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【第9話】お前と生きていきたいんだ。

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 国近肇と須藤美斗は、あまり多くのことを話す性質ではなかった。502号室で暮らしはじめた当初、二人の会話は必要最低限のこと以外にはなかった気がする。
 まして美斗は、自分を置いてくれた国近に感謝はしていたが、完全に信用はしていなかった。そうでなくとも、人との関わりがほとんどない生活をしていたので、気の利いた会話など出来るわけもなかった。
 国近は国近で、美斗のそういう複雑な心の機微を理解していたのだろう。必要以上に美斗に踏み込んでくることはなかった。
 二人は、一定の距離感を保って生活をしていた。

 あれは、二人で暮らしはじめて、二週間ほどが経った日のことだっただろうか。

 朝。
 寝床にしていたソファーから目覚めると、その下で国近がコーヒーを飲んでいた。
 毛布にくるまったまま、美斗はぼんやりと、彼の背中を見つめる。
 今は何時だろうか。部屋の中は太陽の煌々とした光が差し込んでいた。そんなに早い時間ではないようだった。頭の近くに置いてあったスマートフォンを手繰り寄せて、画面を確認する。時刻は8時半を過ぎたところだった。
 今日は随分ゆっくりしているな。普段ならもう、とっくに家を出ている頃だろう。
 けれど、目の前にいる背中はまだ部屋着のままだ。
 鼻に届くコーヒー豆の匂いが心地よくて、目を細める。身体を起こそうと身じろぎをすると、国近がこちらを向いた。
「おはよう」
 と、穏やかな声を掛けられる。
「……ああ」
 仕事は、と聞きかけて、そんなことを気にする仲ではなかったなと気が付く。
 この時間まで家にいるということは、休みか遅出なのだろうと勝手に理解する。
「コーヒー、君も飲むか?」
「……ん」
 小さく頷く。国近は立ち上がってキッチンの方へ向かうと、コーヒーポットを火にかけ始めた。
 半分ほど起こした身体を最後まで起こして、毛布を畳む。インスタントコーヒーの瓶を、コンコンとカップの縁に当てる音が聞こえてきた。国近のいた位置の、ちょうど隣に腰を下ろして、コーヒーが出来上がるのを待つ。
 しばらくすると、カップが目の前に置かれた。
 中を覗き込む。何も言わなかったけれど、ミルクがきちんと入っていた。
「俺は買い出しに行こうと思っているんだけど、君の予定は?」
 隣に座り直した国近に、問いかけられる。
 カップに口をつけ、クリーム色の中身を啜ると、甘い味が口の中に広がった。
「ない」
 と、答える。
「そうか。じゃあ、また留守番しているといい」
 ……。
「……一緒に行く」
 少し悩んで、そう答えた。生活必需品はネット通販で買っているようだが、生ものは近場で買った方が都合がいいはずだ。
 自分がいる分、買う物の量も増えていることだろう。荷物持ちぐらいならしてもいい。
 簡潔にそう伝える。
 そうか、と頷いて、国近は薄く笑った。



 アパートから車を十分ほど走らせた隣町に、大型のスーパーマーケットがある。家の近所には小さなお店もいくつかあるのだが、国近はドライブがてらにそのスーパーを利用することがあるらしい。

  午前10時。平日の店内は、まだ開店間近の空気が漂っていた。まばらな人通りの中で、店内アナウンスが今日のお買い得品を知らせていた。
「必要なものや欲しいものがあったら、適当にカゴに入れていい」
 そう言い置いて、国近が先に進む。
 こういった場所は中々来たことがない。物珍しそうに辺りを見回しながら、美斗は国近について歩いた。
 野菜や、肉、魚、一通りの食材を国近がカゴの中に入れていく。少し量が多い気がするは、買いだめして冷凍しておくからだと最近知った。 

 そうやって、しばらく歩く。ふと、商品棚の中の一つが気になって、美斗は足を止めた。そこはデザートコーナーのようだ。棚の中央に、カッププリンが並んでいた。香ばしく表面をブリュレされた写真が、パッケージに写っている。それはとても美味しそうで……。
 そっと手にとって、パッケージを眺める。
 普段は気にならないそれが、なぜかその時無性に食べたいと思った。
 けれど……。
 頭の中で、所持金を数える。今週の稼ぎ口はまだ決まっていない。衣食住は充実しているから不自由をすることはないだろうが、無駄遣いはしない方がいいだろう。
 甘いものは、食べなくても生きていける。今日を生きるだけで精一杯の自分が、望むようなものでもない。商品を戻そうとする。

 その時だった。

「……それ、欲しいのか?」

 隣で、国近が問いかけた。いつの間にか引き離されていたらしい。振り返ったときに美斗がいないから、ここまで戻ってきたようだ。
「あ? 違う、見てただけだ」
 ぶっきらぼうに、美斗は返した。
 数秒。国近は美斗の顔を見つめた。何を思ったのか、美斗の手からそれを奪うとカゴの中に入れる。むっと、美斗は顔をしかめた。
「おい。いらないって言ってる」
「俺が食べるんだよ」
 ああそうかよ。好きにしたらいい。
 でも隣で見せつけられるのは少し辛いな。こういう時、美斗は自分と周囲との違いを感じずにはいられなかった。 
 美斗以外の人間は、好きなものをいつでも好き勝手に、手に入れることができる。いつもそうだ。たった一つのスイーツに、美斗の心は簡単に傷つけられる。
 シュンと、心なしか美斗は肩を落とした。それは、他の人が見てもきっと気が付かないような微かな変化だったけれど、国近には読み取れたようだ。
  

