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第一章 入所編

第1話 西暦2320年、世界は『珊瑚症』に蝕まれていた。

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「先生、モーズ先生! 息子は、息子は助かりますか!?」

 ヨーロッパのとある小国。
 そこに建てられた感染病棟の廊下で、患者の母親が担当医である男性医師『モーズ』にすがり付く。

「残念ながら……」

 しかしモーズは今にも泣きそうな母親に対して、首を横に振って現実を突き付ける。

「ステージ4。ここからの回復は現状、前例がありません」

 モーズの背後、隔離病室の窓からは、ステージ4の状態である青年の姿が見えた。
 胸元から指先から右目から10センチほど、表面がつるりとした光沢をした、枯れた枝木のようにあらゆる方向に伸びる、真っ赤な突起を生やした姿が。

 西暦2320年、世界は『珊瑚症』に蝕まれていた。

 『珊瑚症』は寄生菌『珊瑚』の感染によって罹患する、不治の病である。イモムシに寄生して生えるキノコ――冬虫夏草の一種とされる『珊瑚』だが、特徴的なのは重症化した際の症状。寄生した真菌によって細胞が変質し、身体のあちらこちらから枯れた枝木に似た硬質な突起――菌糸を生やすのだ。外皮から不規則に伸びる赤い硬質な菌糸は海中を彩る珊瑚に見え、そこから病名が付けられた。
 そして質が悪いことに、菌糸が生えるほど症状が進んでいる場合、身体の主導権は宿主ではなく、寄生菌『珊瑚』になる。

「そんなっ! それでは息子は、トーマスは……っ!」
「これからの対応ですが、選択肢は二つ」

 動揺する母親をなだめながら、モーズは右手の指を二本立てる。

「一つは、『安楽死』」

 重症化し自我が『珊瑚』に奪われてしまった感染者は、更なる増殖の為に他人を襲う。
 故に行政から速やかな処分が求められるのだ。新たな犠牲者を出さない為に。

「もう一つは、治療法が見付かるまで『コールドスリープ』にすることです」

 しかし処分を回避できる方法が一つだけある。
 それが国際連盟が管理する珊瑚症研究に特化した施設、《オフィウクス・ラボ》でコールドスリープにすることだ。治療方法が見付かるその日まで、仮死状態にする。それによって症状の進行を抑えることもできる。
 ……体力がもたず亡くなる者も、どうしても出てしまうが。

「私としてはコールドスリープをお勧めします。と言うか、トーマスさんを生かすにはこれしかない」
「しかし、しかし先生! どちらにせよ息子はラボに連れて行かれるのでしょう!? 面接も叶わない! それでは亡くなっているのと変わらないじゃないですか!」
「夫人。今はいつか再会できると、願うしかありません。でなければ息子さんを安楽死させなくてはいけません。珊瑚症に蝕まれた人間の凶暴性は、貴女もよくご存知の筈だ」

 何故ならば度々、ニュースになっているのだから。
 世界で初めて『珊瑚症』の感染が確認されてから早20年。ワクチンの研究が進み症状抑制の薬も開発された。それでも未だ完治はできず、隔離入院を拒んだ患者などが街中で重症化し被害が出ている。
 菌糸を人に突き刺し直接胞子を植え付け感染させたり、血液を養分として吸い取ったり。しかも菌糸はコンクリートを壊す硬さを持つ、凶器。
 ステージ5の感染者が世に現れた時、そこは生物災害バイオハザード現場となる。
 その恐ろしさを知らしめる為に、政府は珊瑚症に関する教育を徹底すると共に、各国で起きた災害報道を様々なメディアで発信している。

「うぅ、トーマス……! トーマス……!」
「夫人、当院が待てる期限は明日です。それまでにご決断を」

 モーズは母親の肩を優しく叩き、ちらりと、鎮静剤で眠らされている患者トーマスを窓越しに一瞥すると、その場を離れた。

(まずは《オフィウクス・ラボ》への連絡。夫人の意思を確認後、同意書を用意しサインを、それから病室の消毒……)

