五月の疾風

黒菫

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「ハエちゃん、今日来るでしょ?」

 五月になった。ここ最近で変わったのはハエちゃんがうちに来る回数が増えたこと、そして、毎日一緒に帰るようになったことくらい。ハエちゃんの態度も変わらなければ、俺も大して変わらない。友達の延長線上をなぞっただけの恋人、といったところだろうか。なんかちょっとうまいこと言ったな、俺。

 ちんたらと荷物をカバンに詰めながらハエちゃんが「うん。」とうなずいた。俺は自分の机の中に忘れ物がないかだけ確認をする。

「ねえフータ。」

「ん?」

「今日の小テスト、数学の。」

「あー、うん。俺九点だった。ハエちゃんは?」

 今日の小テスト。五時間目の数学の時間に行われた、十点満点の小さなテストだ。高校内容での初のテストということもあり、追試なし、対象範囲のワークの問題をある程度解けるようにしとけば八割は固いテストだ。

「八点……ってそうじゃなくて。」

「え、あ、うん。」

「⑶番できた?」

「⑶? あ、それ俺ちょうど間違ったとこだ。」

「そう、じゃあちょっと職員室に聞きに行ってくる。」

 それだけ言ってハエちゃんはリュックをその場においてテスト用紙をつかんで職員室へと走っていった。ハエちゃんってなんか真面目だよなあ、なんて思いながら、ハエちゃんが放り出していったリュックを丁寧にひろい、職員室前に向かった。

 五月、ハエちゃんの月だ。俺は教室を一度出たところで立ち止まり、窓の外を眺めた。晴天の空の下、緑の木々がそよ風に揺られて。家の近くの小学校にはこいのぼりが掲げられている。五月に生まれたから皐月だなんて安直だよね、と笑うハエちゃんの顔が思い浮かんだ。確かにプライバシーさらしながら生きてるみたいなもんだしね。そう考えたら俺ってハエちゃんのこと名前で呼んだことなくないか? いつもハエちゃんハエちゃんばっかりで。仮にも彼女のことをハエ呼ばわりするのは、でも、うーん。

少し考え込んでみたけれど、結論そんなことを気にしてたらハエちゃんとすれ違ってしまうことに気が付いた。早歩きで廊下を進み、突き当たったところの階段を降りようとした時。ふっと十五段下りた先の踊り場に、ハエちゃんが現れる。

「ハエちゃん。」

 思わず俺は声を掛けた。ハエちゃんがこっちを仰ぎ見て、ボケッとしてた顔が我に返った顔になった。

「先生ね、いなか……きゃっ。」

 ほんの一瞬の出来事だった。この世界のすべての物がほんの少しだけいつもより遅く動いているように見えて。踏み出したはずのハエちゃんの右足は階段の一段目をとらえられずに滑り落ち、それでバランスを崩した彼女の体がゆっくりと後ろに傾いていって。

「皐月!」

 叫んで手を伸ばしても無駄だ。届くはずがない。どすん、と鈍い音をたてて彼女の体が冷たい床にたたきつけられる。あわてて階段を下りた。「大丈夫?」と聞く声が大きくなった。俺はこんなにあせっているのに彼女はへらっと笑って、「何そんなに焦ってるの?」と言って立ち上がって見せる。何もなかったかのように、スカートの埃をほろう仕草をする彼女をこの目に映した時、やっと気が付いた。俺は彼女を失ってしまうのがすごく怖いんだ。春だけじゃない。恋愛とか生とか死とか、そういう物に彼女との関係を理不尽に壊されてしまうのが。だったら、春を嫌えばいいのだろうか。恋愛なんかしなきゃいいのだろうか。生とか死とかをひどく恨めばいいのだろうか。いや違うだろう。そんなことしたところでこの不安は消えない。ずっとまとわりついて離してくれることはない。だったら俺は、どうすればいいのだろうか。
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