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第十章 イギリス出張編

第179話 《砒素(As)》

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「ゲッ。来おった」

 シアンは自分に続いて入室してきた、道化師じみたウミヘビを見て露骨に嫌そうな顔を浮かべた。
 そのシアンの反応を無視し、道化師じみたウミヘビは共同研究室の中をキョロキョロと見回す。

「おお! いつになく人がおるではないか! ここまでのクスシが揃ったのは初めてかもしれんのぅ」

 道化師じみたウミヘビは「感心、感心」と感慨深そうに頷く。
 彼は「ここまでのクスシが揃ったのは初めて」と言うが、ここにいるクスシの数はモーズを含めて6人。そしてラボに所属するクスシは10人。モーズ入所前ならば9人。
 道化師じみたウミヘビの言う事が本当ならば、その極々、少数たる人数が共同研究室に揃った事がない事になる。

「そしてモーズ! パウル先生の弟子よ! 現実リアルで会うのはこれが初めてじゃな。昨日は挨拶せぬままですまなんだ」
「……僕、弟子取ったんだ?」
「パウル先輩、パウル先輩。流されないで?」

 道化師じみたウミヘビがあまりに堂々とモーズをパウルの弟子認定してきたものだから、パウルも何だか弟子を取った気になってしまってついそんな事を言ってしまう。そしてフリーデンに歴史修正を促されていた。
 なおパウルはそのまま「後輩もいいけど弟子か……。悪くない響き……」とボソリと呟いていて、弟子を取るのもやぶさかではなさそうである。

「ええと、その、初めまして? 名前を伺ってもよい、でしょうか?」

 道化師じみたウミヘビに名を呼ばれたモーズ本人は、ひとまず彼の名を訊ねる。
 見た目と言動からは推測ができない、毒素の名前を。

「そう畏まるな弟子よ」
「あの、私は誰の弟子でもないのですが……?」
「わしの事は気軽に『ひぃちゃん』と呼ぶとよい」
「ひぃちゃ……? いえそれより名前をですね。正確には毒素を知りたい」
「呼んでくれぬのか? 寂しいのぅ、悲しいのぅ。ではないが、距離を取られるのは切ないのぅ」
「あのさ、ちゃんと名乗ってからニックネーム提案しなよ」
「砒素」

 パウルが苦言を呈した途端、道化師じみたウミヘビは自らの名を名乗った。

「わしの名は《砒素ひそ(As)》。……説明は、不要であろうよ」

 《砒素(As)》。
 毒素の中でも非常に有名で、学者や医師などの知見者でなくともその名を知らぬ人間はほとんどいないだろう、猛毒。
 水銀と同じく古来より人間に親しまれ、顔料に使われた事もあれば、その暗殺性の高さから毒殺に多用され『相続毒』などという俗称まで付けられた程の、身近で強力な毒だ。

「して、シアンよ。お主、昨日のお役目を結局さぼたーじゅしたのじゃから仕事が溜まっておるぞ? さっさと持ち場に戻らんか」
「嫌や。今日はなァんもやる気でぇへん。昨日は折角、先生にええとこ見せよう思とったのに、邪魔しよってからに」
「……躾が足りぬか? 小童こわっぱめが」
「やる気なら受けて立つで? クソジジイ」

 ピリリと、砒素とシアンの間に火花が散り、共同研究室の空気が張り詰める。
 今にも戦闘が勃発しそうな雰囲気にモーズははらはらしてしまうが、それと同時に砒素がシアンを「小童」と呼び、シアンが砒素を「クソジジイ」と老人扱いした事が気になった。
 シアンはラボの古参で水銀と同じく15年前から所属し、何ならラボ創設前から菌床処分に携わっていた。少なくとも、17年は活動しているベテラン。
 にも関わらず砒素の方を年上扱いしてきたという事は、彼はそれ以上の年月を過ごしてきたという事で、見目からは測れない実年齢が幾つなのか気になってしまった。

「喧嘩すんならシミュレーターでな~。ここで2人にドンパチされたら共同研究室が消えるからさ! はっはっはっはっ!」
「全く笑い事じゃないんだけど? ほら砒素、洒落になんないから退室、退室」
「わしはシアンを連れ戻しに来たんじゃ。あやつが動かねば意味がない」
「今日はテコでも動く気あらへん。明日から本気出しますわ」
「はっ倒すぞ小童」

 一発触発状態。
 しかも彼らの執着先たるカールとパウルが退室を促しても2人は引かない。
 するとカールが唐突に自身の膝を叩いた。なかなか力を込めて叩いたらしく、スパンッ! と乾いた大きな音が鳴り空気を揺らす。

