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第六章

4.記念日

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「桂樹兄さーん、十樹兄さんが呼んでるわよー!」

  『ゴキブリ王国』から、遠く離れた所で、亜樹は桂樹に向かって呼んだ。
  ゴキブリの移動が始まって、何千匹かのゴキブリが硝子ケースの中で蠢いている。
  そんな場に、ゴキブリ嫌いの亜樹は近寄れなかった。

 「亜樹、オレは忙しいと、十樹に言っておいてくれ」

  嬉々とした表情で、桂樹は言う。
  こんな時のために、亜樹は十樹から聞いていた。
  多分、桂樹は普通に呼んでも『ゴキブリ王国』を優先し、来ないだろう、と。

  その場合、桂樹にこう言ってくれ、と。

 「桂樹兄さーん! 新種のゴキブリが入荷したって!」
 「何!?」

  桂樹は、その言葉を聞いて、すぐさま亜樹の元へと駆け寄った。
  勿論、これは十樹の考え出した嘘であり、新種のゴキブリなど存在しないのだが。

 「どんな奴!? どんな奴なんだよ、亜樹」

  ずずい、と身を乗り出して、亜樹に聞いてくる。

 「ええっとね、十樹兄さんが、研究室に来たら分かるって……」
 「そうか! きっと『ゴキブリ王国』の為に、誰かがゴキブリを寄付してくれたんだな? オレは行く、すぐ行く!」

  頭にハチマキを絞めたまま、桂樹は亜樹を置いて研究室へ行ってしまった。

 「これで良かったのかしら、十樹兄さん……」

  亜樹は、ゴキブリ一直線の桂樹を見て、ぽつりと呟いた。

                  ☆

「十樹! 新種のゴキブリは!?」

  桂樹は十樹の不在時に預かっていた視紋チェックを使って、研究室に入ってきた。
  待ちきれない様子の桂樹に、十樹は「やあ」と微笑んだ。
  桂樹は、十樹の元へ行こうとしたが、研究室には大きなダンボールが何箱にも積み上げられ進路を阻む。

 「何だ、コレ」
 「必要最低限の荷物を発注したんだが、私がそこを通れなくなってしまってね。悪いが桂樹、そこの荷物を軍事用クローン製造部へ運んでくれないか」
 「何でオレが……」
 「新種のゴキブリ……」

  その言葉を聞いて、桂樹ははっとした。
  この作業を終えなければ、十樹の手にあるらしい新種のゴキブリに会えないのだと。

 「分かった、運んでやる」

  桂樹は、自分の身長の半分はあるだろうと思われるダンボール箱を持ち上げた。
  どれだけ重い荷物だろうと思っていたが、案外軽い。

 「……何が入ってるんだ?」

  中身は軽いが、質量は大きいその荷物を持ちながら、「クローン製造部」へと運ぶ。
  桂樹が、それを運びこむと、十樹が来たと勘違いをした研究員達が、桂樹の周りに寄って来た。

 「白石先生、それは何ですか?」
 「何か分からねーけど、十樹が持っていけって……」

  桂樹がそう言うと、「何だ、弟の方か」と落胆していた。
  何度も宇宙科学部からクローン製造部を往復して、桂樹が「ふーっ」とダンボールに寄りかかっていると、ようやく十樹が最後の荷物を運び入れてきた。

 「白石先生だ」

  十樹が姿を見せると、わあっと研究員達が集まって、クローンに対する疑問を投げかけてきた。

 「白石先生、クローンの成長速度が遅いことに疑念を抱いている者が数名いるのですが……このままで大丈夫でしょうか?」
 「君達が、ディスク通りに製造しているのなら、大丈夫だと思いますよ」

