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初デート
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朝食をとりつつ、私はちらっと前に座る彼の顔を見る。
さっきは間違いなくキスをされた。だけど彼が私に恋心を抱くはずがないので、何か意味があったと思っている。
正直に、あのキスはどういう意図があったのですか、と尋ねられたらどんなに楽か。
「ソフィア嬢、聞いているか?」
急に呼ばれて私はハッとなった。彼は食事を終えており、私に何か質問していたようだった。
「な、何ですか!」
話を全く聞いていなかったが、彼は特に怒ってはいないようで安心する。
「今日の予定だ。特に予定が無ければ一緒に近くの市場を回らないか?」
「市場ですか?」
私はこの付近の地図を思い出す。クリストフの別邸の近くにたしかに大きな町がある。だがそれは正教会の者達が主に住む町だ。
そんなの恐怖でしかない。
「こ、殺されませんよね?」
昔の記憶が蘇る。いたるところに私の懸賞金の張り紙が張っており、通報されるごとに神官達が私を襲ってきたのだ、
そのたびに先頭にはクリストフが現れるせいで、毎度恐い思いをしたのだ。
クリストフはやれやれといった顔をする。
「其方はまだ何もしておらぬだろうが。それに魔女と一般の人々を見分ける方法なんぞ、その魔女の刻印を見なければ分からん」
「そうなのですか?」
「ああ。昔は魔女狩りも頻繁に行っていたが、ほとんどは無実の者ばかりだったと聞く。伝承では痣しか書かれていないから、ただ転んだだけの者もいたらしい」
そんな恐ろしい時代ではなくて良かった。だけど私もバレたら、火あぶりに遭うに違いない。
どんどん恐ろしい想像が広がってきた。
「俺がずっと側にいるから離れなければいい。今後は視察のため、一緒に出かける機会も増えるのだから、これだけは慣れろ」
「かしこまりました……」
やっぱりクリストフとの結婚生活なんて無理があると思う。
だけど彼の力が無ければ私の魔女化が進行するので、頼らざるをえない。
暗い気持ちになるが、食後のアイスを食べたら急に気持ちが回復した。
やっぱり嫌なことがあったら甘い物に限る。
外行きの服に着替えて、私は彼と供に馬車に乗って町まで向かった。
丘をおりて少し進めば着くので、私は窓から景色を見ながら気分を紛らわせていた。
「ソフィア嬢、一点確認したい」
「ええ。どうかしましたか?」
「呼び名だが、愛称で呼び合うのはどうだ?」
思わずクリストフに、何を言っているのだ、という気持ちが顔に出てしまった。
私と彼は元々殺し合った仲で、そんな可愛い呼び名はお互いにきついだろう。
「そんな顔をするな。偽装結婚とはいえ、いつまでも他人行儀では怪しまれるからな」
「それでしたら呼び捨てでよろしいのではありませんか?」
「俺から言うには特に抵抗がないが、流石に其方が言うにはまずいだろ」
それもそうだと納得する。だけどなんと呼べば普通だろうか。
流石に、”クリちゃん”とか”クリ君”なんて馬鹿にしているとしか思われなさそうだ。
「定番といえば、あなた、とかですか?」
「ごほごほっ! それはダメだ!」
クリストフがむせながら否定された。まさかそれほど嫌がるなんて、失礼にもほどがある。
こんな調子で上手く結婚生活を送れるのだろうか。
やっとクリストフの咳が止まったので、別の案を出す。
「あとは旦那様とかはいかがですか?」
「それは他人行儀すぎだ」
どうしろというのだ。彼のわがままのせいで一生懸命頭を捻った。あとは何かあるだろうか。
するとクリストフがボソリと言う。
「昔はよくクリスと呼ばれていた」
「あっ、それいいですね! クリス!」
