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翌日は気分よく一日を過し、窓を開け風に当たっていた。静かな風が池の木を揺らす音がする。満月が明るいから電気は全部消した。
眠気は来ないけど久しぶりに穏やかな気持ちで目を閉じ、椅子の背もたれに頭をつけていたら聞き慣れた足音が近づいてきた。はっと起き上がり窓のほうに体を伸ばす。
僕の目の前でだけコマ送りになったように横顔がはっきり見えた。そして通り過ぎすぐに見えなくなった。暗くなった池の周りはところどころ街灯に照らされているだけで、遠くを走る姿は影のようにぼんやりしている。それでもわかる。あのフォームは絶対間違えない。
ストップウォッチを握り近づく足音に耳をすませる。今日の足音は柔らかく、スローペース。昨日の動画の一件からここには来なくなると勝手に思い込んでいたから、僕の鼓動は反対にハイペースで胸を震わせている。
僕の限られた情報では、社会人で陸上部に所属している人は寮住まいの人が多く、練習拠点のグランドを走ると決め付けていた。まさか今日もここに来るなんて。
横顔を絶対に見逃さないよう、ずっと外に向かって体を乗り出して走ってくるのを待った。
4回タイムを計ったあと、もう足音はしなかった。
あれから彼は自身のSNSを開設して、僕はもちろんそれをフォローして追いかけている。仕事を終えてから陸上部の練習をしているらしい。社会人でも競技に専念できる企業と、普通に仕事をしながら競技のサポートをしてくれる企業がある。彼の所属企業は後者のようだ。
ある日の投稿は、同僚が撮影した仕事中の動画だった。はにかみながら時々レンズに視線を向けて作業をしている姿。
自分を見ているような錯覚をして「うわ」と小さく声が出た。横顔しか知らなかったあの人が、こちらを見て微笑む。その笑顔に一人で照れて、思わず手で口元を押さえた。
自分の行動を客観視すれば大袈裟なんじゃないかと思うけど、本当に自然に手が口まで高速移動したんだからしかたない。
彼の名前は:水海 満(みずうみみつる)。大学卒業と同時に競技は引退したけれど二年後に復帰を希望して、同級生の紹介でテストを受け合格し入社。出身地は僕の今住んでいる同じ県内、割と近い。趣味は走ることと写真を撮ること。大学時代は故障が多く、期待をされながらもあまり成績は振るわなかったらしい。
彼のプロフィールを知ることが出来たのは嬉しいけど、ここでは見ることが出来ない姿を先に知っていたから特に近くなった気はしなかった。だけど幻のようなものが現実に近づいてくると妙な緊張をしてしまう。
コメントを書き込もうと何度も迷い、何度も書き直すがスマホの最後のタップができないままでいる。
「いつも走ってるのを見てました。応援してます」
たったこれだけの言葉を届けるのに丸一日、部屋の中をイスのままゴロゴロと移動し、ベッドに寝転がり、頭を抱えていた。
なんだか片想いしているみたいだな。いや、そうじゃない、いちファンとして、返事なんて期待せずに応援をするだけだ。
そう、返事なんてこない。しばらく文字を見つめた後、僕はずっと触れられなかった「送信」の文字に指を置きそっと離す。画面が変わるのを見て止めていた息をふーっと吐き、そのままベッドに倒れ込んだ。
数時間後、スマホの振動で目が覚めた。寝てしまったらしい。手探りでスマホを探すが、通知があるなんて母親からのご飯の知らせかオンラインゲームだ。
だがスマホの通知は見たことの無い表示で、目を擦ってから見開く。
『水海満さんが返信しました』
しっかり見ようと両肘をついて体を起こし、画面をタップする。
『応援ありがとうございます。どこで見てくれていたのか気になります!』
「うわぁぁー」
ごろんと転がってスマホを天井に持ち上げて返事を何度もみる。
返事してくれるんだ! ベッドで転げながら腹の底から熱が湧き上がるのを感じた。何度見ても文字が大きく光っているようだ。
我に返り返信をしてもいいのだろうかと考えた。せっかくのチャンスを逃したくない反面、失敗をしたくない気持ちが広がり手が冷たくなってくる。
こういうところだ。スマホを持つ手の甲を額に当て、「考えすぎるな、このままじゃずっと変われない、文字だけだ、指だけだ」と呪文のように小さく声に出す。起き上がって一文字一文字ゆっくりと丁寧に指を動かし返信を書く。
