19 / 21
引っ越し先にて
しおりを挟む「実は今月末で引越しすることになりまして…」
2024年6月19日。
石川光太郎(いしかわ・こうたろう)は、5年間住んだマンションの隣の部屋の老婦人角田澄子(かどた・すみこ)に転居の挨拶をするため、インターホンを押した。
光太郎はマッサージ師の道原麗子(どうはら・れいこ)と2019年に結婚し籍を入れたその日からこのマンションで暮らし始めた。
同じマンションの住人は互いにほとんど挨拶もしない中、澄子だけは気さくに声をかけ続けてくれた。せめてこの人にだけは最後に挨拶をしたいと思い、澄子が好きだと言っていた黒豆煎餅を手土産とした。
「いやあ、残念だわぁ」
玄関の戸を開けた瞬間、澄子の正直な心の声が漏れた。
「あなたたちだけなのよ、私みたいなおばあさんに毎回挨拶をしてくれるのは。どちらにお引っ越しなさるの?」
「西井戸町に中古の一軒家を買いまして」
西井戸町は、光太郎たちがすむ通葉市にある地域で、駅からは離れているため交通の便は悪いが治安が良く、小中学校の校区としては市内で最も人気である。
澄子は満面の笑みを浮かべた。新たなステージに進む若者を応援する、理想的な年長者の穏やかな笑顔である。
「あら、おめでとう!西井戸町とは素敵ね、安心して暮らせるわ。これからたくさんの想い出が待ってるわよ。楽しんでね。時が過ぎるのは早いから、1日1日を噛み締めてくださいね、赤ちゃんと共にね」
澄子は麗子のお腹をにっこりしながら見つめて言った。
「あ、やっぱり分かります?8月に産まれる予定なんです」
さすがは人生の大先輩である。今まで数多くの妊婦を見てきたのであろう。
◇
6月29日。
「オーライ、オーライ、はいオッケーでえす」
大きなトラックが、光太郎の住むマンションに停まった。
「いよいよ引っ越しかあ。麗子、ここにはたくさんの思い出が詰まってるよね」
光太郎の目には光るものがあった。
この5年間、幾多の人生のターニングポイントをこの部屋で迎え、人間として成長してきた光太郎。
次なるステージに進むとはいえ、さみしさがないといえば嘘になる。
「光ちゃん、今まで本当に頑張ってきたもんね。でも、西井戸町はもっと静かだから、あなたの心にはきっと平穏が訪れるはず」
麗子は光太郎の背中に手をやり、優しくさすった。
「ああ、西井戸町の素晴らしさは毎日感じているよ」
光太郎はこの5年間で何度も転職を繰り返し、2022年4月から西井戸町にある小さな塾で働いている。
その塾で働き始めてからそれまで悪かった体調が急激に良くなり、趣味に仕事に全力を注げるようになったのだ。
そんな西井戸町に惚れ込み、子どもができたらいつか住みたいと常々話してきた。
それがついに現実となるのだ。
1時間ほど経ち、かつて2人が生活していた部屋は、5年前に内見した姿に戻ってしまった。
「なーんにもなくなっちゃった…。俺たちって、本当にここに住んでたのかなぁ」
小さな声で呟きながら、光太郎はマンションの鍵を閉めた。
◇
2025年、1月1日。
(ガシャン)
光太郎と麗子の家のポストが音を立てた。
「年賀状か」
光太郎はポストから5枚ほどの年賀状を取り出した。
「最近は送ってくれる人もめっきり減って…。あ!」
「お元気な赤ちゃんとお過ごしのことと思います。今までありがとうございました。素敵な人生を歩まれることを願っております」
年賀状の主は、かつての隣人の澄子だった。宛先を見ると、前の住所の上から西井戸町の住所が上書きされていた。
「あ、転送設定してるの知ってたんだ」
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
【Vtuberさん向け】1人用フリー台本置き場《ネタ系/5分以内》
小熊井つん
大衆娯楽
Vtuberさん向けフリー台本置き場です
◆使用報告等不要ですのでどなたでもご自由にどうぞ
◆コメントで利用報告していただけた場合は聞きに行きます!
◆クレジット表記は任意です
※クレジット表記しない場合はフリー台本であることを明記してください
【ご利用にあたっての注意事項】
⭕️OK
・収益化済みのチャンネルまたは配信での使用
※ファンボックスや有料会員限定配信等『金銭の支払いをしないと視聴できないコンテンツ』での使用は不可
✖️禁止事項
・二次配布
・自作発言
・大幅なセリフ改変
・こちらの台本を使用したボイスデータの販売
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
【ショートショート】おやすみ
樹(いつき)@作品使用時は作者名明記必須
恋愛
◆こちらは声劇用台本になりますが普通に読んで頂いても癒される作品になっています。
声劇用だと1分半ほど、黙読だと1分ほどで読みきれる作品です。
⚠動画・音声投稿サイトにご使用になる場合⚠
・使用許可は不要ですが、自作発言や転載はもちろん禁止です。著作権は放棄しておりません。必ず作者名の樹(いつき)を記載して下さい。(何度注意しても作者名の記載が無い場合には台本使用を禁止します)
・語尾変更や方言などの多少のアレンジはokですが、大幅なアレンジや台本の世界観をぶち壊すようなアレンジやエフェクトなどはご遠慮願います。
その他の詳細は【作品を使用する際の注意点】をご覧下さい。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる