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【第8話】正しく生きることが許されているのは、

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 初夏。

 502号室のリビングに朝日が差し込む。
 バタートーストを片手で持ち、ソファーに腰をかける。それを噛みちぎりながら、国近肇はテレビをつけた。
 爽やかな音楽と共に、朝のニュース番組が始まる。
 
 情報が、目線の先を流れていく。
 政治。パワハラ疑惑のあった議員の一人が辞めるらしい。経済。日経平均株価は先月よりも回復。国際。東南アジアの国の一つで紛争が起こり、複数の死傷者が出ている。国内。交通事故の被告に実刑判決。

 そこで、手元のトーストがなくなる。テレビをそのままに国近は立ち上がって、バスルームへと向かった。
 脱衣室の洗面所の前に立ち、歯ブラシを手に取る。
 チューブ状の歯磨き粉をつけると、それを口に含み、しゃこしゃこと動かした。

 遠くでキャスターの声が聞こえた。

『続いて、今話題の本を紹介するコーナーです』

――初野春『陽の当たらない春を探して』

 見知った名前に、歯ブラシを動かす手が止まる。
 踵を返して、リビングに戻り、テレビの前に立つ。

 画面に、薄桃色の表紙が映っていた。ナレーションが簡単なあらすじと、レビューを紹介する。

――物語は、薄暗く、狭く、淋しい、ネットカフェの個室から始まります。主人公は、その部屋で暮らす孤独な若者。ある日、一通の手紙を拾ったことがきっかけで、彼の人生が変わりはじめます。

――誰もが持っている普遍的な幸せを、この物語は「春」の「陽の当たらない場所」にたとえています。陽の当たる場所ではなく、陽の当たらない場所、それが主人公の願ったものであり、


 そこまで聞いて、ふっと、国近は表情を緩めた。踵を再び、バスルームの方へと返す。




 初野春のデビュー作は、発売当初から話題となり売れていた。
 元々投稿サイトで話題となっていただけあって、その実績を使って市場展開が行われたらしい。それが上手く人々の関心を掴んで、初版四千部を売り切り、瞬く間に重版が決まった。

『マーケティングが上手いんですね』
 と大志が言っていた。
 王道のネット小説は十代から二十代前半の若年層をターゲットとし、ファンタジーを基本とした物語が多い。しかし、初野春の小説は、どちらかと言えばもっと上の年代にも好まれるような小説だ。大志の話によれば、初野春の担当編集・都築侑馬は、打ち合わせの段階で潜在的なファンの存在を視野に入れた商品展開を考えていたという。
 作家は作品を読んでもらって、はじめて作家になることができる。ましてや、新人作家ならばなおさら、作品を手に取ってもらうということが重要になるが、その点は都築さんが一枚上手だった。

 そして、初野春の小説は、ひとたび作品を手に取った読者を魅了するだけの力があった。
 瑞々しい感性が光る文章に、胸に突き刺さって離れない心情描写。中でも一番話題を呼んだのは、作中に埋め込まれた数々の伏線の華麗な回収劇だった。
 その中にはいくつか、国近の見覚えのあるトリックが含まれていた。巧妙にオマージュを重ねていたから、気付く人は少数だろうが、あれは父の蔵書の中にあったものだ。美斗はそれを、国近の部屋から学び、自分なりにアレンジしたのだろう。

 今はSNSを通じて口コミが広がっていて、売上はさらに伸びるだろうと言われている。

『美斗さんは、とてもいい編集者さんに見つけてもらったと思いますよ』

 都築さんとのやり取りは、変わらずに大志が対応してくれていた。
 国近のノートパソコンを使って美斗が大志に原稿を送り、大志がそれを都築に送る。修正点があれば、美斗に連絡が返ってくる。という手筈になっている。

 美斗はというと、すっかり執筆が板についたらしい。近頃、国近がマンションの部屋に行くと、だいたいソファーの下に腰を掛け、ノートパソコンと向き合っている。
 血筋なのだろうか。小説を書くことは随分と楽しいらしい。
 ここ最近の美斗は、おおよそ一年と少し前、ネットカフェの前で途方に暮れていた姿とは比べ物にならないくらい、生き生きとしている。



 休日。正午すぎ。
 その日も、美斗は明朝早くに目を覚まして、リビングで執筆活動を行っていた。
 ソファーの上に腰を掛け、国近は単行本を開く。彼が集中している時は、なるべく声を掛けないようにしていた。
 デビュー作の印税を使って、美斗は執筆に必要なものを揃えた。今、マンションのリビングには、積み重なった本と並んで、一台のプリンターが用意されている。タイピング音に交じって、時折小気味いい機械音が、部屋の中に響いていた。

 何時間ほど時間が経っただろうか。国近は顔を上げた。
「ハルト」
 目線の先で、ノートパソコンに向かい合っている小さな背中に、声をかける。

「そろそろ13時だよ。キリがいいところで食事にしよう」
「……ああ」
 目線は、画面から外れない。生返事が返ってきた。
 薄くため息をついて、国近が問いかける。
「何が食べたい?」
「ああ……」
 またも生返事だ。もう一度、国近はため息を吐いた。

「美斗」

 呼びかける。返答はなかった。
 両手を伸ばし、背後から彼の頬に触れた。
ぐいっと、それをそのまま後ろに倒す。
「っ、うぁ!」
 バランスを崩した身体が、ソファーにぶつかって止まった。戸惑ったようにこちらを見上げる顔を、頭上から見下ろす。
「何すんだ」
 と不満げな声が返ってきた。
「夢中になるのはいい。でも食事はちゃんと取りなさい。俺だって毎日ここに来られるわけじゃないんだ。寝食も忘れて仕事をされると心配する」
 数秒。美斗は止まった。国近の言葉を頭の中で丁寧にかみ砕くと、申し訳なさそうに眉を下げた。

「……悪かった。気を付ける」
「ホットサンドでいいか?」
「……ああ。……チーズは多めがいい」
「分かった」
「あと冷蔵庫のキャベツ、腐りそうだ」
「じゃあそれも入れよう」

 仕事を始めて、美斗は丸くなったと思う。目線や言葉に棘がなくなった。


 日常が平穏に過ぎていく。
 ただ、懸念することが全くないわけではなかった。ここに来て、国近に張り付いていた見張りがパタリと消えた。
 須藤正臣の美斗への執着は、おそらく相当のものだ。美斗のつけていた首輪と同じデザインの指輪を自身もつけているし、状況から察するに美斗はこれまで何度も連れ戻されている。大人しく諦めたとは考えられない。
 きっと何か狙いがあるはずだけれど、国近はまだ、彼の狙いが分からずにいた。



 それは、そんな日々が続いたある日のことだった。
「国近」
 声を掛けてきたのは、課を取り仕切る上司だ。おもむろに国近の名を呼ぶと、
「今、取り組んでいる案件は?」
 と聞いた。
「……? 先月の交通事故の取りまとめが6件、来月のイベントの、警備配置に関わる事務作業、あと新宿の交番が応援を求めているそうなので、今から向かおうかと」
 ふむふむ、と上司が頷く。
「ならそれを、村田と……ああ。山口に引き継げ」
「……え?」
 国近は首を傾げた。交番の応援だけならまだしも、期日までだいぶ余裕のある事務作業まで他に回せというのはどういうことだろうか。
 気だるげに、上司が告げた。

「捜一の柏木警部が呼んでる」 



 数十分後。国近が捜査一課のフロアに向かうと、柏木は所定の位置で国近を迎えた。
 およそ一年前まで、自分が働いていた場所だ。懐かしい顔に一通り会釈をした後で、柏木から空の会議室へと案内される。二人きりで話をしたいようだった。

