世界を支配する悪い魔女は こっそり気紛れの人生を過ごすことにした ~可愛い勇者に倒して貰うまで~

白山 いづみ

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命の雨音

王座の間

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 アキディスの足元を、冷たい風がながれていく。
 
 命の無い王妃と一緒にいるからだろうか?
 いや、雨だ。
 開け放たれた大扉のむこうで、晴れた空に小雨が降っている。
 ―――本性が翼龍である王族が為せる奇跡。
 天候を司る国王を、ここで殺害した。
 なのに、どうして今、雨が降ってくるのだろうか。

 それにしても、聖者が聖使に殺されたという報告のあと、誰も次の報せを持って来ない。
 


 駆けてくる足音に扉をみると、息を切らせて駆け込んできたのは、オリティアだった。
 
「―――行政区階に、王女が出たわ!」
 やっと得た新しい情報が、これだ。

「王様っていうのは、必要な情報を得るのすら、大変な職業だな」
 ただ待っていても、情報を持ってくる者がいなければ、足元のことすらわからない。
 小さく自嘲すると、ドンと王座に腰を下ろした。

 昨夜ここで起きた惨劇の跡は、きれいに片づけてある。
 隣で椅子にもたれて眠り続ける王妃を、眺める。

 ―――俺は、王女も殺すのか。
 王妃は魔女とやりあって勝手に死んだし、聖者ロアも配下に殺されたのなら、手を下さずとも、次々に王族が消えていった事になる。
 けれど、まだ王女が残っている。
 王女が城内で衛士や官人を味方につけて来るようであれば、これは直接手をくだす必要がある。



「失礼します」
 カツ、と衛士が入口で敬礼した。
 よく見れば、城門の一報を持ってきた衛士だ。
「王女が寡兵を纏めて、迫っております。如何致しますか?」

 この状況で、よく自分に従うなと呆れながら、彼にはさっき自分の命令に従うよう、暗示のような魔法をかけたことを思い出した。
「他の衛士はどうした」
「不明です。恐らく、王女側の者に捕まったかと」
 つまり手駒は、この衛士ひとりということになる。
 しかも、悩んでいる時間はない。

「姉さん」
 不安な顔で佇んでいたオリティアに、やわらかい声をかける。
「灌漑の事業は、うまく軌道に乗りそう?」
「え、まあ・・・。ちゃんと皆が続きをやればだけど。骨子は共有してあるから、よほど下手な事をしない限り大丈夫。・・・って、そんな場合じゃないでしょう。どうするの?」
「迎え討つだけさ。姉さんは危ないから奥室にいて。万が一の時は脱出口で逃げて」

 王座のうしろに、歴代の国王の画が掛けられている部屋があって、脱出口がついているのを見つけてある。
 どこへ出るのかは試していないが、王族用のものだ。
 危険な場所には出ないだろう。

 ゼロファの戦闘能力や魔法の力を使えるのは、アキディスだけだ。
 オリティアは、弟のハーディスのように、何か特別な力を貰ったわけでもない。
 ここに残っても出来る事はない。

「・・・アキディス。どうして貴方が、ゼロファの力を貰ったのよ。私が貰っていれば、貴方の手を汚す事もなかったのに・・・」
 頭の良い姉だ。頷いてくれると思っていたのに、そんなことを言い出した。

「姉さんには姉さんのやるべきことがある。実際、灌漑事業を動かしていくのは、姉さんが文官を直接動かす必要があった。それは弑逆者としての振る舞いと、同時にできることじゃない」

「それはわかってる、だからあなたに助けて貰おうと思ってたの。なのにどうして、こんな・・・」
 オリティアは羽織った文官の外套の裾をぐっと握って、俯く。
「―――ごめん。こんな事を言い合ってる場合じゃないわね。王女が精鋭を連れてくる。絶対に、こんなところで、倒れちゃ駄目よ」

 オリティアは俯いたまま、奥の部屋へ入っていった。
 ・・・これで心置きなく、振る舞える。




 命令を待つ衛士の装備を一瞥して、衛士としては珍しく双剣を持っているのに気付いた。

「わざわざ規則外の双剣を持っているという事は、相当腕に自信があるんだろうな」
 あっさり頷いた衛士の目が、つよく光る。
「この双剣で斬った魔物は、多い。ご命令あらば、人を斬るのは草を刈るより簡単なことです」
 そういって笑みさえ浮かべたのをみて、ぞくりとする。
 一人を殺した自分より、実はこの衛士の方が危険なのではないだろうか。

