毒素擬人化小説『ウミヘビのスープ』 〜十の賢者と百の猛毒が、寄生菌バイオハザード鎮圧を目指すSFファンタジー〜 

天海二色

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第十章 イギリス出張編

第183話 大きな壁

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「へいへいへいモーズちゃん。10回しか打ち返せないとか、手ぇ抜いてる?」
「抜いてなぞ、いない……っ!」

 2時間後。
 晴天の下、穴だらけとなった砂浜の上で、モーズは息を切らせていた。前後に意識を集中させ、自身に向かって投げられた鉄球をかわすか、掴む。カールはビーチバレーと称していたが、どちらかと言えばドッチボールをしている感覚に近い。
 その幼子が興じるようなのシンプルな運動が、酷い疲弊をもたらしてくる。
 モーズが心身共に限界だと判断したカールは、そこで訓練を切り上げた。

「んー。そっか。そうだね。そんじゃ休憩を挟みましてぇ、午後からはタイマンしよう。パウルちゃんの補助なしの方が有効っぽい」
「カール! 今は僕がいたから何とか凌げたけどさ! これを一人でやらせるって、後輩を殺す気……!?」
「まっさかぁ。さっきも死んで欲しくない、って言ったっしょ~? 俺ちゃんは心の底から生きて欲しいよ?」

 カールは指先でくるくると鉄球を回しながら、無茶苦茶な訓練方法に苦言を呈するパウルにそう言った。まるで誠実さを感じない口調だ。
 考えを改める気がない事を察し、パウルは呆れ気味にため息を吐くと、モーズに引き下がる事を提案をしてくれる。

「モーズ、あんなめちゃくちゃ奴に無理して従わなくていいからね? 嫌ならこのまま僕とラボに……。何なら訓練だって僕が指導しても……」
「……いえ、大丈夫です。ご心配いただき、ありがとうございます」

 しかしモーズはパウルの提案を丁重に断った。
 カールのやり方はとてもまともではなく、少しの気の緩みが大怪我に繋がる。何なら死ぬ。それはモーズも理解している。だがこれこそが自分にとっての近道だと、モーズは肌で感じていた。順当に、堅実に、安心安全な訓練を積む事が無意味だとは思っていない。それはそれで、着実に実力がつく事だろう。
 膨大な時間を対価に。

(私は覚えが悪い事に加えて、アイギスを使役するに最も大切な『想像力』に欠いている。通常の訓練方法では人の二倍、三倍、時間がかかってしまう事だろう。……それでは、駄目だ)

 モーズには、時間がないのだから。

「カールさん。午後もよろしくお願いします」
「うむ! 良い返事だっ! ちゃぁんと水分摂って休むんだよ~モーズちゃん」
「は、はい」
「本当に大丈夫か……?」

 ◇

(疲れた……)

 夜。カールとの訓練が終わり、寄宿舎の自室に戻ったモーズは、マスクだけは取ったものの寝巻きに着替えもせず、ベットに身体を投げ出し沈み込んでいた。

(結局、今日はパウルさんにも付きっきりでの指導をして頂いたな。時間を割いて貰い、申し訳ない)

 午後からはタイマンで、とカールは宣言したのだが、あまりにも危なっかしいからとパウルは午後も付き合ってくれた。そして間近でアイギスの分離を見せてくれたし、パウルが心掛けているアイギスの扱いについてのコツも、幾らか教えてくれた。
 最初は自分の研究や予定があるからと、訓練に巻き込まれた事に怒っていたというのに、何だかんだ面倒見のいい人である。しかしそんなパウルの親身な指導を、モーズが活かせる事はなかった。

(理屈では、わかる。麻薬探知犬の訓練と、同じだ。アイギスには遊びと思わせて、その実、防衛術を叩き込ませる訓練……なのだろう)

 そこでモーズはベッドの上でごろりと寝転がり、うつ伏せから仰向けになる。
 アイギスはあくまで防衛機能。自ら積極的に危地に赴くのをよしとしない。なので本当ならば危険である対象を“”よう誘導する。
 今回の場合の危険物は鉄球。その危険性を正しく理解しつつも、アイギスにはそうと感じさせないよう振る舞う。実際、アイギスにとっては危険物ではないのだ。高速で投げられる鉄球だろうとアイギスは平然と受け止められるし、例えそれで触手が傷を負ったり穴が空いても再生できる。
 何なら触手の1本や2本千切れてしまっても支障はないのだと、パウルは教えてくれた。

