上 下
29 / 41
第四章 伍塁様には見せられない

ヒゲが生えた!

しおりを挟む
「ぅにゃん」

 食べながら声が出るタイプらしく、うにゃうにゃ言いながら魚の絵柄の缶詰を美味しそうに食べている。
 実玖みるくはサバ缶と間違えて買った猫用の缶詰を裏庭に来た野良猫にあげていた。その猫は耳先を桜の花びらのようにカットされている地域の保護猫で、ツヤツヤの黒い姿から人からは「クロ」と呼ばれているらしい。
 
「もうニンゲン慣れた?」

 クロは実玖に興味があるらしく、ニンゲンの暮らしについて聞かれることがある。いや、もしかしたらニンゲンに興味があるのか。餌を貰う以外にもそういう目的があって、よくここに来るのかもしれない。

「そうですね、だいぶ慣れたと思います。でも、まだ勉強が足りません」

 クロの斜向かいにサンダル履きでしゃがんだ実玖は、空缶を持った手を揺らしながら飛行機雲が残る空を見上げた。

 まだまだ出来ないこと、知らないことばかりだ。

 伍塁いつる様を乗せて車の運転をしたい、骨董のことをもっと覚えたい、料理も勉強したい、たくさんの本を読みたい、飛行機にも乗ってみたい、伍塁様に相応しくなりたい。

「そういえば、この辺のボス変わったんだ」

クロは唐突に、猫の仲間に知らせるように言う。

「わたくしも知ってる方ですか?」

 実玖はもう三年以上猫の世界を知らないから、世代交代が行われているだろうボス事情をクロに話されてもピンとこなかった。元々飼い猫だったからボスの存在は知っているだけで集会にも出たことはない。
 そして今、あの頃以上にボスは必要ない生き方をしている。最も大切な存在は伍塁様だ。

「元野良で今は飼い猫になったフユっていうデカいサバトラ」

 クロは首を伸ばしてぐるっと回しボスの顔の大きさを表してるらしい。

「わたくしは会ったことはなさそうです。ご近所ならどこかで会うかもしれませんね」

 実玖は元野良から飼い猫になったというのは自分も同じ境遇だと思ったが、幼すぎてそのあたりの記憶はなかった。だが、飼い猫のままボスになるということに少し興味が湧いた。

 クロはそれ以外にも、あそこの保護猫の公園は整備されて居づらくなったとか、子猫が捨てられてみんなで世話してるとか、餌をくれるおばあさんが亡くなったとか、最近、魚屋の魚の鮮度が落ちているとか、役立つのかどうかわからない事を教えてくれる情報通だ。

「ここの家は餌もくれるし、ンにゃっ、居心地のいい庭があるから評判がいいんだ」

「そういえば裏庭はいろいろな猫が入れ代わり立ち代わりしてますね。それぞれ好きな場所があるみたいです」

「誰もトイレにはしてないから安心してにゃ」

 実玖はそれは有難いことだと思った。掃除をするのは実玖の仕事だ。猫の好きそうな柔らかい砂場はないはずだとわかっているが。

「これからもそうしてくれると助かります」

「最近はニンゲンに意地悪な猫もいるから気をつけて、ンにゃ」

 相変わらず食べながら喋っている。

 たまに鰹節を刻んでかけてくれるの、あれ食欲そそるーとかチャーじいさんは、そろそろカリカリを食べるのが難しいらしいから出来たら柔らかいのあげて欲しいとか。
 本当によく喋る猫だ。

 クロは、食べ終えて姿勢を正して座り直し、丸めた手の横で口の周りを擦っては舐め、擦っては舐めを繰り返してふと実玖を見上げた。

「ねぇ、一本長くて太いヒゲがあるけど……」

「え?」

 右手で左右の顔を擦ってみて、左側に手に当たるものを感じた。

「それ、猫ひげじゃない?」

 クロは身体中の毛繕いをしながら素っ気なく言う。

 空き缶を落として思わず立ち上がった実玖は、顔を両手で挟み慌てて裏口から洗面所に向かった。

「……!!!!」

 鏡の中の左頬に白くて硬いヒゲが一本だけ生えている。根元は太く、先に向かって細くなり弾くとピンと張りがあった。本当にこれは猫のヒゲだ。

「え……なんででしょう……昨日までなかったのに」

 引っばってみたが簡単に抜けるような感じではない。頬の皮膚が引っ張られて嫌な痛みを感じる。何度も引っ張りすぎて根元が少し赤くなってしまった。
 抜くのは無理だとハサミを見たが、猫のヒゲを切るなんて有り得ないことだと実玖は思っていて、自分では解決できないと判断した。

