五月の疾風

黒菫

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「ハエちゃん。」

 入学式から一週間がたった。俺は友達がそれなりにできて、それなりに充実した学校生活を送っていた。今日は放課後にハエちゃんが俺の家に来て、いつも通り一緒にクエストへ出かけている。俺は自分のベッドにどっかりと腰を掛け、ハエちゃんは勉強机と一緒に使っている回転いすにこじんまりと居座っている。

「なに?」

 涼しい声が少し遅いタイミングで返ってくる。なんでかっていうと、こんな声とは裏腹に画面の中では熱い乱闘が繰り広げられているからだ。赤いムカデのようなボスキャラが地中から出現したり逆にもぐったりを繰り返し、プレイヤーたちを惑わしたかと思えば恐ろしい攻撃力のビームを出してくる。おまけに防御力が強く、こちらが攻撃してもなかなかHPが減っていかない。HPが少なく、持久戦にはめっぽう弱い俺のウサギちゃんはすでに瀕死で逃げ回るのが精一杯、ハエちゃんは先ほど変に攻撃をくらってしまい体勢を立て直すのに一生懸命になっている。完全に話しかけるタイミングを間違ってしまった。

 さて、この状況どう切り抜けようか。ウサギちゃんをこれ以上アタッカーとして駆り出すのは危険だ。この戦いで有利な職種は攻撃と耐久のバランスが良い大剣使いだったりするのだが、現在俺のパーティーには該当するキャラクターはいない。それに加え、ハエちゃんの赤髪の大剣使いもかなり消耗している。とりあえずここは、パーティーで一番戦力のないやつとウサギちゃんを交代、そのうえで捨て駒として攻撃を繰り出し、ムカデの注意をひくことで、ハエちゃんがメンバーチェンジをする隙をつくる。確かハエちゃんのパーティーには回復系のスキルを持った魔道士がいたはずだからそれでウサギちゃんと赤髪の大剣使いを回復させて、一度体勢を立て直す。きっとこれが今の最善策だ。

 そう考えをまとめた俺は、すばやくメンバーチェンジした。あとはこの意図にハエちゃんが気付いてくれるといいんだけど、と思いながら画面をフリック。タイミングよく地中から姿を現したムカデに、限界まで攻撃を繰り出す。ムカデも負けまいと攻撃してくるのでみるみるHPが減っていく。もう少し時間稼ぎのために、と思って俺は続いてスキルを叩きこむ。そこでやっとこちらの意図に気が付いたハエちゃんがメンバーチェンジして、魔道士を呼び出す。そして、さっそうと回復スキルを二度連発。再び赤髪の大剣使いに戻して加勢した。こうなってしまえば俺の捨て駒はお役御免だ。ギリチョンセーフで捨てなくて済んだけど。俺も元のウサギちゃんに交代してスキルを発生させた。そこからは攻撃をしては、相手の攻撃を回避しを繰り返して、なんとか勝利をつかみ取ったのだった――。

「ところで、なに?」

 ギルドに戻ってきたハエちゃんが、次のクエストをセッティングしながら問うてきた。そうだ、さっき話しかけてたんだった、俺。

「ハエちゃんさ。」

「うん。」

「あんまり人と関わらないようにしてる?」

 ハエちゃんの動きが不自然に一時停止して、それを取り繕うようにスマホをいじる手が早まった。俺はさっきも言った通り、なんとなく友人がいて、それなりに上手くやっている。反面ハエちゃんは口には出さないもののほんのちょっと、すっごい微量だけ「私に近づくな。」というオーラを周りの人間に悟らせようとしているのを感じる。中学の時はそうではなかったと思う。確かにとっかかりにくい雰囲気はあったが、そんなオーラは一切感じなかったしむしろ少し抜けているところが話しかけやすい、そういった人だった。

