首輪が嫌いな君にRewardを。

雪国培養まいたけ

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【最終話】首輪が嫌いな君にRewardを。

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 国近肇の父親は、国近に負けず劣らず穏やかな気性を持つ人間だった。国近は父に手を上げられたことも、声を荒げられたこともない。
 けれど、ただ一度だけ、こっぴどく叱られたことがある。
 それは、高校二年の冬。父の病が分かってすぐの頃だった。
 たった一人の肉親の、もうきっと治らない病。
 強くならなければと思った。早く大人になりたかった。
 国近は父に何も言わずに進路希望を進学から就職に変えて、当時在籍していた剣道部に退部届を提出した。
 中学から剣道をしていた。中学時代は成績が振るわなかったけれど、高校生になってから才能が開花した気がする。その年に出場した都大会で、国近はベスト16を記録した。全国総体を目指すには、次の年が最後のチャンスだった。

 その情報が父の耳に入ったのは、それから数日後のことだった。心配をした担任が、父の元へと連絡を入れたらしい。

「ふざけるな。それで俺が喜ぶと本気で思っているのか」
 学校から帰宅した後。テーブルで向き合った父にそう言われる。
 語気はそんなに荒くなかったけれど、有無を言わせない力強さがあった。
 温厚な顔の内側に静かな怒が垣間見えて、国近は狼狽した。
 なんで。と思った。
 突然飲むことになった大量の薬。週一で通うことになった抗がん剤と緩和ケア。病魔は着々と父の身体を蝕んでいる。自分に見つからないように、痛みをこらえているのを知っている。
 だって、仕方がないじゃないか。
 自分が支えないで、誰があんたを支えてくれるのだ。
 本当は居なくならないでほしい。父が居なくなったら、自分は今度こそ一人きりになってしまう。けれどそんな弱音を吐いたところで、きっと叶わないことは、なんとなく分かっていた。
 だからせめて、父が安心できるように、安心して逝けるように、自分は大人にならなければならない。たとえ同級生と違う場所にいたとしても――。

「父さんはお前が進路を変えたり、部活を辞めたりしたことに対して怒っているんじゃない。お前がやりたいことを押し殺して、自分をないがしろにしていることに怒っているんだ」

 今なら分かる。あのとき、父がどんな気持ちだったのか。父の指摘はもっともだった。
 結局大人にならなければと背伸びをしているうちは、自分は子どもだったのだろう。
 国近は少しの間黙っていた。
「ごめん」
 絞り出すように言うと、強張った父の表情が緩む。
「できる、できないは別として、やりたいことをやりたいと口に出すのは、そんなに悪いことじゃない。父さんは昔、警察官になりたかったんだ。結局なれなかったけれど、その記憶はちゃんと活きているよ」

「一度しかない高校生活なんだから、自分のために時間を使いなさい」
 そのあと、父が顧問に相談してくれて、国近は部活動をもう少し続けることになった。
 進級時に行われた進路希望調査で、書き換えた調査書を再び大学進学と書いて提出した。
 結局、進学は出来なかったし、都大会は昨年度の成績―ベスト16を目前に控えて敗退、部活動を引退した。
 けれど、精一杯取り組んだ記憶は、存外無駄にはならなかったと思う。
 あの日父が言っていたように、できたことも、できなかったことも、全部今の自分を形作っている。



 懐かしい記憶から、意識が徐々に遠ざかっていく。
 ボロボロの美斗の顔が、国近の頭に浮かんだ。

 そういえば自分は、美斗が心から笑った顔を、まだ見たことがない。

 まだ、死ねない。

 生きるために、人並みの幸せを全て諦めてきた子だろう。
 もう何も、諦めて欲しくない。

 大切な人を亡くした、あの千切れるような苦しみを、国近は知っているのだ。
 死は呪いだと思う。
 どれだけ時が経っても、平気になるだけだ。
 悲しみそのものが癒えることはない。

 自分が死んだら、美斗に一生消えない傷を負わせてしまう。


 ごめん、ごめんな。父さん。


 まだ、そっちには行けない。




 数日後。
 国近肇の意識は緩やかに浮上した。ゆっくりと瞼を開ける。
 見慣れない天井が広がっていた。
 ピ、ピという電子音が耳元に響く。視界の先に、点滴が数本ぶら下がっていて、ここが病院であることに気が付く。自分はベッドに横たえられているらしい。
 長い夢を見ていたような気分だ。ふわふわとする脳みそで、こうなった経緯を反芻する。
 身体を起こそうと、指先に力を入れた時だった。
「まだ寝ていなさい」
 ベッドサイドから飛んだ声が、国近を制止した。
「1L近く血を流したんだ。むやみに動けば、今度こそ死ぬぞ」
 声に反応して、首をそちらに向ける。警視庁刑事部の上司・柏木が立っていた。

 そういえば……。
 自分には近い親族がもういない。捜査一課に異動した頃、何かあった時の身元引受人を柏木に頼んでいたっけ。と思い出した。

 美斗は?
 問いかけようとして、人工呼吸器が付けられていることに気が付く。
 おまけに喉は掠れて、声は出なかった。

 柏木は国近の疑問を俊敏に感じ取ったようだ。

「一般病棟の方で入院している。命に別状はないが、精神的なショックが大きかったみたいでな。君の同期に、被害者支援室の奴がいるだろう。彼が宥めながら、少しずつ事情を聞いている」
 と説明した。

 ああ……。
 総務部企画課被害者支援室の一ノ瀬真紘は、国近の同期で、同期の中では唯一第二性を持っている人物だった。国近の方が先に昇級したから、階級は一つ下の巡査部長だ。
 そうか、彼が来ているのか。
 彼の明け透けで裏表のない性格は、美斗とは相性がいいだろう。何よりも、思いやりのある奴だ。
 しばらく任せても平気だろうと息を吐く。

 正臣氏は?
 唇だけを動かし、国近は追加の質問をした。柏木は読み取ってくれる。
「暴行と、傷害と、殺人未遂と……。まあ、諸々で現行犯逮捕」
 柏木は、そこで一度言葉を区切ると神妙な様子で眉間に皺を寄せた。
「随分長いこと欲求不満状態が続いていたらしい。抑制剤と安定剤を投与されて、今はよく眠っているそうだ」
 やはりそうか。
 マンションで見た、彼の青白い肌を思い出し、国近は目を伏せる。あの時の彼はかなり冷静さを欠いていたし、彼らしくない行動だった。
「質の悪いマスコミが騒いでいるから、しばらくあの子は外に出さない方がいいぞ」
 と柏木が追加する。
「ああ。それから……」
 言いかけて、柏木は止まった。数秒国近の顔を見つめて、困ったように薄く息を吐く。
「……まあ、この辺はまた後日でもいいな。もう少し容態が安定したら集中治療室から出られるそうだ。少し休んだらいい」

 小さく頷いて、国近は頭を下げる。
 まだ麻酔が効いているのだろうか。視界がくらくらと揺らいだ。

 終わったのか。これで全部。
 ほっと息を吐いて。安心したように、国近はまた瞼を閉じた。



 国近が一般病棟に移されたのは、それから約二十時間後のことだった。
 一番はじめに病室に現れたのは、こげ茶色のクセッ毛を携えた細身の男だった。
――一ノ瀬真紘。
 それは、かつて同じ学び舎で学んだ同期の姿だった。
 同じ庁舎で働いているけれど、部署が離れていることもあり、ここ最近はほとんど顔を合わせることがなかった。
 一ノ瀬は落ち着いた様子でこちらに近づくと、ため息まじりに表情を緩めた。
「お前だったら、刃物を持った男一人ぐらい簡単に制圧できただろう」
 挨拶もそこそこに、そんなことを言われる。
 耳の痛い指摘だ。国近は苦笑した。振り下ろされるナイフを見たあの時、自分は咄嗟に、警察官としてではなく、美斗のパートナーとして動いてしまった。
『私情は持ち込みすぎると身を滅ぼすぞ』
 そう言ったのは刑事部長だっただろうか。結局死にかけているんだから世話がない。
 一ノ瀬は再びため息をつくと、
「地域課に異動したと聞いたときには何があったかと思ったが、まさかこんな大それたことになっていたとはな。おかげで今、庁内は大わらわだよ。第二性持ちってだけで、末端の俺まで駆り出された」
 と続けた。自分の異動は一ノ瀬の耳にも入っていたのか。
「まあ、一番大変なのは柏木さんだけどな。あちこち駆けずり回って頭下げて……。三日は寝てないんじゃないか?」
 自分が負傷して抜けた分、柏木の仕事が増えているのだろう。申し訳ないことをした。
 応援要請に取り調べ、各所への報告、マスコミ対応もだろうか。想像するとぞっとする。
 退院したら、何か御礼をしなければならない。