「急に呼び出してすまない」
「いえ。問題ありません」
「お前に応援を頼みたい案件があってな」
 応援……?
 そこで、国近は一抹の違和感を覚えた。庁内の未決事件に、人手が必要なものなんてなかったはずだ。重大事件が起こったのなら話は別だが、それにしては情報が回ってくるのも捜一の動きも遅すぎる。それに……。
「なぜ私を? 他にも適任はいるでしょう」
 国近は思った疑問を、そのまま言葉にしてみた。
 人手が必要な案件だとしても、刑事部長はまだ自分を使いたくはないだろう。
 すると、柏木は目線を二、三度左右に泳がせた。柏木自身も、どうしたらいいのか戸惑っているような様子だった。
「被害者からの指名だ」
 そう言って書類の束を机上に載せる。ある事件の捜査資料のようだ。一番上に綴られているのは、被害届のコピーだった。
「……っ!」
 それを見て、国近の瞳は大きく見開かれた。書類の上部、被害者の署名欄に、見知った名前が記入されていた。

『須藤正臣』

 端正で達筆な字だ。幼い頃から習字を習っているのかもしれない。おそらく本人の直筆だろう。柏木が自分を呼び出した理由、刑事部長がそれを黙認している理由が一瞬で理解できた。
「どうする?」
 柏木は余計な言葉を削いで最短距離で会話を進めることがある。ましてや、誰かが聞き耳を立てているかもしれないこの場所では、細心の注意を払って言葉を選んでいるかのように見えた。だから分かりづらいけれど、この『どうする?』は、
『何か裏があるかもしれない。やるかやらないか、どうする?』
 という意味だろう。
 数秒。国近は逡巡した。応援を断ることが出来ないわけではないだろう。適当な理由をつけて代わりの人間を用意すればいいだけの話だ。
 しかし、表向きが事件の捜査ならば、ここで断るのはかえって不自然だろうと思った。なにか後ろめたいことがあると認めているようなものだ。ただでさえ、大企業を相手にしている分、こちらは不利になる。
 自分に白い目が向けられようが、キャリアが潰れようがどうでもいいけれど、敵は少ない方がいい。少なくとも身内には。
 身内に怪しまれれば怪しまれるほど、国近は身動きが取れなくなる。
 
「……分かりました。概要を」
 国近は答えた。



 ことの発端は、須藤グループホールディングス本社に届いた一通の脅迫メールだった。

『私は、深ヶ山リゾートの開発で故郷を失ったものである。
須藤正臣は会社の利益のために私たちを脅し、追い出し、私たちの町をめちゃくちゃにした。
須藤正臣を役員から引きずりおろせ。
○月三十日のパーティーまでに彼が役員を辞めなければ
パーティーに出席した人間を皆殺しにしてやる』