 だからきっと、ハエちゃんは何かを意識してそういったオーラをわざと出しているんじゃないだろうか、といった考えにいたり、聞いてみた次第だ。ハエちゃんがゲームの中で次行くクエスト内容を提示する。俺はその提示をいったんそのままにして、ハエちゃんの横顔をじっと見つめた。いつもと何ら変わりのない顔だ。沈黙が流れる。ゲームのBGMがハエちゃんと俺の携帯でずれているのが急に気になりだした。

「なんか。」

「うん。」

 ハエちゃんが口を開いた。独り言をつぶやくみたいにそっと。誰かに伝えるわけじゃなくて、自分が憶えておきたいがために喋るみたいなそんな声。か細いのにちゃんとしてる声。なんとなく、俺はこの声が好きだ。

「結局春が全部壊しちゃうから。」

「……はる?」

「そう、春。春が嫌いなの。春が来るとなんでも壊れちゃうから。人間関係とか、居心地良かった場所とか、全部。」

 「全部、消えちゃうから。」と消え入りそうな声でハエちゃんが言った。「だから、仲良くしない方がまし、ってこと?」と聞くと、こくりと小さく頷いた。誰もがどこかでしょうがないと思っていて、それでも次の希望に向けて前を向く春を嫌っている彼女。やっぱり変人だ。不覚にも吹き出し笑いが込み上げる。ハエちゃんが、怪訝そうな顔でこちらを見つめる。

「そこ、笑うとこなの。」

 ハエちゃんが起伏のない平坦な声でそう問うた。ちょっと怒ってる時のハエちゃんだ。あわてて「ごめんごめん。」と謝る。

「ハエちゃんらしい考え方だなって。」

「……それ、いい方で? それとも、悪い方?」

「どっちでもだよ。」

 「喜んでいいのか怒っていいのか分かんない。」とつぶやいてハエちゃんはスマホを勉強机の上に放り出した。俺も枕の方にスマホをスライドさせて、曖昧な表情を見せているハエちゃんをただ見つめていた。

「どうせ、フータとの関係も次の春には壊されちゃうんだよ。」

「壊れないよ。今年の春にも壊されなかったじゃん。」

「友達、仲良くやってるしょ。なんか、きらきらした感じの人たちと。」

 ハエちゃんが露骨に不機嫌な顔になった。

「……ハエちゃん。」

「なに。」

「俺は、ずっと一緒にいるよ。」

「でも、彼女とか、……フータだってできるじゃん。来年になったらクラスも変わっちゃうかもしれない。だから。」

「俺に彼女ができたとして、ハエちゃんは友達に変わりないじゃん。それに……ハエちゃんと一緒にいるの楽だし、楽しい。それから。」

 接続詞だけを置いといて、一呼吸置いた。

「それから、ハエちゃん三年ん時これからも助けてくれるって言ったじゃん。」

 「違う?」と首をかしげてみせる。ずっと横しか見えていなかったハエちゃんの顔が、きゅっとこっちに向き直った。それからハトが豆鉄砲くらったみたいな顔でしばらく俺の目を見つめて、かみしめるように頷いた。

「なんか、フータって、すごい。なんか。」

「……どこが?」

 俺は首をかしげた。ハエちゃんは膝の上でぎゅっと結んだこぶしを何か考え込むように見つめ、それからふっと微笑んだ。あれ、ハエちゃんが笑った顔ってこんなにも可愛かったっけ。ってかハエちゃんって俺の前で笑ったことなんてあったっけ。さてどうだったかな。忘れちゃったけど。頬がかっと熱くなるのを感じた。心臓の鼓動が早くなる。彼女が何を言うのか、全神経がまるで操られているかのように彼女に集中した。

「こうやって私のこと、笑わせてくれるじゃん。」

 そっか。今気が付いた。今まで俺にはハエちゃんの表情を見る余裕すらなかったんだ。周りのやつらや友人とどうやって上手くやっていこうかとか、あまりにも自分のことにいっぱいいっぱいになりすぎて何も見えていなかった。だからなんだ。だからやっと自分の心の中に余裕ができた今、初めてこうやってハエちゃんの笑った顔を見ることができたんだ。