 そこで、ふと、国近は辺りを見回した。一ノ瀬と一緒だと聞いていたから、いると思ったのだけれど……。
 美斗は、そう尋ねようとして気が付いた。
 一ノ瀬が出入り口の方へと首を向けていた。

「……美斗さん」
 うっすらと見えている人影に向かって、そう呼びかける。

 影は、少しの間、躊躇っているかのようにそこを動かなかった。
 一ノ瀬が再度呼んで、ようやくこちら側へと足を踏み入れる。

 病衣姿の美斗が立っていた。大きな絆創膏を頬に貼り付けている。水色の病衣の隙間から見える腕は、殴られた痣と、点滴だろうか、注射針の跡が残っていた。

「よか……」
 泣き出しそうな瞳が、国近の顔を見てほっと息を吐く。
 ゆっくりとベッドサイドに近づくと、遠慮がちにシーツの一部を掴んだ。
 ふっと、一ノ瀬が薄く笑う。
「大変だったんだぜ。泣いて、泣いて」
 そうなのか。と国近は美斗の顔を伺う。出会ったばかりの人間の前で泣くなんて、普段の美斗なら絶対に嫌がることだろう。きゅっと唇を噛んだ浅黄色は一ノ瀬の言葉を否定も肯定もしなかった。
「んじゃまあ、俺は一旦庁舎に戻るわ。お前、食事ってもう普通にして大丈夫なんだっけ? フルーツを買ってきてやったから、落ち着いたら二人でお食べ」
 ひらひらと手のひらを振りながら、一ノ瀬は病室から出ていった。

 沈黙が、その場に広がっていく。
 美斗、と呼びかけようとすると、美斗の唇が小さく動いた。
「ずっと、そばにいるって言っただろ」
 唇を震わせながら、捨てられた子どものように俯いてしまう。
「俺のDomでいるって、約束しただろ」
 
「ちゃんと……帰ってくるって言ったくせに……」

「美斗」
 そこで、たまらずに国近は彼を呼びかける。
 そっと頬を撫でて、こちら側へと顔を向かせる。クマの浮いた目元が露になった。
「酷い顔だな。眠れていなかったのか?」
「……誰のせいだと思ってるんだ」
 自分のせいだな。それは間違いなく。国近は苦笑する。
「少し休んだ方がいい。俺よりもずっと具合が悪そうだ」
「……」
「もう大丈夫だから」

 少しの間、美斗はそこから動かなかった。やがて観念したように指先をシーツから離す。

「……おれ、」
と何かを言いかける。
「……?」
 小首を傾げて次の言葉を待つと、彼はむ、と軽く頬を膨らませる。不満げな声が続いた。
「おれ、ちゃんと命令きいた……」

「まだ、褒めてもらってねぇぞ」

 一瞬だけ目を丸くして。薄く、国近は笑う。
 コマンドを向けられることも、それを聞いて褒められることも、初めて会ったときには随分怖がっていたのに――。
「悪かった」
 美斗を正臣氏から守る時。確かに幾分か強引なコマンドを使った。きっと苦しかったことだろう。セーフワードを言われたらどうしようかと思ったのだ。傷つけたくはなかったから。

 国近は上体をベッドから離して、美斗にベッドサイドの椅子に座るようにと促した。
 言われた通りに腰を下ろした身体を、そっと抱き寄せる。

 唇を耳元に寄せた。

「美斗。“good boy”」

 強張った肉体が徐々に弛緩したのが分かった。
 ほっと一回だけ息を吐いて、コテンと、国近に頭を預ける。


 それから、穏やかな寝息を立てはじめた。




 二週間後。
 取調室にいたのは、凛とした雰囲気を持つ一人の男だった。
「名前を」
 テーブルを通して向かい合い、国近が問いかける。
「桐野……貴久と申します」
 落ち着いた声が続いた。
 国近は順を追い、状況を説明した。それをしばらく聞いてから、桐野は薄く息を吐いた。
 そして……。

「全て美斗さんの証言の通りです」
 と言った。
「え」
 それは予想もしていなかった反応だった。国近を含めてその場には三人の捜査官がいたけれど、その全員が同じように呆気に取られた。桐野は正臣氏の腹心だ。こんなにあっさりと話してくれるとは思ってもみなかったのだ。
 流暢な口調で、桐野が続ける。
「旦那様の指示で、美斗さんを連れて来たのは私です。旦那様は元より美斗さんを正臣様の道具にするおつもりで引き取ったようでした。正臣様は美斗さんをいたく気に入ったようで、別邸に閉じ込めてご自分のものとして扱っておられました。具体的な日時について正確には申し上げられませんが、ここに記されているような行為はあったと記憶しております。とくに、首輪を美斗さんご自身で絞めさせるという行為でしたら私も正臣様にお力添えをいたしました。そのための首輪の鍵は、いつも私が持ち歩いておりました。正臣様の指示で、逃げ出した美斗さんを探し出し、連れ戻すのも私の役割でした」
「……止めようとは思いませんでしたか?」
 一回だけ薄くため息を吐いて、国近は問いかける。怒りが湧いてこなかったのは、冷静な桐野の口調に微かだが憐憫と反省の色が浮かんでいたからだった。
「ええ。それが私の仕事でしたから」
「それは、人ひとりの人生を潰してもやらなければならない仕事でしたか?」
「美斗さんよりも優先すべきものがありました」
「……では、なぜ話す気に?」

 そこで、桐野は唇を噤んだ。
 視線を国近から外し、どこか遠くを見つめる。何を思い出したのか、悲し気に目を伏せた。

 しばらくして、国近に向き直るとこう言った。

「……美斗さんのためでは、ありませんよ」



 数時間後。
 国近肇は俊敏な動作で庁舎の廊下を歩いていた。
とある部屋の前で止まり、ドアノブに手をかける。そこは、桐野がいる部屋とはまた別のフロアにある取調室だった。
 扉を開ける。視界に細身のシルエットが現れた。灰色のスウェットに身を包んだ彼は、マンションで対峙したときよりもずっと幼く見えた。
 衰えることを知らない美貌が、こちらに気づいて目を向ける。
「もう復帰しているのか」
 彼――須藤正臣はそう言って、驚嘆の声を上げた。
 近づいて、国近は目の前のパイプ椅子へと腰を下ろす。
「君は中々しぶといな。結構深く刺さっていただろう」
「気分はどうですか? 貴方も随分長く入院されていたと聞きましたが」
 問われて、正臣氏は深く背もたれへと腰を預けた。気だるそうにこちらに目線を向けた。
「最悪だな。頭痛はするし、吐き気も酷い。薬でだいぶマシになったが……」
 そう答える彼の顔色は、確かに健康的とは言い難い色をしていた。
「……そうですか」
 彼の体調不良は、欲求が解消できないことによるものだ。この場所にいる以上解消する術はないから、薬で上手く折り合いをつけるしかない。
 これから先も長く、苦しむことになるだろう。
 いたたまれなくなって、国近は目を伏せた。

