っていたような気がする。

 希美は願い事を考える。仕事も欲しい。お金も欲しい。若さも欲しい。恋人も欲しい。美しさも欲しい。賢さも欲しい。何も持っていないから、欲しいものだらけなのである。ずいぶん、欲張りだけど、願い事は3つまでしか叶えてくれない。

 女神様は、ラッキーチャンスと言ってくれていた。試しに、一番気がかりな、「田舎の両親が経営しているスーパーの倒産が免れますように。」と書いてみた。

 ダメ元でもいいと思った。そして、病院指定の検査着やらパジャマなどを渡され、着替えていると、スマホが鳴った。田舎の母からで、母の声は少しうわずって聞こえた。

 「希美!ありがとう。融資が下りたよ。それに不渡りを出した木村スーパーが少しでも足しにと、不渡り代金の一部を振り込んでくれたんだ。希美から借りた300万円来週にでも返すことができるよ。本当に、ありがとうね。」

 喜んでいる母に水を差すようなことは言いづらいが、事故に遭って救急病院に入院したことを言う。

 それで女神様からもらったボールペンで願い事が叶ったとは、言っていない。そんな話信じてくれないだろう。

 両親に希美の自宅マンションから着替えを持ってきてほしいと頼み、電話を切る。この時はまだ、会社をクビになったと思っていたから、会社には労働基準監督署のほうから連絡を入れてくれていたことは知らないでいたのである。

 両親が来たら、会社をクビになったことを言わなくてはならない。場合によれば、退院したら連れて帰られるかもしれない。

 結局、東京では、まともな恋人一人もできなかったと寂しく思うが、その時なぜかマンションの隣人の顔がふとよぎる。

 マンションの下の階の部屋に住む都築裕典は、売れない俳優だったのである。彼との出会いは今でも笑い話になるぐらいの衝撃の出会いだったのである。

 7年前に俳優を夢見て、上京したが、何度オーディションを受けても、一つも役をもらえずにいる。きっと、そんな人はいっぱいいるのだろう。

 劇団幻泡座に所属していたが、俳優としての収入はなく、普段はコンビニでバイトをして食いつないでいる。

 沖縄県出身の目鼻立ちのはっきりしている裕典は、希美から見るとなかなかのイケメンに見える。が、俳優を志す劇団の中にいれば、そう目立つような存在ではないらしい。

 劇団の中には、あらかじめ整形手術を受けてから、入団する者も多くいるとか?

 裕典との出会いは、話によると、5年前のある冬の夜、夜中に突然、ガチャガチャと鍵を開ける音がしたので目が覚め、玄関ドアを開けると見知らぬ女がベロベロに酔っぱらって、立っていて、どんどん靴を脱いで、着ているコートを脱ぎ上がりこんできて、そのまま倒れた。

 その時、女は「アンタだれ?」と言いながら、部屋の中央まで来て、いきなり床に倒れ込む。

 いくら揺さぶっても起きないから、仕方なく自分のベッドに運び、自分は台所の隅で毛布にくるまって寝た、と言うことを朝になってから知らされた。

 もう顔から火が出る思いだったわ。そう、確かに朝、起きてみると見知らぬ部屋、見知らぬベッドの上にいた。それも服を着たまま。

 見知らぬ男性から「おはよう」と言われたときは、心臓が口から飛び出すんじゃないかというぐらい驚いた思いをした。まさか、お持ち帰りされた?でも、洋服は着たままなので、その線はたぶんない。

 よく聞けば、この部屋は503号室で、希美の住む部屋の真下の部屋だった。きっと、エレベーターの階ボタンを押し間違えて、そのままふらふらといつもの調子で、我が家に戻ったつもりだったのだろう。