 頭の奥から、ゼロファの笑い声が聴こえてくるような気がした。
 何が、おかしいのだろうか。

「なら、王女を殺せとは言わない。周囲の人間を潰せ」

 彼は素早く敬礼すると、入り口の近くに潜んだ。
 それからすぐに、大勢が階段を駆け上がってくる気配が近付いてくる。

 もう一度、隣の王妃に目をやる。
 偽装魔法は完璧だ。
 それにしても今まで気付かなかったが、上品な美貌に、ため息をついた。

「・・・お嬢様が帰ってきましたよ。すぐに、貴女の元へお届けしましょう」






 行政区階よりかなりの階層を登って、ようやく王座の間がある階へ辿り着いた。

 レザード少尉をはじめ、まわりを固める衛士達は息ひとつ上がらないのをみて、流石だと溜息が出る。
 リーアだけ、羽根でもあるかのような軽やかさで駆け登り、少尉達を慌てさせていた。

「・・・静かだな」
 王座の間。その重要な扉の前だというのに、誰もいない。
 上層へ登るほど衛士の姿は少なくなってきてはいたが、こうも人気が無いと、気味が悪い。




「―――どうした。遠慮せずに、入れよ」
 若い男の声が反響した。
 人気のない空間は、王座の声がよく通る。

 きり、と衛士達が殺気立つ。
 レザード少尉の指示で、どっと数人の弓兵が先行して矢をつがえ、その後すぐに少尉率いる剣士が左右に展開してなだれ込んだ。

 すぐに弓兵が矢を射なかったのは、王座のすぐ隣に王妃の姿をみたからだ。
 下手に撃って、当たらないとも限らない。


「なんだ、王女は一緒じゃなかったのか?」

 ゆっくり笑んだ声に、胸がざわついた。
 待機しているようにと少尉に言われていたのを無視して、急いで彼の隣に駆け寄り、王座を見上げる。

 壮麗な王座の間だ。
 おそらく、正式に訪れていれば、もっと美しくみえたに違いない。

 だがその正面には、金色の女性がぐったりと眠り、漆黒の衣装に身を包んだ、見覚えのある青年が、座っていた。


 少尉の苦い顔を片目でみた次の瞬間、ふ、と王座の間が真っ暗になった。
 背中にドンと衝撃を受け、床に倒される。
 周囲からも衛士達の小さな呻きがあがる。

 ―――闇の魔法。そして、背後からの奇襲だ。



 ごう、と頭上を赤金色の焔が走って、周囲を照らしだす。


「やめて、もう殺さないで!!」
 リーアが、たまらず駆け込んできた。

 赤金色の輝きで闇魔法が払われてみると、衛士全員が、床に倒れている状況になっていた。
 リッドも倒されたが、背中を押されただけで、衛士たちのように呻くような負傷はない。

 あわててリーアについてきたセキが、目をひらいた。
 その視線の先に、リッドも、一瞬、硬直する。

「まさか。何故ここにおられる。クレイ殿・・・!!」



 二振りの剣をくるりと回して、偽王との間にスラリと立った上層衛士は、薄く笑みをのせたまま、キリ、と双剣を構えた。
 見慣れた旅装ではなく、少尉と同じような衛士の制服に身を固めていられると、一瞬誰だかわからなかった。
 だが間違いなく、対峙したその男は、一緒に王都へ帰ってきたクレイ=ファーガスだ。


 そしてその奥の王座にいるのは、見知った青年にしか、見えない。


「リッド、大丈夫?!」
 シヅキがぱっと駆け寄った瞬間、上層衛士姿のクレイが即応する。
「あぶない―――!」
 おもわず叫ぶ。
 クレイの腕がいいのは分かっている。
 それはシヅキが衛士より強くても、敵わない速さだ。


「止めろ!」

 王座からの声に、クレイの双剣が、シヅキの後頭部で静止する。
 ぱっと飛び退り、キンと剣を納めた。


 偽王の目が、リッドに向けられていた。
 視線が、ぶつかる。
 その瞳に、驚きがうかんでいる。
 



「―――はじめまして、リーア=フローレンス=シェリースです。あなたのお名前を聞かせて貰える?」
 さっと正面に立ちはだかったリーアに、彼の視線が移る。
 表情が消えて冷眼が金色の少女に向けられた。

「はじめまして。王女様。どうやらこの衛士は貴女達の知り合いだったようですね。しかし俺にはもう一人、貴女達の仲間に友人がいる。よく、王女殿下と一緒に来てくれたね。リッド。・・・俺の名前は、リッドが知っている。ね、そうだろ?」