発音もしやすいし、短いので言いやすい。
それなら私も短くした方がいいかもしれない。
「なら私はソフィーはどうです? お父様達も好んで使いますので」
「ああ。ではそれで決まりだ。外ではお互いに愛称で呼び合うことにしよう」
ようやく呼び名が決まりホッとした。まさか彼とそんなことを言い合う日が来るとは、人生とは分からないものだ。
話をしているうちに町の中に入って、降りやすい場所に止めてもらった。
彼から先に降りてもらって、私も出ようとすると彼の手が前に出ていた。
「段差があって危ないから手を出せ、ソフィー」
愛称で実際に呼ばれると気恥ずかしさがあった。だけどこれであたふたしていては怪しまれる。
なるべく優雅に見えるように手を取って答える。
「ありがとう存じます、クリス」
私も問題なく言えて満足だ。馬車から降りて私は彼の横を歩く。やはり手は繋がないといけないらしい。
今日の彼はいつもの白いローブ姿で、道行く人々から注目を浴びていた。
やはり司祭となるとそのオーラが違うようで、誰もがクリストフだと気付いていた。
ふと誰か近づいてきたので、私はクリストフの影に隠れた。
「クリストフ様、ご結婚おめでとうございます!」
神官の一人が話しかけてきた。誰も彼の結婚に驚いていないところを見ると、どうやら私達の結婚はもうすでに広まっているようだった。
クリストフも普段の印象通り紳士的な対応をする。
「ありがとう。だが今日は彼女と仲を深めるための出かけにすぎない」
「おでかけ? ああ、ソフィア様もお近くにいらっしゃるのですね」
神官から見えない位置にいる私は、全く気付かれなかった。
クリストフは大きなため息を吐いて、背中側にいる私をチラッと見た。
「はぁ……まあよい。とりあえず私はいないものとして扱ってくれて構わない」
「かしこまりました!」
神官はおじぎを再度行ってから立ち去っていく。
私はようやく神官がいなくなったことにホッとした。
「いつまで隠れておる」
クリストフがため息交じりに言う。反射的に私は彼の背中に隠れた。
だって恐いものは恐い。
「クリスの背中なら絶対に守ってもらえると思いましたから……」
正直に言って彼の反応を待つ。くだらないことを言うなと怒られるかと思ったが、クリストフは無言だった。
何か考え事をしているのかと思ったが、彼はハッとなってやっと答えてくれた。
「もし恐くなったらすぐに俺の腕に掴め。背中では死角になって気付かん」
それは盲点だった。確かに彼の言うとおりだ。私は大きく頷いて了承した。
「ではずっと掴んでおけば一生安全ですね」
なんて言ってみたが、やはりまだ彼のことがほんのり恐いので緊急なときだけになるだろう。
散策を続けようと歩こうとしたが、彼の手に引っ張られて進まなかった。
彼は石像のように立ち止まっているせいで、手を繋いでいる私も進めない。
「どうかしましたか?」
「いいや……なんでもない」
クリストフは我に返ったかのようにまた一緒に歩き出す。
なぜだか彼の足取りが急に軽くなった気がする。
露店を見て回り、美味しそうな匂いが漂ってきてお腹が空いてきた。
――お金持ってくればよかった……。
まさかクリストフの家に泊まるとは思わずお金を持ち歩いていない。
美味しそうな串焼きが近くで売っているのに、ただ黙って見ているしかなかった。
「先ほどからあちらを見ているが、食べたいのなら私がお金を払うぞ」
「食べたくなんてありませんよ」
私は気持ちに嘘をつく。だがクリストフは笑っていた。
「顔が美味しそうと書いているぞ」
クリストフから魅力的な提案をされたが、こんなことで彼に甘えてはいけない。
流石に私も貴族の女として作法は学んでいる。買い食いなんてしたら、はしたないと思われてしまう。
「一応はクリスの妻ですので、買い食いなんかで貴方の評判まで下げたくありません」