「では」
 本題に入ろうと唇を開く。

「国近警部補」

 彼の声がそれを制止した、
 ピアニストのように長く、透き通った指先を自身の左耳へと当てる。
「まだ聞こえないんだ。悪いけれど、もう少し右側で話してくれないか」
「ああ……」
 国近が浴びせた一撃は、左耳のすぐ近くを直撃していた。
 そのときの衝撃で、左耳の鼓膜が破れたと聞いていた。
 国近は言われた通り、テーブルのちょうど中央にあったパイプ椅子を、数センチ左側に移動させた。この位置で大丈夫かと確認を取り、彼が頷いたのを見て、佇まいを直す。

 そして、こう切り出した。
「忠臣さんが、亡くなったそうです」
はっ。嘲笑が彼の顔に浮かんだ。
「『延命をやめた』の間違いだろう」
 と苦々しげに吐き捨てた。
 彼の父親・須藤忠臣氏は、もう随分前から助かる見込みがないと言われていたという。件のパーティーの後には、生死の境を彷徨うようになった。
 それを根気強く延命させていたのは、他でもない彼だったらしい。
「このタイミング……同意書にサインしたのは叔父だな。責任を追及される前に消えてもらおうって魂胆か。よほど会社の存続が大事だと見える」
 
「まあ、僕も他人のことは言えないが……」

 そう言って。今度は自虐気味に笑った。
 この男の中には修羅がある。それが、国近には苦しかった。

 ここ数日間、国近の同僚は彼の近辺の人間に話を聞いていた。
 役員たちは口を噤んでいたけれど、管理職や社員は口を揃えて言っていたそうだ。
 その名に相応しいほど、公正な人だと。
 現場を常に気にかけ、必要なものがあればすぐに投資をしてくれる人。
 学歴も社歴も関係ない。実力のある人間に、それに見合うだけの地位とチャンスをくれる人。
 彼の忠実な部下・桐野貴久は、彼自身が能力を見出し、会社に引き入れた人間の一人だと聞いた。かつて家の事情で困窮していた桐野に居場所を与え、高等教育を受けられるように支援した。
 それは、彼が美斗にしてきた仕打ちとは、正反対で、あまりにも矛盾している。
 それが出来るならどうして、
 どうして、美斗に同じことが出来なかったのだろう。

「抑制剤を、飲んでいなかったと聞きました。本能との向き合い方を、あなたは知らなかったのではないですか」
 テーブルの前で手のひらを組み、国近は問いかける。
「適切に自分の欲求と向き合えば、今よりもずっと生きやすくなるはずです」
「……馬鹿馬鹿しい」
 形のいい唇がそんな言葉を吐露する。彼と話していると不思議な気分に襲われた。国近よりもずっと年上の人間と話しているように感じられる時もあれば、小さな子どもと話しているかのように錯覚しそうになる時がある。不安定で覚束なくて、本心が分からない。
 国近は困ったように眉を下げた。
「美斗のパートナーとして、貴方のことを赦すことはできませんが……」

「同じDomとして、貴方の気持ちが、全く分からないというわけでもありませんよ」
「は……」
 再び、嘲笑が零れる。けれどもう、彼の口角は上がっていなかった。
「誰にも、分からないよ。僕の気持ちなんて」
 目線が、机上に落ちる。黒髪の隙間から垣間見える表情は、広い大海原を流れる氷山のように孤独で、酷く寂しげだった。
「……Subは人間ではないと言われて育てられた。それは、裏を返せばSubに寄りかかるDomぼくも人間ではないということだ。圧倒的にSubを支配できなければ足元をすくわれる。僕がいたのはそういう場所だ。…………強くならなければと思った。そうしなければ会社も、父も、自分も守れなかったから……」

「……あの子を痛めつけているときだけ、息が出来た」

 そこで彼は止まる。深く、息を吐いた。
 再び向き合った瞳は、毒素が抜けたように柔らかな色をしていた。
「……正しく生きられたらよかったな。君のように」

「国近!」
 出入り口の方から誰かが呼んだ。国近は軽く返事をすると、パイプ椅子から立ちあがった。
 同席していた部下にあとのことを任せ、光の射す方へと向かう。

 背中を彼に向けたとき。
「国近警部補」
 短い声が自分を呼んだ。
 そっと、踵を返す。
「桐野に伝えてくれ。帰りは待たなくていいと」
 許諾を示し、軽く頷く。

「……警察官として、心から、貴方の更生を願っています」




 入院は美斗が一週間、国近が二週間だった。
 入院生活のほとんどを、美斗は国近の病室で過ごした。自身の入院を終えても、彼と帰るため、付き添いとして彼の部屋に泊まった。しかし、退院した国近を待っていたのは、膨大な量の事後処理だったらしい。
 国近は病み上がりだったけれど、彼の生真面目な性格は、それを放置して休むことを許さなかった。結局泊まり込みで仕事をすることになり、美斗はしばらくの間ホテル暮らしを余儀なくされた。
一人で502号室に帰ることも出来たけれど、あんなことがあった後で、一人で過ごす度胸は美斗にはなかった。それは国近も同じだったのだろう。ビジネスホテルなど泊まったこともない美斗の代わりに手早く宿の用意をしてくれた。

 それから二週間。ほとんど音沙汰はなくて。二週間後、警視庁で待ち合わせた彼はすっかりやつれた顔をしていた。

 警視庁を出て、遊歩道を二人並んで歩く。
 いつの間にか、秋はすっかり深くなっていた。
 街路樹から落ちた紅葉が歩道に散らばり、路面を紅く染め上げる。
 朱色の葉は、一歩踏み出す度にかさかさと音を立てて、進行方向に舞い上がった。
 家までの道を、歩こうと言ったのは国近だった。もしかしたら彼はこの景色を、自分に見せたかったのかもしれない。あのマンションで暮らすようになってから約一年半。美斗はほとんど外に出られない不自由な生活を強いられた。事情聴取のために少しずつ外に出るようにはなったけれど、あの時は景色を楽しむ余裕なんてなかった。
 でもそうか。これからはきっと、こういう日々も増えるのだろうか。
「荷物を置いたら買い物に行こう。冷蔵庫の食材、きっと駄目になってる」
 横で国近が笑う。「何か食べたいものはあるか?」と問いかけられた。
 病院で味のしない食事を食んでいたときにはたくさん思いついたけれど、いざ自由になると何も思い浮かばなかった。結局自分は、彼が作ってくれるものならば何でもいいのだ。
 もっとも、そんなことは口が裂けても言えやしないけれど……。
「お前、しばらく休んでないんだろう。簡単なものでいいよ」
 と答える。それからふと思い立って、
「俺も手伝う。教えてくれよ」
 と追加した。これからきっと、必要になるだろうと思った。自然と未来のことを考えている自分が可笑しかった。
「ああ」

 視界の先に、クリーム色の外壁が見える。
 眩しいほどの陽の光を浴びて、キラキラと輝いていた。

「ああ……」
 薄く、美斗は呟いた。
「懐かしいな」

 たった二ヶ月しか過ごしていないけれど、ここが自分の帰る場所だ。



 変わったことがいくつかある。
 
 一つは刑事部長が辞めたこと。事態が大事になってしまった以上、責任を問われる前に辞めてしまった方が楽だと踏んだらしい。どこまでも打算的な人だった。

 もう一つは「近く刑事部に新しく課が新設される」というものだった。
 それは、ダイナミクス性に特化した捜査機関らしい。第二性を持つものによる犯罪、第二性を利用した性犯罪を取り締まる。草案は何度も上がっていたけれど、決定力に欠けていたため、新設までこぎつけることがなかった。けれど今回の件があり、本格的に国が動き始めたようだ。
「俺が課長に、おそらくお前が補佐に任命される」
 と柏木が言った。
 どうやら病院で彼が言いかけていたのはこの話と、
「新課が出来てから問題になると色々と面倒だから、後ろめたいことは早めに始末書書いとけよ」という話らしかった。