 こちらをみて笑んだ偽王に、しまったと息を呑んだ。
 クレイと俺。
 ここまで一緒に来た仲間が偽王に関わっているとなると、他の仲間の信頼も揺らぎかねない。

 不審の視線が、全身を貫く。



「―――アキディス=タイド。俺は、君の味方になった覚えは無い。どうしてそこにいるんだ。クレイさんを、どうやって操った!」

 シヅキの手を借りて、立つ。
 周りの衛士達は呻きながら転がっているが、なぜか自分だけは転んだだけだった。
 クレイの無意識が働いたのか、服に染みた血だらけの見た目のせいで、手負いに見えたのだろうか。

「クレイさんとやらは、王様の命令に従ってるだけさ。王女殿下がここに座れば、従うんじゃないか。試しにどうぞ。リーア=フローレンス王女殿下。お母様も、こちらだ」


 ゆら、とリーアの姿勢が揺れる。
 踏み出しそうになった小さな身体を、セキの両手が捕まえた。
「セキ、でも、お母様を・・・」
「罠にきまっております。あやつは、国王陛下を手にかけたのですよ」

「なんだ。お堅いお目付け役だな。じゃあそこの学生。君がこっちに来たら?」
 くだけた態度に、セキの身体がこわばった。
「・・・王座を、そのようなことで軽んじるかっ・・・!」



「アキディス! 悪い冗談は止めろ! こんな形で君と争うなんて・・・。ハーディスは街の人達を助けてくれたのに。どうして、こんなことになってるんだよ!」

 それに、アキディスは答えない。
 ふと目を細めて、ストンと王座に腰を下ろした。



「―――俺は大真面目だ。国王は俺達の村を、魔女に売った。家も、畑も、職も失った村人は、どうすればいい? 他所様の村もこの旱で移民を受け入れる余裕はない。開墾地を拓いて住めるようになるまでには飢え死にする。こんな事になった原因は何だ? 国王ひとりに、水資源を任せておくから、魔女にも付け入られたんだろうが。・・・故郷を逐われた人間の気持ちが、わかるか。王ひとりの心配性のために全てを失った人々が、それでも王をありがたく敬い奉る事が出来るか。王城の人間のように、忠義を誓ってる訳じゃないんだ。生きる為に盗賊にもなるだろう。他国に流れる者もいるだろう。皆、国を恨みながら」


 強い言葉が、ざらりと胸を撫でる。

 ―――普通だ。
 普通に暮らす平民の、これが、自然の叫びだ。


 為政者からみた途中経過や細かい事情は、施政を受ける国民一人一人にとって、知ったことではない。
 彼らにとって重要なのは、生活を成り立たせるための、結果だ。

「俺も姉さんも、この国が好きだ。恨み言を言うぐらいなら、自分で変えようと思ってしている事だ。別に、血迷って国王を殺した訳じゃない。・・・一緒に、やらないか? リッド。君が生きていてくれて嬉しかったよ。その幸運を、俺にも分けて欲しい」

 ざわ、と背筋が凍り付く。
 心がぐらついた訳じゃない。
 セキや衛士達の不審の視線が、痛い。

 それにしても本当に、これがあの温厚なアキディスなのか。


 冷や汗を感じながら、言葉をのみこむ。
 オリティアには、これほどまでに変わった様子は無かった。
 さっさと姿を眩ませたところをみると、何か特殊な力を貰った訳ではないのだろう。
 だが今、王座にあるその弟は?
 ハーディスもいきなり五年分は成長して、魔物を撲滅できるまでになった。
 ―――ゼロファによって。


「ゼロファ=アーカイル・・・」
 小さくその名を溢す。立ちはだかったクレイがぴくりと反応した。


 額が、熱い。

 王座にいるはずのアキディスが目の前にいるかのような感覚にとらわれる。
 そしてその後ろに、ゼロファの白い長髪を、見たような気がした。


 偽魔女の呪詛を跳ね返した、この、額の、魔術師の魔除け。
 これはきっと、本質を見通す力。
 そして、嘘を、跳ね返す力。



「・・・アキディス。君の気持ちは、わかったよ」
 ゆっくり言う。
 頭が良ければ、もっと上手い言葉が出るだろう。
 たとえば祖国に残してきたユリウスなら。
 彼がここに一緒にいてくれれば、心強かったのに。


 ポンとシヅキの肩を叩いて前に出る。
 クレイの間合いに入ると、さっと双剣を首筋にあてがわれたのに、流石にひやりとした。
 だけど、殺気はない。
 ちら、とクレイの顔をみると、黒色の瞳が小さく笑んでいた。

 あと少し、近づけないか。
 両手を挙げて戦う意思の無い事をみせ、努めてやわらかい態度で王座に近い所まで歩み寄る。
 ピタリと刃を添わせたままのクレイを、引き連れる格好になった。