昔は庶民の食べ物なんて馬鹿にしていたが、未来の私はそんな食べ物を好きになっていた。
安いが多くの工夫がされていたので、こういう露店の食べ物はたまに贅沢として食べていた。
またリタにお願いして買ってもらえばいいと考えていると、クリストフは私の手を引っ張り出した。
「く、クリス!?」
彼は串焼きの屋台へと行こうとする。そして店主へ指を二つ差し出した。
「二つもらえるか? 妻と一緒に食べないのだ」
店主はクリストフの顔を見て、途端に慌て出した。
「クリストフ様!? そんなお代なんて結構ですよ! いくらでも持って行ってくださいませ!」
流石は正教会のお膝元なだけあってクリストフの顔は知れ渡っていた。
だがクリストフは「経済を回すのも私の役目だ。気にせず受け取ってください」と、強引にお金を差し出していた。
「クリストフ様がそう仰るのでしたら……」
店主は二つの串焼きを焼いて、私とクリストフへと渡してくれた。
湯気を出している肉は食欲をそそり、早く食べたくなってきた。
クリストフは遠くを指差した。
「近くにベンチがあるからそこで食べよう」
「はい!」
温かいうちに食べないと美味しさが半減するため早く食べたい。
しかしクリストフと手を繋いでいるため私だけ走り出すわけにはいかなかった。
後ろにいる店主夫婦がこそこそと話す声が聞こえた。
「クリストフ様はずっとソフィア様を見られておったな」
「それだけ愛されているのでしょうね。ずっと微笑まれていましたし」
私はチラッとクリストフの顔を見てみると、不機嫌そうな顔で私を睨んでいた。
「なんだ?」
「い、いいえ! なんでもないです!」
慌てて目をそらした。絶対にあの店主達の目は節穴だ。
ものすごく不機嫌ではないか。やっぱり本当は買い食いを嫌がっていたのではないかと、なるべく表情を隠そうと決意した。
ベンチに座って、私はさっそく串焼きを食べようとクリストフへ尋ねる。
「食べてもよろしいですか?」
「許可なんぞ不要だ。食べたいのなら好きにしろ」
どうやらクリストフは自分が先に済ませないといけない性格ではないらしい。旦那を立てるのを気にする者もいるので、彼はそういう男ではないことに安心した。
「ではお先にいただきます。ふふんっ」
思わず鼻歌が出てしまい、先ほどのはしゃがないという密かな決意がさっそくと破ってしまった。
やはり美味しい物を前にして我慢なんてできようはずがないのだ。
「どうした?」
クリストフは食べるのを躊躇している私に尋ねた。
「いいえ。私ばかりはしゃいでクリスに迷惑を掛けてしまっているから……」
「くだらないことを気にするな。これくらいの迷惑なんて可愛いくらいだ」
クリストフはワイルドに串焼きをガッと噛みついた。普段の彼らしくない、優雅さに欠ける行動だ。
だけど彼は気にせず食べながら話す。
「偽装結婚とはいえ、お互いの関係は対等だ。何も気にするな」
とは言っても、私は彼がいなければ近い未来で魔女の破壊衝動に呑まれる恐れがあった。それなのに彼は私を正教会に突き出すことはせずに、逆に匿ってくれている。
もしこれがバレたら、司祭といえどもタダでは住まないはずだ。
どうしてそんな無茶をするのだろう。
「そんなに遠慮していると、ソフィーの分も食べるぞ」
「えっ……」
彼の顔が横を向いて、私の串焼きの一切れを噛み切った。
一番大きな部分が無くなり、彼はむしゃむしゃと食べていた。
私はあまりのショックに彼を睨んだ。
「ひどいです! あんまりです! 一番美味しそうなところではありませんか! 返してください!」
涙が出てきた。あまりの悲しさに彼を非難する。
だがクリストフは「うむ、初めて食べたが旨いな」と全く意に介さず。
それどころか意地悪そうな顔で見下ろしてきた。
「遠慮する方が悪い」
「なっ!」
私はその言動に腹が立って、彼の串焼きへと目を向けた。
そして私も彼がしたように一番大きな部分に噛みついた。
すると彼も驚く。
「おい! さっきまではしたないとか言っていなかったか」
「ひりえん!(しりません!)」
肉が思った以上に固くてなかなか噛み切れない。
変な体勢のまま動けず、逆に恥ずかしくなってきた。
「くくく……ははは!」
クリストフはこれまでで一番の笑い声をあげる。恥ずかしい私は引っ込むタイミングを逃して、必死に噛み切ろうとした。
「それなら俺が手伝ってやろう」
何をするのかと思っていたら、彼は串焼きを持っている腕を少し上げた。
私の首も上を向き、彼の顔が近づいてくるのが見える。
「えっ……」
私が噛み切ろうとした肉の反対側を口に挟み、彼は私とは逆方向に噛み切った。
ようやく私は肉を食べられたが、喉を通る間に今の行動に羞恥を覚えた。
「な、なんてことをするのですか!」
「其方がなかなか食べられないようだから手伝ったまでだ。ずっと竿に引っかかった魚のようにされては困るのでな」
私の訴えをただ面白そうに眺めてくる。どうにも調子が狂う。彼に対して遠慮する必要がないように感じてきた。
「存外に可愛かったぞ」
彼はにやにやとした顔をする。言い返したいが何を言ってもからかわれそうなので、私はそっぽ向いた。
「もうしりません!」
「拗ねるな。お詫びにあとで美味しい甘味処へ連れていってやる」
「……今回は許します」
彼の甘い誘惑に怒りは長続きしなかった。その時、遠くで大きな笑い声が聞こえてきた。
「かはははは! クリストフがまじで惚気てやがる!」
どうやらクリストフを知っている人物のようで、その声の主を探した
すぐにお腹を抱えている金髪の男性を見つけた。
クリストフと同じく高価な白いローブを着ており、彼を呼び捨てにしていることから、近しい地位に就いている方かもしれない。
だがクリストフは、とても嫌そうな顔をしていた。
さっきは間違いなくキスをされた。だけど彼が私に恋心を抱くはずがないので、何か意味があったと思っている。
正直に、あのキスはどういう意図があったのですか、と尋ねられたらどんなに楽か。
「ソフィア嬢、聞いているか?」
急に呼ばれて私はハッとなった。彼は食事を終えており、私に何か質問していたようだった。
「な、何ですか!」
話を全く聞いていなかったが、彼は特に怒ってはいないようで安心する。
「今日の予定だ。特に予定が無ければ一緒に近くの市場を回らないか?」
「市場ですか?」
私はこの付近の地図を思い出す。クリストフの別邸の近くにたしかに大きな町がある。だがそれは正教会の者達が主に住む町だ。
そんなの恐怖でしかない。
「こ、殺されませんよね?」
昔の記憶が蘇る。いたるところに私の懸賞金の張り紙が張っており、通報されるごとに神官達が私を襲ってきたのだ、
そのたびに先頭にはクリストフが現れるせいで、毎度恐い思いをしたのだ。
クリストフはやれやれといった顔をする。
「其方はまだ何もしておらぬだろうが。それに魔女と一般の人々を見分ける方法なんぞ、その魔女の刻印を見なければ分からん」
「そうなのですか?」
「ああ。昔は魔女狩りも頻繁に行っていたが、ほとんどは無実の者ばかりだったと聞く。伝承では痣しか書かれていないから、ただ転んだだけの者もいたらしい」
そんな恐ろしい時代ではなくて良かった。だけど私もバレたら、火あぶりに遭うに違いない。
どんどん恐ろしい想像が広がってきた。
「俺がずっと側にいるから離れなければいい。今後は視察のため、一緒に出かける機会も増えるのだから、これだけは慣れろ」
「かしこまりました……」
やっぱりクリストフとの結婚生活なんて無理があると思う。
