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第九章 《植物型》攻略編

第173話 《ヒドラジン(N2H4)》

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 寄宿舎を出てオフィウクス・ラボの白い巨塔の最上階までエレベーターで昇って、そうして辿り着いた天文台を前に、モーズは「ほう」と感嘆の声をあげた。
 日が上がっている間または雨の日はドーム状の屋根に覆われている最上階。しかしよく晴れた夜の日は屋根が塔に収納され、満点の星空が拝めた。
 訪れた者の落下防止かつ風除け用として極限まで透明化したガラスに囲われてはいるものの、星を観測するに何の障害もない。天気の良い夜の日、天文台は屋上と化すようだった。

(ここが天文台……。なんと神秘的な……)

 勿論、天文台だけあって大きな望遠鏡も幾つか設置してあり、それを用いれば星屑とて拡大でき細部まで観測が可能だろう。
 けれど雲一つない今夜は、ガラス越しではない星空をただ見上げるだけで満足できる。モーズは足元に点々と光る小さなライトを辿って複数並べられたブロックソファまで足を運び、天文台の真ん中で、腰を据えて、少し冷たい夜風を感じながら、空を眺める。
 時折り流れ星も拝めて、少しずつだが移動していく星座を拝めて、ただ夜空を眺めているだけだというのに、話に聞いた事のあるプラネタリウムの中に訪れたような、特別な体験をしている気分になれた。

「ん? お前、新人じゃないか」

 そうしてモーズがぼんやりと星の瞬きを味わっていたら、不意に声をかけられた。
 月明かりでもよくわかる、ボリュームのある真っ白な髪に真っ白な白衣、そして真っ白なゴーグルを首に下げた美青年が、モーズの座るブロックソファの近くに佇んでいる。
 フェイスマスクを付けていないので、ウミヘビだろう。モーズからすると初めて会うウミヘビだが、彼はモーズの事を知っているようで、気安く話しかけてきた。

「乗り心地どうだったよ」
「乗り心地?」
「飛行機の」

 白髪のウミヘビはそう言って、自身を親指で指差す。

「操縦してたの俺だった、ってワケ」

 アメリカに遠征する際に使用した飛行機。行きも帰りも危なげなくモーズ達を運搬してくれた飛行機。
 その飛行機の運転席に座っていたパイロットこそ自分だと、目の前のウミヘビは言っている。しかも機械に任せるのではなく操縦していた、と。

「君が……! 全自動フルオート運転ではなく!」
「そんなんに頼ってちゃテクニック忘れるからな。全部俺が運転したってワケ」

 飛行機搭乗の際、急を要していたのでパイロットの存在は知りつつも挨拶を後回しにし、帰還後も肉体的疲労と精神的疲労から余裕がなく、しかもそのまま学会の発表者に指名され忙しなくなってしまった事から、挨拶の機会を逃してしまっていた。
 モーズは直ぐにブロックソファから立ち上がると、ゴーグルを下げたウミヘビへ頭を下げる。

「あの時は礼を言えないままですまなかった。改めまして、私はモーズだ。飛行機に搭乗させていただき感謝する」
「俺は、《ヒドラジン(N2H4)》。……第一課所属、ってワケ」

 《ヒドラジン(N2H4)》。
 引火しやすい毒物。第一課所属なだけあり毒性は強く、人間が吸入すれば喉や気管などの粘膜は腐食し呼吸困難や頭痛、チアノーゼを引き起こす。
 しかしその毒性よりも特徴的なのは、ヒドラジンの用途だろう。
 ヒドラジンは『ロケットエンジンの燃料』として、安定した推進剤として、21世紀以前には頻繁に使われていた。24世紀現在では人体に優しい燃料をと違う燃料が主流となっているが、使用が完全に違法と化したアンチノック剤の原料テトラミックスとは異なり、今でも代替え品として扱われる事があるほど、毒性がありながらも重宝されている代物だ。

「ヒドラジンか……。飛行機の操縦を請け負っていると言う事は、やはり空が好きなのだろうか?」
「俺としては本当は宇宙に行くようなロケットを操縦したいんだけど、そんな機会ないから、たまに舞い込む飛行機の操縦で我慢しているってワケ」
「成る程。君は、宇宙に旅立ってみたいのだな」
「うん。俺は、俺達が生きるこの地球を外側から見るのが夢で、【願い】だから」

