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第六章 恋⬛︎⬛︎乙女荵ウ縺ョ謌螟ァ――改め、アメリカ遠征編

第113話 夢のようなひと時を

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 カリウムが解毒を始めてから5分後、クリスの痙攣は収まり虚ろだった彼女の瞳に僅かばかりの光がさした。
 それと同時にカリウムが彼女から手を離す。中和は出来たらしい。

「クリスさん! クリスさん! 聞こえますか!?」

 それを見たモーズはクリスに直接、アイギスの触手の先を触れさせ対話を試みる。

【モーズ、さん。……身体が冷えていく感覚がします。きっともう、私は長く、ないのでしょう】
「気をしっかり持ってください! タリウムも声かけを頼む!」
「う、うっス!」
「骨伝導を利用し、大きな声で!!」
「うっス!!」

 鼓膜の機能が怪しいクリスに対して、耳の奥の蝸牛かぎゅうまで振動が届くように。
 モーズに命じられたタリウムはぐいと黒マスクを外すと、クリスの後頭部に手を回し彼女の耳元に口を寄せ声を荒げる。

「えっと、こういう時って未来の話をすると良いって習ったんスけど!」
【あぁ、最期にお顔を見せてくれるんですね。嬉しいです】
「クリスさん確か、まだ公開されていないアニメとか映画とか、沢山あるって仰っていましたスよね! 楽しみにしているって! ここで倒れたら見れなくなってしまうスよ!?」
【両親より先に亡くなってしまうという親不孝な私ですが、この仕事に就いた時から覚悟の上でした】
「故郷の母親が作ってくれるっていうチェリーパイも、また食べたくないスか!?」
【お母さん、お父さん。ごめんなさい】
「警察としてもっと、人の役に立ちたいんじゃないスか!?」

 タリウムとの会話は出来ていないものの、モーズが聞き取れるクリスの言葉は正気そのもので、〈根〉を切り離す前の脈絡のなさや言動が異なるチグハグさは感じられない。また彼女は自決をするなど、生存と繁殖を本能とする寄生菌『珊瑚』が取るにはあり得ない動きをしていた。
 故に今の彼女はきっと、何者にも侵されていない彼女自身。
 だからここで持ち直してくれさえすれば助けられる筈だ、きっと普通の、健常者に戻れる筈だと、モーズは祈るような気持ちでクリスが意識を失わないよう、タリウムと共に声をかけ続ける。

【でもどうしてでしょう。私、今とても、幸せです】
【恋した人の腕の中で眠れるだなんて、まるで夢のよう】
【……けど、一つ、欲張って、よいでしょうか?】
【私の、くだらない、ちっぽけな、願い、を。……叶えて、よいでしょうか?】

 その時、不意にクリスは耳元で声をかけていたタリウムへ顔を向けると、ほんの少し頭を上げて、
 彼の唇と自身の唇を重ね、触れるだけのキスをした。

【あぁ、叶ってしまいました。やはりここはきっと、夢の中、なのでしょう。……願わくばもう少し、夢を、見させて……】
「ク、クリスさん……?」
「ありが……ござい、ま」

 いきなりの事に動揺するタリウムに、辿々しい言葉で感謝を述べたクリスは満足げに微笑んで――静かに、目を閉じてしまった。

「クリスさん! 目を瞑ってはいけない! クリスさん!」
「あっ、こっ、ここで寝たら起きれなくなるっスよ!? 貴女には帰りを待っている人がいるんスから、自分の足で帰りましょう!?」

 ここが御伽話の中ならば、恋した相手との、王子様とのキスで、お姫様は目を覚ましていたかもしれない。
 ――そんな触れ合い一つで命が助かるロマンチックな世界ならば、どれ程よかった事か。