だけど彼の力が無ければ私の魔女化が進行するので、頼らざるをえない。
暗い気持ちになるが、食後のアイスを食べたら急に気持ちが回復した。
やっぱり嫌なことがあったら甘い物に限る。
外行きの服に着替えて、私は彼と供に馬車に乗って町まで向かった。
丘をおりて少し進めば着くので、私は窓から景色を見ながら気分を紛らわせていた。
「ソフィア嬢、一点確認したい」
「ええ。どうかしましたか?」
「呼び名だが、愛称で呼び合うのはどうだ?」
思わずクリストフに、何を言っているのだ、という気持ちが顔に出てしまった。
私と彼は元々殺し合った仲で、そんな可愛い呼び名はお互いにきついだろう。
「そんな顔をするな。偽装結婚とはいえ、いつまでも他人行儀では怪しまれるからな」
「それでしたら呼び捨てでよろしいのではありませんか?」
「俺から言うには特に抵抗がないが、流石に其方が言うにはまずいだろ」
それもそうだと納得する。だけどなんと呼べば普通だろうか。
流石に、”クリちゃん”とか”クリ君”なんて馬鹿にしているとしか思われなさそうだ。
「定番といえば、あなた、とかですか?」
「ごほごほっ! それはダメだ!」
クリストフがむせながら否定された。まさかそれほど嫌がるなんて、失礼にもほどがある。
こんな調子で上手く結婚生活を送れるのだろうか。
やっとクリストフの咳が止まったので、別の案を出す。
「あとは旦那様とかはいかがですか?」
「それは他人行儀すぎだ」
どうしろというのだ。彼のわがままのせいで一生懸命頭を捻った。あとは何かあるだろうか。
するとクリストフがボソリと言う。
「昔はよくクリスと呼ばれていた」
「あっ、それいいですね! クリス!」
発音もしやすいし、短いので言いやすい。
それなら私も短くした方がいいかもしれない。
「なら私はソフィーはどうです? お父様達も好んで使いますので」
「ああ。ではそれで決まりだ。外ではお互いに愛称で呼び合うことにしよう」
ようやく呼び名が決まりホッとした。まさか彼とそんなことを言い合う日が来るとは、人生とは分からないものだ。
話をしているうちに町の中に入って、降りやすい場所に止めてもらった。
彼から先に降りてもらって、私も出ようとすると彼の手が前に出ていた。
「段差があって危ないから手を出せ、ソフィー」
愛称で実際に呼ばれると気恥ずかしさがあった。だけどこれであたふたしていては怪しまれる。
なるべく優雅に見えるように手を取って答える。
「ありがとう存じます、クリス」
私も問題なく言えて満足だ。馬車から降りて私は彼の横を歩く。やはり手は繋がないといけないらしい。
今日の彼はいつもの白いローブ姿で、道行く人々から注目を浴びていた。
やはり司祭となるとそのオーラが違うようで、誰もがクリストフだと気付いていた。
ふと誰か近づいてきたので、私はクリストフの影に隠れた。
「クリストフ様、ご結婚おめでとうございます!」
神官の一人が話しかけてきた。誰も彼の結婚に驚いていないところを見ると、どうやら私達の結婚はもうすでに広まっているようだった。
クリストフも普段の印象通り紳士的な対応をする。
「ありがとう。だが今日は彼女と仲を深めるための出かけにすぎない」
「おでかけ? ああ、ソフィア様もお近くにいらっしゃるのですね」
神官から見えない位置にいる私は、全く気付かれなかった。
クリストフは大きなため息を吐いて、背中側にいる私をチラッと見た。
「はぁ……まあよい。とりあえず私はいないものとして扱ってくれて構わない」
「かしこまりました!」
神官はおじぎを再度行ってから立ち去っていく。
私はようやく神官がいなくなったことにホッとした。
「いつまで隠れておる」
クリストフがため息交じりに言う。反射的に私は彼の背中に隠れた。
だって恐いものは恐い。