「肝心なのは、私の心持ち……。例え火の中だろうと、恐れず、逆に笑い、飛び込んでゆく……」

 アイギスに身を任せられる胆力。不安や恐怖を押し込める蛮勇。
 どちらも、モーズに足りないものだ。

(練習さえ積み重ねれば一定のレベルに達する、射撃訓練の方がよほどわかりやすい。しかしクスシとしてやっていくには、射撃術の上達では駄目だ。菌床にも感染者にも、ましてステージ6にも、通用しないのだから。ここをクリアできなければ、私はいつまでも『半人前』だ)

 ステージ5感染者の保護。意識レベルの調査。治療薬の探究。
 取り組みたい研究は山ほどあるのに、実力が伴わず気持ちばかり急いでしまう。

「壁が、ある、な。大きな、壁が……」

 ◆

(大丈夫。できる。物覚えが悪くっても、繰り返して、繰り返して、人よりも何倍も時間をかけたら、できる)

 朝食もそこそこに、モーズは孤児院の書庫で勉強に打ち込んでいた。
 今日は教会の手伝い当番もない、完全な休日。朝から晩まで机に向かえる。

『モーズ、ちょっといいかい?』
『あぁ。どうしたんだ? 

 そんなモーズの勉強部屋と化している書庫に、フランチェスコが何かのチケットを2枚持って入室してきた。

『あのね。シスターが信徒から貰ったっていう映画のチケットをくれたから、一緒に観ない?』
『とてもありがたい誘いだけれど、は遠慮しておくよ。昨日の復習をしたくてね』

 フランチェスコの方を向いて、申し訳なさそうにモーズは彼の誘いを断る。
 フランチェスコは誘いを断られた事そのものよりも、モーズの畏まった喋り方に戸惑っている様子だった。

『……モーズ。最近なんだか喋り方が固苦しいけど、どうしたんだい?』
『どうもこうも、私達もう13歳だろう? 二次性徴も始まっているんだ。いい加減、子供のような振る舞いは改めなくては』
『でも僕達はまだ、子供だと思うんだ。ずっと背伸びをしていたら疲れてしまうよ? だから勉強の息抜きに、2人で映画でも……』
『気持ちは嬉しいよ。でも私は頭が足りないから、使える時間は全て勉強に使わなくては。ほら、悔しい事に、最近は学校のテストの点数競争も負け続きだろう? 次こそは勝ちたいから。……すまない、本当に』

 モーズはフランチェスコと比べて地頭が良いわけでもなく、要領も非常に悪い。最近はフランチェスコとの学校で受けるテストの得点競争も、めっきり勝てていない。彼に追い付き、追い抜く為には机に齧り付かなくては。
 モーズの必死な様子を汲んでくれたのか、フランチェスコはそれ以上、言葉をかける事はやめて、少し寂しそうな表情を浮かべると書庫を去って行った。
 一人になった所で、モーズは勉強を再開する。

(頑張らなきゃ)

 兄弟のように育ったフランチェスコの為に、と言えば聞こえがいいが、本当は違う。
 優秀なフランチェスコはモーズの助けなどなくとも医者になれて、『珊瑚』の研究で成果を出せるだろう。そうしていずれは、治療薬に辿り着けるかもしれない。
 それでもモーズが彼と肩を並べたいのは、フランチェスコの力になりたい、と言うよりも、フランチェスコの力になれる【自分像】が欲しいからだ。
 必要とされなくとも、必要とされたい。そんな、利己的な願い。

(折角誘ってくれたのに、悪い事をしちゃったな。次のテスト競争で勝てたら、ぼく、あ、いや、私から公園にでも遊びに行こうって誘って……)

 ふと、モーズの視界の右端に、人影が映った気がした。

『……? フランチェスコ?』

 書庫に戻ってきたのかと、モーズは人影が見えた気がする右方向へ視線を向ける。
 しかし視線の先には隙間なくぎっしりと本が詰まった本棚が並んでいるだけ。何の変わりのない光景。
 気の所為だったか。虫でも飛んでいたのだろうか。なんて考えながらモーズが正面に視線を戻したその時、

 目の前。勉強机の上に、見上げるほど大きな赤い塊が、塔のようにそそり立っていた。
 大木の幹に似た胴体に、無数の太い突起を生やして、その先端には花弁のように弧を描いて伸びる……赤い触手。
 サンゴの仲間に、これと似た種類が図鑑に載っていた覚えはある。
 しかし地上で、巨大で、胴体の中央に一つ――眼球に似た何かをギョロギョロと動かす生き物を、モーズは知らない。

 これは過去の記憶にも、知識にもない、話に聞いた事もない、今この瞬間初めて見る、得体の知れない――
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