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第一章 入所編
第9話 ステージ3、中等症
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ルチルに右手を差し出されたものの、モーズはその手を取らないまま話を続けた。
「私を教団にスカウトしたい理由は何だ?」
「貴方の思想と堅実さ優秀さと、色々と総合してです」
曖昧な答えだ。とても納得できるものではない。
「ルチル医師。私はペガサス教団の思想を否定はしない。何を信じ何を信じないかは個人の自由だ。教団の思想があるからこそ生きる気力が湧き、下手に入院生活を送るよりも、無理矢理集中治療室に拘束するよりも命を延ばせる者さえいるだろう」
信仰は時にどんな治療よりも効果を表す。精神状態が身体に強い作用をもたらす事は、モーズも理解しているつもりだ。
「しかし、残念だが私は医者だ。病を根絶する手段を追い求める探究者だ。致死率を一厘でも減らす事が出来るのならば、患者の尊厳を無視してでも治療をする無神経な男だ」
モーズは本来、患者が望まなくとも治療を施そうとする強引なタイプである。コールドスリープや薬剤投与や治療を避けたい者の拠り所たるペガサス教団とは相入れない思想だ。
「そして私が追い求めている、珊瑚症根絶に最も近い所にあるのがオフィウクス・ラボだと考えている。だから貴方の手は取れない」
モーズの理路整然とした返答に、ルチルは片眉をひそめゆっくり差し出していた右手を下げる。
「勘違いしているようですが、教団でも『珊瑚』の研究は出来ます。サンプル、と言うと言葉が悪いですが、教団の性質上珊瑚症の信者が数多くいる。貴方の研究テーマである『重症患者の意識レベル』が幾らでも出来る。決して悪い話ではないでしょう?」
「確かにそれは魅力的だな。しかし治療を放棄している信者を前に、平静で居られる気がしない」
「その点も、実は抜道がありまして。ほら、現に私も教団に在籍していながら、感染病棟で外科医として活動しているでしょう?」
それは確かに気になっていた点だ。ペガサス教団の者ならば医者になるのは忌避するのではないか、とモーズも考えていた。だから感染病棟に潜んでいる信者は清掃員や食堂の料理人など、医療従事者以外ではないかと予想していた。実際は違っていたが。
「ペガサス教団はあくまで『珊瑚』を信仰している組織。他の病に対する治療やワクチンに偏見はありません。ですので珊瑚症の治療ではないと患者に吹き込んだうえでケアをすればいい」
「それは、教団の方針的にいいのか?」
「騙すのは心苦しいですが、やはり『珊瑚』を深く知るのには実際に見て触れて調べるのが一番ですから。患者が集う場所なら勧誘もしやすいですし。これもまた信仰です」
「う、うーん。探究と信仰を並行するとなるとそうなる、か?」
信仰対象の理解を深めようと研究をするのは歴史上でもよくあること。その過程で教典に記された記述とは異なる事実が発覚する事もままあるが。
「それにラボにいればきっと、貴方は遠からず命を落としてしまう」
ピクリと、ルチルの言葉にモーズの指先が強張る。
「その心配もあってワタクシは早急に話に来たのです。教団に居た方が安全ですよ、モーズ先生。彼処は貴方を決して傷付けはしない」
「ラボはバイオテロ組織と違って物騒じゃないですよ!? いい加減な事を言わないでください!」
「いや。あながち間違いではないんだ、セレン。丁度いい、今話してしまおう」
モーズは声を荒げるセレンをなだめると、おもむろに後頭部に手を伸ばしフェイスマスクの金具を外した。
「私は六年前から患っている。――現在、ステージ3だ」
そうして顕になった素顔、掘りが深く目力の強い凜とした印象を抱く素顔、その顔の右頬は薄っすらと赤みがかかった上で、皮膚が硬化していた。
右目に至っては眼球そのものが変質し、真っ赤な鉱石が嵌め込まれたような状態になっている。本来は左目と同じく、鮮やかな緑色をしていただろうに。
無論、その右目は見えていない。
「え。モーズお前、それ、珊瑚症の中等症症状じゃないか」
「その通りだ、フリーデン」
「話していなかったのですか」
「タイミングを逃していてね。遅くなってしまい、すまない」
謝罪しつつモーズはフェイスマスクを付け直す。
今まで頑なに人前でマスクを外さなかった理由はこれだ。予防の為というよりも、移さない為に付けていた。食事を空き部屋に籠って一人で摂っていたのも、その一環だ。