「池の周りを走っている時に見かけます。また走りに来てください」
思ったままの言葉を今度は迷うことなく送った。
自室から少し出られるようになった。
家族は僕のことを受け入れてくれていて無理強いはしないが、食事を一緒に出来ることを喜んでくれた。あまり会話はないけど、僕が部屋から出られるようになったことを不思議に、だけど良かったと思っているようだ。でも、僕にもその理由はよくわからない。
変わったことといえば、あの人のSNSを見るのが日課になっていること、また走りに来るのを楽しみにしていることくらいだ。カウンセリングでも聞かれた。
「何かいいことあったのかな?」
「特に変わったことはないけど、少しだけ部屋から出てる」
と答えたら盛大に褒められ、今度はハンドクラップとかいう動画を勧められた。やるともやらないとも答えず、通話を切った。
何も変わっていないなんて嘘だ。体が自由に動き始めてるの、本当はわかってる。でもそれがなんでかは僕だって知りたい。何かをする気は起こらないけど、何かが起こって欲しいとは思うようになった。
あの人にまた走りに来て欲しいし、もっと上手く交流したい。そんな欲求が産まれてくるだけでもかなりの変化だ。でも、人に言うことじゃない。僕だけの出来事だ。
『興味を持ってくれてありがとう。陸上部なんですか?』
記録会での好タイムにコメントをしたらこんな返信が来た。たぶんプロフィールに『高校2年/陸上/』って載せてるからだ。僕は一応高校生だが帰宅部だ。なんだったら今は学校に行ってない。
もちろん普通に外に出てみたいし、気持ちは走ってみたいと思っている。あれからずっと、陸上長距離について調べていて知識だけはある。もちろん経験のないニワカなのだが、もっとあの人と話をしたい、共通の話題があれば……と思っていた。
もしかしたら陸上部って言う方がまた返信をくれるんじゃないか? と思い、ついやってしまった。
「陸上やってます」
コメントをすると直ぐにではないが返信してくれる。あまり深く突っ込まれると返せないから、なるべく一方的な応援の言葉だけにしていた。挨拶程度でも僕にとっては椅子から立ち上がるくらいのインパクトだ。
だけど、その後には自分が出した返信に後悔する。浮かれて調子に乗って、あの人に嘘をついている。それでも必ず返事をくれる。
また僕の体に、逆らえない重力がやってきた。手足に力が入らない時はスマホの画面も見れなくて、明かりもつけずただひたすらベッドで小さくなって時々空を見上げる。
天井のブラインドをリモコンで動かして月を探すがここからは見えなかった。濃い青より黒い色の空がだんだん近づいてきて僕を押しつぶしそうだ。ちっぽけな僕なんて押し潰しても気が付かないよね。どうせなら消えて無くなればいいのに。どう願っても叶わない願い。でも叶ってしまったことを考えるとますます苦しくなる。
押しつぶされる感覚から抜け出そうと手を伸ばして窓を開け、濃く沈んだ池の水面を見つめた。ここも暗くて深い色だ。静かで風はなく、カエルの小さい鳴き声がどこかから聞こえる気がする。それからあの音……。
足音が近づいてきた。あの人の足音だ。こんな遅くに。もうずっと来ていなかったから油断していた。
窓際に掛けてあるストップウォッチに無理やり手をかけ起き上がりながら掴んだが、紐が手をすり抜けた。出した手は間に合わず、窓の枠に当たりそのまま歩道へ落ちてしまった。転がり落ちた音に通り過ぎた足音が止まった。
「これ、君の? 何か測ってるの?」
戻ってきてストップウォッチを拾い、僕を見上げている。それを差し出す腕や首筋は細い筋肉に包まれていて、ウエアの下の胸筋も思ったより張っていて、僕はただそれを見ていた。
「……いつも応援してます」
口は勝手に動いた。僕はベッドから半分落ちそうになったまま手を伸ばしている。
「え? ほんと? 嬉しいな、ありがとう」
さらに手を伸ばしストップウォッチを渡そうとしてくれるけど、僕がベッドから立ち上がれなかった。それを察したのか一段上がったフェンスに足を掛けて窓の横に立ち手渡してくれた。
「明日も……きますか?」
なんとか体を起こしてストップウォッチを両手に包み、歩道に戻る姿に声をかけた。明日も来るか? なんて、毎日待ってるって言ってるようなものだ。一気に体が熱くなった。
「来るよ」
にこやかに片手を上げ、何事も無かったように走っていってしまった。