 裏切るつもりか、と衛士に怒鳴られるのを黙殺する。
 アキディスに少しでも近づく為に、そう見えるのは仕方ない。


「それで、国王に水資源を任せられないっていうなら、王族全てを消し去るつもりか?」
「―――そのつもりだったけど。でも、折角ここまで守ってきた王女殿下だ。俺達の邪魔をせずに大人しく暮らして頂けるなら、手は出さないよ。君の顔に免じて」
「持ち上げ過ぎだ。俺は、この国の人間じゃない。・・・でも、君には借りがあった」

 少し高い位置にある王座に続く、数段の階段の手前で停まる。
 あらためてじっとアキディスを見上げて、深く、息を吸った。



『《アキディス=タイド》から離れろ。《ゼロファ=アーカイル》!』



 見えない熱気が、烈しく真っ直ぐに、貫く。

 目をひらいたアキディスの後ろから白髪の青年が剥がれたように見えた―――
 次の瞬間、クレイの双剣がそれに躍りかかっていく。

 ダッと続いてアキディスを押さえようと駆け上がったが、クレイほど速いわけじゃない。
 さっと王妃の後ろに身をかわしたアキディスの動きにつられて、王妃に突っ込みそうになり、その直前の魔力の壁にぶつかった。

「逃げろ!!」
 何故か背後に叫んだアキディスの両手が、魔力の壁を破る。
 中にいた女性の金の髪が突風に揺れる。王妃をあらためて人質に取る気か。

 王妃へ伸ばされたアキディスの手を、必死に捕まえた。
 そのまま後ろ手にねじり捕らえようとするが、どっちも必死だ。
 横にもつれて、肩をかませたままドッと床に転がる。


「っ・・・これが、服の借りの、お返しか」

 アキディスが苦い呻きを溢した。
 学舎で基本的な戦闘訓練をうけたリッドにとって、流石に普通の平民に負けるということはない。

「いや、アキディス。君を保護する。このままだと、ここで誅される」
 身をよじって逃れようとする力が弛む。
「・・・どうやって・・・」
 


 静かな制圧の瞬間は、リーアの声にかき消された。

「クレイ、それ、魔女の仲間よ!」
 振り返ってみれば、ゼロファがクレイの高速の攻撃を軽々と避け続けていた。
 よくこの二人の速さで、ゼロファの顔に気付いたな。

「―――わかってるっ!!」

 突然片剣を投げて繰り出した足技で僅かにゼロファが体勢を崩した一瞬、ピタリと動きを停める。
 つられて一瞬静止したゼロファの背を、重力に従った片剣がザッと掠めて、外套を縫い止めた。
 次の反応をゆるさず、素早く体勢を立て直したクレイの剣がピタリと彼の喉元に添う。


「・・・また強くなりましたね。背中、死ぬほど痛いんですが」
 ゼロファは動揺を見せず、やわらかな微笑をクレイにむけた。

「降伏しろ。あっちの偽王も捕まえた。それともこのまま死にたいか」
「いやいや、びっくりしました。まさか引き剥がされるなんて。リッドの良い目を取り除いておかなかった、僕の負けです」

 あっさり敗北を認めた声を聞いてから、クレイは不意に、胸騒ぎに襲われた。
 何か、見落としていないだろうか。


 突然すみやかに事態が決着したのを呆然と眺めていたセキは、する、と背後から首元を何かが通り過ぎたのを感じて、あわてて首筋を押さえた。
 すぐ後ろで、赤い髪が流れる。

「あははは!! 貰ったよ!!」

 首が切れていないのにホッとしながら、何事かとその手元を見た。
 外の明るさをうけて、王証碑が白い光沢をきらめかせる。

「それは・・・返せ!!」
 いきなり現れた赤い魔女は、セキの伸ばした手をかわしてピタリとリーアにとりついた。

「貰うわよ。王様の『力』―――」
 言うなり、王証碑が白く輝く。
 即応してリーアの全身から赤金色の輝きが溢れ出す。

「やだ、やめっ・・・――――!!!」
 音と色とが、一瞬、消えた。


 ごう、と圧力に脚を取られて小さく吹き飛ばされ、慌てて顔を上げる。
 目の前にあったリーアの姿が大きく変容していくのが、みえた。

 巨大な赤金色の輝きの塊が、速やかに帰途で遭った翼龍と同じ容姿をとる。
 大きく広げた翼の風圧に飛ばされそうになって、必死に床にしがみついた。
 衛士達も負傷を忘れて、呆然とそれを見上げる。



