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番外編
豪華ディナー(1)
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幾何学大学医学部の医局では、複数の職員が忙しげに日々の業務に追われていた。
そこに所属する遠野瑞穂も、勿論例外ではない。
「遠野さーん、こっちもお願いできるかしら?」
「はいはーい、今行きまーす」
婦長からの呼びかけに、瑞穂は駆け出していった。
立て続けに入ってくる仕事を、瑞穂はテキパキとこなしている。
医師達は、不思議そうに彼女を見た。
何故ならこんなにハキハキとした彼女は珍しいからだ。
低血圧で、朝が苦手な瑞穂は、午前中は機嫌が悪く、何かあっても「へー」「ふーん」「そう」と短くも適当な返事しか返ってこないのだ。
いつもにまして忙しい朝であるにも関わらず、今日の彼女はすこぶる機嫌が良い。
「遠野くん、今日は張り切ってんなぁ」
「何か良い事でもあったんじゃないですか?」
医局に訪れた医師達は、笑顔で働く瑞穂に対し、そんな風に話をしていた。
最も、本人はいつもと同じように振舞っているつもりだったのだが……それは隠し切れなかった。
――そう、彼女にとって、最上の幸せが訪れていたのである。
それは、昨夜、瑞穂が入浴後、髪を乾かしていた時にかかってきた一本の電話がもたらした。
「夜遅くすまない。例の服を貸してくれた礼がしたいのだが……」
電話の相手は、白石十樹からのものだ。
瑞穂は、白石兄弟に会う度に、かつての借りを豪華ディナーと言う形で返す様請求してきたのだが、ようやくその成果が出たのである。
しかも、十樹が待ち合わせに指定したホテルは、超一流の「マリオネッタホテル」だ。
今晩には、そのマリオネッタホテルで、豪華ディナーを食している自分を想像して、瑞穂はすこぶる上機嫌なのだった。
(豪華ディナー♪ 豪華ディナー♪ 今晩は、何を着ていこうかしら♪)
☆
フンフーンと、鼻歌を歌いながら、病院のカルテ整理をする瑞穂を見ている、一人の男性医師がいた。
「今日なら、きっとイケる!」と力拳を握る。
幾何学大学の内科医師、宮川佑である。
宮川佑は、兼ねてより、瑞穂の快活な性格に惹かれ、秘かに恋心を抱き、告白のチャンスをうかがっていたのだ。
カルテ整理を行っている部屋は死角が多く、二人きりになる絶好の機会のように思えた。
佑は、勇気を振り絞って、瑞穂に声をかけた。
「あの、遠野さん」
「はい、何かしら?」
瑞穂は笑顔で振り向くが、その心は豪華ディナーの事で頭が一杯だという事に、佑が気付くはずもなかった。
佑は、僕の呼びかけに、こんなに素敵な笑顔を返してくれるなんて……と幸せに満ちた勘違いをしていた。
「今晩、僕に付き合ってもらえないですか? 大事なお話があるんです」
佑は、顔を赤らめて言った。
「どこに付き合えばいいの?」
「えっ!? えーと、ホテルオークランドのレストランに、僕の名前で予約を入れておきますから、一緒に食事しませんか?」
「今晩?」
瑞穂は悩んだ。勿論、十樹との約束があったからである。
どちらを断ればいいのか。
ホテルオークランドと、マリオネッタホテル、どちらも超一流のホテルだからだ。
「今晩じゃないと、ダメなんです!」
佑は、自分の決心が揺らぐ前に、もとい、瑞穂の機嫌が良いうちに、長年の自分の想いを伝えたかったのだ。
瑞穂は、オークランドとマリオネッタは、どちらの方が高級で、より美味しい食事が出来るのか分からず迷っていた。
「ちょっと考えさせて」
「分かりました」
佑は、自分の想いに答えようかどうか迷っている(はず)の瑞穂にそう告げると、カルテが置いてある部屋から出た。
「オークランドとマリオネッタか……」
佑の心とは裏腹に、瑞穂は、あくまでも食事の事しか頭にはない。
☆
ホテルオークランドのメイン料理は、若鶏のグリル、ラタツゥイユと二種のソース、マリオネッタホテルのメインは、ビーフストロガノフ……。
(ああ、どっちも捨てがたいわ!)