 確かに美斗を救うため、国近はいくつかの服務違反を犯した。乱暴な手段を使った事実も否めないので、柏木の言うことはもっともだった。

 そんなわけで国近は、膨大な量の後処理と共にいくつかの始末書を作成することになった。


 それらがようやく山場を越えた頃。
 国近は美斗と共にとある場所へと向かっていた。関越道と上信越道を経由し、国道をしばらく進んだ先にあるその町は、美斗の生まれ故郷だ。
 中心街は交通の便が発達しているそうだが、山間部はほとんど車社会らしい。新幹線を使った方が時間的には早いのだけれど、そういった背景から国近が車を出すことにした。

 運転席に腰をかけ、慣れた手つきでハンドルを回す。遠出をするのはいつぶりだろうか。社会人になってから、国近は仕事一筋で生きてきた。そういった機会はほとんど作らなかった気がした。臙脂色に染まった木々が、フロントガラスの向こうを通りすぎては消えていく。視界のずっと向こうに大きな山々が見えて、都会では見たことがないぐらいの鮮やかな装いをしていた。この辺りには紅葉の名所がいくつかあるらしい。
 助手席に座った美斗の口数は、いつも以上に少なかった。ただ、高速を抜ける少し前。冬が来る前に来たかったのだ、とだけ呟いているのを聞いた。山間部にある美斗の故郷は、冬になれば二メートル以上の雪に覆われる。もうあと一か月もすれば、初雪が降るそうだ。

 国道を抜けて、車は県道へとひた走る。
 山沿いに近くなると、車内の気温は一気に冷え込んだ。暖房のスイッチを入れて、民家と田んぼが連なる通りを進んでいく。

「ここだ」
 しばらく車を走らせていると、美斗が言った。
 ウインカーを出し、車を路肩に停車させる。一軒の民家の前だった。
 助手席のドアを開けて、美斗が車から降りる。ハザードをつけて、国近は後へと続いた。
二人でその家の玄関口へと進み、年季の入ったインターホンを軽く押す。
 家の奥から、「はーい」という軽快な返事が聞こえた。少ししてから、玄関の引き戸が開かれる。目の前に現れたのは、初老の女性だった。
「えっと……」
 身に覚えのない来客に、戸惑ったように首を傾げる。美斗が名乗ると、その顔は翳りを帯びた。
「ああ……」
 と呟く。その声色は淡々としていて無愛想だった。
 簡潔に美斗が用件を伝える。両親の墓参りがしたいから、墓の場所を教えて欲しいというものだった。この女性は美斗の母方の叔母にあたる人物で、この近辺に唯一暮らしている美斗の親戚だった。
 女性は曖昧に頷くと、一度家の奥へと戻る。メモとペンを持ってくると、地図を書いて説明をした。ここから車を十分ほど走らせた先に、地元では有名なため池があるという。その近くに公営墓地があり、そこの一角に美斗の両親の墓もあると言った。
 メモをこちら側に差し向ける。美斗がそれを受け取った。

 こちらを見つめる彼女は、どこか困ったようで、それでいて煩わしそうだった。
 美斗が頭を下げる。礼を伝えて、それじゃあと玄関先を去ろうとした。
「もうここには来ないでくれる?」
 そう、彼女は言った。

『あまり歓迎されないかもしれない』
 ここに来る前に、美斗はそう言っていた。美斗の故郷では第二性を持つものが極端に少なく、ダイナミクス性に対する偏見が根強いと聞いた。美斗の叔母はその筆頭で、幼い頃からあまり美斗のことを良くは思っていなかったらしい。
 美斗の瞳が一瞬驚いて、そのあとで悲しそうに揺らぐ。
「意地悪をしているわけじゃないのよ。今はだいぶ落ち着いたのだけれど、一時期はここにもマスコミが来てね。毎日大変だったのよ」
 ご近所の目もあるでしょう。と彼女は続けた。
 シュンと美斗が肩を落とした。唇を震わせて、何か答えを探そうとする。
 助け舟を出そうかと唇を開いた時だった。

「お母さん!」

 背後から、そんな声が飛んだ。同時に、誰かが国近と美斗の間を割って玄関へと入ってくる。
「なんてこと言うの!」
 声の主は、叔母よりもぐんと若い女性だった。年の頃は国近と同じか少し年上かといった具合。背丈がすらりと高く、長い髪をポニーテールにまとめている。
「夏帆子!」
 叔母が彼女のことを、そう呼んだ。

 女性はバツが悪そうにする叔母を無視し、こちら側へと向き直る。美斗の方に目を向けて、快活そうに笑った。
「久しぶり。美斗くん。私のこと覚えてる?」
「ぇ……あ、えーと」
 驚きと戸惑いで、美斗が半口を開ける。
「あら、覚えてないの? 残念。夏帆子だよ。貴方の従姉妹」
「へ……」
 少し考えて、思い至ったようだ。あ、と美斗は短い声を上げた。
「夏帆子さん? あれ、でもたしか京都の大学に通ってたんじゃ」
「随分前に帰って来たの。上がっていきんさい。月下堂の和菓子を出すから。美斗くん和菓子好きでしょう」
「ちょ、ちょっと夏帆子!」
 叔母が、夏帆子の後ろから抗議の声を上げる。うんざりとした様子で、夏帆子は叔母に言い返した。
「うるさいなぁ。マスコミなんて、美斗くんのせいじゃないでしょう。生まれてくる子の教育に悪いから、そういうのやめてよね」
 外見からは分からないけれど、どうやら妊娠しているらしい。夏帆子は一瞬、チラリと横の国近に目を向けて、二人の方を指さした。
「こんなところで立ち話なんかしてる方が近所で噂になるわよ。こんなイケメンと美青年、この街じゃ絶対に見ないんだから!」
 イケメン……? と国近は首を傾げた。
「夏帆子さん、俺、用事は済んだからもう……」
 喧騒を唖然と眺めていた美斗がおずおずと声をかける。ピシャリという非難の声が飛んだ。
「はぁ!? 私の淹れた茶が飲めないって言うの!?」
「ち、ちが……。そんなこと言ってないだろ!」
 珍しく美斗が押されていた。ぷ、と思わず国近は吹き出す。
「……車、裏に停めさせていただいても?」
 このままだと無断駐車になってしまう。先ほど家の横手を通りかかった時に見た。裏に駐車場があるはずだ。
「お、おい」
 美斗が国近の袖を掴んで静止する。向けられた瞳は、先ほどとは別の意味で縋る先を求め、大きく揺らいでいた。美斗の手に手のひらを重ねて、柔らかく国近は微笑む。
「お言葉に甘えよう。夏帆子さんは美斗と話したいみたいだ」



 上がるようにと促されて、屋敷の居間へと案内される。夏帆子は温かいお茶と三人では到底食べきれない量の栗まんじゅうを出してくれた。
「……なんの手土産も持たず、申し訳ありません」
 カチコチに緊張してしまった美斗の代わりに、国近が場をつなぐ。
 夏帆子は柔らかく微笑むと、
「いいのよ。母があんな調子だからね。かえって気を遣わせてしまったのでしょう」
と母親の無礼を詫びた。
 国近たちが家に上がると同時に、夏帆子の母親はとても不快そうな顔をして、家の奥へと閉じこもってしまった。美斗は申し訳なさそうに眉を下げていたけれど、夏帆子は毅然とした態度で、「放っておけばいいわ」と突っぱねた。
 先ほどの言動と言い、美斗の気の強さは血筋なのかもしれない。
 夏帆子は一回寂しそうに笑って、
「狭い世界で生きちゃうとね、それが世界の全てになってしまうのね」
 と目を伏せた。

 夏帆子は十年前まで京都の大学に通っていたらしい。就職を機に地元に戻り、この街と隣接する、地元では一番栄えた町で暮らしている。つい先日、同じ職場に勤める男性と結婚をして、春には子どもが生まれるそうだ。
 美斗の両親が亡くなった時。大雪の影響でこの街には帰れず、通夜や告別式には参加出来なかったと言った。地元に帰ったのは美斗が東京に旅立ったずっとあとで、ずっと気になっていたのだと話した。
 そして、美斗がいない間の地元の話や、親戚の近状なんかを話してくれた。
「そうそう。貴方の生家ね。今は自治体が買い取って、雨宮千秋の記念館になっているの。時間があれば、帰りに寄ってみるといいわ。展示してない遺品もたくさんあるってきいたから、連絡すれば引き取らせてもらえるんじゃないかな。今度聞いてみるね」