「まあ、脅迫というよりは……」
「殺害予告、ですね。メールの発信元は分からないんですか?」
 柏木は首を横に振った。
「海外のサーバーを経由しているらしい。追ってみたが発信元までは特定できなかった」
「深ヶ山リゾートって、須藤グループが数年ほど前から着手している事業ですよね。今年の夏、正式にオープンする予定の」
 深ヶ山リゾートは、限界集落を再開発して出来たリゾート地だ。
 北陸の山間にある深ヶ山は、元々小さな田舎町だった。数十年前から急激に過疎化が進み、自治体の財政難に拍車をかけていたらしい。しかし、豊かな大自然に囲まれたその町は、一部の界隈ではキャンプや天体観測のための穴場として知られていた。加えて同じ頃、周辺都市に新幹線が開通し、新幹線の停車駅から乗り換え一回で行き来が可能になった。
 それに目をつけたのが、須藤グループだった。須藤グループは集落全土を買い取り、大規模なリゾート施設を建設する計画を打ち出した。
 計画当初、周辺住人の移転を巡ってかなりの論争が繰り広げられたらしい。結局は須藤グループ側が多額の補償金を支払うことで合意し、予定通りに計画が進んだと聞いた。
 柏木が短く頷く。
「三十日のパーティーも、深ヶ山リゾートを正式に発表するためのものだ」
「妙ですね」
「ああ」
 深ヶ山集落の関係者の仕業なら、いささか動くのが遅すぎる気がする。計画を頓挫させたいのなら、これまでにもチャンスはあったはずだ。いくらなんでもリゾート地の発表と同時なんて悠長にも程がある。それに、当時深ヶ山に住んでいたのは、ほとんどが六十五歳以上の高齢者だと聞いた。先入観は危険だが、限界集落で暮らしていたご老人が、海外サーバーを経由した電子メールを送れるだろうか。
「いたずらの可能性も否めないが、それにしては手が込んでいるし、パーティーには政府の要人や企業の役員なんかが出席する予定だからな。警備課と協力して、捜査と当日までの警備を行うことになった。……どう思う?」
「……警部が思っているようなことはないと思うのですが」
 言葉の意図を察して、国近は答えた。
 須藤正臣による自作自演の可能性。美斗を取り戻すことが目的で、そのために警察を動かし、国近を呼び出そうとしているのではないか。柏木はそれを視野に入れているのだ。誰もいない会議室に自分を案内したのは、それを確認したかったということもあるのだろう。でも、彼はもっと周到だ。少なくとも会社に影響が出るような真似はしないと思う。
 となれば、メールを送ったのは誰か。という話になるが……。
「そうか。では念のため聞くが……」
「ありえません」
 文面からして、メールを送ったのは正臣氏に恨みがある人物だ。一人だけ該当する人物がいるが、美斗はこんなこと出来ない。それに、彼が正臣氏に抱いている感情は恨みというよりは恐怖に近い。好き好んで関わり合いになるような真似はしないだろう。だいたい、国近の収入で暮らすことすら気にしている様子なのだ。どんな形であれ、巡り巡って自分に迷惑がかかるようなことはしない。それは、パートナーとしての贔屓目を抜きにしても明白なことだった。
 柏木も、それは分かっていたのだろう。だろうな、と頷くと、顎に手を当てて熟考した。
確認してしまうのは、警察官としての性だ。

 机上のコピー用紙を、国近は掴んだ。順番に繰って内容を確認していく。一枚目と二枚目、被害届のコピーには、今回の経緯が簡潔に示されていた。三枚目は、送られてきたメールを印刷したものだ。文面は柏木が説明した以上のことは書いてなかった。四枚目には、関係各所の連絡先。社内の直通回線と、正臣氏の社用携帯の番号、それからもう一人……。
「須藤、佳史……」
 ふと、呟く。
「どうかしたか?」
「いえ……。正臣氏とは不仲だと聞いたことがあるので」
「ああ……例の週刊誌を読んだんだな」
 美斗を匿うようになってから、須藤グループの動向は注視していた。
 手に入れられる情報には限りがあるから、脅迫メールの件は知らなかったけれど、公になっていることならほとんど把握している。
 近頃話題になっていたのは、深ヶ山リゾートのオープンともう一つ。
 現代表取締役・須藤忠臣氏の容態の悪化と、それに伴うお家騒動だった。
 須藤グループホールディングスで代表取締役を務める忠臣氏は、数年前にくも膜下出血で倒れて以降、意識が戻らない状態が続いている。現在、須藤グループは、会長不在のまま役員会で会社を運営しており、場合によっては正臣氏が取締役代理を務めているそうだ。
 しかし、今年に入ってから忠臣氏の容態が急激に悪化した。須藤グループはいよいよ次の跡目を正式に決めなければならなくなった。
 順当にいけば、忠臣氏の嫡男である正臣氏が跡を継ぐことになる。実際、今は社内の決定権のほとんどを正臣氏が持っているが、正臣氏はまだ二十代であり、正式に代表を務めることについては反対意見も挙がっているらしい。次期代表を誰にするかで、役員会が揉めているそうだ。
 
 須藤佳史氏は、忠臣氏の弟で、正臣氏の叔父にあたる人物だ。社内では正臣氏と同じ役職についている。そして、彼は正臣氏の取締役就任を反対している人間の一人だった。噂によれば佳史氏は、忠臣氏の後釜を狙っているらしい。
 大企業の跡目争いは世間の注目を集めるのだろう。先日とある週刊誌で特集記事が組まれていた。
「だが、あれは関係ないかもな。関係者の話によれば、佳史氏は甥である正臣氏の身を純粋に案じているだけらしい。週刊誌では随分と誇張した書き方をされていて、本人も心を痛めていたそうだ」
「そうですか」
 柏木の説明に、短く国近は頷く。

