森を抜けたらそこは異世界でした

日彩

文字の大きさ
上 下
52 / 94
番外編

豪華ディナー(1)

しおりを挟む
 幾何学大学医学部の医局では、複数の職員が忙しげに日々の業務に追われていた。
  そこに所属する遠野瑞穂も、勿論例外ではない。

 「遠野さーん、こっちもお願いできるかしら?」
 「はいはーい、今行きまーす」

  婦長からの呼びかけに、瑞穂は駆け出していった。
  立て続けに入ってくる仕事を、瑞穂はテキパキとこなしている。
  医師達は、不思議そうに彼女を見た。

  何故ならこんなにハキハキとした彼女は珍しいからだ。
  低血圧で、朝が苦手な瑞穂は、午前中は機嫌が悪く、何かあっても「へー」「ふーん」「そう」と短くも適当な返事しか返ってこないのだ。

  いつもにまして忙しい朝であるにも関わらず、今日の彼女はすこぶる機嫌が良い。

 「遠野くん、今日は張り切ってんなぁ」
 「何か良い事でもあったんじゃないですか?」

  医局に訪れた医師達は、笑顔で働く瑞穂に対し、そんな風に話をしていた。
  最も、本人はいつもと同じように振舞っているつもりだったのだが……それは隠し切れなかった。

――そう、彼女にとって、最上の幸せが訪れていたのである。

  それは、昨夜、瑞穂が入浴後、髪を乾かしていた時にかかってきた一本の電話がもたらした。

 「夜遅くすまない。例の服を貸してくれた礼がしたいのだが……」

  電話の相手は、白石十樹からのものだ。

  瑞穂は、白石兄弟に会う度に、かつての借りを豪華ディナーと言う形で返す様請求してきたのだが、ようやくその成果が出たのである。
  しかも、十樹が待ち合わせに指定したホテルは、超一流の「マリオネッタホテル」だ。

  今晩には、そのマリオネッタホテルで、豪華ディナーを食している自分を想像して、瑞穂はすこぶる上機嫌なのだった。

 (豪華ディナー♪ 豪華ディナー♪ 今晩は、何を着ていこうかしら♪)

                    ☆

 フンフーンと、鼻歌を歌いながら、病院のカルテ整理をする瑞穂を見ている、一人の男性医師がいた。
 「今日なら、きっとイケる!」と力拳を握る。
  幾何学大学の内科医師、宮川佑である。
  宮川佑は、兼ねてより、瑞穂の快活な性格に惹かれ、秘かに恋心を抱き、告白のチャンスをうかがっていたのだ。

  カルテ整理を行っている部屋は死角が多く、二人きりになる絶好の機会のように思えた。
  佑は、勇気を振り絞って、瑞穂に声をかけた。

 「あの、遠野さん」
 「はい、何かしら?」

  瑞穂は笑顔で振り向くが、その心は豪華ディナーの事で頭が一杯だという事に、佑が気付くはずもなかった。
  佑は、僕の呼びかけに、こんなに素敵な笑顔を返してくれるなんて……と幸せに満ちた勘違いをしていた。

 「今晩、僕に付き合ってもらえないですか? 大事なお話があるんです」

  佑は、顔を赤らめて言った。

 「どこに付き合えばいいの?」
 「えっ!? えーと、ホテルオークランドのレストランに、僕の名前で予約を入れておきますから、一緒に食事しませんか?」
 「今晩?」

  瑞穂は悩んだ。勿論、十樹との約束があったからである。

  どちらを断ればいいのか。
  ホテルオークランドと、マリオネッタホテル、どちらも超一流のホテルだからだ。

 「今晩じゃないと、ダメなんです!」

  佑は、自分の決心が揺らぐ前に、もとい、瑞穂の機嫌が良いうちに、長年の自分の想いを伝えたかったのだ。

  瑞穂は、オークランドとマリオネッタは、どちらの方が高級で、より美味しい食事が出来るのか分からず迷っていた。

 「ちょっと考えさせて」
 「分かりました」

  佑は、自分の想いに答えようかどうか迷っている(はず)の瑞穂にそう告げると、カルテが置いてある部屋から出た。

 「オークランドとマリオネッタか……」

  佑の心とは裏腹に、瑞穂は、あくまでも食事の事しか頭にはない。

                  ☆

 ホテルオークランドのメイン料理は、若鶏のグリル、ラタツゥイユと二種のソース、マリオネッタホテルのメインは、ビーフストロガノフ……。

 (ああ、どっちも捨てがたいわ!)