身体が二つ欲しいと、頭を悩ませる瑞穂が、患者のカルテを持って廊下を歩いていると、白石桂樹と出会った。
桂樹は、瑞穂の顔を見ると「ディナーを奢らされる!」と、毎日逃げ回っていたのだが、今日の彼は違った。
「ああ、いた。おい瑞穂、うろちょろするなよ。随分捜したぞ」
「仕事が一杯なのよ。桂樹君、一体何の用?」
「例の豪華ディナー、今日奢ってやるから、ホテルアソシアットに、夜七時に来い」
「ホテルアソシアットって……」
「活きのいいのが入ったんだ。屋上で待ってるからなっ!」
桂樹は、そう言い残すと、足早に走って行ってしまった。
瑞穂が何も言えないまま走り去ってしまった為、ますます頭を悩ませる結果になってしまった。
(――ホテルアソシアットって、桂樹君、貧乏そうだけど、そんな高級な所に行くお金があったのね……)
ふと、瑞穂はある情報を思い出した。
(思えば、アソシアットは、先日、高級マグロを一億円で競り落としたって話があったわね。活きのいいのが入ったって、そういう事かしら……)
瑞穂は念のため、アソシアットホテルに電話をかけて確認した。
『はい、ホテルアソシアットでございます』
「すみません。今日お勧めのメイン料理を教えて欲しいんですが」
『はい、本日は「マグロのカルパッチョと高原野菜のテリーヌ三種のソースがお勧めとなっております』
「あの、それってニュースで言ってた、競り落とされたっていう」
『左様でございます』
アソシアットホテルのフロントの言葉を確認して、瑞穂は電話を切った。
瑞穂の心は決まった。
(若鶏や、ビーフストロガノフは今日じゃなくてもいつでも食べれる。でもマグロは鮮度が命! 今日しかない!)
そこに所属する遠野瑞穂も、勿論例外ではない。
「遠野さーん、こっちもお願いできるかしら?」
「はいはーい、今行きまーす」
婦長からの呼びかけに、瑞穂は駆け出していった。
立て続けに入ってくる仕事を、瑞穂はテキパキとこなしている。
医師達は、不思議そうに彼女を見た。
何故ならこんなにハキハキとした彼女は珍しいからだ。
低血圧で、朝が苦手な瑞穂は、午前中は機嫌が悪く、何かあっても「へー」「ふーん」「そう」と短くも適当な返事しか返ってこないのだ。
いつもにまして忙しい朝であるにも関わらず、今日の彼女はすこぶる機嫌が良い。
「遠野くん、今日は張り切ってんなぁ」
「何か良い事でもあったんじゃないですか?」
医局に訪れた医師達は、笑顔で働く瑞穂に対し、そんな風に話をしていた。
最も、本人はいつもと同じように振舞っているつもりだったのだが……それは隠し切れなかった。
――そう、彼女にとって、最上の幸せが訪れていたのである。
それは、昨夜、瑞穂が入浴後、髪を乾かしていた時にかかってきた一本の電話がもたらした。
「夜遅くすまない。例の服を貸してくれた礼がしたいのだが……」
電話の相手は、白石十樹からのものだ。
瑞穂は、白石兄弟に会う度に、かつての借りを豪華ディナーと言う形で返す様請求してきたのだが、ようやくその成果が出たのである。
しかも、十樹が待ち合わせに指定したホテルは、超一流の「マリオネッタホテル」だ。
今晩には、そのマリオネッタホテルで、豪華ディナーを食している自分を想像して、瑞穂はすこぶる上機嫌なのだった。
(豪華ディナー♪ 豪華ディナー♪ 今晩は、何を着ていこうかしら♪)
☆
フンフーンと、鼻歌を歌いながら、病院のカルテ整理をする瑞穂を見ている、一人の男性医師がいた。
「今日なら、きっとイケる!」と力拳を握る。
幾何学大学の内科医師、宮川佑である。