「伍塁様に見られる前に隠さなきゃ」

 冷静に判断したが、鏡を見た時から音が聞こえそうなほど胸の奥から大きく叩きつけるものがある。
 一人で散歩中に、脱走した大きな犬に追いかけられて、逃げ切った時にもこんな感じがしたと不穏なことを思い出した。

 人間は風邪をひいた時や花粉症の人がマスクをする。それ以外に顔を隠したい時にもすると伍塁に教わったのは、買い物に出かけた時にたくさんの若い女性がマスク姿で歩いているのを見かけたときだった。
 人間の女性は化粧をしていないと顔を隠したくなる人もいるらしい。その時は実玖には理解が出来なかったが。

――今がまさに顔を隠す時だ。

 台所の水屋の、マス目のようにたくさんある引き出しを次々と開けてマスクを探していると、廊下から近づいてくる足音が聞こえる。

「伍塁様だ……」

 見つけたマスクを慌てて耳にかけたところに伍塁がやってきた。



しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません

abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。 後宮はいつでも女の戦いが絶えない。 安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。 「どうして、この人を愛していたのかしら?」 ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。 それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!? 「あの人に興味はありません。勝手になさい!」

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

6年後に戦地から帰ってきた夫が連れてきたのは妻という女だった

白雲八鈴
恋愛
 私はウォルス侯爵家に15歳の時に嫁ぎ婚姻後、直ぐに夫は魔王討伐隊に出兵しました。6年後、戦地から夫が帰って来ました、妻という女を連れて。  もういいですか。私はただ好きな物を作って生きていいですか。この国になんて出ていってやる。  ただ、皆に喜ばれる物を作って生きたいと願う女性がその才能に目を付けられ周りに翻弄されていく。彼女は自由に物を作れる道を歩むことが出来るのでしょうか。 番外編 謎の少女強襲編  彼女が作り出した物は意外な形で人々を苦しめていた事を知り、彼女は再び帝国の地を踏むこととなる。  私が成した事への清算に行きましょう。 炎国への旅路編  望んでいた炎国への旅行に行く事が出来ない日々を送っていたが、色々な人々の手を借りながら炎国のにたどり着くも、そこにも帝国の影が・・・。  え?なんで私に誰も教えてくれなかったの?そこ大事ー! *本編は完結済みです。 *誤字脱字は程々にあります。 *なろう様にも投稿させていただいております。

選ばれたのは美人の親友

杉本凪咲
恋愛
侯爵令息ルドガーの妻となったエルは、良き妻になろうと奮闘していた。しかし突然にルドガーはエルに離婚を宣言し、あろうことかエルの親友であるレベッカと関係を持った。悔しさと怒りで泣き叫ぶエルだが、最後には離婚を決意して縁を切る。程なくして、そんな彼女に新しい縁談が舞い込んできたが、縁を切ったはずのレベッカが現れる。

あなたの子ですが、内緒で育てます

椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」  突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。  夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。  私は強くなることを決意する。 「この子は私が育てます!」  お腹にいる子供は王の子。  王の子だけが不思議な力を持つ。  私は育った子供を連れて王宮へ戻る。  ――そして、私を追い出したことを後悔してください。 ※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ ※他サイト様でも掲載しております。 ※hotランキング1位&エールありがとうございます!

【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜

なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」  静寂をかき消す、衛兵の報告。  瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。  コリウス王国の国王––レオン・コリウス。  彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。 「構わん」……と。  周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。  これは……彼が望んだ結末であるからだ。  しかし彼は知らない。  この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。  王妃セレリナ。  彼女に消えて欲しかったのは……  いったい誰か?    ◇◇◇  序盤はシリアスです。  楽しんでいただけるとうれしいです。    

十年目の離婚

杉本凪咲
恋愛
結婚十年目。 夫は離婚を切り出しました。 愛人と、その子供と、一緒に暮らしたいからと。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

処理中です...