  身体が二つ欲しいと、頭を悩ませる瑞穂が、患者のカルテを持って廊下を歩いていると、白石桂樹と出会った。
  桂樹は、瑞穂の顔を見ると「ディナーを奢らされる!」と、毎日逃げ回っていたのだが、今日の彼は違った。

 「ああ、いた。おい瑞穂、うろちょろするなよ。随分捜したぞ」
 「仕事が一杯なのよ。桂樹君、一体何の用?」
 「例の豪華ディナー、今日奢ってやるから、ホテルアソシアットに、夜七時に来い」
 「ホテルアソシアットって……」
 「活きのいいのが入ったんだ。屋上で待ってるからなっ!」

  桂樹は、そう言い残すと、足早に走って行ってしまった。
  瑞穂が何も言えないまま走り去ってしまった為、ますます頭を悩ませる結果になってしまった。

 (――ホテルアソシアットって、桂樹君、貧乏そうだけど、そんな高級な所に行くお金があったのね……)

  ふと、瑞穂はある情報を思い出した。

 (思えば、アソシアットは、先日、高級マグロを一億円で競り落としたって話があったわね。活きのいいのが入ったって、そういう事かしら……)

  瑞穂は念のため、アソシアットホテルに電話をかけて確認した。

 『はい、ホテルアソシアットでございます』
 「すみません。今日お勧めのメイン料理を教えて欲しいんですが」
 『はい、本日は「マグロのカルパッチョと高原野菜のテリーヌ三種のソースがお勧めとなっております』
 「あの、それってニュースで言ってた、競り落とされたっていう」
 『左様でございます』

  アソシアットホテルのフロントの言葉を確認して、瑞穂は電話を切った。
  瑞穂の心は決まった。

 (若鶏や、ビーフストロガノフは今日じゃなくてもいつでも食べれる。でもマグロは鮮度が命! 今日しかない!)



しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

「おまえを愛することはない!」と言ってやったのに、なぜ無視するんだ!

七辻ゆゆ
ファンタジー
俺を見ない、俺の言葉を聞かない、そして触れられない。すり抜ける……なぜだ? 俺はいったい、どうなっているんだ。 真実の愛を取り戻したいだけなのに。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

あなたの愛はいりません

oro
恋愛
「私がそなたを愛することは無いだろう。」 初夜当日。 陛下にそう告げられた王妃、セリーヌには他に想い人がいた。

断腸の思いで王家に差し出した孫娘が婚約破棄されて帰ってきた

兎屋亀吉
恋愛
ある日王家主催のパーティに行くといって出かけた孫娘のエリカが泣きながら帰ってきた。買ったばかりのドレスは真っ赤なワインで汚され、左頬は腫れていた。話を聞くと王子に婚約を破棄され、取り巻きたちに酷いことをされたという。許せん。戦じゃ。この命燃え尽きようとも、必ずや王家を滅ぼしてみせようぞ。

前世を思い出しました。恥ずかしすぎて、死んでしまいそうです。

棚から現ナマ
恋愛
前世を思い出したフィオナは、今までの自分の所業に、恥ずかしすぎて身もだえてしまう。自分は痛い女だったのだ。いままでの黒歴史から目を背けたい。黒歴史を思い出したくない。黒歴史関係の人々と接触したくない。 これからは、まっとうに地味に生きていきたいの。 それなのに、王子様や公爵令嬢、王子の側近と今まで迷惑をかけてきた人たちが向こうからやって来る。何でぇ?ほっといて下さい。お願いします。恥ずかしすぎて、死んでしまいそうです。

いっとう愚かで、惨めで、哀れな末路を辿るはずだった令嬢の矜持

空月
ファンタジー
古くからの名家、貴き血を継ぐローゼンベルグ家――その末子、一人娘として生まれたカトレア・ローゼンベルグは、幼い頃からの婚約者に婚約破棄され、遠方の別荘へと療養の名目で送られた。 その道中に惨めに死ぬはずだった未来を、突然現れた『バグ』によって回避して、ただの『カトレア』として生きていく話。 ※悪役令嬢で婚約破棄物ですが、ざまぁもスッキリもありません。 ※以前投稿していた「いっとう愚かで惨めで哀れだった令嬢の果て」改稿版です。文章量が1.5倍くらいに増えています。

処理中です...