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ウィルとオスカー
しおりを挟む客室から自室へと戻ったウィリアムは、扉を開けるなり目を瞬かせた。
「寝室で男に待たれても、困ってしまうな」
「気色悪い言い方するな」
苦虫を噛み潰したような顔をしたのはオスカーだ。ソファに長い脚を組んで座り、自室のようにくつろぎワイングラスを傾けている。
少し話すだけだと言ったのだが、執事が気を利かせて用意をしたものだった。テーブルの上にはもう一つのグラスと、軽く摘める物が置かれている。
書斎ではなくこちらへ通されたのも、ソファが布製で柔らかく、ゆっくり出来るだろうという理由だ。この屋敷の執事はお節介が過ぎる。
眉間に皺を寄せながらも、既にボトルの中身は半分程になっていた。リラックスした様子のオスカーにこっそりと笑みを零しつつ、ウィリアムは向かいのソファへと座り、ワインをグラスへと注いだ。
「冗談だよ。それで、訊きたいのはあの子の事か?」
「まあな。随分肩入れしていると思ってな」
「あの子は、この国を救う救世主かもしれないだろう?」
暖人に話す時より低い声音とラフな口調で言い、優雅にグラスを傾ける。オスカーは眉間に皺を寄せた。
「偽物だろ。そもそも別の世界だの救世主だの、伝説でしかない」
「まあ、信じ難い事ではあるね。それにこの国は、救うほど乱れてもいないな」
世界の中でも裕福な国だ。それとも、これから何かが起こるのか。ゆらゆらと揺れる赤い水面に映る己の姿を、ジッと見据えた。
「でも、あの瞳は本物だよ。いくら上手く偽装しても、あれほど澄んだ瞳にはならない。黒は特に、ね」
ウィリアムの言葉に一度口を開くが、反論が出来なかった。オスカーも暖人を間近で見ている。
救世主だと偽る者を、何度も捕らえた。水に濡れても落ちない染料で髪を染め、違法薬物や禁術で瞳を黒に染めた者を。
だが、元が暗い色の瞳も、黒に見せようと手を加えれば必ず濁りが出る。
暖人の瞳は、混じり気のない漆黒だ。磨かれた宝石のように艶やかで、吸い込まれそうな程に美しい瞳。灯りに透かせば全てが深い大地の色に変わる。偽造した瞳では、灯りで色が斑になり濁るのだ。
「本物の黒の瞳は、濃い茶色をしているのかもしれないな。もっと灯りを当てたらどうなるだろう? 虹彩は俺たちと同じ構造だろうか」
子供のように好奇心に満ちた顔をする。
この世界に存在しない色の瞳。宵闇色の髪。見た目よりも驚く程に繊細で柔らかな髪は、濡れたように艶やかだ。あの存在を自分だけのものにして、永遠に見つめていたい。そんな気持ちにさせる。
「アイツはお前の性癖にハマったか」
「人聞きが悪いな。俺はただ、美しい物を愛でていたいだけだよ」
肩を竦めるウィリアムに向けられたのは訝しげな視線だが、気にもせずにグラスを揺らした。
ウィリアムがやたらと暖人に近い位置を取り何度も触れていたのは、あの漆黒や肌が本物かどうか確かめていたからか。そう納得しても、彼の普段の素行から信じきれないところもある。
だが、暖人は少なくとも偽物ではないのだろう。
「本物なら、アイツが来た所為でとんでもない災いが起こるんだろうな」
どの国の伝説でも、別世界の者は皆“救世主”と呼ばれている。戦争、災害、疫病……。それらを収めたからこその救世主だ。
吐き捨てるように言うオスカーに、ウィリアムは眦を吊り上げた。
「オスカー。彼が来たから災いが起こる訳じゃない。災いが起きるから、彼は元の世界から引き離され、この世界へと連れて来られたんだ」
住み慣れた世界にも戻れず、家族にも友人にも、もう二度と会えないのだろう。
薄暗い森をさまよい、盗賊に襲われ、どれほどの恐怖だっただろう。まだ子供だというのに……。
「あの子は大切な人の後を追って崖から飛び降りたと言っていただろう? この世界でも絶望して、あのまま死んでいた方が良かったとは思わせたくない」
彼が来たから災いが起こるなど、決して聞かせてはならない。いつになく感情的な強い口調に、オスカーは一度目を閉じ「悪かった」と息を吐いた。
オスカーにとって、最優先で守るべきものは国だ。救世主さえ現れなければ国は乱れる事はない。災いの種は芽が出る前に摘み取ってしまいたいとすら思っていた。
だが、確かにウィリアムの言う通りかもしれない。完全に認める事は出来ないが、彼を敵だと決め付けるには早かった。
国を乱す因子などどこにでも転がっている。それを見逃さず、見つけ出し、排除するのが騎士である己の役目。その力が及ばない程の災いが起こるからこそ、救世主は現れるのだろう。
それに。
「アイツが救世主とも限らないか。ただ迷い込んだだけの子供かもしれない」
「俺はそれを願うよ。あの子を危険な目には遭わせたくない」
漸くウィリアムの顔から怒りが消えた。
「ただの子供でも、別世界の人間なら王宮に預けるべきだろ」
「ああ、明日報告はするよ。もし救世主らしい兆候が見られた時にもね」
「それまでここに置くつもりか?」
「ハルトが望むなら……いや、望むだろうね」
やけに自信たっぷりに言うウィリアム。
「……この世界でアイツが信頼してるのは、今はお前だけだからか。刷り込みかよ」
「王宮になんて預けたら、政治に利用されるかもしれないだろう? 国王の側で暮らすのはハルトも居心地が悪いだろうし」
尤もらしい事を言いやがって。オスカーはそう言い掛けて口を噤んだ。言ってもどうせはぐらかされるのだ。
「ここも居心地いいとは言えないだろ」
「皮肉かな? 勿論、彼の教育に悪い事は控えるよ」
「出来るのか?」
「君は俺を何だと思って……。約束をしていた子たちには、既に連絡済みだよ。彼を預かると決めた時にね」
オスカーは耳を疑った。あのウィリアムが、こんなにもあっさりと関係を断つとは。
「ウィル……、お前まさか、あんな子供に」
「何度言わせるのかな。そのつもりなら、俺は今ここで君と話をしていないだろうね」
それこそ朝まであの部屋から出て来ていない。
それもそうだ、と今度はすんなりと納得され、ウィリアムは思わず苦笑した。
「あの子は、こんな状況なのに俺たちを困らせないよう笑っていただろう? 先程も今すぐにでも大事な人を探しに出たい顔をしながらも、ただ感謝の言葉だけを伝えてくれたよ」
感情的になったのは、あの森で助けてからの少しの間だけ。
「心優しく強く健気な子を、これ以上傷付かないように……ただ、守りたいと思っただけだ」
そっと瞳を伏せる。その表情に、オスカーはそれ以上何も言う事はなかった。
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