 その日は、女友達ばかりで女子会をして、つい飲み過ぎてしまったのだ。

 「ごめんなさい!」

 何度も謝罪して、お詫びに裕典に手料理をごちそうしたり、たまには居酒屋で一杯おごったりと気を遣っている間に、仲良くなっていくが、恋愛感情は一度も抱いたことはない。だって、5歳も年下なんだから、そんな感情持ったら、いくら何でも相手に失礼だもの。

 それを今になって思い出したのには、訳がある。今朝、ごみを捨てに家を出た時、今年いっぱいで俳優になることを諦め、故郷の沖縄に帰ると裕典が言ってきたのだ。

 「7年間頑張ってきたけど、もう諦めます。希美さんともお別れです。」

 「沖縄へ帰ってどうするつもり?」

 「先輩の店で働こうと思っています。

 「寂しくなるわね。」

 もう退院する頃には、帰っても裕典はいないだろうし、一生会えないと思うと妙に寂しくなったのである。

 裕典にあと少しの運があれば……、ふと見るとまだボールペンは、病室の机の上にあった。

 投薬された薬の袋の裏に、都築裕典がスターになれますように。と書く。

 「疲れた。」とつぶやき、そのまま寝たのである。



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 「いらっしゃいませ。ようこそ肉体ブティックへ。」

 「え?また、私、死んでしまったの?」

 「それなら、助かるんだけど……、違うわよ。アナタに渡した不思議なペンでの注意事項を言おうと思って、来てもらったのよ。ここは、アナタの夢の中の世界だから安心してね。」

 そっか。夢の中か。2つ目の願い事は、「裕典がスターになりますように」だったから、実現したかどうかも確かめられないうちに、また死んでしまったのかと思い、焦ったのだ。

 「アナタ、自分の願い事は何一つ書いていないじゃない?他人のことを書いていても3つの願い事にカウントされないのよ。神様は太っ腹なの。そりゃね。アナタを助手に雇うことができたら、私は楽ができるようなものだけど、一度、約束したことは必ず守るわ。だから今度こそ幸せな人生を送ってほしいのよ。」

 「自分の願い事がありすぎて、美人になりたい。お金持ちになりたい。若返りたい、頭がよくなりたい。仕事が欲しい。ありすぎて、どれを書こうか迷ってしまう。だから、他人の幸せを願ってしまいます。」

 「アナタは優しすぎるのよね。でも、若返ることは無理だけど、アナタは自分のことが気づいていないだけで、その他のことはほとんど持っているものなのよ。これから持つものも含めてと言ったほうが正しいかもね。」



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 気が付けば、入院している病室にいた。

 看護師さんが「検温です。」体温計を渡してくる。

 希美の傷病名は、圧迫骨折。

 35人もの人間が上から振ってきたのだから仕方がない。約2000キログラムの体重の総合計。生きていることが不思議なぐらいである。といっても、生き返してくれたのは、女神様のお力そのもの。

 内臓破裂していなくて、よかった。これも女神様のお力だったのかもしれない。玲子さんが、希美が生き返るときにカラダが光ったと言っていたが、あれは本当のことだったのかもしれない。