「やる気がない時は怠惰に過ごしたいの、俺ちゃんちょ~わかる。よぅし! では俺ちゃんがシアンのやる気スイッチを押してしんぜよう!」

 次いでカールは黒衣の内側に手を突っ込んだかと思えば、そこに隠し持っていた短剣を取り出して、自身に抱き付いたままだったシアンの眼前にその短剣の切先を向けた。
 目に突き刺さる寸前で止めはしたが、とても危険で恐ろしい行為。しかしシアンはよく磨がれた刃を向けられようとも微動だにせず、ただ冷静に突き付けられた短剣を眺める。そして口角をあげただけの歪な笑みではなく、花が咲いたかのような満面の笑みを浮かべた。

「先生これ、もしかして【試作品】ですか!?」
「おうとも! ようやっと実用性レベルよ! がしかし、これで完全じゃあない! こいつを完璧で最強な無敵ぃに剣に仕上げるにゃ~……。シアンの力が要るって事よ。あ、と、は。わかるよなぁ?」
「はい! 全身全霊を持って仕上げさせて頂きますわ!」

 シアンは直ぐにカールから離れ、実験台から降りた後に短剣を受け取り、先程までの怠惰さは何処へやら、落ち着かない様子でいそいそと足早に出入り口へと向かう。

「ほれ、はよ行くでクソジジイ」
「お主、5分前の己の発言を記憶の彼方に消しおったな? これだから気分屋の小童は……」

 勝手気ままなシアンに呆れつつ、砒素も出入り口から共同研究室の外へと出て行った。
 そうしてウミヘビ2人が退室した所で、カールは実験台からひょいっと身軽に降りると、共同研究室の端に置いてある業務用冷凍庫の前に移動する。

「そんじゃ話を戻して人工血液の準備を~」
「だから! その異常な量を使うのやめろって!! 高いんだし!!」

 その業務用冷凍庫の中には人工血液や人工人体の一部が保管されており、クスシならば好きに使用ができる。
 とは言え勿論、タダではないので無遠慮に消費しようとするカールをパウルが止めにかかった。

「えぇ~。必要経費っしょ? 可愛い可愛いモーズちゃんの為にも! 例え俺ちゃんの心が傷もうとも突き進むのさ!!」
「その痛みが響くのはお前じゃなくてラボの予算なんだけど!?」
「俺ちゃんのやり方がそんなに気に入らないんならさぁ、まずはパウルちゃんがお手本見せてあげるぅ?」
「えっ? いや僕は僕の研究予定が……」
「うん! そうだな! 指導係が増えりゃ教え方にも多様性がうまれるよな!」

 細かく苦言を呈してくるパウルをあしらう為か丸め込む為か、カールはひょいと軽々パウルを肩に担ぐ。そして担がれたパウルが肩の上でじたばたと暴れようと、お構いなく運び始める。

「よぅし! そうと決まれば広い場所……砂浜にレディゴーだ!」
「あっ、ちょ、離せカール! これ誘拐だろ、誘拐~っ!!」

 そうして共同研究室から過ぎ去っていく嵐。
 その嵐の先に、モーズも向かわなくてはならない。その事実に、彼はギギギと滑りの悪いブリキ人形のように首を動かし、フリーデンらに縋るように顔を向けた。

「……彼らについて行くのがとても不安なのだが、ここに残っては駄目だろうか……?」
「えーっと、その、……頑張れモーズ」
「急成長するにはどうしても多少の無茶がいるからね。心を強く持つんだよ、モーズくん」
「挑戦とは冷たい水に飛び込むようなもの(※ドイツの慣用句)。身を切るような寒さを覚える事もあるだろうが、……耐えろ。以上」
「不安だ……」

 背中を押してくれているようで全く押していない3人に見送られつつ、モーズは重い足取りで共同研究室を出たのだった。



 ▼△▼

補足

砒素(As)
言わずと知れた猛毒。日本では毒物に分類されている。
昔は原因を突き止め難く暗殺に向いていたので、一時は『相続毒』と呼ばれる程に多用され、それに伴い判別方法の解明が進んでいき、今では使用すれば直ぐに原因がバレてしまう『愚者の毒』とされている。
その昔、銀食器の変色で判別しようとした毒もこの砒素である(※ただし純度の高い砒素は銀と反応しない
なお砒素も様々な化合物があり、毒殺の際に使用されていたのは大体、無味無臭の《亜砒酸(As2O3)》。

用途も化合物によって様々だが、顔料(絵の具)、殺鼠剤、白アリ駆除剤、冶金、散弾の製造など。漢方薬にも使われている。

外見について
砒素単体は金属光沢のある灰色の半金属。無定形砒素は黄色、褐色、黒色の三種類。
また赤、黄色、そして美しく色褪せない『緑色』の染料として重宝されていた時代があり、顔のペイントはそこから来ている。
日本では毒の色は紫色なイメージがあると思うけど、海外では緑色イメージな事が多い。その原因は『緑色の毒』として知られている砒素かも……?
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