「……半分いる?」
 頭上から、問いかけられる。は、と当惑の表情を浮かべると、国近が続けた。
「俺はこんなに食べないよ」
「…………」
「残ったら捨てるしかないな」
「……。……じゃあ、も、らう」
「ああ」
 短く頷くと、国近はまた美斗の前を進みはじめた。
 遅れて、はたと気が付く。並外れて大きなサイズでもないデザートを、大の大人が完食できないはずはない。今のはきっと方便だ。
 自分はそんなに、物欲しそうな顔をしていたのだろうか。急に気恥しさが押し寄せてきた。やっぱりいらないと言おうとして、今さら突っぱねることが不自然であることに気づく。そのための言い訳は、もう塞がれてしまった。
  きゅ、と美斗は唇を噛んだ。自分の感情が、自分のものなのによく分からなかった。

「国近」
 背中に向かって、呼びかける。彼のことを呼んだのは、その時が初めてだった。
 
「ん?」
 足が止まって、穏やかな瞳がこちらを向いた。
「……なんでもない」
 言いかけた言葉をつぐむ。謝罪も礼も柄じゃない。
 けれど、何を思ったのだろうか。ふっと、彼の顔は柔らかく緩んだ。
「ああ、どういたしまして」
「っ……! 何も言ってないだろ!」
「そうか」
 本当に調子が狂う奴だな。むすっとまた、美斗は顔を顰めた。そんな様子は意にも返さず、国近は続ける。
「今日はハンバーグにしよう」
「……」
「煮込んだのと目玉焼き乗せたのだったらどっちがいい?」
「……。……煮込みの方」
「ああ。了解」
 胸の奥がじわじわと温かくなる。
 家に帰っても、これをネタに彼が自分に手を出さなかったら、もう少しだけ彼のことを信用してやってもいい。そう、心の中で思った。


 結局、あの日の荷物は全て国近が持って、家に帰ったら彼はとびきり手の込んだ煮込みハンバーグを作ってくれた。
 夕食の後でプリンの封を開けると、それを一口だけ食べて、残りは全て自分にくれた。

 あの後から、彼は時々、甘い物を買って帰ってくるようになった。



 調子がいい。
 リビングのテーブルの前に腰を掛け、須藤美斗はノートパソコンを開く。
 慣れた手つきで電源を入れると、タイピングソフトを起動した。
 書きかけの小説の、鮮やかな文字の羅列がその画面に浮かび上がる。二、三行目線を滑らせて、キーボードの上に指を置いた。控えめなタイピング音が部屋の中に響き渡る。

 執筆活動を始めたのは、この部屋に来て三ヶ月ほど経った日のことだった。突如深夜に思いついた物語を、夢中で綴った。
 はじめの頃、小説を書くことはなんて難しいことなのだろうと思った。伝えたい情景や感情は確かにあるはずなのに、文字に起こそうとすると上滑りして消えてしまう。読むときは数分で終わる場面は、いざ書くとなると何時間も時間が掛かった。なによりも一番きつかったのは、確実な正解がないことだ。何を書いても、書いているうちは誰も否定や肯定をしてくれない。それは出口の見えない真っ暗なトンネルを歩いているような気分で。美斗の人生で、それは今に始まったことではないけれど、この時ばかりは誰かを頼りたくなった。
 自分の父は、よくこんな面倒なことを仕事にしていたものだと思った。
 結局、四十枚の原稿を書くのにひと月を費やした。ただ、その原稿が七十を超えた頃から、不思議とコツが掴めてきた気がする。そこからラストを書き切るまでには、そんなに長い時間はかからなかった。完成した小説を、読み返すこともせずに美斗は投稿サイトに投稿した。
 ペンネームは、少し悩んで、父の筆名を踏襲した。父のペンネーム『雨宮千秋』は、父の本名と、母の名前を捩ったものだ。

 あれから、気が付けばもう半年以上が経過している。サイトに投稿した小説は、当初はさした反応も見られなかった。でも、数週間を超えた辺りでちらほらと感想が届き、少しずつ閲覧数が増加した。二カ月を超えた頃にはランキングに食い込むようになった。そして、あれよあれよという間に出版社の人間の目にとまり、書籍化が決まった。版行後は運が良かったのか担当編集の手腕が良かったのか話題になり、それなりの売り上げを記録している。

 初野春のニュースを見る時、美斗は今でも現実感が湧かなくなることがある。
 『陽の当たらない春を探して』は、確かに自分の書いた小説だけれど、小説を書いている自分と、彼の前で軽口を叩いている自分は、本当に同一人物なのだろうか。今でも信じられない気持ちになる。