「本当、そういうのすごいし、そういうとこ好……。」

 …………え? まてまてまてまて、いま、え? ハエちゃん? え? 混乱がさらなる混乱を呼び寄せて、頭の中はショート寸前。一気に何の余裕もなくなった。たった一ついまわかるのは、〝う〟の口をしたままぴたりと一時停止したハエちゃんがこっちを見ていることと、完全にこの空間の時が止まっているということ。いやまて、落ち着け俺。少しずつわかることから状況を整理していこう。そう、ハエちゃんが笑ったんだ。それからなんか、ハエちゃんってかわいいなあと思っていたんだ。そうだ、そこまではふつう? 普通だよな。女友達を少しかわいいと思った。それだけだ。果たしてそれは普通なのか? これが、もしかして、世にいう恋というものなのか? じゃあさっきのってもしかして、恋に落ちたときの合図――。

 もし仮にこれが恋だったとしていったん置いておこう。ぶっちゃけ置いておくなんてそんな丁寧なことができる精神状態ではないので、半分放り投げたようなものなのだが今はそれはいいとして。ハエちゃんはさっき俺になんて言おうとした? 俺の聞き間違いと、勘違いじゃなかったのなら、〝好き〟って言おうとしなかったか? これは、どういう意味の……。

 ハエちゃんがふと我に返ったらしい。目がさっと見開いて、一瞬のうちに頬が赤みを帯びた。唐突に立ち上がり一目散にドアに向かって……出ていかせはしなかった。俺がハエちゃんの右腕をとっさにつかんだからだ。

「……なんで逃げんの。」

 きゅっと彼女の腕を握る手に力がこもった。こちらに向けている背中が小さく震えた。

「なんか。」

「うん。」

「失言をした、から。」

「ハエちゃんってさ。」

「はい。」

「めちゃめちゃバカだよね。」

「なっ、んで。」

「失言、って言ったらさっきの言葉の意味決まっちゃったじゃん。」

 ハエちゃんがはっと勢い良く息をのんだのをはっきりと耳にした。続いて激しくむせる音も。彼女の動揺が、言葉にするまでもなくひしひしと伝わって、なんとなく良心が痛んだ。自分があそこで引き止めなきゃ、彼女はきっと次会った時もいつも通り友達として俺の隣にいてくれたはずなのだ。軽く後悔もした。でも、きっと、ここで彼女を引き止めなかったとしても、遅かれ早かれ俺は逆の立場になって、この言葉を漏らしてしまっていただろう。あのハエちゃんの笑顔を見つけてしまったのだから。

「ハエちゃん。」

「はい。」

「俺さ、ハエちゃんのこと友達としてもちろん好きだったんだ。ハエちゃんといると楽しいし。」

「……私も。」

「でも、今は。」

 ここで一度言葉を区切った。ちゃんとハエちゃんの目を見て喋りたかった。きっとこのまま黙っていてもハエちゃんはこっちを向いてくれない。だから、彼女の腕をつかんだまま、前に回り込む。今に泣き出してしまうんじゃないかってくらい頼りない彼女の顔がそこにあった。こんな表情を見るのも、もちろん初めてだ。

「ハエちゃんと同じ好き……なのかもしれないと思ってる。」

 むず痒い沈黙が心臓をぎゅっと握りしめる。拍動がさっきよりもっと早く、もっと近くに感じて、心臓が爆発しないか心配になった。ハエちゃんの顔が、ゆっくりと本当にゆっくり緩んでいって。泣きそうなのか笑いそうなのか、喜怒哀楽のはっきりしない曖昧な表情へと移っていく。