夜の空気に包まれたような低い声だけが耳に残っている。
眠気は来ないけど久しぶりに穏やかな気持ちで目を閉じ、椅子の背もたれに頭をつけていたら聞き慣れた足音が近づいてきた。はっと起き上がり窓のほうに体を伸ばす。
僕の目の前でだけコマ送りになったように横顔がはっきり見えた。そして通り過ぎすぐに見えなくなった。暗くなった池の周りはところどころ街灯に照らされているだけで、遠くを走る姿は影のようにぼんやりしている。それでもわかる。あのフォームは絶対間違えない。
ストップウォッチを握り近づく足音に耳をすませる。今日の足音は柔らかく、スローペース。昨日の動画の一件からここには来なくなると勝手に思い込んでいたから、僕の鼓動は反対にハイペースで胸を震わせている。
僕の限られた情報では、社会人で陸上部に所属している人は寮住まいの人が多く、練習拠点のグランドを走ると決め付けていた。まさか今日もここに来るなんて。
横顔を絶対に見逃さないよう、ずっと外に向かって体を乗り出して走ってくるのを待った。
4回タイムを計ったあと、もう足音はしなかった。
あれから彼は自身のSNSを開設して、僕はもちろんそれをフォローして追いかけている。仕事を終えてから陸上部の練習をしているらしい。社会人でも競技に専念できる企業と、普通に仕事をしながら競技のサポートをしてくれる企業がある。彼の所属企業は後者のようだ。
ある日の投稿は、同僚が撮影した仕事中の動画だった。はにかみながら時々レンズに視線を向けて作業をしている姿。
自分を見ているような錯覚をして「うわ」と小さく声が出た。横顔しか知らなかったあの人が、こちらを見て微笑む。その笑顔に一人で照れて、思わず手で口元を押さえた。
自分の行動を客観視すれば大袈裟なんじゃないかと思うけど、本当に自然に手が口まで高速移動したんだからしかたない。
彼の名前は:水海 満(みずうみみつる)。大学卒業と同時に競技は引退したけれど二年後に復帰を希望して、同級生の紹介でテストを受け合格し入社。出身地は僕の今住んでいる同じ県内、割と近い。趣味は走ることと写真を撮ること。大学時代は故障が多く、期待をされながらもあまり成績は振るわなかったらしい。
彼のプロフィールを知ることが出来たのは嬉しいけど、ここでは見ることが出来ない姿を先に知っていたから特に近くなった気はしなかった。だけど幻のようなものが現実に近づいてくると妙な緊張をしてしまう。
コメントを書き込もうと何度も迷い、何度も書き直すがスマホの最後のタップができないままでいる。
「いつも走ってるのを見てました。応援してます」
たったこれだけの言葉を届けるのに丸一日、部屋の中をイスのままゴロゴロと移動し、ベッドに寝転がり、頭を抱えていた。
なんだか片想いしているみたいだな。いや、そうじゃない、いちファンとして、返事なんて期待せずに応援をするだけだ。
そう、返事なんてこない。しばらく文字を見つめた後、僕はずっと触れられなかった「送信」の文字に指を置きそっと離す。画面が変わるのを見て止めていた息をふーっと吐き、そのままベッドに倒れ込んだ。
数時間後、スマホの振動で目が覚めた。寝てしまったらしい。手探りでスマホを探すが、通知があるなんて母親からのご飯の知らせかオンラインゲームだ。
だがスマホの通知は見たことの無い表示で、目を擦ってから見開く。
『水海満さんが返信しました』
しっかり見ようと両肘をついて体を起こし、画面をタップする。
『応援ありがとうございます。どこで見てくれていたのか気になります!』
「うわぁぁー」
ごろんと転がってスマホを天井に持ち上げて返事を何度もみる。
返事してくれるんだ! ベッドで転げながら腹の底から熱が湧き上がるのを感じた。何度見ても文字が大きく光っているようだ。
我に返り返信をしてもいいのだろうかと考えた。せっかくのチャンスを逃したくない反面、失敗をしたくない気持ちが広がり手が冷たくなってくる。
こういうところだ。スマホを持つ手の甲を額に当て、「考えすぎるな、このままじゃずっと変われない、文字だけだ、指だけだ」と呪文のように小さく声に出す。起き上がって一文字一文字ゆっくりと丁寧に指を動かし返信を書く。
「池の周りを走っている時に見かけます。また走りに来てください」
思ったままの言葉を今度は迷うことなく送った。
自室から少し出られるようになった。