 帰りには、近所からもらったという野菜と、食べきれなかった分の栗まんじゅうを持たせてくれた。月下堂という和菓子屋の和菓子は、この街では評判のお店らしい。
 最後に連絡先をくれて、子どもが大きくなったら旦那と遊びに行くから、案内をしてねと笑った。それは少し強引だったけれど、また会いに来てもいいという彼女の意志表示なのだろうと、国近は思った。




 車内に戻ると、美斗の口数はまた少なくなった。頬杖をつき、窓ガラスに頭を預けて思想にふける。国近はもらったメモを片手に記憶する。墓地に向かって車を走らせた。
「スーパーで仏花を買っていこう」
 と国近が言うと、美斗は目線だけをこちらに向けた。
 線香やロウソクは都内のコンビニで買ってきたのだけれど、花は痛むだろうから買ってこなかった。美斗は一旦頭を窓ガラスから離し、辺りを見渡す。50メートル程度先、左側に見えている建物を指さした。
「そこのドラックストア、左に曲がった先に、花屋がある。……今もやっていれば、だけれど」
「……寄っていこう」
 短く答えて、左側のウインカーを上げる。美斗が背もたれに深く背を預けた。
「覚えているもんだな。案外」
「そうか」




 美斗の両親が眠っているという霊園は、夏帆子の家からさらに山間に進み、曲がりくねった道をいくつか超えた先にあった。
 霊園自体が坂状になっていて、霊園の周りを針葉樹が囲んでいる。
 事前に聞いていた駐車場に車を停めて、坂道を上る。

 気温はさらに低くなっていた。呼吸をする度に、白い息が唇からこぼれ落ちていく。
冬物のコート引っ張り出してきたけれど、マフラーも一緒に持ってきてもよかったかもしれない。冷えた風が、国近の首元を通っていく。けれど、美斗は案外平気そうで、国近の前をずんずんと進んでいた。
 坂のちょうど中腹。二人の眠る墓は、そこにあった。

 墓石を見つけて、美斗はもの悲しそうに、でもどこか安心したように目を細めた。
 国近が続いて、墓石の前に立つ。石の側面に、二人分の名前が記されていた。

『雨宮ちふゆ』
『雨宮彰人』

 ああ。そうか。だから『千秋』で、『美斗』なのか。以前新聞記事を読んだ時には、気が付かなかった。
『千秋』は妻と自分の名前を捩って。『美斗』は、「あき」と「ふゆ」のあとに「はる」が来るからだ。それは、まごうことなく美斗が二人に愛されていた証拠だった。

 やり方がわからない。と美斗が言うので、国近は手早く花を供え、蝋燭と線香を焚いてやった。
「作法はあるけれど、悼む気持ちがあれば十分だ。きっとご両親も喜んでくれている」
「……そうか」
「ああ」

 頷いて、国近は墓石の前に跪く。そっと目を閉じ、両の手を合わせて祈りを込めた。
 美斗が隣に並んで、同じように手を合わせた。

 しばらくして、国近は目を開ける。横の美斗はまだ手を合わせていた。
そっと立ち上がって、国近はその場を後にした。



 どれくらい時間が経っただろうか。
 太陽が赤く染まり、日が暮れはじめていた。
 合掌を終えても、美斗はそこから動かなかった。墓石を眺め、思い出をずっと反芻している。
「美斗」
 呼びかけて、ぴと、と美斗の頬に触れる。肌はすっかり冷たく凍っていた。
「ここは随分冷える。もう少しここに居るか? 何か温かい飲み物を買ってくるよ」
 美斗は数秒、国近の顔を眺めて、それからふるふると首を横に振った。腰を上げて、立ち上がる。
「もう、大丈夫だ」
「そうか」
「……帰ろう」
「ああ、分かった」



「では、手続きの方はこちらで進めておきます」
 ふた月後。502号室にやって来た大志は、テーブルに散らばった書類をまとめながらそう言った。
「色々とありがとう。助かったよ」
 国近が異動してからずっと、彼は自分たちの力になってくれていた。須藤家の身辺調査や都築さんとのやり取り。民事訴訟では、美斗に代わってややこしい手続きのほとんどを担ってくれた。
 彼の助けがなければ、今回の結末には辿り着けなかっただろう。
「いえ、これが俺の仕事ですから」
 微かに笑みを浮かべて、大志は書類を茶封筒へと入れる。開口にある糸で厳重に閉じると、ビジネスバックへとしまった。

「そうだ。美斗さん」
 言いながら、大志は別の封筒をバックから取り出す。今度は少々分厚い。
「……?」
 国近の傍らにいた美斗は、首を傾げながら封筒を受け取った。開けて、中身を半分ほど引き出す。
 数冊の参考書が目に入った。
「進学を考えていると聞きました」
 ここ数カ月間、美斗は小説を書いていなかった。『書けなくなった』と、そう言った方が正しいかもしれない。色々なことが目まぐるしく起こりすぎたのだろう。受け止めきれないほどの批判も受けた。すぐに元通りというわけにはいかなかった。
『大学に行きたいんだ』
 美斗にそう言われたのは、彼の里帰りが済んだすぐあとだった。
『高認試験を受けて、本格的に文学の勉強がしたい』
 いいと思うと国近は答えた。それはきっと、美斗がこれから生きていくための力になってくれるだろうと思った。なによりも、美斗はこれから先も、小説を書いて生きていきたいだろう。文学の知識はきっと役に立つ。
 参考書は大志が受験生の頃に使っていたものらしい。少し古いけれど、よく出来た教材だと大志は言った。上から順番に美斗が参考書の表紙を確認する。参考書の一番下には、一冊のパンフレットが同封されていた。
「……これは?」
 と、美斗が問いかける。
「病気や事故で、親を亡くした学生に奨学金の給付や貸与を行っている団体です。美斗さんは22歳ですので、25歳になるまでに進学をすればこちらの奨学金を利用することが可能です。小説の印税や国の制度だけでは、心もとないかと思いまして」
 四葉出版は、イメージダウンや初野春の将来を考えて、騒動後の重版を行わなかった。デビュー作の印税は、一、二年ほど普通に生活をするには十分な額だけれど、大学に通うとなると少し頼りない。受験のために 予備校に通うことを視野に入れれば、さらにお金がかかるだろう。
 今後、正臣氏と示談金や慰謝料の交渉も進むだろうけれど、それが美斗の手元に入るのはずっと先だ。そもそも美斗はお金で解決するよりも、正臣氏に罪を償って欲しいようで、そういった金銭の類を拒否しようか決めかねているようだった。
 生活のことは気にしなくていいと国近は言ったのだけれど、美斗はどうにも気に病んでいる様子で。どう説得しようか悩んでいたから助かった。
「俺も、もらっていました」
 と大志が言った。
 パンフレットから顔を上げて、美斗が大志の顔を見つめる。少ししてから再びパンフレットに目線を落とすと、
「……そうか」
 と目を伏せた。

「ありがとう」

 失ってしまったものも、奪われてしまったものも、取り戻せやしないけれど。
 どうかそれ以上のものを、彼が手にすることができたらいいと思う。




 それから。
 
 時が過ぎて。
 季節はまた、春を迎えようとしていた。

 須藤美斗は、人混みの中を国近と並んで歩いていた。
 麗らかな春の陽気が、美斗の肌を撫でる。道なりには桜の木が植えられていて、枝の先にところどころに小さなつぼみが出来ていた。
 この近辺は有名な観光スポットだ。二人が今歩いている場所は、土産や食べ歩きを狙ったお菓子や軽食を売っているお店が連なった通りだった。