 カチカチと、キーボードを鳴らす。
 調子がいい。アイデアが泉のように湧いてくる。ここ数ヶ月はずっとそうだ。
 それだけではない。眠れなくなることや頭痛に悩まされることがなくなった。
 慢性的に自分を支配していた倦怠感や苛立ちが、きれいさっぱりと消えた。

 第二性を持つ人間は、適切に欲求をしなければ心身に様々な不調を引き起こす。けれど欲求を解消できれば、こんなにも生きやすくなるらしい。

 ふと、手を止める。画面の時計が、16時を指していた。随分と長い間熱中していたらしい。気が付けば夕焼けが部屋に差し込んでいた。
 手をキーボードから下ろして、美斗は肉体の力を抜く。
 そろそろ休憩して、一度食事を取ろう。先日もはじめに怒られたばかりだ。

 目線を、ベランダの方へ向ける。
 そこには、美斗が仕事用に購入したプリンターがある。その上に、ダブルクリックで止めたコピー紙の束が乗っていた。それは、美斗が執筆の合間に書いたある文書だった。

 小さく息を吐く。目線をコピー用紙から外して、美斗は立ち上がった。


* 
 国近肇がマンションを訪れたのは、過日のパーティーからちょうど五日の月日が経過した日だった。
 安全を確認するのに時間を要した。その間、国近は美斗の身に危険が及ばないかと気が気ではなかったが、部屋に着くと、美斗は普段通り定位置で小説を書いていた。
 ノートパソコンから顔を上げた瞳と、視線がぶつかる。
 不思議そうに首を傾げた浅黄色に、ようやくひとまず安心することができて、ほっと、国近は胸を撫で下ろした。

 ソファーに腰をかける。美斗を見下ろして、
「何か食べたのか」
 問いかける。
「……はじめはいつも俺の食事の心配をしているな。それしか話題がないのか」
 通常運転の軽口が返ってきた。
「それは……」
 言いながら、国近は苦笑する。
 放っておくとすぐに食事を抜くからだ。502号室で暮らしはじめた当初、国近が仕事から帰るまで、美斗は一切食べ物を口にしなかった。自分の帰りがどれだけ遅くなっても、真っ暗な部屋で息をひそめて待っていた。
 何日目かにそのことに気が付いた国近が、自分がいない時は冷凍室のものを温めて食べろと伝えたのだ。それでも、そこから数日は冷凍室の中身が減ることはなかった。何度もしつこく言って、ようやく食べてくれるようになった。
 彼がそういう風にしなければ生きていけなかったのだと知ったのは、その少し後だ。
「昼前に食べたよ。夕食はこれからだ」
「そうか」
 返答に、二度目の安堵が零れる。あの時から比べると、彼は随分と人間らしい生活をしてくれるようになった。

 沈黙が、その場を支配する。
 背もたれに深く身体を預けて。ぼんやりと、国近はリビングを見回した。この部屋は、随分と物が増えたな。その大部分を占めるのは、国近が美斗に与えた小説だった。何もなかった部屋は、今は適度な生活感に溢れている。

 どれくらい、時間が経っただろうか。
 本題に入らなければならないと思った。
 呼びかけようと、唇を開く。

「はじめ」

 先に言葉を発したのは、美斗の方だった。顔をそちらに向けて、彼の顔を見つめる。
「告訴状を出したいんだ」
「……!」
 思いがけない単語だ。国近は目を見開いた。
 美斗はおもむろに立ち上がると、二、三歩ベランダの方へ足を進めた。プリンターの上からコピー用紙の束を掴むと、それを国近の膝に置く。
「思い出せる限りのことを、記してある。受理してくれないか」
「……いいのか」
 被害届と告訴状は、その意味合いが大きく異なる。被害届が犯罪被害にあった事実を申告するものなのに対して、告訴状は犯罪被害の事実を申告した上で、被疑者の明確な処罰を求めるものだ。告訴状を受理した場合、捜査機関には法律上の捜査義務が生じる。
 立ち向かうつもりでいる。須藤正臣を相手に、真っ向から。
 ほんの一瞬だけ微かな苦笑を浮かべて、美斗は隣に腰をかけた。
「……お前の、考えていることぐらい分かる。しばらく来ないと思ったのに、やっと来たと思ったらずっと上の空だ。何かあったんだろう。……それに、ずっと逃げ続けられるわけじゃない」
 国近から視線を逸らすと、ベランダの方を見つめる。釣られて窓の外を見ると、陽が暮れはじめていた。遠くから鴉の鳴き声が聞こえた。
「兄に連れ戻された時、ずっとあの場所に帰りたいと思っていた。最近、また思い出すんだ」
 数秒の沈黙があった。
 しばらくして、その顔が再びこちらを向いた。
 強い、意志のこもった瞳が国近を射抜いた。
「俺は、502号室に帰りたい。あの場所で、これから先の人生を過ごしたい」

「お前と生きていきたいんだ」

「叶えて、くれるか?」
 コピー用紙を掴む。その重みをしっかりと確かめてから、国近は深く頷いた。
「……もちろんだ」


 翌々日。
 マンションの前に現れたのは、柏木大志の姿だった。
 自分たちが動き出すとき、一番危険に晒されるのは彼だ。美斗の執筆活動のこともある。美斗と相談をして、彼と話をする機会を設けることにした。
 当初、国近は外での会合を提案した。先日、柏木から彼の過去について聞いた。外で会うのは危険が伴うが、この部屋には来たくはないのではないかと思ったのだ。
 しかし、返ってきた言葉は、
「あの部屋は俺のマンションですから。俺が行くこと自体は怪しいことではありません」
 というあっさりとしたものだった。