 妙なことになった、と思う。

 須藤正臣を脅迫したのは誰なのか。
 彼は自分に、いったい何をさせるつもりなのか。

 国近の思考は、柏木の一言によって打ち切られた。
「ひとまず捜査会議だ。十五分後。着替えたら合流しなさい」



 〇月三十日。午後16時

 須藤グループホールディングスのパーティーは、グループが経営するホテルの一つで行われた。そこは四十階建てのホテルであり、メイン階の一部が宴会場となっている。
 今回会場となるのは、一階の、中庭に面した一室だ。
 その部屋は、壁に大きなウィンドウウォールがあしらわれ、パノラマ的に中庭の日本庭園が見渡せる造りになっていた。
 全体的に青と白を基調とした、華やかさの中に気品を感じる部屋だった。床は群青色の中に黒をアクセントにしたカーペットが敷かれている。曇り一つない真っ白な天井からは、ロココ調のシャンデリアがつり下がり、黄金色の光が会場を照らしていた。
 三百坪ほどの広さのその部屋は、このホテルでは二番目に大きな会場らしい。

 今日はおおよそ千人前後の関係者が出席する手筈になっており、徐々に会場入りが進んでいる最中だった。
この後、16時半から深ヶ山リゾートの発表会が行われ、18時からは関係者による立食パーティーが開かれる。

 結局、メールの手掛かりは今日まで掴めなかった。あの一通以降、社内に脅迫メールが届くことはく、周辺を探ってみても怪しげな人影はなかった。
 捜査本部は一旦犯人捜しを切り上げ、当日の警備に注力する方向で舵をきった。

 ――本日、会場には数十人の警察官が配備されている。

 中庭側の壁に背を向けて、国近は会場の様子を観察していた。
 目線の先を、煌びやかな衣装をまとった人々が通り過ぎていく。
 不審な点はない。エントランスで厳重な持ち物検査実施しているから、凶器などを持ち込むことは出来ないだろう。

 ふと腕時計に視線を落とすと、長針が六を指すところだった。
 反対側の壁に、プロジェクターが下りてきた。照明が彩度を落とすと、奥の方から司会者が顔を出す。
「ご来場の皆様。本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます。これより、須藤グループホールディングスの新商品・深ヶ山リゾートの発表会を執り行います」
 プロジェクターが、山間の豊かな風景を写し出す。
「深ヶ山リゾートは、約五年前から弊社が着手している事業になります」
 移り変わるスライドに合わせて、司会者が説明を始めた。



「……と、このように宿泊、グランピング、スキーと、様々な需要に合わせてお使いいただける施設になっております」

 二十分ほど経っただろうか。説明が終わり、照明が元の明るさに戻る。

 続いて前に出たのは、妙齢の男性だった。週刊誌と捜査資料で見かけた顔だ。
「専務取締役を務めております。須藤佳史と申します」
 忠臣氏や正臣氏とよく似た美形だが、二人よりも柔らかな雰囲気を持つ人だった。記事に書かれていた印象とはだいぶ異なる。
 よく響く、落ち着いた声で挨拶をし、そのままスピーチを始めた。時々、ユーモアを交えた話をしては、会場を笑わせる。

 そこで、ふと、あることに気が付いて、国近は胸元に手を当てた。襟の部分に取り付けたインカムを掴み、マイクに向けて問いかける。
「正臣氏は?」
 発表会が始まったのに、会場のどこを見渡しても、正臣氏の姿が見当たらない。目立つ外見をしているから、見逃すことはないと思うが……。
イヤホンの向こうから、柏木の声が聞こえてきた。
『念のため今回は露出を最小限にしているとのことだ。裏でセッティングを担当しているらしい』
『……直々に、ですか?』
 と誰かが重ねて問いかける。
『彼は現場至上主義で評判だそうだ』
「岩崎班が場内にいるようですが」
 現場にいる警察官は、五、六人程度の班に分かれて行動している。国近は柏木が指揮を執る班に属しており、他にも十数班が現場の警戒をしていた。
 警備課の岩崎警部補が指揮を執る班は、本日正臣氏の護衛を担当する予定だった。彼らが場内にいるのであれば、正臣氏は今、単独で行動していることになるけれど。
『業務に支障をきたすからと、護衛は断られてしまったそうだ。それよりも来賓客に危険が及ばないようにと』