 話しながら、ヒドラジンはモーズの隣のブロックソファに腰をおろして、夜空を見上げた。

「人権のある人間さまでさえ、宇宙に行くのってすっげぇ大変みたいだけど……いつか、叶えてぇな」

 きらきらと星が光る夜空を瞳に映すヒドラジンの姿は幼い少年のようで、宇宙に憧れる真っ直ぐな気持ちが伝わってくる。
 現在では宇宙飛行士にならずとも、火星旅行や月旅行へ飛び立つ事はできなくはない。しかし人類の生活圏外へ足を踏み入れる娯楽は大抵、どれも金持ちの道楽だ。一般的ではない。
 宇宙船の用意にパイロットの用意に、無重力を耐える訓練に閉鎖空間の生活に慣れる訓練に……。と、金と時間と健全な肉体を持つ余裕のある人間が行う。

(身体能力の優れたウミヘビならば、発射時の衝撃や宇宙船内の無重力は耐えられそうだな。パイロットとロケットを借りる資金があれば宇宙旅行は叶えられそうだ)

 その資金が最大のネックだが。資産家か石油王でもなければ調達が難しい額。
 いつか宝くじでも当たったらヒドラジンに譲ろうかなんてモーズがぼんやりと考えていると、不意にヒドラジンが今夜空に見えている星座を教えてくれた。

「一等明るい北極星が見えるだろ? そこから近い星を繋げればこぐま座になるってワケ。そのこぐま座を取り囲むみたいに並んでいる星を繋げると竜座、まぁドラゴンだな。になって、南にいくとヘラクレス座に蛇座に、その蛇座を途中で分割している……【蛇遣い座】がある。ってワケ」
「【蛇遣い座】。あの星群が、そうなのか。このラボに名付けられた――蛇遣い座オフィウクス

 木星から程近い場所で輝く星群、【蛇遣い座オフィウクス】。
 星を直線上に繋げ見立てられた蛇座を、分割するかのような配置で輝く星を蛇遣いとして見立てた星座。
 そしてこの蛇遣いとは、死者さえ蘇らせる医術を持っていたとされるギリシャ神話の医神『アスクレピオス』。その医神のシンボル、“”を巻いた杖はWHOの紋章に採用もされている程、医療業界では著名で身近な神だ。

「ラボの名を誰が名付けたは知らないが、決定は最高責任者である所長がしたはず。……所長も、医神の御業みわざにあやかりたかったのだろうか?」
「俺もラボの名付け親が誰か知らないけど、輝きも歴史も物語もある星座の名前って、ロマンがあって、結構好きかな」
「それは、同感だな」

 モーズも、ラボの名は響きも含めて好感を持っている。名付け親が誰であれ由来が何であれ、その気持ちは変わらない。
 いい機会だからよく観察をしておこう、とモーズがブロックソファに深めに座ろうとした時、視界の端に見慣れた灰色の髪が揺れたのが見えた。月明かりが主な光源でもわかる程に見慣れた、灰色の髪。

「セレン。君もここに……」

 来ていたのか、と言おうとして、モーズは言葉を止めた。
 視界の端で揺れた灰色の髪の方へ顔を向け、声をかけたものの、そこに居たのは予想をしていたセレンではなかったのだから。
 切り揃えずざんばらに伸ばした灰色の髪。その髪質はセレンの髪とよく似ていて、夜風の靡き方一つ取ってもそっくりだ。また中性的な顔立ちも、見目だけでなく足を運ぶ所作一つでさえ、非常に似ている。
 ただ少しだけ、骨格が大きい。それによってセレンより一回りほど背丈が高い。人間で言うと兄弟に見える男。恐らくウミヘビ。

「……。誰、だ?」

 声をかけられた事により怪訝な顔をして、睨むようにモーズへ視線を向けるウミヘビ。
 彼のその瞳は黒目がちなセレンの瞳と違って、銀白色の瞳をしている。
 それだけが、大きな違いだった。

(見目が似ているウミヘビは、性質が近しい場合が多い……。セレンの関係者、だろうか?)



 ▼△▼

補足
ヒドラジン(N2H4)
日本では毒物に指定されている。形状は液体で引火もしやすい。空気中で発煙もする。
吸入すれば喉が腫れるし爛れる。肺水腫や呼吸困難や頭痛やめまい、悪心、チアノーゼなどを引き起こす。
腐食性もあるので目にかかれば失明の危険も。

特筆すべきはその用途で、ロケット、ミサイル、人工衛星打ち上げなどの燃料として扱われる。安定かつ正確な推力が得られるんだそう。
ただ毒性が毒性なので21世紀現在、代替品も色々と研究発明されている。

作中のヒドラジンはパイロット技術を取得していて飛行機の操縦が可能。
そしてラボ所有の飛行機にはロケットエンジンが搭載されていたりする(なので普通の飛行機よりスピードが速い)。

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