 リビングのテーブルで、三人が向かい合う。
 順を追って、国近はこれまでの経緯を説明した。
 美斗は慣れない来客に、初めは固い表情をしていた。
 しかし、大志がずっと協力をしてくれていたことは知っている。国近が説明をしているうちに、徐々に緊張をほぐしていったようだ。
 二人は年も近いから、全てが終わったあとには、いい友人になれるだろうか。そう、国近は思った。

「率直に、君の意見を聞かせて欲しい」
 全てを話し終えた後で。国近はそう切り出した。
 問題は山積みだ。自分一人ができることは限りがあるから、視野を広げて考えたかった。

 大志はしばらくの間考え込むと、
「美斗さん」
 美斗の顔を見つめる。そして、こう言った。

「民事訴訟を起こす気はありませんか?」

「……?」
 言葉の趣旨が分からず、美斗は困惑の表情を浮かべた。
「民法上、養子縁組は特定の要件があれば離縁することが可能です。本来、協議離縁、調停離縁といった流れで進めていくのですが、養親である忠臣氏が意識不明の状態であるためその手段が取れません。しかし……」
「……憶測ですが、正臣氏か佳史氏のどちらかが忠臣氏の成年後見人……つまり代理人を務めているのではないかと思います。そこを相手取って、縁組を解消するための裁判が起こせます」

 それは確かに、法曹の人間らしい意見だけれど……。
「……なぜ今、それが最適だと思ったんだ?」
 国近が尋ねる。明瞭な口調で、大志が答えた。
「いずれやるべきだというのも一つの理由ですが……。美斗さんの身の安全が今回の鍵になるからです」
「捜査にはそれなりの時間がかかりますよね。これまでのことを考えると、内輪で揉み消されるリスクもあるのではないでしょうか。その間に美斗さんの身柄を取られたら、こちらは為す術がありません。でも、この方法なら――」
 はた、と国近は気が付く。彼が狙いとしていることが、徐々に見えてきたような気がした。
 確かにこの方法なら……。
――より早く問題にできる。
「須藤グループが当事者にいるのであれば、世間の注目は集まります。まして美斗さんは今話題の匿名作家です。初野春の正体が合わせて明かされたら、それなりの騒動に発展するはずです。そこを利用するんです。そうすれば、正臣氏は迂闊に美斗さんに手出しができません」
 顎先に指を置き、国近は思考する。
 つまり、訴訟を利用して疑惑を流し、大衆の目を向けさせるのか。
 第三者の目があれば、動きづらくなる。
 もっとも、訴えの取り下げや放棄をしてもらうために、秘密裏に美斗の身柄を拘束する、という手段もあるから確実に安全とまではいかないけれど、法律家が間につくなら牽制は出来るはすだ。

「しかし……」
 国近は顔を曇らせた。この方法はあまりにも美斗の精神的負担が大きすぎる。
 それに、正臣氏は持ちうる全てを使って対抗してくるだろう。考えたくはないがもし……。
「ええ。この方法は想像以上に辛い方法だと思います。そして、これは単なる時間稼ぎにしかならない可能性もあります。親族問題に強い先生なら何人か紹介できますが、確実に勝てるという保証はありません」
 言いながら、大志は目を伏せた。少しの間押し黙ってから、覚悟を決めたように顔を上げる。
「……ですからその上で、向こうがこちら側の請求を受け入れせざるを得ない状況を作ります」
「……!」
 そこで、国近は理解した。
 なるほど。彼に意見を求めたのは正解だった。

 机上には、美斗に貰ったコピー用紙の束が乗っていた。それを、一度だけ撫でて、大志が言う。
「告訴状は切り札になりますが……。」

「切り札は、一番効力を発揮できる時に使うべきです」



 数日後。須藤グループホールディングス本社ビル。
 机上に並べられた書類を見比べて、須藤正臣は思考する。書類の一番下に記されているのは、ある法律事務所と裁判所の署名だった。
 こういった手段自体は、全く想定が出来なかったわけではないけれど……。
 入れ知恵をした専門家がいる。これは想定外。
「桐野」

「国近肇の周りに、法曹の関係者は?」
 横で待機していた桐野が、タブレット端末を操作する。
「現在調査中ですが……司法修習生が一人いらっしゃいます」
 調査資料の一ページを表示した。
 それを、正臣に見せながら言った。
「柏木大志。直属の上司のご子息です」
 画面を見つめて、正臣は目を細めた。
 ここか……。おそらく初野春と出版社を繋げていたのも彼だな。こちらの調査が一歩遅かったようだ。
「取り急ぎ追加調査を。何か弱みになりそうなことがあったら――」