家族は僕のことを受け入れてくれていて無理強いはしないが、食事を一緒に出来ることを喜んでくれた。あまり会話はないけど、僕が部屋から出られるようになったことを不思議に、だけど良かったと思っているようだ。でも、僕にもその理由はよくわからない。
変わったことといえば、あの人のSNSを見るのが日課になっていること、また走りに来るのを楽しみにしていることくらいだ。カウンセリングでも聞かれた。
「何かいいことあったのかな?」
「特に変わったことはないけど、少しだけ部屋から出てる」
と答えたら盛大に褒められ、今度はハンドクラップとかいう動画を勧められた。やるともやらないとも答えず、通話を切った。
何も変わっていないなんて嘘だ。体が自由に動き始めてるの、本当はわかってる。でもそれがなんでかは僕だって知りたい。何かをする気は起こらないけど、何かが起こって欲しいとは思うようになった。
あの人にまた走りに来て欲しいし、もっと上手く交流したい。そんな欲求が産まれてくるだけでもかなりの変化だ。でも、人に言うことじゃない。僕だけの出来事だ。
『興味を持ってくれてありがとう。陸上部なんですか?』
記録会での好タイムにコメントをしたらこんな返信が来た。たぶんプロフィールに『高校2年/陸上/』って載せてるからだ。僕は一応高校生だが帰宅部だ。なんだったら今は学校に行ってない。
もちろん普通に外に出てみたいし、気持ちは走ってみたいと思っている。あれからずっと、陸上長距離について調べていて知識だけはある。もちろん経験のないニワカなのだが、もっとあの人と話をしたい、共通の話題があれば……と思っていた。
もしかしたら陸上部って言う方がまた返信をくれるんじゃないか? と思い、ついやってしまった。
「陸上やってます」
コメントをすると直ぐにではないが返信してくれる。あまり深く突っ込まれると返せないから、なるべく一方的な応援の言葉だけにしていた。挨拶程度でも僕にとっては椅子から立ち上がるくらいのインパクトだ。
だけど、その後には自分が出した返信に後悔する。浮かれて調子に乗って、あの人に嘘をついている。それでも必ず返事をくれる。
また僕の体に、逆らえない重力がやってきた。手足に力が入らない時はスマホの画面も見れなくて、明かりもつけずただひたすらベッドで小さくなって時々空を見上げる。
天井のブラインドをリモコンで動かして月を探すがここからは見えなかった。濃い青より黒い色の空がだんだん近づいてきて僕を押しつぶしそうだ。ちっぽけな僕なんて押し潰しても気が付かないよね。どうせなら消えて無くなればいいのに。どう願っても叶わない願い。でも叶ってしまったことを考えるとますます苦しくなる。
押しつぶされる感覚から抜け出そうと手を伸ばして窓を開け、濃く沈んだ池の水面を見つめた。ここも暗くて深い色だ。静かで風はなく、カエルの小さい鳴き声がどこかから聞こえる気がする。それからあの音……。
足音が近づいてきた。あの人の足音だ。こんな遅くに。もうずっと来ていなかったから油断していた。
窓際に掛けてあるストップウォッチに無理やり手をかけ起き上がりながら掴んだが、紐が手をすり抜けた。出した手は間に合わず、窓の枠に当たりそのまま歩道へ落ちてしまった。転がり落ちた音に通り過ぎた足音が止まった。
「これ、君の? 何か測ってるの?」
戻ってきてストップウォッチを拾い、僕を見上げている。それを差し出す腕や首筋は細い筋肉に包まれていて、ウエアの下の胸筋も思ったより張っていて、僕はただそれを見ていた。
「……いつも応援してます」
口は勝手に動いた。僕はベッドから半分落ちそうになったまま手を伸ばしている。
「え? ほんと? 嬉しいな、ありがとう」
さらに手を伸ばしストップウォッチを渡そうとしてくれるけど、僕がベッドから立ち上がれなかった。それを察したのか一段上がったフェンスに足を掛けて窓の横に立ち手渡してくれた。
「明日も……きますか?」
なんとか体を起こしてストップウォッチを両手に包み、歩道に戻る姿に声をかけた。明日も来るか? なんて、毎日待ってるって言ってるようなものだ。一気に体が熱くなった。
「来るよ」
にこやかに片手を上げ、何事も無かったように走っていってしまった。
夜の空気に包まれたような低い声だけが耳に残っている。
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