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第十二章 日本旅行編

第238話 和室と和食

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 談話室で今後の段取りの確認を終えた後、柴三郎は提供してくれた寮の個室のカードキーを渡してくれた。そのカードキーには番号が書かれており、案内がなくとも部屋番号をみればわかる仕様になっている。
 柴三郎も日本感染病棟院長という忙しい立場。これ以上、拘束するのは忍びないとして、寮の個室には彼の案内なしで向かう事とした。

「アトロピン、アトロピン。窓の外に身体が赤い人間が沢山いるぞ」
「珊瑚症患者です。あの者たちは人の意識を保てている。決して危害を加えてはいけません」
「そのぐらい、俺様にもわかる」

 個室に向け廊下を歩く最中、パラチオンは窓の外へ視線を向け、寮の隣に建つ感染病棟へ向かって移動をしているのだろう看護師や医師の姿をまじまじと観察していた。
 感染病棟勤務という仕事柄、彼らは珊瑚症に罹りやすい。モーズと同じように、皮膚の一部が赤く変色している者が多く見受けられた。
 その珊瑚症患者を物珍しそうに眺めるパラチオンの少し後ろで、モーズは思わず思った事を呟いてしまう。

「パラチオンはずっとアトロピンについて回っているな」
「アトロピンはパラチオンの教育係だったのさ! いや今もそうだねぇ! だから懐いているのさァ!」

 独り言として呟いた疑問。その答えをわざわざ教えてくれたのは、隣を歩く燐であった。

「詳しいな」
「アッシの教育係もアトロピンだったもんでねぇ! ニコチンもだろい?」
「……お前ぇらみたくガッツリじゃねぇけどな。毒の出力調整と、軽くマナーを教わった程度だ」
「そうなのかい? アッシはマナーって奴はシアナミドに教わったねぇ! あいつ風紀にうるさいからか指導が細かいのなんのっ!」
「教育係……」

 ウミヘビの思考能力と言語能力は造られた時にあらかじめインプットされている。とかつてフリーデンは教えてくれたが、以前タリウムが夜の浜辺で『読み書き計算どころか言葉一つ喋れなかった』とクリスに話していた事を、モーズは覚えている。
 アメリカ遠征に向かう直前、食堂でさんすうドリルを掲げてナトリウムと口喧嘩をしていたカリウムの姿も記憶に残っている。表紙に書かれていたアルファベットの文字も拙いもので、読み書き計算、つまり思考能力があらかじめ備わっているとは言い難い。
 この時点で、矛盾がある。

(どうもウミヘビ間で学習に差がある。その理由も、研修で知る事ができるだろうか?)

 考えているうちに、モーズ達は個室へ辿り着いた。
 柴三郎が提供してくれた部屋は2つ。部屋割りは談話室で決めた通り、片方は青洲、アトロピン、パラチオン、そして追加で来てしまった燐。
 モーズの部屋は残りのメンバーであるニコチンとアセトアルデヒド、ヒドラジンが使用する。尤もヒドラジンは飛行機の整備があるからと、談話室で別れて格納庫へ向かってしまった。
 彼はあくまでパイロット、今後の旅行や研修にも同伴せず、モーズ達が帰還するまで寮と飛行機を往復する生活を過ごすのだと言う。

 あてがわれた個室の木製扉を開けて中に入れば、そこは柴三郎の言っていた通り、落ち着いた雰囲気の和室があった。

「畳だぁ。座卓だぁ。座布団だぁ。みんな初めて見るぅ」
「俺もこれは初めてだな」
「ううむ、足が痺れそうだな……」

 4人が寝るには十分な広さである、十畳分の和室。
 部屋の中央には座卓と4枚の座布団が既に敷かれていて、開け放たれた障子ガラスの向こう側にはラタンチェアが置かれた広縁ひろえん、その先にある大きな窓からは、草木の奥に富士の山という絶景が拝める。
 寮らしいが、旅館のような造りの部屋である。ちなみに広縁は喫煙可能スペースなようで、床には空気清浄機、天井には大きな空調が設置されている。よってニコチンは早速、広縁の椅子に腰を下ろすとタバコを吸っていた(なお本当は障子ガラスを閉めるのが喫煙スペースとしての正しい使い方なのだろうが、ニコチンは開けっ放しのまま使っていた)。