宮川佑は、兼ねてより、瑞穂の快活な性格に惹かれ、秘かに恋心を抱き、告白のチャンスをうかがっていたのだ。
カルテ整理を行っている部屋は死角が多く、二人きりになる絶好の機会のように思えた。
佑は、勇気を振り絞って、瑞穂に声をかけた。
「あの、遠野さん」
「はい、何かしら?」
瑞穂は笑顔で振り向くが、その心は豪華ディナーの事で頭が一杯だという事に、佑が気付くはずもなかった。
佑は、僕の呼びかけに、こんなに素敵な笑顔を返してくれるなんて……と幸せに満ちた勘違いをしていた。
「今晩、僕に付き合ってもらえないですか? 大事なお話があるんです」
佑は、顔を赤らめて言った。
「どこに付き合えばいいの?」
「えっ!? えーと、ホテルオークランドのレストランに、僕の名前で予約を入れておきますから、一緒に食事しませんか?」
「今晩?」
瑞穂は悩んだ。勿論、十樹との約束があったからである。
どちらを断ればいいのか。
ホテルオークランドと、マリオネッタホテル、どちらも超一流のホテルだからだ。
「今晩じゃないと、ダメなんです!」
佑は、自分の決心が揺らぐ前に、もとい、瑞穂の機嫌が良いうちに、長年の自分の想いを伝えたかったのだ。
瑞穂は、オークランドとマリオネッタは、どちらの方が高級で、より美味しい食事が出来るのか分からず迷っていた。
「ちょっと考えさせて」
「分かりました」
佑は、自分の想いに答えようかどうか迷っている(はず)の瑞穂にそう告げると、カルテが置いてある部屋から出た。
「オークランドとマリオネッタか……」
佑の心とは裏腹に、瑞穂は、あくまでも食事の事しか頭にはない。
☆
ホテルオークランドのメイン料理は、若鶏のグリル、ラタツゥイユと二種のソース、マリオネッタホテルのメインは、ビーフストロガノフ……。
(ああ、どっちも捨てがたいわ!)
身体が二つ欲しいと、頭を悩ませる瑞穂が、患者のカルテを持って廊下を歩いていると、白石桂樹と出会った。
桂樹は、瑞穂の顔を見ると「ディナーを奢らされる!」と、毎日逃げ回っていたのだが、今日の彼は違った。
「ああ、いた。おい瑞穂、うろちょろするなよ。随分捜したぞ」
「仕事が一杯なのよ。桂樹君、一体何の用?」
「例の豪華ディナー、今日奢ってやるから、ホテルアソシアットに、夜七時に来い」
「ホテルアソシアットって……」
「活きのいいのが入ったんだ。屋上で待ってるからなっ!」
桂樹は、そう言い残すと、足早に走って行ってしまった。
瑞穂が何も言えないまま走り去ってしまった為、ますます頭を悩ませる結果になってしまった。
(――ホテルアソシアットって、桂樹君、貧乏そうだけど、そんな高級な所に行くお金があったのね……)
ふと、瑞穂はある情報を思い出した。
(思えば、アソシアットは、先日、高級マグロを一億円で競り落としたって話があったわね。活きのいいのが入ったって、そういう事かしら……)
瑞穂は念のため、アソシアットホテルに電話をかけて確認した。
『はい、ホテルアソシアットでございます』
「すみません。今日お勧めのメイン料理を教えて欲しいんですが」
『はい、本日は「マグロのカルパッチョと高原野菜のテリーヌ三種のソースがお勧めとなっております』
「あの、それってニュースで言ってた、競り落とされたっていう」
『左様でございます』
アソシアットホテルのフロントの言葉を確認して、瑞穂は電話を切った。
瑞穂の心は決まった。
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