 女神様のお力で、ある程度カラダを修復してから、返品されたのだろう。

 身体中、コルセットのような?ギブスをはめられている。もうここまでくれば、自分の体重でさえも骨折してしまうらしい。

 労災保険で国から一切合切出るから、入院費の心配をしなくてもよい。それに100%善意無過失だから後遺障害が出ても、年金など手厚い補償が出るらしいわ。

 朝ごはんを食べて一息ついていると、両親と裕典がやってきた。家族は、面会時間の関係なく入ってこれる。

 両親はわかるけど、なぜ、裕典まで一緒に来たのか?首をかしげていると、昨夜、希美のマンションに着いた両親が、希美の部屋の前にいた裕典に声をかけ、連れてきたという。

 希美の両親は、看護師さんに着替えやら、洗面道具などを渡し、裕典に「後は、よろしく頼む。」と頭を下げ、さっさと帰って行く。

 「ちょっとぉ、水臭いんじゃない?いくら、商売があるからと言っても、重症患者の愛娘を残して、さっさと帰っちゃうの?」

 「何、言ってんだい、都築さんのことを黙っていたくせに。後は、裕典さんにお任せするよ。それじゃぁな。退院するとき、教えてくれ。」

 何よ。本当にそれだけ言って、帰っちゃったのよ。

 両親が帰った後、裕典はなぜかモジモジし始めたのである。

 「あの……、昨夜、希美さんのお部屋の前にいたのは、真っ先に希美さんに伝えたいことがあって、……その……驚かないで聞いてくれるかな?俺、テレビドラマの準主役に抜擢されてしまったんだ。海外ロケがあるから、スケジュールガラガラの俺に決まったんだ。」

 昨夜、寝る前に「裕典がスターになりますように」とお願いしたことが叶ったんだと思う。

 「良かったね。これで裕典にも明るい未来が待っているわ。」

 「どうかなぁ、これで失敗したら二度とチャンスは来ないと思う。」

 「どうせやめて、沖縄に帰るつもりだったのでしょう。だったら、失うものは何もないはずだから、怖がる必要なんて、どこにもないよ。」

 言い終わった後、何とも言えない寂しさがこみあげてくる。これで裕典は完全に希美の手から離れてしまう。遠いスターさんになってしまうのだから。

 「もう1か月以上も前にオーディションがあったんだ。だけど、ちっとも連絡がないから諦めていたんだ。そしたら、昨夜、スマホに劇団から連絡があって、もう、嬉しくて、嬉しくて。」

 希美は痛むカラダで、小さい子供をあやすように、裕典の頭や背中を撫でる。

 「これからテレビ局へ行って、契約書にサインするんだ。でも、その前にどうしても希美さんに言いたいことがあって、今日ここに連れてきてもらったんです。」

 「なーに?」

 「俺……、初めて会ったときから希美さんのことが好きでした。だから、俺と結婚してください。お願いします。役者として、目が出ないから、自分の気持ちにふたをして一生言わないつもりで、沖縄に帰ることを決心しました。だけどテレビドラマに抜擢され、これでやっと……だから、ずっと好きでした。結婚してください。」

 「な、な、何を……悪い冗談やめてよ。」

 「冗談なんかじゃ、ありません。今までプロポーズしたくても、バイトの収入しかなかったけど、これからは、役者としての収入が入るから、だから、昨夜、喜んで希美さんの部屋へ行ったのも、一番に知らせたいという気持ちとこれでやっとプロポーズができる気持ちからです。」

 「だ、だ、だって、私、5歳も年上なのよ?」

 「あと50年もすれば、希美さんは80歳、俺は75歳のしわくちゃ同士になる。年齢なんて、関係ない!希美さんを愛しているんです。希美さんは、俺のことが嫌いですか?」

 「いいえ……ただ、いつか裕典を失う時が来ることがコワイだけよ。」

 「さっき、俺に失うものなんて何もないから、怖がるな!と言ったでしょ。これでやっと希美さんを幸せにできる自信がついたんです。どうか、俺のプロポーズを受けてください。ご両親には、承諾を得ました。娘を頼む。と言ってもらえました。」

