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第二章

第五話① 「君の子猫のごとき気ままさは愛されるべきだが……万人に受け入れられるものもまた存在しない」

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 飢えともどかしさがクルトの奥から湧き上がる。肌はすべらかな布に触れ、体は温かく柔らかなものにくるまれていた。もどかしさは頬を撫でる誰かの手から生まれる。覚醒が近くなると手の持ち主は誰なのか、すぐに察せられた。

「もういいっての……ディートリヒ」

 クルトは逡巡のあとにその名を呼んだ。指は去ったかと思わせて下唇をしつこくなぞりにくる。クルトの体は再度の情交をねだって疼いた。心のほうは比べて少し冷静なようだ。
 クルトは目覚めを引き寄せる。まぶたをこじ開け指を操る男をにらんだ。そいつは寝台のそばに置かれた椅子にかけている。差し込む夕日は暗く、時刻は夜に近い。陰鬱さのある光はディートリヒの深く彫られた美貌を際立たせている。
 ディートリヒは寂しげな顔を一瞬で穏やかなものに変えた。クルトはころころ表情を変えるディートリヒがどうにも信用できない。寂しそうな顔もどうせ演技だろう。

「私がそうさせたと思うとたまらなく愛おしい」
「なにがだ。手を引っ込めろ」
「クルトの清らだった唇が今やあえかに膨らんで赤みも増している……とても綺麗だ」
「お前がめちゃくちゃ吸ってくるからだろ!」
「ああ。君は応えてくれた……ありがとう、クルト」

 クルトは舌打ちを繰り出し、顔を振って逃げた。ディートリヒはクルトの耳たぶを揉む。優しくも妖しい指さばきがクルトの体を落とそうとしていた。

「他の人間には愛らしく口づけをねだらないでほしい。その男か女を……害してやりたくなるからね」
(俺への嫌がらせにずいぶんとご執心だな……格下の俺に惑わされて悔しいってか?)

 ディートリヒの昂りはクルトそのものに向いていない。横の男はクルトを嫌がらせるために突き動いている。クルトの痴態に興をそそのかされはしたが、クルト自身を欲してはいない。
 怒りで胸が溶かされそうだった。情を交わす相手から放たれる五感への情報に、陶酔しているのは自分だけ。頭の奥で細い糸がもつれて絡まっていく。体を柔らかく受け止める寝台も、心が落ち着くような素朴な内装もどうでもいい。

「服直して返せよ」
「替えはもちろんあるが……」
「それと腹減った。なんか食わせろ」
「湯浴みはいいのか?」
「だるくて風呂入ってる場合じゃねーわ」

 お前のせいで。クルトはわざとらしく瞬きをして熱く感じさせるような視線をディートリヒへ注ぐ。ディートリヒは頬に薔薇色を散らし、唇をわずかに引き結んでうつむいた。

(あんな思惑に乗ってくるとは思わなかった。俺の生意気な言動に切れてタガでも外れたのか?ならせいぜい傍若無人に振る舞うか)
「どうせ魔法で汗なんかは落としたんだろ? それ以上は別にいい」

 クルトが上半身を起こそうとするとディートリヒが手伝ってくる。クルトは逆らわずディートリヒの手の甲に手を重ねた。甲に浮いた関節と腱はどこまでも美しく整っている。肌はさらりとしていて石膏を思わせた。
 クルトの動きにつられてナイトガウンがはだけていく。胸や腹に鬱血痕がいくつもあった。この肌を他人にはさらしにくい。

(このデカブツは俺を娼館に行かせたくないらしい。たいした嫌がらせ根性だな)

 クルトはキスの名残には反応せず無視を決め込んだ。回りくどい手段も使うのか。騎士の鑑らしくはない。クルトの心臓の付近はよくないものを詰められたようになった。どうにも正体をつかめない不快さだ。
 なにも言わないクルトをなんだと思ったのか。ディートリヒはクルトをさらうようにして横抱きにした。