 そこまで言いかけて、正臣は止まった。
「――いや、やめておこう」
 おそらくこれは公になる。いや、むしろそちらも狙いの一つか。
 司法修習生なら直接公判に関わることはないだろう。民事訴訟なら法律家がいなくとも起こせる。
 彼は単なる窓口で、事態が動いている以上、彼一人がいなくなったところで状況は変わらない。

 大衆を利用してこちらの動きを塞いだ。迂闊に手が出せなくなった。
 捨て身だが上手い手だな。正攻法で対処せざるを得なくなった。

 はぁ、と正臣は深く息を吐く。
 いつの間にか、あの子の周りに人が集まっている。何も出来ないと思っていたのに――。

 こめかみに指を置き、正臣は次の一手を考える。
 この程度ならまだ手はある。付き合ってやればいい。

 むしろ警戒すべきなのは……。
「弁護士の用意を進めていい。それから――」

「浅井記者に連絡を」



 初野春の正体が、須藤グループ会長の養子であること。
 その初野春が、兄・正臣からの不当な支配を理由に縁組の解消を求めていること。
 そのニュースは大志の策略どおり、瞬く間に広がりトップニュースになった。
 当初、分があったのはこちらの方だった。須藤グループは突然のスキャンダルに揺れ、批判に晒されるかに思えた。

 しかし……。
 騒動が報道されてわずか二日後。『週刊 風月』というゴシップ紙に、こんな見出しの記事が掲載された。


『売名行為か!? 天才作家の心の闇・恵まれた兄への劣等感と歪んだ愛!』

――須藤グループのお家騒動が連日世間を賑わせている。
 初野春が須藤家にやってきたのは、彼が十歳で正臣氏が高校生の頃だった。不運な交通事故で両親を亡くした初野さんを、遠縁だった忠臣氏が引き取ったそうだ。お互いに第二性を持っていたということもあり、初野さんと正臣氏の仲は良好だった。
 しかし、初野さんが中学生に上がる頃から、状況は少しずつ変化していく。初野さんの虚言が始まるようになったのである。初めは些細なことだった。それが徐々にエスカレートしていき、正臣氏に不当な支配をされていると周囲に吹聴するようになった。「美斗さん(初野さんの本名)は、正臣さんを妬んでいたようでした。恵まれた環境にいる正臣さんが羨ましかったんだと思います。一方では、彼が正臣さんを慕っていたことも事実です。両親を早くに亡くして愛情表現が苦手な節がありました。正臣さんの足を引っ張ると同時に気を惹いているんです。いつもそうでした」二人をよく知る人物はそう述べている。
 須藤グループを巡る問題は、本誌でも度々掲載してきた。現会長忠臣氏の体調悪化により、新代表取締役の選任が迫られている。
 今回の件に関して正臣氏は、関係を修復する機会をうかがっているようである――。

 それは、正臣氏からの応酬だった。こちら側と真っ向から食い違う主張だ。
 正臣氏の綺麗な容姿も話題となり、向こうの主張は疑われることがなかった。
 戦況は覆り、以降、初野春はネット上でバッシングを受けるようになった。



 眉根を寄せながら、国近肇はスマートフォンの画面を見る。
『嘘つき作家』
『現実と空想の区別がついていないんじゃないのか』
『恩知らず。自分がどれだけ恵まれているのか、誰か教えてやれよ』
 画面の向こう側では常に、そんな言葉が飛び交っていた。中には初野春を擁護するコメントもあるけれど、その多くはアンチテーゼの波に消されてしまう。

 寝室から美斗が顔を出す。気が付いて、国近はそっと、机上に器械を伏せた。
「隠さなくていい」
 目ざとくそれを見つけた美斗が言った。
 事が公になってから、美斗のことは大志と、大志が紹介してくれた担当弁護士に任せている。今、国近と美斗の繋がりが露見すると、少々面倒なことになるからだ。
 直接顔を合わせるのは数日ぶりだった。その顔が、妙に覇気がないから、国近は胸が痛くなった。
「昨日のワイドショーでやっていた。嘘つきだと、そう言われることには慣れている」
 国近も目にしたことがある番組だろうか。世間を賑わすスキャンダルに、当事者でもない人たちが好き勝手に口を出す。事実をエンタメ化し、何を言ってもいい空気を作り出す。
 誰も幸せにならないプログラム。
 だが、そういうものを食い物にして生きている人間が、世の中には一定数いる。
 真実も、当事者の感情も、彼らにはどうでもいいのだ。
 美斗は緩慢な動作で、国近の隣に腰を掛けた。
「今日、大志が来て……」
 と話し出す。
 心なしかその時ばかりは落ち込んだような声だった。批判を受けること以上に、悲しいことがあったような――。

「都築さんが担当から外れるんだ」

「……!」
 それを聞いて、国近は再び眉根を寄せた。
 都築侑馬は、初野春の担当編集で、美斗の小説を見つけてくれた編集者だ。騒動が起こる前、大志を通して、彼には美斗の居場所以外の全ては打ち明けた。とても驚いていたけれど、どこか納得したような様子で、執筆活動は自分が全力でサポートすると言ってくれたらしい。
 国近が直接話をしたことはないけれど、人柄が柔らかく、優しそうな人だと聞いている。
「何かされたのか」
 問いかける。
「違う」
 と、美斗は首を横に振った。
「責任を取らなきゃいけなくなってしまったんだって。俺の素性を隠して、騒ぎになってしまったから……」
「連載も、ひとまず休止に」
 デビュー作以降、美斗は四葉出版のある文芸雑誌で連載を一本持っていた。
 それなりに好評だったはずだ。
「もう、書けなくなるのかもしれないな」
 薄く、美斗が呟いた。