 頭上から魔女の高笑いが降ってきた。
「いい子ね。王女様。これから私の命令を、ちゃんと聞くように」
 ふわりと背に乗った魔女の手の中で、王証碑がキンと輝く。



 ―――いけない。
 ようやく、セキはその石の重要さを思い出した。

 王証碑は、王族の力の―――手綱。

 その碑を持つ者が、本当の意味での王様なのだと、今日、本人の口から聞いたばかりじゃないか。
 それは本来、王妃様にお借りしたものだし、セキ自身がそんな立場でありえる訳がないと、リーアの言葉を頭のどこかで押しやってしまっていたのを、悔いる。

 よく考えていれば、そんな大切なものを、いつもの身分証と一緒に無防備に首にぶら下げていたりはしなかった。

「格好悪いわね。ゼロファ。助けて欲しい?」
 すい、と赤い魔女の興味が別のところへ移った。
 翼龍の首も、そちらに向く。

 セキは魔女の視界から外れて、やっと姿勢を立て直せた。
 さっと状況を見渡すと、今、動けるのは、自分とシヅキだけだ。

 リッドは偽王を捕らえているし、衛士達は少尉も含めて今すぐには動けそうにない。
 少し離れた所で同じように転んでいたシヅキも、セキと目が合うと、すっと驚愕の色を鎮めた。


 とにかく、王証碑を取り返さなくてはならない。
 そして翼龍を―――リーアを、取り戻す。


 ゴッと赤金の焔がクレイに向けて吐き出される。 
 炎が切れた次の瞬間には、クレイの高速の剣が赤い魔女に肉薄していた。

「邪魔すんな、偽物!」
「うるさい!」
 ザ、と龍の翼が彼の攻撃を振り払う。
 咄嗟に直撃をかわして床に転がり、そのまま突き立っていた片剣を回収したクレイは、あらためてその翼龍を見上げて、笑った。

「おいおい、今度は王女様が獣化か。魔女さんよ、それが欲しくて、攫っていったのか?」
 いきなり小馬鹿にした調子をみせたクレイは、くるりと双剣を握りなおした。

 ゼロファに構わず、クレイと赤い魔女の激戦が展開した。
 翼龍の動きを見切っているクレイは、攻撃を回避し続けて、魔女の苛立ちを助長させる。
「ああもう、しつこい!!」

 ざあ、と魔女の腕から赤い蛇が燃え上がるように現れる。
 クレイはその牙を片剣で受け止め、ぐるりと絡みつく胴から首まわりをもう片剣で守り固める。

 その双剣士を見下ろして、勝利の笑みを浮かべた魔女の背中に、ふと風がわいた。
「―――皆の、仇」

 リッドは、シヅキの跳躍に、風魔法をのせた。
 魔女がクレイに集中して派手な攻撃を繰り出している中での詠唱が気付かれる事はなく、無音で魔女の背後に辿り着いたシヅキの長剣が、赤い髪の間から覗いた背中に、まっすぐ振り下ろされる。

 ほんの、一瞬。
 振り向きかけた彼女の肩から、ざ、と刃が通り過ぎた。


 ドっと腕が龍の背中に落ちた瞬間、悲鳴をあげた魔女に蛇が素早く戻る。

 シヅキは離脱すると、クレイと肩を並べて悶絶する赤い魔女を見上げた。
「あと少しだったのに」
「わざとじゃないのか。お優しいな」
 軽口を叩けるほどに、今の魔女からは最初に遭った時のような脅威は感じない。
 
 やはり今まで存在感がなかったのは、弱っていたからだろうか。
 動揺したように動いた翼龍の背から、切り落とされた右腕が転がり落ちる。
 ぱっと蛇がそれを咥えた瞬間、キラリと光るものが宙に舞った。


 ―――王証碑
 急いで床を蹴ったセキが伸ばした手の先で、キン、と床に落ちる。
 そして、砕け散る。

 きらきらとした白い輝きの残滓が、セキの手に纏わりつくようにして、すう、と消えていく。


 息を呑む間もなく、翼龍が翼を広げた突風に吹き飛ばされそうになって、必死にかがんだ。
 転がり落ちた魔女をうけとめた蛇が、散るように消える。

 開かれたままの空中につづく大正門に、翼龍が突進していく。
 魔女が手にした王証碑で翼龍の姿になったリーアが、もとに戻る為には、たぶん、また王証碑の調整力が必要だった。
 それを失ったとなると。

「行かせては駄目です・・・! 止めてください!」
 少尉の切迫した声が苦しげにきこえた。
 だが、どうすればいいのだろうか。

 大きく翼を広げた翼龍は、あっというまに飛び立って行った。


 セキは、呆然と見ているしか、できなかった。
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