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第八章 特殊学会編

第143話 落城の資料室

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 エタノールが作ってくれた酒はブランデー。それを大きめの氷を入れたロックグラスに注ぎ、人数分用意をするとトレイに乗せてテーブルに運び、モーズらに振る舞った。

「わぁ~! 兄ちゃんのお酒久しぶりだねぇ。また呑めて嬉しいよぉ」
「……まぁ、たまにはねぇ」
「あぁ、新人さんは知らないから話しておくけどねぇ。数年前までは兄ちゃんを中心にバーを回していたんだよぉ? その頃はこうやってたまに、兄ちゃん自身が作るお酒も振る舞われていたんだぁ。今は僕が店を任されているけど、兄ちゃんレベルのお酒は作れた事ないんだよねぇ」

 アセトが1人でバーを切り盛りする、前。その頃はエタノールを中心として酒をウミヘビに提供していたのだと、アセトはモーズに教えてくれた。
 そうなった経緯は恐らく、メタノールに介助が必要になってしまったからだろう。エタノールの献身的な様子から、普段から付きっきりで世話をしていると見て取れる。

「貴重な物をありがとう。では、頂戴する」

 ウミヘビの毒素から作られた物を直接呑むのは初めてで、モーズは内心、緊張しつつもロックグラスに口を付け、まずは一口味わってみた。
 それは、今まで呑んできたどんな酒よりも香りがよく、濃厚な味わいだった。
 華やかなフルーティーな香り、ほどよい甘み。アルコール度数が高いのに口当たりがよく、幾らでも呑めてしまう。そう思わせてくれる美酒だった。

 時折りグラスを回し氷をカランと鳴らしつつ、五感で美酒を堪能するモーズ。
 その姿を、じ、と。ニコチンはグラスを片手に眺めてた。そして不意に口を開いた。

「おう、どうだモーズ。エタノールの酒は」
「これほどの美酒が実在する事に驚いているな……。素晴らしい味だ」
「そうかそうか。よぉく、味わないな」
「あぁ、貴重な物だ。ゆっくりと、じっくりと呑んでいきた……」
「アセトを唸らせる酒ってのは、以上のもんの事なんだからよ」

 モーズの持つグラスを指差し、さらりと言うニコチン。
 モーズは以前、医務室で彼と約束を交わしている。『アセトを唸らせる酒』を買ってくるという約束を。その時は明確な基準、比較対象がなく、ただモーズが考える美味しいお酒を用意すればいいと思っていた。
 しかし今この瞬間、比較対象ができてしまった。エタノールの作る酒の味を知っている、アセトが唸る酒。
 それ即ち、この美酒を上回る物。
 それに気付いたモーズは一気にブランデーの味を楽しめなくなってしまい、ひたすら味を頭に叩き込みこれ以上の物を脳内で探る為の作業として、ちびちび酒を呑む事態となった。

「ニコ、ハードルあげなくていいよぉ? 兄ちゃんのお酒は特別なんだからさぁ」
「最初に土産を忘れたのはコイツなんだ。アセトを待たせている分、いい酒買ってこいっての」
「う、ううむ。新たな課題だな……」
「無理しなくていいですからね? 先生」

 結局、ヤケ酒をしていた時と同じように、最後はセレンに慰めて貰うハメになるモーズだった。

 ◇

 ネグラの地下バーで1つのテーブルを囲い、和気藹々と飲み会をするモーズとウミヘビ達。
 その様子が映された監視カメラ映像を、パウルは個別研究室の中でじぃ~と眺めていた。

「新人め、いくら休暇だからってウミヘビと飲酒なんて……。しかも大皿を共有するとか不衛生だな……」

 アイギスを使いこなせていない新人が、フェイスマスクもなしにウミヘビと語り合う。同じ釜(皿)の飯(つまみ)を食う。
 パウルからすると信じられない愚行であった。自殺願望でもあるのかと、呆れて物も言えない。

「……ゲーム大会、楽しそうだなぁ」

 しかし彼らが話している話題はパウルの興味も引くもので、ついぽつりと本音が漏れてしまう。
 そして本音を漏らしてしまった事にハッとして、パウルはぶんぶんと顔を横に振り邪念を吹き飛ばした。