「クリスの背中なら絶対に守ってもらえると思いましたから……」
正直に言って彼の反応を待つ。くだらないことを言うなと怒られるかと思ったが、クリストフは無言だった。
何か考え事をしているのかと思ったが、彼はハッとなってやっと答えてくれた。
「もし恐くなったらすぐに俺の腕に掴め。背中では死角になって気付かん」
それは盲点だった。確かに彼の言うとおりだ。私は大きく頷いて了承した。
「ではずっと掴んでおけば一生安全ですね」
なんて言ってみたが、やはりまだ彼のことがほんのり恐いので緊急なときだけになるだろう。
散策を続けようと歩こうとしたが、彼の手に引っ張られて進まなかった。
彼は石像のように立ち止まっているせいで、手を繋いでいる私も進めない。
「どうかしましたか?」
「いいや……なんでもない」
クリストフは我に返ったかのようにまた一緒に歩き出す。
なぜだか彼の足取りが急に軽くなった気がする。
露店を見て回り、美味しそうな匂いが漂ってきてお腹が空いてきた。
――お金持ってくればよかった……。
まさかクリストフの家に泊まるとは思わずお金を持ち歩いていない。
美味しそうな串焼きが近くで売っているのに、ただ黙って見ているしかなかった。
「先ほどからあちらを見ているが、食べたいのなら私がお金を払うぞ」
「食べたくなんてありませんよ」
私は気持ちに嘘をつく。だがクリストフは笑っていた。
「顔が美味しそうと書いているぞ」
クリストフから魅力的な提案をされたが、こんなことで彼に甘えてはいけない。
流石に私も貴族の女として作法は学んでいる。買い食いなんてしたら、はしたないと思われてしまう。
「一応はクリスの妻ですので、買い食いなんかで貴方の評判まで下げたくありません」
昔は庶民の食べ物なんて馬鹿にしていたが、未来の私はそんな食べ物を好きになっていた。
安いが多くの工夫がされていたので、こういう露店の食べ物はたまに贅沢として食べていた。
またリタにお願いして買ってもらえばいいと考えていると、クリストフは私の手を引っ張り出した。
「く、クリス!?」
彼は串焼きの屋台へと行こうとする。そして店主へ指を二つ差し出した。
「二つもらえるか? 妻と一緒に食べないのだ」
店主はクリストフの顔を見て、途端に慌て出した。
「クリストフ様!? そんなお代なんて結構ですよ! いくらでも持って行ってくださいませ!」
流石は正教会のお膝元なだけあってクリストフの顔は知れ渡っていた。
だがクリストフは「経済を回すのも私の役目だ。気にせず受け取ってください」と、強引にお金を差し出していた。
「クリストフ様がそう仰るのでしたら……」
店主は二つの串焼きを焼いて、私とクリストフへと渡してくれた。
湯気を出している肉は食欲をそそり、早く食べたくなってきた。
クリストフは遠くを指差した。
「近くにベンチがあるからそこで食べよう」
「はい!」
温かいうちに食べないと美味しさが半減するため早く食べたい。
しかしクリストフと手を繋いでいるため私だけ走り出すわけにはいかなかった。
後ろにいる店主夫婦がこそこそと話す声が聞こえた。
「クリストフ様はずっとソフィア様を見られておったな」
「それだけ愛されているのでしょうね。ずっと微笑まれていましたし」
私はチラッとクリストフの顔を見てみると、不機嫌そうな顔で私を睨んでいた。
「なんだ?」
「い、いいえ! なんでもないです!」
慌てて目をそらした。絶対にあの店主達の目は節穴だ。
ものすごく不機嫌ではないか。やっぱり本当は買い食いを嫌がっていたのではないかと、なるべく表情を隠そうと決意した。
ベンチに座って、私はさっそく串焼きを食べようとクリストフへ尋ねる。
「食べてもよろしいですか?」
「許可なんぞ不要だ。食べたいのなら好きにしろ」