 今後の手順を頭の中で整理しながら歩くモーズは、不意に足を止めた。後ろから泣き叫ぶ母親の声が聞こえたからだ。
 患者の身内が悲しみにくれるのは、『珊瑚症』を専門とするこの感染病棟ではよくあることだ。モーズは病棟に勤務してからもうじき一年になるが、その一年の間でも沢山の末期患者とその家族を見てきた。

(……悔しいな、とても)

 それでも慣れることはなく。
 モーズは爪が食い込む程に力強く、拳を握り締めたのだった。

 ◇

 カタカタカタ。
 事務室にて。モーズは自身のデスクでノートパソコンのキーボードを無心で打ち込んでいた。書いているのは学会に提出する予定の論文である。専門として研究しているのは『珊瑚症』。その根絶を目標に、勤務の間を縫って研究している。
 しかし今回のテーマは、

「『珊瑚症患者の意識レベルについて』ですか、モーズ先生」
「うわっ!」

 背後から唐突に声をかけられ、モーズが叫ぶ。

「君は、『セレン』か。研修医はもう帰宅する時間では?」

 声をかけてきたのは灰色の髪をポニーテールでまとめた若い青年、『セレン』。
 一週間前に感染病棟にやってきた研修医なのだが、暇があれば何故か直属の医師ではなくモーズについて回る、謎の多い青年である。

「モーズ先生こそ、こんな遅い時間までいていいんですか? 夜勤という訳じゃないでしょう?」
「私はいいんだ。切りがいい所まで書けたら帰宅する」
「本当ですかぁ?」

 セレンが黒目がちの目でじとりと見下ろしてきて、モーズは思わず顔をそらす。否定しきれない、というのもあるのだが、セレンの顔立ちが美しい所為もあった。彼は初見では男か女か判別しにくい中性的な顔立ちで、人形めいた美貌を持つ。
 そんな美人に凄まれると、迫力があるのだ。ちょっと怖いぐらいに。

「そんなことよりっ! ここは病院、それも感染病棟なんだからマスクぐらいしたらどうだ。私は君がマスクをしている姿を一度も見たことがないぞ」
「あぁ、私は大丈夫ですよ。生まれてから今まで一度も病にかかったことはありませんし、これからかかる予定もありません」
「君は本当に研修医か?」

 セレンの返答にモーズは呆れ返る。

「マスクとは自分の身を守る以上に、他者への感染を防ぐのが目的だ。症状が出ていなくとも人は様々な病原菌を保有している。それが免疫の弱っている者に移ったら……わかるだろう?」

 感染予防の初歩の初歩。そんな常識的な指摘に、セレンは黒目がちの目を丸くして暫し呆けたような顔をした後、

「はい、わかります先生。今後は気を付けます」

 にっこりと微笑んだ。
 美人の笑顔は眩しい。モーズはまた反射的に顔を背ける。

「しかし先生。感染予防に注力する姿勢は素晴らしいですけど、そのフェイスマスクはどうかと思いますよ?」
「えっ」

 そして逆にセレンに指摘されたことに、モーズは戸惑いながら自身の頬に……仮面状のフェイスマスクに手を添える。

「な、何故だ。威圧感のないよう平面的なデザインのマスクを選んだのだが?」
「確かにレトロデザインのデコボコしたマスクよりかはマシですけど、ゴーグル部分が暗くて目元見えませんし、白くてのっぺりとしたデザインのマスクじゃ患者さん怖がりますって」
「そ、そうなのか……!?」

 凹凸が多く嵩張る旧デザインの呼吸器用保護具ガスマスクと違い、現代には仮面と変わりのない見た目のマスクが流通している。寄生菌『珊瑚』は胞子が目鼻口、つまり粘膜に触れる事で感染するので、その対策として発展した結果だ。不織布マスクと同じくらい手軽に身近に装着できるように、と。
 尤も、生物災害バイオハザードの発令が出てもいないのに付けている者は流石に少ないが。

