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第十一章 キノコの国のアリス編

第219話 名無しの森

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「モーズ、モーズ! 返事をせぬかっ!」

 ハッと、砒素の呼びかけによってモーズの意識が現実に引き戻される。
 顔をあげて辺りを見回せば、【大型】も菌糸も全て破壊、処分され、岩陰に侵蝕していた菌床をも削られて、一帯から『珊瑚』は消えた。と見ていい状態だった。

「……あ、あぁ、砒素さん。終わったのか」
「この辺の処分はとうに終えたぞ? 気が抜けたのかぼうっとしおって。それともわしの活躍に見惚れたか?」

 にやけ顔の砒素の手を借りて、モーズは立ち上がる。モーズは眠っていた訳でも気を失っていた訳でもないが、確かに上の空になっていた。
 突然、頭の中に映像ビジョンが流れ込んできたからだ。以前スペインの菌床でも同じように映像ビジョンが流れ込んできた事があったが、あの時よりも更に現実と見分けが付かないほど鮮明だった。
 白昼夢を見ていたかのような、不思議な感覚。

(今の映像ビジョンは、少女の記憶か? 確か『スピネル』と呼ばれていた。つまりこの菌床の〈根〉は彼女……? ステージ6も〈根〉になるという事か? それにしては病棟に現れたりと、自由に動き回っていたように思うが)

 〈根〉は有事の際は菌床と繋がる菌糸を絶ち、危険から逃れる。全く動けない訳ではない。菌床に繋がる菌糸を伸ばし可動域を広げたり、繋がった接続部を移動させ籠る場所を変える事もできる。
 だが基本的に、〈根〉は菌床と何処かしら繋がったままでいる事が常だ。よって行動範囲は狭い。

(いや、私が見た彼女は幻覚で、本人ではないから関係ない……? 情報が少な過ぎてわからないな。考察は後だ。今はともかく先に進まなければ)

 白衣に付いていた土埃と胞子を払った後、モーズは背筋を伸ばす。

「恐竜退治の次は迷宮攻略になるようじゃが、できるかのう?」
「大丈夫だ、砒素さん。……ゴールはわかっている」

 先程、頭の中に流れてきた映像ビジョンで、辿り着くべき道筋は見えた。
 少女がお茶会の会場と呼んでいた場所、そこが目的地だ。

「急ごう」

 ◇

「こ、こ、この人に近寄るんじゃないっ!」

 エドワードはサブマシンガンの形状をした火炎放射器を構えて、少女を牽制した。
 しかし威勢がいいのは台詞だけで、声は震え、裏返っている。目の前に立っているのは幼い年頃の少女。だがかつて災害によって心的外傷トラウマを負ったエドワードは、生物災害の権化たる彼女が怖くてたまらなかった。
 それでもエドワードは、ジョンの前から逃げる事はしなかった。

「おじさまはお茶会をしているのに、邪魔をなさらないで?」

 少女は言う。
 死骸に真菌が蔓延り、腐臭が充満するこの場所で。

「お茶会? どこがお茶会なんだ、こんな、魔宴サバトみたいな……っ!」
「……魔宴サバト? 貴方、酷い事をおっしゃるのね?」
魔宴サバトだろう! 死骸ばかり転がった腐臭のする空間なんて! 君は頭がおかしくなってしまったのか!?」
「し、がい?」

 エドワードの指摘に少女は首を傾げて、不思議そうな顔をした。彼女は現実を正しく認識していないようだった。

「君の周りにいる人も虫も鼠も、皆んな死んでいる! 魔宴サバトでないのなら、弔ってあげなきゃ駄目だろうっ!」
「死んで、ないわ。お父さまも、お母さまも。2人とも【お誕生日】を迎えられなかったけれど、未成熟子として、『珊瑚』の循環に……」
「ご両親?」

 両親に当たりそうな死者と言えば、赤い塊の側に男女の感染者がいる。
 恐らく彼らが、少女の両親なのだろう。

「そこで亡くなっているのは、君のご両親なのか。あぁ、何という事だ。だから君は現実を直視できなくなってしまったのかな? 度の過ぎた悲しみは心を壊す。そうやって、心を守っているのかい?」
「うふ、うふふ。さっきから、おかしな事をおっしゃるのね、ハンプティ・ダンプティ。生きているって、言っているのに、聞こえていないのかしら? でも、前よりも、口数が少なくなってしまったのは、本当ね」

 少女が今にも砕け散りそうな足を動かして、一歩前に進む。

「だからおじさまに、ここにいて欲しいの」

 そう言う彼女の視線はエドワードの後ろ、ジョンに注がれていた。

「沢山、お喋りするのよ。終わらないお茶会で。ハートの女王が時間を殺してしまったお茶会。でもわたしにとっては罰にならないわ。ずっとずっと、楽しんでいられるもの」
「……君は、アリスの物語が好きなんだね」
「えぇ、大好きよ。毎日読んでいるくらい」

 現実をわかっていない所が見受けられるものの、こうしてただ話している分には、少女は普通の女の子に見える。
 童話メルヘン好きな、女の子。感染病棟に入院している子達と何ら変わらない、一人の女の子。

「その、今更だけど、名前を訊いても?」
「お名前? お名前、お名前……」

 思わず訊ねたエドワードの質問に対して、少女は今度は逆側に小首を傾げた。

「わたしのお名前、何だったかしら?」

 少女は自分の名を、名乗れなかった。珊瑚症の症状の1つである意識障害の弊害だろうかと、エドワードは推察する。
 だが呼び名がないままでは不便だ。対話ができるのならば対話で済ませたいエドワードは、少女に仮名を付ける事とした。

「じゃあ、『アリス』と呼ぼうか」
「アリス?」
「好きなんだろう? 君がよければ、『アリス』と……」
「アリス、アリス、アリス……」

 少女は『アリス』の名を繰り返して口にする。
 次いで赤い瞳を見開いて、彼女は花が咲いたかのような満面の笑みを浮かべた。

「そうよ、わたしはアリス! アリスだわ! ねぇ、お父さま、お母さま!」

 踊るようにくるりと回って、ドレスの黒いスカートをはためかせて、少女『アリス』は腐った遺体に喋りかける。
 当然だが死者は喋らない。アリスの望む声が返ってくれる事は、なかった。

「どうして返事を返して、くださらないのかしら?」

 しかしアリスがその当たり前を理解する事は、なかった。
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