 裕典の足を見ると震えている。

 本気で希美を愛してくれていることがわかる。

 「あなたには、これからもっと素敵な人が現れ……。」

 言い終わる前に抱きしめられた。カラダは痛いけど、心は温かな気持ちでいっぱいになる。

 目を閉じると涙が頬を伝って……、生涯で最高のクリスマスプレゼントの背中を強く抱きしめたのである。



 会社は解雇禁止期間に抵触し、またサービス残業のこともあり、窮地に立たされる。雇用調整助成金の申請も、希美にしか手続きの経験がなく、誰にもできない。

 希美は今、入院中で、1か月間有給休暇を取れと言った手前、仕事をさせられない。

 年末調整後の法定調書の扱いにも困っている。

 一番、辞めてもらったら困る人間を女子社員の中で年長と言う理由だけで、解雇しようとしたツケが早くも来ている。

 そして、今回の希美の解雇問題は実は、この社長の娘が絵を描いていたということも後から知ったのだ。

 「いつまでもババァを置いとく必要がある?」

 言い出したのが社長の娘、でも経営は火の車で娘の意見を取り入れたのだ。

 社長の娘は、もう28歳、自分だってババァじゃないの?仕事もロクにできないババァ。でも、社長の娘と言うだけで、偉そうに高給とっていたのだから、本当に一番にクビになってしかるべきの存在。

 退院後、有給休暇を全部取得してから希美は、会社を辞めた。社長の娘が解雇になったことを知り、まもなくすべての助成金がストップすることを知ったからである。

 退職理由は結婚のため、寿退職にしたのである。一度解雇されたから、会社に対する不信感はあったものの、自分から辞める分には、解雇禁止期間の条項には当てはまらない。

 今のうちに、退職金が少しでももらえる間に、退職して新しい人生を歩む。そのひとつは裕典との結婚もあるが、それだけではない。夢の中で女神様が言った「これから手に入れることができるもの」を手に入れるために。

 希美は、会社を退職する際に、実務経験証明書に社長のハンコをもらったのである。

 大学を卒業していなくても、実務経験で受験できる国家資格はたくさんある。退職後はそれらを順番に受験していくつもりだ。

 手始めに夏に試験日がある社会保険労務士を受験することにした。受験科目は労働基準法から始まり労働安全衛生法、雇用保険法、労働者災害補償保険法、労働保険徴収法、健康保険法、厚生年金保険法、労働・社会保険に関する一般常識と多岐にわたっているが、実務経験で免除される科目もあるらしい。

 急に頭がよくなるわけではないが、女神様が言ってくれた「すでに持っているもの」を信じてみる気になったのだ。

 社長は仕方なく、自分の娘をクビにした。自分の娘ならば、労働基準法の適用外で助成金を止められることもないだろうと判断したが、甘かった。

 社長の娘は雇用保険の被保険者となっていたのである。社長が雇用保険に入れてくれと頼んできたから。もう、娘をクビにするときはその時のことは忘れている。

 案の定、雇用調整助成金は支給停止になる。希美は、社長の娘が入社したときのことを覚えている。

 役員でもない普通の女の子が、入社したというのに、1日2万円の好待遇だったのに、雇用保険に入れたがる社長。1か月の所定労働日数が21.5日で計算されていたから、若干22歳の何も仕事ができない女の子が43万円の給料っていくら何でも不公平感がある。

 ウチの会社は、組合がないからいいようなもんだけど、普通の大企業みたいに組合があれば、こんなこと組合に知られれば、大ごとになる。

 みなし役員ではないか?との懸念があったから。雇用保険に加入手続きをしても否認されるかもしれないから、履歴書を添えて新規手続きをしたら、ハローワークは他の新入社員と同様に受け取ってくれたのである。

 雇用保険では、同居の親族は対象外になる。だから、もし雇用保険に加入しても、失業手当は受け取れない。まぁ、お国のために保険料を支払ってもらおうと考えたのだ。

 その時は、ちょっとした意地悪でしっぺ返しをしただけだったのが、後になってあれは正解だったとつくづく思う。

 クリスマス・イヴでの解雇予告の時は、他の女子社員は全員、希美から目を逸らしたが、結婚を理由に退職することを表明してからは、一気に羨望のまなざしへと変わっていく。

 あの時、私物をすべて、持ち帰ったので、今さら私物の整理に追われることもなく、「お疲れ」の一言で、会社を後にする。

 そしてまた、あのショッピングモールへ、もうクリスマスツリーは撤去され、代わりに献花台が設けられていて、たくさんの花束を目にした。

 そのまま、地階へのエスカレーターに乗り、裕典の好きなハンバーグの材料を買い込む。
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