「美斗」
 隣で、国近が呼びかける。一軒の店を指さした。桜色ののぼりと、鶯色の立て看板が目に入る。
「抹茶のクレープだって。食べるか?」
「……食べる」
 美斗が頷くと、国近は手早く注文と会計を済ませる。店先で店主が、円形のプレートに抹茶色の生地を垂らした。
 しばらく軒先で待っていると、包み紙にくるまれたクレープが差し出された。生地は緑色で、てっぺんには追加の生クリームが平らに乗っている。その上に青々しい芝生みたいな抹茶の粉が振りかけてあった。中身も詰まっているのか、ずっしりと重たい。

 本日、美斗と国近は都心からほど近い場所にある温泉街に小旅行に来ていた。これから温泉宿に一泊し、束の間の余暇を過ごす予定である。
 以前、温泉に行きたいと言ったのを、国近は覚えていたのだ。墓参りを終えたあと、都内に戻る車の中で今回の旅行に誘われた。
 仕事柄忙しい国近によく二日間も休みが取れたものだと思うが、なにやら近く警視庁に新課が発足するらしく、新年度からはその準備のため、ほとんど休みが取れなくなるそうだ。彼は今回の件の功労者ということもあり、余裕があるうちに優先的に有給を取らせてもらえることになったらしい。
 それでも重大事件が起きれば休暇は流れるだろうから、本当にぎりぎりまで来られるか分からなかったのだけれど、どうやら天は彼に真っ当な休みをくれる気になったらしい。

 パクリと、手元のクレープを食む。サクサクとした生地が崩れて、中から抹茶アイスと生クリームが飛び出してきた。少し濃いめの抹茶の味と、爽やかなミルクの味が口の中で絶妙に混ざり合う。それらは生地と一緒にとろけて、喉の奥へと消えていった。
「……美味い」
 と呟く。ふふっと国近が笑った。途端にクレープから目線を離さなくなる美斗の手を引いた。

「今日の旅館、カニが出るらしいぞ」
「……カニ?」
 と、美斗が顔を上げる。カニなんて幼少期に食べた以来か。どんな味だったか。
「……美味そうだな」
「ああ。きっと美味い」
 



 国近が予約をしたという宿は、その商店街を抜けた先にある三階建ての日本旅館だった。敷地面積は広く、独特の存在感を放っている。どうやら大正時代から続く老舗のようで、館内は厳かな雰囲気が漂っていた。
 白磁色の着物を着た仲居が、エントランスで迎えてくれる。
「こちらです」と案内された部屋は、十二畳の畳と縁側のついた、純和風の部屋だった。畳の上には、座卓と座椅子が並べられていて、縁側の向こうには一面の海がのぞいていた。
 室内はとても広く、開放感に溢れている。

「お、おい」
 と、美斗は思わず隣の国近を呼んだ。
「良いのかよ。こんないい部屋、高かったんじゃないのか?」
 敷地面積も広いし、景色もいい。相場なんて分からないけれど、この部屋がそれなりに値段の張る部屋だということは分かる。
「良いんだよ。今日は特別」
「でも」
 旅行の代金を国近は美斗に払わせてくれなかった。いつも貰ってばかりなのに……。
「良いんだ。今日は――……するから」
「……は?」
 美斗は首を傾げる。今、何やらとんでもない言葉が聞こえた気がした。
 国近は美斗の疑問符には答えなかった。ふ、表情を緩める。

「奥に露天風呂があるけれど、入るか?」
「露天風呂……?」
 そんなものが個室にあるのか。贅沢な単語に美斗の思考が逸れる。
「ああ」

 あれ、なんか……。
 首を傾げて、美斗は胸元に手を置いた。なんだか心臓が、羽根が生えたように軽くなったような心地がする。なんだろう、この感情は……。



 畳の奥に襖があって、それを開くと脱衣所になっていた。その向こうがバルコニーになっていて、御影石で作られた浴槽がある。浴槽には、乳白色のお湯が張ってあった。
 美斗はおそるおそる、浴槽に足を踏み入れた。熱すぎることもなくぬるすぎることもない、ちょうどいい温度のお湯が、美斗の身体を包み込む。
 顔を上げると、先ほど縁側から見えた大海原が、一層近く、大きく見渡せた。
 山に囲まれて育ったからか、美斗は海が好きだった。雄大に寄せては返す波を見ていると、心が落ち着く。耳を澄ませると、浴槽のお湯が跳ねる音に交じって、さざ波の音が微かに聞こえた。
 心も身体も、その浴槽の中に溶けていくかのように温かかった。



 しっかり小一時間、その露天風呂を堪能した時には、辺りはすっかり夕焼けに染まりはじめていた。
 脱衣所に戻って、身体を拭う。浴衣帯の結び方が分からなくて、襖の向こうの国近を呼んだ。
 意図を察した国近が、手早く浴衣の長さを調整して帯を結んでくれた。
「これで大丈夫だ」
 夕陽が、彼の端正な顔を照らし出す。
「ありがとう」
「どうだった?」
「あ……良かった」
「……それだけか?」
「ぇ、ぁ……広かった、し……景色も、良かった」
 小説だったらもっと言葉が出てくるんだけれどな。もっとも最近はめっきり書けていないのだけれど。
 いざ感想を問われると、上手い返しは出てこなかった。気恥ずかしくなって、美斗は目線を反らす。
「そうか」
 国近は穏やかに口角を上げた。美斗の濡れた前髪を梳くって、耳元にかける。国近の指が触れると、美斗の心はまたじんと温かくなった。

「美斗」
 呼ばれて、顔を上げる。

「楽しいか?」


「あ……」
 言われて、美斗は気が付いた。
 ああ、そうか。先ほどの感情の正体はこれだ。自分は今楽しいのか。
 当たり前のように外に出て、普通の恋人のように遠出をして遊んでいる。何からも、誰からも脅かされることなく、自分の生を生きている。
 それはこんなにも……。
 ほっと息を吐いて、ふにゃっと下手くそに美斗は笑った。
「ああ、すごく」
「それは良かった」



 夕食は、国近が話していた通り、カニが出た。座卓を埋め尽くすほどの豪勢な料理を、美斗ははじめて見た気がする。カニの殻が上手く剥けなくて戸惑っていたら、国近が可笑しそうに笑いながら剥いてくれた。
 客室の露天風呂とは別に大浴場があって、夕食のあとは二人で向かった。大浴場にも露天風呂があって、その浴槽は檜で出来ていた。清々しい森林の香りが、露天風呂いっぱいに広がっていた。



 宵闇が、客室を埋めていく。薄暗くなった室内は、すっかり濃紺色へと装いを変えていた。
 縁側から微かな月明かりが差し、それが二つ分仲良く並んだ敷布団を照らし出す。
 ふ、と穏やかに国近が笑った。敷布団の片方に腰を下ろすと。
「おいで」
 と、美斗のことを呼ぶ。

 言われた通り、美斗は国近の方へと近づく。腰の方へと腕が回されて、彼の方へと引き寄せられる。
「いいこ」
 と妖艶に笑うと、その指先は、帯に伸びて。
 結び目をするりと解かれる。美斗の白い肌が露になった。
 国近の指先が、肌に伸びて。胸元に触れようとした。
 その時だ。
「ちょ、ちょっと、待って」
 美斗は国近の身体を押し返した。
「……どうした?」
「な、なんか」
 先ほどコマンドを聞いて、いい子と褒められた。そのあとから、なんだか妙な感覚に襲われた。
「なんか、変だ」
 いつも以上に力が入らないし、頭が働かない。思考能力がゆっくり何かに吸い込まれて、奪われていくような気配がするのだ。