  十樹が、そんな答えを返していると、神崎がやってきた。

 「何だ、この荷物は?」
 「もうじき、必要になる物だと思いまして」

  荷物を胡散臭げに見る神崎に、十樹は言った。

 「もうじき?」
 「はい」

  十樹は、手首の時計を見ながら、秒読みを始めた。

 「十、九、八……」
 「何だ? 何を数えている」

  神崎は、時計を見る十樹の手を払いのけた。

 「神崎先生、何をするんです。世紀の瞬間ですよ」
 「何……」

  十樹は口元で三、二、一と数えた。

――次の瞬間

  研究室内部のクローンが一斉に「オギャアオギャア」と泣き始めた。
  研究員達はその事態に皆驚いた。およそ百体のクローンが同時に誕生したのである。

 「午後三時五十分六秒、誕生です」

  十樹が時計を見ながらそう言うと、桂樹が「ハッピーバースデー♪」と乾いた笑みで赤ん坊の誕生を祝った。

 「何だこれは! 白石!」

  神崎は十樹の襟を掴んで、事の結果に憤りを見せた。それを、十樹は簡単に払いのけて、服を正した。

 「お望み通り、クローンの誕生ですよ。研究の成功おめでとうございます」
 「ふざけるなっ! 僕は君の妹のようなクローンを感情操作で軍人にしようと、いや、しなければならない身だっ! クローンのこんな姿を望んでいたんじゃないぞっ!」

  研究室に響き渡る産声は、研究員達をあたふたさせるには十分だった。それぞれが、自分自身のDNAを持った赤ん坊を泣き止ませようと「お湯を用意しろ」「ミルクはないのか!」と奔走していた。

  十樹は、桂樹と一緒に持って来たダンボールを解く。中に入っていたのは、紙おむつ、粉ミルク、産着等の赤ちゃん製品だった。

  神崎は自分のDNAを持った赤ん坊をポッドから引き取ると、「よーしよし」と慌てて泣き止ませようとしていた。

 「神崎と赤ん坊……っ」

  桂樹は笑うのを堪えていると、神崎は言った。

 「笑っている場合じゃないぞっ! ここには「宇宙科学部」の前で拾った髪で造ったクローンもいるんだ!――そう、君達の」
 「何?」

  その言葉に桂樹は慌てた。

 「十樹、オレを見つけてくれ」

  十樹は自分のクローンまでいる可能性を考えて、がっくりとうな垂れた。目の前で繰り広がる光景は「軍事用クローン製造部」というよりは、「産婦人科」での光景に他ならなかった。

  その二、三日後で同様な現象が各研究室へ広がり始め、幾何学大学は「育児研究部」と言う新たな部署を設立した。その「育児研究部」の先頭に立つのが神崎亨である。

  当人は当たり前のように拒否したのだが、学長が保に言った通り、「責任は全て神崎が持つように」との約束が安易に行われており、神崎はしぶしぶ引き受ける身になった。

  そして――

「よーしよし、いい子だ、あばばばばあ」

  神崎は今日も眠ることなく、泣いている赤ん坊をあやしているのだった。
  周囲にいる者はその姿に笑っていたが、自分のクローンの世話もある為、赤ん坊をあやす神崎を見ている者は少ない。当然、十樹もその中にいたのだが……

「私はどうも手のかからない子供だったらしい」

  十樹は自分のDNAを持つ子供を、僅かに生えていた毛髪をほんの少し切り、既に捜し当てていた。赤ん坊の十樹はあまり泣くこともなく、ミルクやおむつ替えをしていれば、そのまま眠ってばかりいる赤ん坊だった。

 「これホントにオレ? すごく面倒臭いぞ」

  桂樹はゴキブリ王国を一時的に放って、自分を育てていた。
  被せていた布団は足で払いのけてしまい、手近にあるオモチャをがんがんとベビーベッドで叩いて壊し、近くを飛んでいる虫を見つければ、手で掴み、口の中に入れようとしていたりと目が離せない。

  幾何学大学はある意味「戦争」状態に陥った。衛星四季との戦争ではなく、研究員VS赤ん坊といった「育児戦争」への突入である。




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