 進行が、司会者に戻る。

「後ほどのパーティーでは、皆さま一人一人とお話させていただき、皆さまの疑問などにお答えしたいと思っております。開始時間になりましたら、佳史専務と同じく専務取締役の須藤正臣よりご挨拶いたします。それまで皆様、ごゆっくりとお寛ぎくださいませ」

 今回は関係者向けの発表会のようで、マスコミは呼んでないらしい。後日報道機関に向けて改めて記者会見が開かれる予定だ。

 ウエイタ―が入ってきて、ドリンクを配り始めた。会場に和やかな空気が流れ出す。再びイヤホンから声が飛んだ。

『次、国近。場外』
「了解」



 大量殺人を実行するなら、凶器よりも爆発物や危険物を使用した方が効率的だ。場外に仕掛けられる危険性もあるため、班員のうちの一人が順番に見回ることにしている。
 柏木班の担当は、会場の出入り口から南側に向かって廊下を進み、階段を使ってワンフロア下のエントランス階に向かうまでの道のりだった。
 会場から聞こえる喧騒に背を向けて、南側へと足を進める。くの字型になった廊下は、臙脂色の絨毯が敷かれており、ところどころで生花が活けられた花瓶が飾られていた。
 時々重厚なドアとすれ違う。この向こうには小宴会場が広がっているはずだ。脅迫の件があったため、今日はこのフロアでの予約は受けていないと聞いた。廊下は人影もなく、静まり返っている。

 少しずつ歩を進め、異常がないか、怪しげなものがないかを確認していく。
 どんな形であれ、仕事は仕事だ。国近は自分の責務を全うしていた。




 足音が聞こえてきたのは、ちょうど廊下の中間地点に差し掛かろうかという時だった。
 反対側から、影が二つ分歩いてくる。

「ああ。早川議員は甲殻類にアレルギーがあるんだったか」

 柔らかだけど底冷えする、流氷のような声だった。

 須藤正臣と、その部下の姿がそこにはあった。
 前方を歩く正臣氏に向かい、バインダーを持った部下が話しかけている。

「今日のメニューは?」
「甲殻類を使用したものは省いてあります」
「一般客の料理では使っているだろう。調理の最中に混ざらないように念を押しておいて」
「すぐに対応いたします」
「ああ。食事を出す前にテーブルアレンジメントの再確認を。あの花は見栄えはいいが傷みやすい」
「かしこまりました」
 
 今日、ここに来るまでに、何度も彼の顔を見たことがある。
 一度目は大志のくれた資料の中で、そのあとは自ら集めた週刊誌や新聞記事の中で。
 彼が、人並み外れて綺麗な容姿をしていることは、ずっと前から知っていた。
 ただ、それでも実際に目の前にすると、その容貌は「綺麗」という一言だけでは足りないような気がした。
 細くしなやかな黒髪に、真っすぐで整った鼻梁。形のいい唇。
 色素が薄い肌は透明感に溢れ、独特の光を放っている。
 加えて、品よく仕立てられたスーツが、彼の佇まいをより一層際立たせていた。