「進行の速さによっては即刻【処分】されてしまいます。ウミヘビに囲まれることになるのですから。優秀な貴方を失うのはとても心苦しい」
「だがもう決めた事だ。それに医者である私が、他人を感染させる前に対処してくれるのは寧ろ有難い。心配してくれるのは嬉しいがね」
しん。二人の間に暫しの沈黙が訪れる。
束の間の静寂の後、ルチルは顎に手を当て思案する素振りを見せると、また口を開いた。
「意思は固い、と。ワタクシも突発的に来たものですから、提示できるプレゼン材料が今は少ないですねぇ。いえ、あるにはあるのですが、ラボの人間の前で話すのは憚れる」
そして彼は指先でハンドサインを作り、拳銃を構えていた黒服三人組に安全装置を外すように命じた。
カチリと、無機質な金属音が部屋に響く。
「先に眠って頂きましょうか」
「ふぁ~あ」
そんな張り詰めた空気の中、緊張感のない声がニコチンから発せられた。
「長ぇな。話終わったか? 演説なんざ金貰ってでも聞く気ねぇぞ、俺は」
銃口を向けられているというのに、ニコチンは欠伸をして心底どうでも良さそうに振る舞う。
「随分と余裕ですね。こちらは人権のない貴方方をいつでも壊せるのですよ? 毒物を民間施設で見付けたから処理をした、など正当性も幾らでも主張できる」
「肉眼じゃ見えない寄生菌を神格化しといて、人の形をしたウミヘビは平然と攻撃できるお前ぇらの神経はよくわからんが、モーズを拉致する気がねぇならさっさと帰れ。時間の無駄だ」
「先輩!? 物騒なこと言わないでくださいっ!」
「そいつ大分頑固だぞ。そんで変人。一時間や二時間の演説で考えがひっくり返る訳ねぇ~だろ。そのぐらい、一緒に働いてたんなら知ってんじゃねぇか?」
セレンの抗議は無視し、ニコチンはタバコの火を携帯灰皿に押し付けて消す。
「確かに、モーズ先生は頑固な所がありますね」
「事実だが、面と向かって言われると何となく心が痛むな……」
「しかし決して無理強いはしたくないのです。その為には時間をかけて話し合わなければ」
「ハハッ! 気狂いが善人ぶるとか、とんだお笑い草だ」
何がおかしいのか、ニコチンはルチルの言葉を盛大に笑い飛ばすと窓から降り、拳銃を構える男の一人の前に立つ。
「撃ちたきゃ撃ちゃいいだろが。それで話が終わるんならこっちも願ったり叶ったりだ」
そして彼は自身のこめかみをトントンと指先で叩いた。
「よぉく狙え。ここだ、ここ」
「私を教団にスカウトしたい理由は何だ?」
「貴方の思想と堅実さ優秀さと、色々と総合してです」
曖昧な答えだ。とても納得できるものではない。
「ルチル医師。私はペガサス教団の思想を否定はしない。何を信じ何を信じないかは個人の自由だ。教団の思想があるからこそ生きる気力が湧き、下手に入院生活を送るよりも、無理矢理集中治療室に拘束するよりも命を延ばせる者さえいるだろう」
信仰は時にどんな治療よりも効果を表す。精神状態が身体に強い作用をもたらす事は、モーズも理解しているつもりだ。
「しかし、残念だが私は医者だ。病を根絶する手段を追い求める探究者だ。致死率を一厘でも減らす事が出来るのならば、患者の尊厳を無視してでも治療をする無神経な男だ」
モーズは本来、患者が望まなくとも治療を施そうとする強引なタイプである。コールドスリープや薬剤投与や治療を避けたい者の拠り所たるペガサス教団とは相入れない思想だ。
「そして私が追い求めている、珊瑚症根絶に最も近い所にあるのがオフィウクス・ラボだと考えている。だから貴方の手は取れない」
モーズの理路整然とした返答に、ルチルは片眉をひそめゆっくり差し出していた右手を下げる。
「勘違いしているようですが、教団でも『珊瑚』の研究は出来ます。サンプル、と言うと言葉が悪いですが、教団の性質上珊瑚症の信者が数多くいる。貴方の研究テーマである『重症患者の意識レベル』が幾らでも出来る。決して悪い話ではないでしょう?」
「確かにそれは魅力的だな。しかし治療を放棄している信者を前に、平静で居られる気がしない」
「その点も、実は抜道がありまして。ほら、現に私も教団に在籍していながら、感染病棟で外科医として活動しているでしょう?」
それは確かに気になっていた点だ。ペガサス教団の者ならば医者になるのは忌避するのではないか、とモーズも考えていた。だから感染病棟に潜んでいる信者は清掃員や食堂の料理人など、医療従事者以外ではないかと予想していた。実際は違っていたが。
「ペガサス教団はあくまで『珊瑚』を信仰している組織。他の病に対する治療やワクチンに偏見はありません。ですので珊瑚症の治療ではないと患者に吹き込んだうえでケアをすればいい」