「畳ってざらざらしているんだねぇ。初めて知ったなぁ」

 畳の上に座り込み、ぺたぺたと手の平で畳の感触を楽しむアセトアルデヒドの反応は、初めて日本を訪れる外国人観光客そのものである。
 その様子を、ニコチンはタバコを味わいながら穏やかな表情で眺めていた。

(そう言えばイギリスでは個室を用意して貰っていたのだし、ウミヘビとの宿泊は初めての経験だな。この体験も、いいものにしていきたいものだ)

 そんな思いを抱きながらモーズは座卓の前、座布団の上に腰をおろす。
 ……そして5分も経たずに足が痺れてしまったので隣室の青洲に相談すると、広縁に置かれたラタンチェアとは別に、足が痺れない正座椅子なるものの存在が押し入れの中にある事を教えて貰ったのだった。

 ◇

 時は流れ、昼時。
 寮の食堂の有料サービスで受けられる、食事を部屋まで配達してくれる、という所謂ルームサービスによって昼食が運ばれてきた。談話室での段取り確認の際、あらかじめ柴三郎が手配してくれていたのだ。
 慣れない寮の中、ウミヘビを悪戯に連れ回す事なく昼食を摂れる。特に感染対策に気を遣っているモーズにとって、室内で全て済ませられるのは有り難かった。
 ただし、寮のスタッフによって運ばれてきた昼食は一食分。
 黒塗の重箱二段と、2つのお椀にそれぞれよそられた白米と味噌汁。それら全てモーズの為に用意されたもので、この場にいるニコチンとアセトアルデヒドの分はない。

「君達の食事は、ないのだろうか」
「あ゙ぁ゙? 飯は飛行機で食ったろ」
「いやしかし、昼は……」
「僕達は1日に1回で充分なんだぁ。その気になれば5日に1回でも平気なんだよぉ。流石にちょっとお腹空くけどねぇ」
「そんな事も把握してねぇのかよ。お前ぇクスシになってからもう直三ヶ月だろが」
「う、すまない。なかなか学ぶ時間を作れず……」

 研修の途中で特殊学会の準備に時間を取られ、それが終わったかと思えば今度は臨床試験に関わる事務作業に追われ、と。非常に怒涛の日々を過ごしていたモーズは、クスシの研修もウミヘビに関する教育も全く足りていない。
 それを埋める為にも海外研修を命じられたのかもしれない。

「だが私だけ食事をとるのも気が引ける。よければ味見でもしないか?」
「俺はいらん。アセトにやりな」

 座卓に置かれた昼食、四分割になるよう仕切りが付けられた二段の重箱には天ぷら、煮魚、焼鮭、卵焼き、和牛ステーキ、などの八種類の副菜が入っていて彩りも豊か。
 人工島アバトンではなかなか食べられない物も多いからと、モーズは勧めてみるがニコチンは広縁から出てこない。

「あっ、えっとぉ……」

 しかし座卓の前に座るアセトアルデヒドは、昼食とニコチンに交互に視線を向け、少し寂しげな表情を浮かべている。

「……アセトアルデヒドは、君にも味わって欲しいんじゃないか?」
「はぁ?」

 口には出していないが、アセトアルデヒドも思い出を共有したいはず。
 そう思ったモーズは再度、ニコチンを昼食に誘った。アセトアルデヒドの名前を出されたニコチンは暫し思案したようだが、やがて渋々といった様子でラタンチェアから立ち上がり、座卓の前に乱暴に腰をおろす。

「……チッ。少しでいいぞ、少しで」
「そう言わず。なかなか量があるんだ、私だけでは食べ切れない」

 実際、重箱のサイズが大きいのもあって量がある。洋食で言うフルコース並みだ。飛行機での移動ばかりで、ほとんど身体を動かしていないモーズが食べ切れる量ではなかった。
 モーズは寮のスタッフを呼び出し小鉢とカトラリー(※ナイフとフォーク。箸が使えないので)を追加して貰うと、小分けにして3人で昼食を囲む。
 そうしてアセトアルデヒドは隣に座るニコチンを満足気に眺めながら、初めて食べるのだという焼鮭が乗る白米を堪能し始めた。

「うん。美味しいねぇ、ニコ」
「……そうだな」

 ニコチンも(尤も彼はまだ食事に手を付けていないが)隣に座るアセトアルデヒドを満足気に眺めながら、茶を啜ったのだった。



※補足。アトロピンはニコチン、燐、パラチオンの解毒剤になります。
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