どうやらクリストフは自分が先に済ませないといけない性格ではないらしい。旦那を立てるのを気にする者もいるので、彼はそういう男ではないことに安心した。
「ではお先にいただきます。ふふんっ」
思わず鼻歌が出てしまい、先ほどのはしゃがないという密かな決意がさっそくと破ってしまった。
やはり美味しい物を前にして我慢なんてできようはずがないのだ。
「どうした?」
クリストフは食べるのを躊躇している私に尋ねた。
「いいえ。私ばかりはしゃいでクリスに迷惑を掛けてしまっているから……」
「くだらないことを気にするな。これくらいの迷惑なんて可愛いくらいだ」
クリストフはワイルドに串焼きをガッと噛みついた。普段の彼らしくない、優雅さに欠ける行動だ。
だけど彼は気にせず食べながら話す。
「偽装結婚とはいえ、お互いの関係は対等だ。何も気にするな」
とは言っても、私は彼がいなければ近い未来で魔女の破壊衝動に呑まれる恐れがあった。それなのに彼は私を正教会に突き出すことはせずに、逆に匿ってくれている。
もしこれがバレたら、司祭といえどもタダでは住まないはずだ。
どうしてそんな無茶をするのだろう。
「そんなに遠慮していると、ソフィーの分も食べるぞ」
「えっ……」
彼の顔が横を向いて、私の串焼きの一切れを噛み切った。
一番大きな部分が無くなり、彼はむしゃむしゃと食べていた。
私はあまりのショックに彼を睨んだ。
「ひどいです! あんまりです! 一番美味しそうなところではありませんか! 返してください!」
涙が出てきた。あまりの悲しさに彼を非難する。
だがクリストフは「うむ、初めて食べたが旨いな」と全く意に介さず。
それどころか意地悪そうな顔で見下ろしてきた。
「遠慮する方が悪い」
「なっ!」
私はその言動に腹が立って、彼の串焼きへと目を向けた。
そして私も彼がしたように一番大きな部分に噛みついた。
すると彼も驚く。
「おい! さっきまではしたないとか言っていなかったか」
「ひりえん!(しりません!)」
肉が思った以上に固くてなかなか噛み切れない。
変な体勢のまま動けず、逆に恥ずかしくなってきた。
「くくく……ははは!」
クリストフはこれまでで一番の笑い声をあげる。恥ずかしい私は引っ込むタイミングを逃して、必死に噛み切ろうとした。
「それなら俺が手伝ってやろう」
何をするのかと思っていたら、彼は串焼きを持っている腕を少し上げた。
私の首も上を向き、彼の顔が近づいてくるのが見える。
「えっ……」
私が噛み切ろうとした肉の反対側を口に挟み、彼は私とは逆方向に噛み切った。
ようやく私は肉を食べられたが、喉を通る間に今の行動に羞恥を覚えた。
「な、なんてことをするのですか!」
「其方がなかなか食べられないようだから手伝ったまでだ。ずっと竿に引っかかった魚のようにされては困るのでな」
私の訴えをただ面白そうに眺めてくる。どうにも調子が狂う。彼に対して遠慮する必要がないように感じてきた。
「存外に可愛かったぞ」
彼はにやにやとした顔をする。言い返したいが何を言ってもからかわれそうなので、私はそっぽ向いた。
「もうしりません!」
「拗ねるな。お詫びにあとで美味しい甘味処へ連れていってやる」
「……今回は許します」
彼の甘い誘惑に怒りは長続きしなかった。その時、遠くで大きな笑い声が聞こえてきた。
「かはははは! クリストフがまじで惚気てやがる!」
どうやらクリストフを知っている人物のようで、その声の主を探した
すぐにお腹を抱えている金髪の男性を見つけた。
クリストフと同じく高価な白いローブを着ており、彼を呼び捨てにしていることから、近しい地位に就いている方かもしれない。
だがクリストフは、とても嫌そうな顔をしていた。
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