 一回目の口頭弁論は二週間後だ。
 弁護士を通して、その前に一度話し合いをしたいという申し出が正臣氏からあったが、美斗はそれを拒否している。



 現状の解決策は一つだ。
 正臣氏が、こちら側の請求を受け入れせざるを得ない状況を作る。
 大志はそう言った。そして、その言葉の意味を、国近は的確に理解していた。
 要は、初野春の主張を決定的に裏付ける何かがあればいいのだ。
 そしてそれは、国近がやるべき仕事だった。

 誰もいない資料室で、国近は柏木と向かい合う。
 例のパーティーでの一件について、事後処理はまだ終わっていない。
 会話の内容が漏れないような注意は必要だが、庁内で柏木と接触しても不自然ではないのは僥倖だった。

「状況は?」
 おもむろに、柏木が尋ねる。
「内部不正の件を片付けて、不当支配の事実を立件します」
 端的にそう伝えると、柏木は眉を顰めた。
「……言うのは簡単だぞ」
 国近は苦笑する。だが、勝算が全くないわけではなかった。
「それなんですが、我々が考えているほど、難しい問題ではないかもしれません」
 柏木は怪訝そうな顔でこちらを見つめた。国近は続ける。
「不正をするなら、それを知っている人間は少ない方がいいと思っていました。その上で、上層部と須藤家との間に金品のやりとりがあったと踏んでいたのですが……。もしかしたらそれは早計だったかもしれません」
「……というと?」
「なんというか……正臣氏のメリットが少なすぎる気がするんです。現状、不正の目的は美斗を手元に置くためだけですよね。そのためだけに何人もの人間とつながるのは、リスクが大きすぎるような気がします」

――桐野。
 彼が部下を呼ぶ。その落ち着いた声が、国近の耳元にはまだ残っている。
――少しうるさいよ。今回の件で株主たちが揺れてる。ここで騒ぎを起こすのは得策じゃない。
 パーティー会場で彼と向き合ったとき、彼はそう言っていた。
 
 Defenseが抜けて冷静になってから、その言葉がずっと引っかかっていた。
「彼は会社の不利益になるような行動は極力控えています。脅迫の件も鑑みると、敵も大勢いるのではないでしょうか。警察上層部との不正取引なんて、一歩間違ったら大問題に発展しますし、足元をすくわれるような事実はないにこしたことはありません」
 正臣氏にとって、自分と美斗が繋がるのは想定外だったはずだ、
 本来、近辺の警察署を押さえて、美斗の逃げ道が塞がればそれで問題ない。
 自分たちは勝手に港区の件と今回の件は、上層部の多くが絡んでいて、その多くの人間が動かしていると考えていたけれど……。
 この二つは目的が違うし、今回の件は完全に後付けだ。

「正臣氏はパートナーを取り戻すために、俺を脅すことができればそれでよかったはずです。でもそれだけなら、小細工程度で十分。大規模な買収なんてする必要がないんですよ」

 要は、港区の件も今回の件も、窓口となって正臣氏と警察を繋いでくれる人間と、その人物の意向を汲んで動いてくれる人間がいれば事足りるのだ。
 前者は一人で十分だ。港区の所轄に手を回して、刑事部長に指示を出せるぐらいの立場にいる人間がいればいい。
 後者は数人。今回の場合、そのうちの一人が刑事部長で……。港区では何人が動いていたのだろう。でも、問題になるのを防ぐだけなら、人事異動を含めてもそれなりに力のある人間を何人か買収できればいいはずだ。
「『ある家に手を出したら、警察にいられなくなる』というのは?』
「あらかじめ誰かがそういう噂を流していたのではないでしょうか。上層部全体が絡んでいると思わせれば、末端の人間は歯向かおうとは思いませんし、この件が外部に漏れる心配もなくなりますから」
 刑事部長の言動は不正に関与しているというよりも、圧力をかけられているといった様子だった。実際にあるのは不正ではなく忖度なのではないだろうか。
 もっとも、不当支配の事実を知っていて隠したのなら、それはそれで問題になるだろうけれど――。
「なるほど……確かに筋は通っているな」
「もっとも、まだ憶測の域を出ないので、確信できる何かが必要です。ただ、もしこの仮説が正しければ、窓口となっている人物を押さえられれば、状況を変えられるかもしれません」
「となると……」
「ええ。刑事部長の動向を調べれば手掛かりが掴めるような気がします」
「……分かった。そちらは私が対応しよう」
「ありがとうございます。俺は先日のパーティーの参加者を洗ってみます」
 その人物はなにも内部の人間とは限らない。懇意にしている人間なら、あの場にいた可能性が高い。