「クリスさん! クリスさん! クリスさん!!」

 モーズは喉が枯れそうになる程に叫び続けた。
 けれどクリスは目を閉じてしまった後、もう一度開けてくれる事はなかった。
 穏やかな表情で眠りについた彼女からは、もう声は聞こえず、心音はせず、脈も呼吸も、ない。
 ダガーナイフが急所を貫いたからか。そこから注がれたタリウムの毒素が強過ぎたからか。出血が多過ぎたのか。解毒が間に合わなかったか。間に合ったとしても体力がもたなかったか。身体の大半を蝕んでいた『珊瑚』が死滅して多臓器不全を引き起こしたのか。そもそも〈根〉を切り離した際に用いた毒素が既に致死毒だったのか。
 死因の特定なんて困難で。

「あぁ、クソ! クソ! クソッ!」

 ただ1つモーズがわかる事は、また目の前で、1人の命を失わせてしまったという事実のみ。

「悔しいなぁ……!!」

 ◇

「なんや派手に揺れましたなぁ。下は随分と楽しそうやわぁ」

 その頃50階層の展望台では、シアンが指先でサバイバルナイフをくるくると器用に回しながら笑みを浮かべていた。

「それに比べてお姉さんはつまらないしょーもないなぁ。全然堪えられてないやん。ニコちゃんの毒素を耐えたっちゅう話はなんやったんや」

 彼の視線の先には、ナイフで滅多刺しにされたネフェリンの無惨な遺体。

「まぁそれ以前に、本当にお姉さんて呼べるようなモノなんか、甚だ疑問やけど」

 その腹の傷口から足の傷口から頭の傷口から、血の代わりに溢れ出ている、寄生菌『珊瑚』。
 何処を刺しても引き裂いても傷口から漏れ出すのは胞子状の『珊瑚』ばかりで、血液一滴臓物一つまろび出て来ない。斬った手応えから骨があるかも怪しい。
 そんな人の姿をした未知のモノを前に、シアンは不満気に佇んでいた。

「……これはもう、人とは、呼べなさそうだね」

 シアンが戦闘中にソファで休み、貧血がマシになって動けるようになったフリッツも、ネフェリンの形をした何かの元へ近寄り観察をしていた。

「人の外皮を利用した《成り代り》と、言っていいかもしれない」

 ステージ6。現在、確認できる珊瑚症の最終段階。
 モーズに接触したペガサス教団の外科医ルチルは、その感染者を「一皮向けば骨も内臓もなく、菌糸だけが詰まっている肉袋かもしれない」と話していたと言うが、まさかその仮説が強化されるとは。

(詳しい事は解剖でしか判明しないけど……。この状態じゃ、彼女を飛行機に持ち込めなさそうだ)

 シアンの毒素を注ぎ込まれたネフェリンの遺体損壊具合は激しく、全身がどす黒く変色していっている。そんな状態で動かそうとすると触れた端から細胞組織が崩れてしまって、触る事さえ難しい。
 確かにニコチンの毒を耐えたというオニキスの事を考えると、シアンの注ぎ込む毒に力が入ってしまうのもわかる。だが耐性の強さは個人によって随分と差があるようだ。ネフェリンはステージ6になって間もない。耐性をつけ切れていなかったのかもしれない。

「仕方ない。遺体回収は一旦置いておいて、ひとまずはモーズくん達の所に」
『応答せよ! 応答せよ! そちらクスシのフリッツ殿だろうか!?』
「あっ、うん!? い、いきなりどうしたんだい!?」

 気が緩んでいた所に腕時計型電子機器から唐突にアメリカ軍からの連絡が飛んできて、完全に虚を突かれたフリッツがドギマギしながらも応える。

『北区の避難所で警戒対象の感染者が出現! 痩せ型の成人男性で、碧眼が特徴!』
「警戒対象の感染者、それも碧眼って、まさか……!」

 警戒対象の感染者とは、災害現場でウミヘビの手から逃れた感染者を指す。ただ、今までは逃れた“かもしれない”どまりだった。それでも生きていれば菌床を作る可能性が高いとして、念の為、国連へ報告をしていた。
 しかしここアメリカに現れたのだから、逃れられたのだろう。水銀の毒素を浴びてなお。
 澄んだ海に似た水色の瞳をした、ペガサス教団の男は。

『現在、マイク指揮官が交戦中! 至急応援を!』
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