「ガキ扱いはやめろ」

 ディートリヒは頬を少し緩め、白い歯の先をのぞかせる。

「君という尊い存在を丁重に扱うのは当然だろう?」
(よく回る口だ。この技量で他のやつは転がせても俺はそういくかよ!)
「……そうかよ」

 クルトは顔をディートリヒの胸に預けた。心臓の音が頭に響き、蜂蜜と香草の香りが胸を満たす。ディートリヒの胸はつつけば弾くような芯を秘めている。羽毛に似た柔らかさが芯を覆っていた。揉んでみるとディートリヒは少し体をはねさせる。心臓の音と匂い、柔らかさは不快を和らげた。眠ってしまいそうだ。クルトはディートリヒの歩みの振動でなんとか起きていられる。

「ガウンだと涼しいっつーか寒い……」

 もごもごと口を動かすうちに食堂に着いた。薄着のクルトには適温だが、そのほかはどうだろう。
 控える使用人は少なく、貴族の食堂にしては小さい。ディートリヒが向かいではなく隣りに座って、使用人からカトラリーや料理を受け取って並べていく。
 のどごしの良い野菜のゼリー寄せ、ミートローフとタルタルを挟んだ薄い白パンにとろみのあるポタージュ。フォン・ローゼンクランツ侯爵家の料理だけあって軽食でも手抜かりなく美味しい。

「侯爵子息じきじきに世話を焼いてくれるだなんて光栄すぎて心臓が止まるわ~」

 ハイマンどもが見たら卒倒するだろう。クルトは唇の端を歪めた。

「これもそういう技量や技術のうちってか? 俺はそれより……」

 クルトは自分の下半身を見たが、ディートリヒは肌触りのよいナフキンで口の周りを拭くだけだった。

「クルトにはまだ早いよ。キスもおぼつかないというのに」
「そんじゃ、せいぜい教えてくれよ」
 
 傷も曇りもないフォーク、つるりとして清潔そのものの食器。クルトが食べ進めると汚れていくものたちだ。

「このあと家に帰るから送っていけ」

 部屋の空気とディートリヒに緊張が走る。室温は十分なのに、クルトは総毛だった。ディートリヒはクルトのあごをすくって、緑の瞳へ視線を注ぐ。今、ディートリヒの甘やかな琥珀の瞳は粘って熱くてドロドロの、カラメルになる手前の砂糖水だ。

「どうしてだい? 娼館に行く気があるのか? 精力が尽きるくらいに激しく求めておきながら……随分と欲深い上にひどく薄情だな、クルトは」

 ディートリヒの漏れだす魔力がクルトの肌を叩いていく。

「私だけでは足りない? あの達し方だけでは足りない? クルトはもっと強い快楽がほしい? それもこの場で……」
 
 腹の奥へ流れ込みそうでクルトは少し焦った。

(うまく有耶無耶にできなかったからって機嫌悪くしてんじゃねえよ……意外と幼稚なのか? 今まではうまく騙せて丸め込めたから失敗して経験がないとか?)

 クルトは唇を尖らせてディートリヒをにらむ。

「一応考えてやるって言ったろ」

 ディートリヒの指がクルトの開いた唇の端に入りこんだ。やたらと熱いその指を押しのける。

「お前……ディートリヒが体を使わせたら人の話を聞いてやってもいいって。お袋は俺にも人助けとやらをさせたくてウズウズしてんだ。たまには話くらい聞いてやんのも親孝行だろ」

 指はクルトの唇から首筋、ガウンの隙間へ落ちていった。クルトの素肌へ、弱いながらも爪が食い込む。

「私も着いていこう。昨日の朝はクルトが帰ったと聞いて挨拶も短く踵を返してしまったからな。使いは出したがあまりにも無作法だろう? いいだろうか、クルト」

 有無を言わせない声だ。これが大貴族の迫力というものだろうか。もとよりディートリヒを近くでなぶりたいクルトは反論せず軽い口調で了承した。
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