 もし、この仮説が正しければ……。
 まだ十分、戦える余地はある。



 状況が変わったのは、一回目の口頭弁論が終わって数日が経った日のことだった。
 もっとも、口頭弁論自体、美斗は担当弁護士に任せていたので、法廷に出廷することはなく、水面下での動きはありながらも、普段通りの日常が続いていた。

 当初からすれば多少は落ち着いたものの、初野春への批判はなくならなかった。国近は何度か人目を避けて美斗の様子を見に来ているけれど、ここ最近は彼が小説を書いている姿を見ていない。
 その日、国近がマンションの部屋を尋ねた時も、彼はソファーに座ったまま、ぼんやりとベランダを眺めていた。

「ハルト」

 呼びかける。ゆったりとした動作で、彼はこちらに顔を向けた。
 少しやつれたな。気丈に振る舞っているけれど、謂れのない悪意を向けられて、平気でいられるはずがない。不特定多数から向けられた言葉のナイフは、確実に美斗の心を蝕んでいた。
 無言の痛々しさに一瞬だけ目を伏せて、国近は美斗の足元に跪いた。

 今日は、用事があって来たのだ。
 胸ポケットからスマートフォンを取り出し、美斗に手渡す。
「昼前に都築さんから連絡があった。直接話したいことがあるそうだ」
 先に大志の方に連絡したのだけれど、大志は来週末まで実務修習で都内を離れているらしい。それで、大志が国近の連絡先を教えたそうだ。

 スマートフォンを握りしめ、美斗はしばしの間悩む。
 少ししてから発信ボタンを押すと、耳元にそれを当てた。
「……もしもし」
 数回ほどのコールで、通話はつながったようだった。
 電話の向こうで何やら話す声が聞こえる。
「……? はい……ああ……。それは……。はぁ、分かりました」

 三十秒ほどの短い時間で、通話は終わる。耳元から器械を下ろすと、美斗は困惑の表情を浮かべていた。
「はじめ」
 と、国近の名前を呼ぶ。
「『One Week』って雑誌、知ってるか?」
「……?」
 国近は首を傾げる。『One Week』と言えば、社会事件を多く取り上げている週刊誌だ。
「知っているけど……それがどうかしたのか?」
「なんか……読めって、都築さんが……。その方が、話が早いからって」
「……?」
 国近はますます首を傾げる。直接話したいことというから、てっきり重要なことなのだろうと思ったのだが……。もしやまた、中傷記事でも上がったのだろうか。
 ひとまず言う通りにすることにする。

「電子でいいか?」
 コクリと美斗が頷いたので、国近はノートパソコンを開いてサイトにアクセスし、決済をしてやった。美斗がソファーから下りてきて、国近の隣に座り直す。
 書籍リーダーを立ち上げて、画面に誌面を表示する。
 都築さんが指定したのは、54ページ目だそうだ。
 タッチパッドを操作して、そのページまでカーソルを移動させる。

 表示されたページを見て、国近は目を見張った。


『疑惑の証言は本当か!? 須藤グループ・性差別の実態』

 それは、須藤グループホールディングスの採用試験を受けたという、ある就活生のインタビューだった。

――つまり、Subであることを理由に採用を取り消されたんですね
はい。内々定をいただいた後に、第二の性を聞かれました。そしたら、人事の方の態度が急に冷たくなって……。

――不躾な質問かもしれませんが、思い込みだったという可能性はないですか?
ありません。そのあとで、その方からはっきりと「うちは、Subは取らないようにしている。残念だがなかったことにしてほしい」と言われました。

――須藤グループ会長の次男であり作家の初野春さんが、現役員の正臣氏から不当な支配を訴えていますが、その件に関してはどう思われますか?
本当のことに関して、当人たち以外誰も知らないので、私がどこまでお話していいのか分かりませんが……。ただ、須藤グループにSub性を蔑視する傾向があったことは事実です。二人の仲が良好だったというのは違和感がありますし、そういったことがあっても……。

――不思議ではない、と。
はい。そう感じます。

――この場で打ち明けることは、とても勇気がいることだったと思いますが、どうして本日は取材を受けていただけたのでしょうか?
……初野春の書いた小説を読みました。あれが、悪意のある人が書いた小説とは思えませんでした。

 そこで、記事は終わっていた。

 横を見る。画面を見つめたまま、美斗は固まっていた。
「電話。都築さんに」
 横から助け舟を出すと、はっとしたようにスマートフォンを握りしめる。
 ぎこちない手つきで通話履歴を開いた。

「俺も聞いていいか」
 国近が問いかける。
 コクリと許可が出たので、横から手を伸ばし、スピーカー機能をオンにした。

 二回目の通話は、ほんの一コールで繋がった。
『はい。四葉出版 都築です』
 落ち着いた声が、部屋の中に響く。
「あ……、と」
 言葉にならない戸惑いを美斗がぶつけると、都築さんは小さく息を吐いて、事の顛末を話し始めた。
『知り合いの記者に、擁護記事を書いてもらえないか掛け合ってみたんです。そしたら、SNS上で妙な噂を見つけたみたいで……。テレビ局や新聞社の人間にも情報を流したので、すぐに全国ニュースになると思います』
 『週刊 風月』に例の記事が掲載されたあと、情報戦だったら自分も力になれるのではないかと思ったそうだ。裏取りと取材交渉に時間がかかって、記事の掲載が随分と遅くなってしまったと言った。
 都築さんは、続けて担当替えの挨拶が遅くなってしまった旨を詫びて。
『初野さん。今は離れてしまいますが……』