「表情が伝わらないからと、目口のデザインは《笑み》にしたのだが……」
「寧ろ不気味ですよ。デスゲームの主催者みたいで私は好きですけど」
「ですげーむ? 何だそれは」
「サブカルチャーの話です。目の前のパソコンで検索するとわかりますよ」
「むぅ」

 モーズは真面目にパソコンで《ですげーむ》を検索し、サブカルチャーのテンプレートを学び始めようとして、ふとパソコンの向こう側、窓の外で赤い点が揺らめいていることに気付いた。汚れではない。赤い光が映り込んでいるのだ。
 あれは、火だ。タバコの火。
 モーズは直ぐにパソコンを閉じてスリープ状態にすると、席を立った。

「モーズ先生?」
「外で喫煙をしている者がいるようだ。感染病棟は敷地全てが禁煙。しかも紙タバコ。誰だか知らないが注意をしてくる」

 そして足早に事務室を出るモーズ。
 残されたセレンは小首を傾げ、両耳にぶら下げている赤い三日月状のピアスを揺らし「う~ん」と悩ましい声をあげた。

「ちょっと覗くぐらいなら、許されますかね?」

 そしてモーズのパソコンを開くとキーボードを適当にクリックし、スリープ状態を解除する。画面を閉じてから再起動までの間が短かったのでパスワードを入れる必要もなく、セレンは勝手にパソコンを操作できた。
 彼の目当ては、モーズの書きかけの論文だ。

「《現在、『珊瑚症』の進行度は5段階に分けられている。ステージ4に到達したら寄生菌『珊瑚』に身体の主導権を奪われ、宿主の意識は残っていないあるいは眠っているとされてきた。しかし呼びかけや触覚検査を施してみたところ、鎮静剤を投与している中でも患者の反応が……》」

 論文の内容は、主流となっている学説の反駁はんばく
 『珊瑚症』に蝕まれた患者でも生きているのだと、人間としての意識があるのだと主張する、願いや祈りにも似た論文。

「脳死と判断して処理した方が先生も楽でしょうに、患者の意識レベルを調査し続けていたなんて、本当に先生は真面目ですねぇ。そういうところ、好きですよ」

 期待以上のものが読めたことに満足し、セレンはパソコンを閉じる。
 そしてなかなか事務室に戻って来ないモーズにやきもきする。

「そもそも電子タバコが主流な中、こんな時間にこんな場所で紙タバコを吸う非常識な人なんて、いるんですかねぇ。先生の見間違いだったのでは? 一応、一人だけ心当たりありますが、彼は……あっ」

 そこで何か思い当たったセレンは、慌てて事務室を出てモーズの姿を探す。

「先生っ! タバコの方は多分、私の知り合いですっ! 先生~っ!」

 ◇

「トーマス、トーマス……」

 隔離個室の窓ガラスに縋り付き、廊下でしくしくと涙を流すトーマスの母親。
 点滴で投与されている鎮静剤で眠る息子は規則正しい呼吸をしていて、身体から生える赤い珊瑚状の菌糸を除けば健全に見える。切除さえしてしまえば、また元の元気な姿に戻ってくれるのではないかと思ってしまう程に。

「夫人、心中お察しします」

 そんな悲しみに暮れる母親の前に、一人の人影が忍び寄る。

「よろしければもう一度だけ、息子さんと話したくはありませんか?」

 その者は関係者しか所持できない隔離病室のカードキーを、彼女の前に差し出した。

「貴女が望むのならば、特別にこれを貸しましょう。……ただし、条件があります」

 その人影が告げた条件に、母親は動揺する。その条件は病棟の規律に反するどころか、明らかに犯罪だ。子供でも駄目だとわかる。実行すれば極刑か、二度と監獄から出られないレベルの、悪条件。
 しかしこの機会を逃せば、二度と息子と話すことはできないだろう。母親思いな彼の優しい声を聴くことも、穏やかな笑みを見ることも、叶わない。
 指先が冷えていく感覚がする。暑くないのに背中に汗が滲んでいく。思考がまとまらず忙しなく目が泳ぐ。
 人影の囁きに応えればもう、後戻りはできない。

 それでも彼女はその条件を、飲んだ。
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