「それは、教団の方針的にいいのか?」
「騙すのは心苦しいですが、やはり『珊瑚』を深く知るのには実際に見て触れて調べるのが一番ですから。患者が集う場所なら勧誘もしやすいですし。これもまた信仰です」
「う、うーん。探究と信仰を並行するとなるとそうなる、か?」
信仰対象の理解を深めようと研究をするのは歴史上でもよくあること。その過程で教典に記された記述とは異なる事実が発覚する事もままあるが。
「それにラボにいればきっと、貴方は遠からず命を落としてしまう」
ピクリと、ルチルの言葉にモーズの指先が強張る。
「その心配もあってワタクシは早急に話に来たのです。教団に居た方が安全ですよ、モーズ先生。彼処は貴方を決して傷付けはしない」
「ラボはバイオテロ組織と違って物騒じゃないですよ!? いい加減な事を言わないでください!」
「いや。あながち間違いではないんだ、セレン。丁度いい、今話してしまおう」
モーズは声を荒げるセレンをなだめると、おもむろに後頭部に手を伸ばしフェイスマスクの金具を外した。
「私は六年前から患っている。――現在、ステージ3だ」
そうして顕になった素顔、掘りが深く目力の強い凜とした印象を抱く素顔、その顔の右頬は薄っすらと赤みがかかった上で、皮膚が硬化していた。
右目に至っては眼球そのものが変質し、真っ赤な鉱石が嵌め込まれたような状態になっている。本来は左目と同じく、鮮やかな緑色をしていただろうに。
無論、その右目は見えていない。
「え。モーズお前、それ、珊瑚症の中等症症状じゃないか」
「その通りだ、フリーデン」
「話していなかったのですか」
「タイミングを逃していてね。遅くなってしまい、すまない」
謝罪しつつモーズはフェイスマスクを付け直す。
今まで頑なに人前でマスクを外さなかった理由はこれだ。予防の為というよりも、移さない為に付けていた。食事を空き部屋に籠って一人で摂っていたのも、その一環だ。
「進行の速さによっては即刻【処分】されてしまいます。ウミヘビに囲まれることになるのですから。優秀な貴方を失うのはとても心苦しい」
「だがもう決めた事だ。それに医者である私が、他人を感染させる前に対処してくれるのは寧ろ有難い。心配してくれるのは嬉しいがね」
しん。二人の間に暫しの沈黙が訪れる。
束の間の静寂の後、ルチルは顎に手を当て思案する素振りを見せると、また口を開いた。
「意思は固い、と。ワタクシも突発的に来たものですから、提示できるプレゼン材料が今は少ないですねぇ。いえ、あるにはあるのですが、ラボの人間の前で話すのは憚れる」
そして彼は指先でハンドサインを作り、拳銃を構えていた黒服三人組に安全装置を外すように命じた。
カチリと、無機質な金属音が部屋に響く。
「先に眠って頂きましょうか」
「ふぁ~あ」
そんな張り詰めた空気の中、緊張感のない声がニコチンから発せられた。
「長ぇな。話終わったか? 演説なんざ金貰ってでも聞く気ねぇぞ、俺は」
銃口を向けられているというのに、ニコチンは欠伸をして心底どうでも良さそうに振る舞う。
「随分と余裕ですね。こちらは人権のない貴方方をいつでも壊せるのですよ? 毒物を民間施設で見付けたから処理をした、など正当性も幾らでも主張できる」
「肉眼じゃ見えない寄生菌を神格化しといて、人の形をしたウミヘビは平然と攻撃できるお前ぇらの神経はよくわからんが、モーズを拉致する気がねぇならさっさと帰れ。時間の無駄だ」
「先輩!? 物騒なこと言わないでくださいっ!」
「そいつ大分頑固だぞ。そんで変人。一時間や二時間の演説で考えがひっくり返る訳ねぇ~だろ。そのぐらい、一緒に働いてたんなら知ってんじゃねぇか?」
セレンの抗議は無視し、ニコチンはタバコの火を携帯灰皿に押し付けて消す。
「確かに、モーズ先生は頑固な所がありますね」
「事実だが、面と向かって言われると何となく心が痛むな……」
「しかし決して無理強いはしたくないのです。その為には時間をかけて話し合わなければ」
「ハハッ! 気狂いが善人ぶるとか、とんだお笑い草だ」
何がおかしいのか、ニコチンはルチルの言葉を盛大に笑い飛ばすと窓から降り、拳銃を構える男の一人の前に立つ。
「撃ちたきゃ撃ちゃいいだろが。それで話が終わるんならこっちも願ったり叶ったりだ」
そして彼は自身のこめかみをトントンと指先で叩いた。
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