「……?」
 きょと、と国近が美斗の顔を見つめる。数秒見つめて、合点がいったという顔をすると、
「ああ、スペースに入りそうなんだな」
 と言った。
「は?」
 益々首を傾げる美斗に、国近は優しく説明をした。スペース、つまりSub Spaseというのは、Subが完全にDomのコントロール下に入った時に起こる現象のことらしい。この状況になったSubは深いトランス状態に入り、多幸感に包まれる。
「そう言えば、入ったことなかったな。無意識的に身体がセーブをかけていたのかもしれない」
 コントロール下? 多幸感? 何を言っているんだろう。
 言葉や現象を理解はしても受け入れることはできず、美斗の頭は混乱した。
 国近が美斗の頬に手を伸ばす。
「い、いやだ……触んなっ」
 パシッと、美斗はその手を跳ねのけた。そのまま離れようとするけれど、寸でのところでその腰をまた、国近に捕まえられた。
「こっちにおいで」
「ひ、今、それやめろ」
 こんな状態でコマンドなんて使われたら、きっとすぐにおかしくなってしまう。
「大丈夫だから」
 多幸感は徐々に美斗の身体を浸食していた。手を取って、彼に身を任せたら、自分はきっと、もっと幸せになれるだろう。それは本能的には分かっている。けれど、飽和量を超えた幸福なんか経験したことがないのだ。このまま死んでしまうのではないか不安になる。
 ぶんぶんと首を振ると。国近は困ったように眉を下げた。

「美斗」
 と優しく美斗に呼びかける。
「こっち見て」
 すでに半べそ状態だった美斗は、そう言われておずおずと顔を上げた。

 視界に入った彼の顔つきを見て、はっと美斗は瞳を大きく見開く。
 真っ直ぐな瞳が美斗のことを射抜いていた。

「あ……」
 国近は優しく微笑むと、また「いいこ」と美斗を撫でる。
「大丈夫だから」
 その眼差しは美斗を捕まえて、ほんの一瞬も離さない。
 ああ。この目だ。
 きっとどれだけ行っても、どれだけ道を踏み外してしまっても、肇はきっと、自分を正常な場所に戻してくれる。
 身体の力が徐々に抜けた。降参を示した美斗の腕が敷布団の上へと落ちる。
「美斗」


「“Kneel”」
 その言葉が、きっと合図だった。



 へたり、と布団の上に膝を折る。へにゃっと、さらに力が抜けて、上半身から溶けていくように、美斗はその場に跪いた。
 肉体が小刻みに震える。先端から沁み出した液体が、美斗の下着をじっとりと濡らしていた。
「ああ」
 すっかり形を示しているそれに、国近がちょんと触れる。
「ひぁ」
 刺激を敏感に感じ取って、ビクッと一回、美斗の身体は大きく跳ねた。国近がボクサーパンツの平ゴムへと手をかけた。それを下へと下げられると、白濁を帯び、てかてかと光った美斗の陰茎が露になった。
「……Kneelだけでイっちゃた?」
 へ、と美斗は瞳を揺らす。まだ全然触れられていないのに。
 国近は美斗の頬を撫でて、じっと美斗の表情を伺う。
「でも、上手にスペース入れたみたいだな」
 頭の奥が、ふわふわと揺れる。はじめの声も、手も心地がよくて、訳が分からなかった。
 蕩けた美斗の顔を見て、クスクスと国近が笑った。
「あんまり布団汚したくないだろう? 今日は前で出すのは禁止な」
「へ……?」
 禁止……?
 鈍くなった脳みそは、その言葉を理解するのに普段の何倍も時間がかかった。
 それはつまり、今日は出さずに達しろってことか?
「ぁ……そ、な……」
 そんなの……。
 内腿が期待にうち震える。抑えきれない興奮が口内に分泌し、それをごくっと美斗は飲み干した。

「美斗」
 国近の指先が、美斗の顎に触れた。人差し指が押し付けられて、強制的に顔を上へと向けられる。

「返事」
 向き合った瞳は、どこまでも綺麗で、深くて、昏い。吸い込まれるような濡羽色をしていた。
 微かに寄せられた眉に、興奮と、情愛と、加虐心が見え隠れしている。

「ひ」
 きゅっと、美斗の喉奥が詰まった。首輪なんてそこにはないけれど、確かにこの男は自分を支配している。
「ぅ……あ……」
 じわっとまた下が濡れていく。こんな状態なのに、耐えられるだろうか。けれど、美斗に拒否するという選択肢はなかった。ちゃんと出来たらきっと……。
 きゅっと唇を噛み締めてから、
「は、い」
 と答える。

「いい子」



 膝上に、美斗の身体を乗せる。
 力の抜けた肉体は、国近の肩口に頭を置いたまま、とろとろと蕩けて甘い呼吸を繰り返していた。
 腰から手を伸ばし、彼の臀部に触れる。そのまま蕾まで指先を伸ばし、二、三回ゆっくりとそこをなぞる。 美斗の腰は上下に揺らいで、もっと奥へと国近を誘った。
「ハルト」
 指先を、一度臀部まで戻す。
「腰揺れてる。“Stay”だよ」
 ひた、と美斗の動きが止まる。
「あ、あぁ」
 ぶるっと上半身を震わせて、もう何度目かの限界を迎えた。
 それを見て、クスクスと国近は意地悪く笑った。
「さっきから、俺がコマンド出す度にイってる」
 先ほどから、国近はほとんど美斗の身体に触れていない。彼の性感帯を軽くなぞっているだけだ。それでも、そうした軽い愛撫の中にコマンドを混ぜてやると、今のように、いともたやすく美斗は達してしまう。
 スペースに入っている彼は、直接的な刺激なんかなくても、コマンドだけでよっぽど気持ちがいいみたいだった。
「でも出てないね」
 膝上に目を向けて、彼の自身を確認する。切なそうに震えているけれど、一度出したきり、一滴の白濁も零していなかった。
 出すなという国近の命令を忠実に叶えている。
 射精なしでの絶頂は、射精よりも広範囲で全身を包み込む。射精のように物理的な終わりもないから、きっと想像以上に辛いだろう。
 タオルはある。スキンも持っていた。
 布団を汚さないでする手段なんかいくらでもあるけれど、自分のためにと耐えている美斗を見るのが国近は好きだった。射精すらも管理しているという状況に、支配欲が満たされる。
 そして美斗も、きっと国近のために耐えるのが好きだ。
「“Good boy”」
 ご褒美を与えて、ツプっと彼の蕾に指先を挿入する。
 きつく締まったそこは、きゅうきゅうと国近の指を締め付けた。

「はじ、はじめっ」
 耳元で、美斗が名前を呼ぶ。
「……ん?」
 首を傾げながらそちらに顔を向ける。へにゃっと蕩けた顔が目の前にあった。
「きす、キスはぁ?」
 と甘く強請る。
 普段の様子からは想像もできないその様子に、国近は一瞬虚をつかれて、それからクスクスと幸せそうに笑った。
 後頭部へと手を回し、唇を重ねる。隙間から舌先を差し込み、咄嗟に逃げようとする彼の舌を捕まえた。
「ん、ふぁ、あ」
 舌を絡めて、歯茎の裏をなぞり、口内を蹂躙する。

 しばらく堪能してから、そっと唇を離す。絡み合った粘液が糸を引き、飲み切れなかった唾液が、美斗の唇の端から零れ落ちた。
 へたりと、美斗の頸が再び国近の肩口に落ちた。
 は、はと淡くなった呼吸を繰り返す。
「よか、よかった」
 国近の背中に腕が回された。浴衣の布を、きゅっと、美斗が強く掴む。
 もう離さないというように……。

「はじめが死ななくてよかった」

 絞り出すように零したその声は、今にも泣き出しそうに滲んでいた。
 はた、と国近は気が付く。彼を守って出来た傷は、国近の脇腹に大きく刻まれている。
 そうか。まだ、怖いのか。
 あんなことがあったのに、国近は病室で彼と再会して以降、彼が弱音を吐いている姿を見ていなかった。両親の墓参りですら、彼は涙を見せていない。
 きっかけがなければ泣けない子だ。今日までずっと、耐えていたのかもしれない。
「もう、どこにも行くな」
 声色がみるみるうちに涙で濡れていく。
「おれを一人にするな……」
「ああ……。怖がらせてごめんな」
 国近は美斗の頭に手を置いて、優しく頭を撫でた。その手を背中まで下ろし、子どものようにしゃくりあげている彼を落ち着かせてやる。
「全部、美斗のものだよ。俺はずっと、美斗のDomでいる」
「おれ、おれは?」
「美斗も俺のものだ」