「ふんっ! この調子だと研究も大した成果を出せないだろうね! ま、あんなんでも後輩なんだし、どぉ~しても困っているようなら僕がフォローしてやっても……」

 ピロリン♪
 その時、パウルの携帯端末に軽快な着信音が鳴り響く。緊急性の低い時に鳴るよう設定している着信音だ。
 しかし誰が何の用でメールを送ってきたのか気になったパウルは、直ぐに端末を確認した。
 そしてアセトアルデヒドが「ネグラの貯蔵酒が減ってきたから補充して欲しい」という飲み会真っ只中に送ってきたものだと知った。
 嫌な予感がしてパウルがネグラ内の貯蔵酒在庫一覧をホログラム画面に映してみれば、瞬く間に減っていっているのがわかる。

「うわああああ酒の在庫がぁあああっ! ウミヘビは酒豪ばっかなのに(※毒素の耐性が強いので)バカスカ奢りやがってあの馬鹿……っ! 申請するの誰だと思って……!」

 ネグラ内の物はクスシはタダで購入できるとは言え、その在庫はラボが予算で購入している物。決して無尽蔵に湧いてくる代物ではない。
 そしてそのやりくりをするのは、ラボの経理を実質任されているパウルであって。

「やっぱあいつ嫌い!!」

 モーズの預かり知らぬ所で溝が深まっていた。

 ◇

「お~い? 大丈夫かよ、モーズ」
「飲みすぎた……」

 翌朝の共同研究室の室内。
 そこに並ぶ実験台の1つでは、モーズが突っ伏して頭を抱えていた。
 二日酔いの頭痛が原因で。

「二日酔いの経験は初めてだが、こんなにも頭が痛むとは。許容量には気を付けなければいけないな」
「そんなんで学会の準備できるのか?」

 明らかに不調な様子のモーズに、フリーデンが心配そうに声をかける。

「頑張る……。それに、収穫がなかった訳ではない」
「えっ!? まさか酒と引き換えに資料室入室許可もぎ取ったのか!? やるなぁモーズ!」
「いや許可は貰っていない」

 その時、モーズはガバリと実験台から顔をあげて、パソコンを手元に引き寄せキーボードに何やら打ち込みを始めた。

「フリッツの言う通り、私は頭が凝り固まっていたようだ。よくよく考えると入室許可など必要なかった。私に必要なのは標本そのものと言うより、標本からわかるデータなのだから」

 カタカタカタカタカタ。
 ガー、ガー、ガー。
 モーズが高速タイピングで打ち込んだだろう文書は、無線でコピー機に送られ即座に印刷をされた。
 ガー、ガー、ガー。
 ガー、ガー、ガー。
 何枚も何枚も。何ならモーズの手は今も止まっておらず、コピー機からは続々と紙が排出されてゆく。
 気になったフリーデンがコピー機から出てきた紙の1枚を見てみると、紙は余白を除き上から下までびっしりと文字で埋まっているのがわかった。

「その、モーズ? この大量に印刷している紙なんなの?」
「指示書だ。ホルムアルデヒドに依頼する指示書」

 フリーデンの質問にさらりと答えるモーズ。

「入室にこだわるのではなく、最初から彼に依頼をすればよかったのだ。標本の扱いが不慣れな私よりも正確なデータを記録してくれるだろうし、入室をせず、かつ標本を丁重に扱うという条件も満たせる。彼も納得してくれるだろう。どうしてこんな簡単な事に気付かなかったのやら」

 コピー機の中の紙がなくなるのではという勢いで作られた、辞書並みの分厚い〈指示書〉。事細かに指示が書かれた〈指示書〉。
 もはや鈍器であるそれをモーズは小脇に抱え、彼は心なしか軽やかな足取りで共同研究室の出口に向かった。

「では私は資料室に向かうので、ここで失礼する」
「お、おう。行ってらっしゃい」

 困惑しながらも見送るフリーデン。
 その2人の一連のやり取りを見ていたフリッツとユストゥスは、顔を見合わせてこう言った。

「ホルムアルデヒドくんが折れて入室許可を出すのにマリエンホーフ(※ドイツの高級リキュール)1本」
「私は2本だな」
「それ賭けになってませんよお二方」

 そして案の定、モーズの熱量(という名の物量)に圧倒されたホルムアルデヒドは、彼に資料室の入室許可を出す事になったのだった。
 
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