『連載は終わらせません。またいつか、あなたと仕事ができる日を楽しみにしています』


 二、三度の短い挨拶のあとで、通話が終わった。
 再び器械を下ろして、美斗はきゅっと唇を噛む。それが、彼が嬉しいときにする仕草なのだと、国近は最近、分かるようになった。

 国近は画面に目線を向けて、もう一度、初めから記事を読んでみた。
 歪みが、生まれている。
 この記事は、須藤グループに波紋を起こすだろう。
 これで一歩、正臣氏に近づける。


 そこで、再び電話が震える。
 今度は仕事用に使っている、もう一台のスマートフォンからだった。
 ロック画面を開く。柏木からのメールだった。

――件名・先日の件。

 本文は、柏木らしい簡潔なメッセージだ。
 ざっと流し見をして、サイドボタンで画面を閉じる。

 ピースが揃った。

 国近は立ち上がって、手早く手荷物をまとめた。

「ハルト」
 呼びかける。
「十日以内にまた来る。そしてその時は――……」

 それだけ伝えて、国近はマンションの部屋を出た。



 国近肇が刑事部長室を訪れたのは、それから三日後のことだった。
 その日、国近が尋ねると、刑事部長は所定の机に腰を掛け、事務作業を行っていた。

 チラリと一瞬だけ国近の姿を確認する。
「不躾になんの用だ」
 と問いかけた。

「以前ご忠告をいただいた件で、お話があって参りました」
「……あの件には首を突っ込むなと言ったはずだが?」
 目線は書類から外れない。
 けれど、国近が、
「刑事部長に指示を出していたのは、早川衆議院議員ですか?」
 と言うと、ピクリと眉が動いた。そのまま手が止まる。
 早川議員は元警察庁のキャリア官僚だ。十一年前、政界デビューを機に警察を早期退職して以降、須藤グループの会社顧問に就任している。
「退職した今でも警察の人事に顔が利く方だとか。ここ最近、頻繁に会っていたそうじゃありませんか」
 そこまで聞くと、刑事部長は顔を上げ、ゆっくりとこちらを見据えた。
含みを持った視線が、国近に向けられる。
「……それで? それを知ったから何だというんだ。事を知られた以上、私は君にそれなりの処遇を下さなければならないが?」
 刑事部長の反応は、至極落ち着いていた。
 知っている。これだけでどうにかできるとは思っていない。だが、刑事部長はきっと打算的な男だ。
「分かっています。ですが……」

「性差別の実態がニュースで取り上げられて以降、マスコミが本腰をあげて調べ始めています。我々が何もしなくても、近いうちに真実は明るみになり、早川議員や正臣氏は切り捨てられるでしょう。そうなったとき、警察が不当支配を隠していた事実が明かされたら、大きな問題になります。その指示を受けて、現役の刑事部長が動いていたと知られたらなおさら」
「私を脅しに来たのか」
「とんでもありません。私はただ、今ならまだ間に合うとお伝えしたいのです」

 はぁ、と刑事部長は息を吐く。長い沈黙の後で、
「……君の望みは?」
 という問いが投げられた。
「ただ一つ」

「これから私がすることに協力していただきたい」

「……私情は持ち込みすぎると身を滅ぼすぞ」
 思いがけない言葉だ。
 思わず張りつめていた緊張の糸が解れて、国近は苦笑する。
「確かに私情もありますが……。これは私の矜持でもあります」
 警察官として、第二性を持つ人間として。
 そして、彼のパートナーとしての。

 数秒の間があった。そのあとで刑事部長は、
「来月付けで、君を捜査一課に戻そう」
 とだけ告げた。



 それから。約一週間後。警視庁。
 灰色の部屋で、須藤美斗と国近肇は向かい合う。
「……出会った日と一緒だな」
 パイプ椅子に腰を掛け、美斗が薄く呟いた。
「ああ。随分と時間がかかってしまって、申し訳ない」
「……そんなことない。俺の話をここまで聞いてくれた人は、今までいなかったよ」
 机上に書類を並べる。
 入り口の方にはもう一つ机があり、そこでは柏木が待機していた。
「これから君の、事情聴取を始める。今日一日で終わらせることは出来ないだろうから、何日かかかることは覚悟してほしい」
 そう、切り出した。
「聴取は主に俺が担当するけれど、俺と美斗の関係性があると聴取の信用性が失われる可能性があるから、柏木さんと……今はここから見えないけれど、壁の向こうにもう一人、一課の刑事がいる。三人で、交代で聞き取りをさせてもらう」

「……でも、もし君が、俺に聞かれたくないと思うなら、俺は二人に任せて席を外すし、Subの警察官を呼ぶこともできる」
「構わない。お前に聞いてほしい。全部」
「……わかった」
 ふうっと、腹を決めて。国近は一拍分、息を吐く。

「では、まず名前を」
 しっかりと、美斗はこちらを見上げた。
「……須藤――」

「――美斗ハルトと言います」
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