 涙で濡れた瞳が、こちらを見つめる。瞳の奥はまだとろんとしていて、スペースがずっと深いことを物語っていた。
「キス、もっかい、しろ」
 と甘える。
「はいはい」
 表情を緩めて、国近はまた唇を重ねた。



 蕾の指を、一本分増やす。時々しこりを刺激しながら奥へと進んでやると、入り口は柔くとろけて、すぐに国近を受け入れる準備を始めた。
 隙間が十分に広がっているのを確認して、もう一本分指を差し込む。
「んぅ、はぁ、ああぁっ」
 しこりをしっかりと押しつぶされて、美斗の身体はびくびくと跳ねた。
「ハルト」
肩口を掴んだまま悶えている彼の顔は、その蕾と同じぐらいにぐちゃぐちゃだ。
 薄く笑って、国近は指を抜いた。

「自分で挿れて」
「……へ?」
 蕩けたまま、首を傾げる。
 反り立った自身を蕾に当てると、何をされるのか感づいたようだ。
「待っ……」
 と、国近の肩を押した。
「美斗」
 
「“Kneel”」

 ぺたんと彼が腰を折る。緩んだそこは国近の自身をいともたやすく飲み込んでいた。

「ひぁ、ああぁっ」
 身体をのけぞらせて、深く深く、美斗は達した。


 扇情的な彼の様子を眺めながら、国近は思う。
 ずっと俺のものだ。もう絶対、誰にも渡さない。




 薄明の空が、客室を僅かに灯し出す。
 うっすらと瞼を開けると、美斗は布団の中にいて、国近に抱きしめられていた。
 骨ばった指が、美斗の頭を撫でている。もう、きっと動けるのだろうけれど、もう少しだけ彼の手に浸っていたくて、美斗はそのまま目を伏せた。
「美斗」
 と、名前を呼ばれる。
「Claim契約しないか?」
 伝わる体温はぬくぬくと温かい。目を閉じたまま彼の声を聞いていると、美斗はとても穏やかで幸せな気持ちになった。
「ああ……いいな」
 と呟く。Claim契約というのは、DomがSubに行う正式な所有の証明だ。その方法はいくつかあるけれど、役所に届け出を提出するとパートナーであることを公的にも証明してもらえる。それは法的な拘束力を持ち、家族と同じような扱いになるそうだ。
 家族。そんなことは、出会ったときには想像もしなかった。
 でも家族になれたらきっと……。
「……ずっと一緒にいられる」

 それは、美斗が人生で、はじめて心から願った望みだった。




 客室に朝日が差し込む。オレンジ色の柔らかな光が充満して、部屋の中は温かな空気に包まれていた。水鳥の鳴き声が、客室のずっと向こう、海の方から聞こえる。
 縁側に腰をかけて、美斗は外の景色を眺めていた。

「露天風呂、もう一回入るんだろう?」
 背中に向かって、国近が呼びかける。
「後から行くから、先に入っておいで」
 華奢な背中が、ゆっくりと振り返ってこちらに目を向けた。
「なあ」
 と国近を呼ぶ。
「お前の姓を名乗ってもいいか?」
 はた、と少し悩んで、気が付く。
 それはきっと、まどろみの中で話した、Claim契約のことだった。
 ダイナミクス性のカップルは、役所に届け出をするとパートナーであることを公的に証明してもらえる。その制度では、姓の変更が認められているのだ。
 DomもSubも別の姓を名乗る場合が一般的だけれど、Claim契約は元々、DomがSubにする所有の証だ。Sub側がDomの姓に変えることも珍しくない。

「……いいのか? 大切なご両親の姓だろう」
 目下、須藤家との間で、養子縁組を解消する手続きが進んでいた。それが終われば美斗は生家の戸籍に戻って、『雨宮』姓になる。国近はそこまで強制するつもりはなかった。

 美斗は薄く笑って、また縁側の向こうへと目を向けた。国近は小首を傾げる。
 近づいて、美斗の隣へと腰を下ろすと、彼はゆっくりと、唇を開いた。
「雨宮美斗は、両親が死んだ雪の日に死んだんだよ。これから俺は、生まれ変わって新しい生を歩むんだ」
 視界の向こうに、よく晴れ渡った空とキラキラと光る海面が見えた。見渡す景色はとても綺麗で透き通っている。
「だから名乗るなら、お前の姓がいい」
「……分かった。それで手続きしよう」
 彼が望むなら、国近に拒む理由はなかった。

「あ、と」
 そこで、美斗は俯く。首元に指を置いて、きゅっと唇を噛み締める。
「首輪は……」
 その様子を見て、国近は軽く、彼の額を中指で弾いた。
「ばーか」
「いっ」
 と呻いて、美斗が額をさする。
「まだ、怖いんだろう。無理しなくていい」
 冬の間は、マフラーを巻くのだって躊躇していた。気がつかないはずはなかった。
 目線を外して、国近はまた景色の方へと目を向ける。
「首輪がなくても、美斗は俺の大事なSubだよ」
「…………」

 沈黙。

「美斗?」
 不思議に思って、国近は美斗の方を伺う。
 美斗はかぁと顔を赤く染め、照れくさそうに俯いていた。こういう顔も出来るらしい。
「ははっ」
 素直な様子が可愛くて、国近は笑った。
「耳まで真っ赤」
 言いながら、国近は美斗の耳元に触れる。ぴくっと彼の身体が跳ねた。


 普通に囚われなくてもいいと思う。
 国近は美斗に一生首輪を贈ることが出来なくても構わなかった。

 頬の方へと手を伸ばし、彼の顔をこちらへと向けさせる。
 視線を合わせて、そっと、唇を重ねた。


 ただ今は、首輪が嫌いな君に、
 精一杯のRewardを。

――あげたいと、そう思うのだ。



〈完〉



――――――――――――――――――――――――――――――――
長らくありがとうございました。
はじめて投稿した小説でしたが、たくさんの方に反応をいただけて幸せでした。
今後はスピンオフ等も考えています。今しばらく彼らにお付き合いください。
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少数のDomが社会を支配する世界。 Subと診断された者にはDomに仕える執事となるため英才教育が施され、衣食住が保証され幸せに暮らす……と言われているのは表向きで、その実態は特殊な措置によりDomに尽くすべき存在に作り変えられる。 Subの少年ルカも執事になるほかなかったが、当然そこには人権など存在しなかった。 やがてボロボロに使い捨てられたルカと、彼のことをずっと気にかけていた青年との初恋と溺愛とすれ違い(ハッピーエンド)。 ◆Dom/Subユニバース設定の世界観をお借りしたほぼ独自設定のため、あまり詳しくなくても雰囲気で読んでいただけるかと思います。ハードなSM的描写はありません。 ◆直接的な描写はありませんが、受け・攻め どちらも過去にメイン相手以外との関係があります。 ◆他サイト掲載作に全話加筆修正しています。 ※サブタイトルは試験的に付けており、変更の可能性があります ※表紙画像はフリー素材サイトぴよたそ様よりお借りしています

いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜

きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員 Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。 そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。 初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。 甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。 第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。 ※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり) ※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り 初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。

平凡なSubの俺はスパダリDomに愛されて幸せです

おもち
BL
スパダリDom(いつもの)× 平凡Sub(いつもの) BDSM要素はほぼ無し。 甘やかすのが好きなDomが好きなので、安定にイチャイチャ溺愛しています。 順次スケベパートも追加していきます

隠れSubは大好きなDomに跪きたい

みー
BL
⚠️Dom/Subユニバース 一部オリジナル表現があります。 ハイランクDom×ハイランクSub

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