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いつかブン殴ってやる手帳

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 男女ともソロでは結果を残してきた日本のフィギュアスケート界だが、アイスダンスと共に鬼門と言われていたのがペア部門だ。そのペア部門で、待ち望まれた有望な若手選手が氷堂である。

 その実力もさることながら、女の子と見紛うほどのルックスと、王子様然とした優雅な所作で、ペアを組むたちばな華蓮かれん(彼女もまたアイドルばりのルックスだ。いや、正直どのアイドルよりも可愛いと思う。まぁ、個人的感想だが)と共に瞬く間に全国区の選手になった。ジュニア世界選手権優勝以来、その一挙手一投足は注目され、この春中学を卒業した後の進路にも少なからぬ注目が集まった。

 しかし、氷堂は大方の予想を裏切り、男子校である音弧野高へと進学した。

 そのことは世間の話題をさらった。というのもパートナーの橘選手と同じ私立の男女共学高校へ進むものと思われていたからだ。氷堂が音弧野高を選んだ理由としてはトレーニング施設の充実とスケートシーズンに合わせた柔軟なカリキュラムを選べることを挙げており、スケートの練習はこれまで通り地元のクラブで行うという。

 しかしながら、氷堂と橘華蓮はペアでのコンビネーションを高めるために同棲までしているという。その練習環境に当初は週刊誌的な注目を集めていたが、結果を残してからは掌を返したようにその事実も称賛の的となった。

 だからこそ、高校も当然同じところに行くものと思われていたのだ。それだけに今回の氷堂の進学は話題となった。

 そんな超有名人と流介が親しげに会話をしている。確か今までは接点がなかったと思うのだが。

 もちろん流介は有名でも何でもない。スポーツなんか興味すらない一般生徒でしかない。おまけにルックスは平々凡々もいいとこで、クラスでも存在感なんぞ無に等しい。声優部を作ることに現を抜かしていることを考えると下の下と言っても差し支えない。そんな天と地以上の格差のある二人がなぜあのように親しげに会話をしているのだろう。

 不思議に思いつつ、なんとなく声をかけられずに立ちすくんでいると、向こうで気付いて俺に手を振った。流介は「じゃあね」みたいなことを言って氷堂に暇を告げ、俺の方に駆け寄る。氷堂は教室の中へと消えていった。

「あぁ、お待たせー」

「お待たせー、って、そもそもお前が待ってなくちゃいけないんじゃないのかよ、トイレの前で」

「あぁ。待つの嫌いだからね」

「お前ぇ……」

 俺が詰め寄ると、流介は詰めた分だけ距離を空けつつ、

「それに、ちょっと用事思い出しちゃってね。太一が出てくるの、もうちょっとかかるかなー、と思ったら、予想より早く出てきちゃった、ってわけさ」

 と言った。

「俺が困ったちゃんみたいな言い方すんじゃねーよ」

「そんなことよりさ、」

「そんなこと、だあ?」

「早く行かないと、校長怒っちゃうよ」

「うううむむ……」

 流介には物申したいが、校長に怒られるのと秤にかけると、校長を取らざるを得ない。不本意極まりないが、穏やかな心を発揮して流介の後を追い、校長室へと急いだ。心の中にある「いつかブン殴ってやる手帳」に流介の名前が赤い文字で強く刻まれたことは言うまでもない。


   ◇   ◇   ◇


 金曜日になった。今週ももう終わりだ。明日からは大型連休となる。入学してひと月あまり。なんだか時間が経つのが早い。このまま、あっという間に高校時代が過ぎ去ってくれればいいと思う。

 校長室掃除の方はというと、校長にはまるで慣れないが、掃除自体にはもう慣れた。もはやプロと言っても過言ではない。いや、もうプロだ。給料が欲しいくらいだ。多分、物の配置とか、校長よりも俺たちの方が詳しいかもしれない。

「しかし、スポーツとは考えたかもしれねーな」

 俺はちょっと休憩がてら、窓を拭く雑巾の手を止め、流介に声をかけた。ガラス越しの日差しがやけにまぶしくなってきた。

「えー、何が?」

 流介は箒の手を止めずに答えた。意外と真面目である。

「音弧野高のスポーツ重視の戦略がさ」

「バカだからなんじゃないのぉ?」

「世の全てをお前と一緒にするな」

「ひどいな」

「これだけスターがたくさんいる高校も珍しいだろ」

「まぁねぇ」

 音弧野高は異常とも思えるくらいスポーツ(というより男気)を重視している。スポーツ的に有望な人材がいれば、競技にとらわれずスカウトし、学費免除、果ては「授業免除」(もはや高校ではない)などの好待遇な条件で積極的に入学させてきた。

 そうやって獲得した才能のある選手は順当に実績を残し、様々な競技で音弧野高からスターが育っていった。

「そうすっと、自分もスターになれるかもしれない、と思う奴や、あるいはそういうスター目当てに入ってくる奴もいるだろう」

「あぁー……。まぁ」

 流介は棚の下の箒で掃きだすが、毎日掃除をしているので、さして埃は出てこない。

「そうやって志願者は無駄に増える。学費も儲かる。潤った金でトレーニング施設を充実させる。その施設目当てでまた志願者が増える、というスパイラルだ」

「なあるほどねぇ……。でも、それはスポーツやりたい奴に限ってだろ?」

「まぁ……、そうなるな」

「俺たちには関係ないじゃん」

「うん……、関係、ないな」

「そういえばさ、太一は何で音弧野高に来たの?」

「え?」

「だって、太一は別にスポーツ興味ないだろ?」

「うん」

「じゃ、なんでこの学校選んだの?」

 流介は箒の手を止めて、俺を見た。

「まぁ……なんとなくだ。お前は? お前だって、こうして毎日掃除してまで声優部作りたいんだろ? こんな高校来るより、よその高校行った方が、作りやすくなかったか?」

「うーん、まぁ、そうなっちゃったんだけどね。でも、まぁ、……俺も、なんとなく、かな」

「ふーん……」

 お互い、なんとなく歯切れが悪くなった。なんか、つまんない話になったので、俺は窓ふきを再開した。背中越しに流介がまだ俺を見ているのがわかったが、無視した。ややあって、箒で床を掃く音が聞こえてきた。

 窓越しに、ユニホーム姿の星野が一人、ランニングをしているのが見えた。睨まれた時以上に鋭い眼光だ。俺が睨まれているわけでもないのに怖かった。まだ夏には早いのに、汗だくだった。
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