「フータ。」

「うん。」

「ごめん。」

「え?」

「友達でちゃんといるつもりだったのに、好きになったみたいでごめん。」

 刺すように鋭く、ただ一点しか見つめていない視線がすっと俺の目に入り込んだ。俺は何も言えずにただただ呆然とした。ハエちゃんの次の言葉を待つかのように。

「友達として隣にいなきゃいけなかったのに、なんか言葉が先に出てきちゃって。それで。」

 喜怒哀楽の哀に傾いた感情が、こぼれ落ちていくように、ハエちゃんの顔がそっと涙で濡れた。あわてて「なんで泣くのさ。」と問う。

「だってフータと一緒にいれなくなっちゃうじゃん。」

「好きだったら一緒にいれないの?」

「なんか。」

「うん。」

「気まずくなる、じゃん。」

「……分からなくもない。」

 「だから、だからさ。」とまるで水をせき止めていたダムが爆破されたかのように、大粒の涙を次から次へと流した。そうか、恋心を自覚したら友達だった人と、一緒にいれなくなってしまうのか。新しいことを学んだなと思うと同時に、さっきの後悔が一気に激しさを増した。彼女と一緒にいる道はないのだろうか。今まで通り、ずっと隣に。もぞもぞと思考を繰り返した結果、ひとつだけ、いい案が思いついた。

「ハエちゃん。」

「……ん?」

 ハエちゃんが、右手で頬を滑り落ちていく涙の粒を拭いながら、軽く顔を上げた。

「俺、ハエちゃんとこれからも一緒にいたい。」

「……うん。」

「それでさ。」

「うん。」

「俺ら、付き合わない?」

「つ、え?」

 泣くのをやめた。ハエちゃんが。ハエちゃんの涙がぴたりと止まった。はっと目が見開かれる。空気を咀嚼する。なに言ってるの、と言いたげに。

「たしかに少しは気まずくはなるかもしれないけど、でも、一緒にいれるかなとか。」

「え、ああ、うん?」

 おそらくハエちゃんの頭の中にはクエスチョンマークが乱舞、いや、なんなら身動きが取れないくらい大量のそれで埋め尽くされているかもしれない。とりあえず彼女を落ち着かせるべく、一度回転いすに座らせてティッシュを取りに一度部屋を出た。どこにあったかな。洗面所かな、いやリビングだったか。ハエちゃん以外誰もいない家の中を、右往左往。結局食卓の上でティッシュ箱を発見し、それをもって部屋に戻る。

「ごめん、遅くなって。ティッシュなかなか見つかんなくて。」

 そう謝りながら部屋に入ると、すでに泣き止んだハエちゃんが何も言わずにぶんぶんと首を横に振った。俺がそっとティッシュの箱を差し出すと、彼女は丁寧に一枚抜き取って静かに一度鼻をかむ。それを使い終わるタイミングを見計らって、俺は足元のゴミ箱を持ち上げて、ハエちゃんがそこに入れる。

「ねえ、フータ。」

「なに?」

「さっきの話だけど。」

「付き合おうって話?」

「うん。」

「あれは、そん、なんていうか、いやなら別に……。」

「い、いやじゃない。」

「え?」

「つ、付き合うの。」

 ハエちゃんが顔を伏せた。一瞬言葉の意味が理解できなくて呆然とした。

「っと、それは、付き合ってくれるってこと?」

 ハエちゃんの頭が小さく縦に動いた。「え、あ、うん、ありがとう。」と口を動かしたつもりだ。声になっているかは知らんが。ハエちゃんがゆっくりと顔を上げる。目があって、それから彼女は驚いたように目を見開いた。なんだ、今俺はどんな顔をしているんだ? 嬉しいのか、はずかしいのか、それともドキドキしているのか。もしかしたらまだ状況を把握しきれてなくて、見るに堪えないあほ面をしているのかもしれない。でも、ただ一つだけ分かるのは、これからもまだハエちゃんと一緒にいれるというそこはかとない安心感が、じっくりと心の中に広がっていることだった。
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