――彼が美斗にしたことなんて、忘れてしまいそうになるほどの、透き通った美貌だった。


 アーモンド形の瞳が、ゆっくりとこちらを見据えた。目元の左側に、小さな泣きぼくろが二つ並んでいて、それだけが妙に人間らしさを出していた。

 国近の姿を認識すると、無表情にほんの彩り程度の笑みが浮かぶ。
 唇が、ゆっくりと開いた。

「やあ、国近警部補。直接会うのは初めてだね。いつぞやはうちの愚弟がどうも」

「……」
 並外れた美貌は、時に妙な威圧感を生み出すらしい。誰かと向き合って声が出せなくなったのは、後にも先にもこの一瞬だけの経験だった。
 すると、ふ、と正臣氏は口角を上げた。
「聞かないんだね。あの子が今どうしているのか」
 彼が自分に接近してくる可能性を、予想していなかったわけではなかった。
 そして、そうなった時、素知らぬ顔をしようと国近は決めていた。
 少しばかり間を置いて、
「尋ねてもよいものか迷っていたところです。彼は元気にしていますか?」
 と言った。
 発言の真意を確かめるような瞳が、数秒、国近を見つめる。
「……さあ? あの子の放蕩癖は困ったものでね。最近は私も会えていないから分からないや」
「左様ですか」
「今日は警備をよろしく頼むよ。とても優秀な捜査官だと聞いた。君がいれば安心だ」
「ええ」
 内心で、国近は眉を顰める。
 放蕩癖。彼にとってはその程度の認識なのだろうか。

「……ところで、彼にも招待状を出したんだけど、来ていないみたいだね」
 穏やかな口調で、彼が続ける。胸の奥がざわついた。

「知ってる? 今話題の新人小説家・初野春」

 その名前を聞いて、国近はほんの一瞬だけ、ピクリと眉を動かした。
 ずっと隠し通しておくことができないことは、最初から分かっていた。
 けれど、もうここまで調べがついているのか。

「……あいにく、本は読まないもので」
「……それは残念だな。でもとてもいい本だから、君も読んでみるといい」
 ふっと、彼がまた口角を上げる。一歩こちら側へと近づくと、国近の肩に手を置いた。
「僕のお気に入りの一文はね」
 国近の耳元に唇を寄せ、低く囁く。

「『正しく生きることが許されているのは、」

 やめろ、と思った。
 皮膚が泡立っていく。どうしようもないほどに。


「正しく生まれて、正しく育つことが出来た人間だけだ』」


 その瞬間。国近の頭は沸騰した。
 乱暴に彼の襟元を掴むと、そのまま壁に押し付けた。ゴン、という鈍い音が、その場に響き渡った。

 美斗がどんな想いで、その言葉を紡いだと思っているのか。
 どれほどまでに傷つき、打ちのめされ、泣いていたのか。
 Domから認めてもらえないSubはただ堕ちていくだけだ。自律神経が乱れ、睡眠と食事が取れなくなり、やがて死に至る。
 この男は知らないだろう。知ろうともしないのだろう。

 目線の先。涼やかにこちらを見つめるこの男を、殺してやりたい。本気でそう思った。今まで、どんな凶悪犯にだって、これほどまでの激情を感じたことはなかった。


「正臣様!」
 つんざくような叫び声がした。
 後ろに控えていた彼の部下が、慌てた様子で駆け寄ってきた。大声に我に返って、国近は襟元から手を離す。
 正臣は数秒、国近の顔を伺い見て、それから右手を挙げた。

「桐野」
 落ち着いた声で、部下の名前を呼んだ。

「少しうるさいよ。今回の件で株主たちが揺れてる。ここで騒ぎを起こすのは得策じゃない」
 は、と乾いた笑いを浮かべた。声も顔も全然違うのに、皮肉にもその表情は美斗の嘲笑にとてもよく似ていた。
「本は読まないんじゃなかったのか? 君は嘘つきだな」
 言いながら、乱れた襟元を正す。

「……じゃあまたね。国近警部補」

 スーツを翻し、立ち去っていく背中を見送りながら、国近は思考が冴えていくのを感じた。
 差出人の分からない脅迫メール、捜査に駆り出された自分と、現場に配備された捜査官の存在。

 自分の考えは憶測にすぎない。でもそれなら筋が通る。

「くそっ……!」
 全てを理解して、国近は壁を叩いた。
 やられた。はじめから彼の目的は……。



 柏木大志が電話を取ったのは、職場から帰宅して、ちょうど食事をしようかという時だった。画面の表示を見て、随分と珍しい人物からの電話であることに気が付く。受信ボタンをタップすると、落ち着いた声が耳元に響いた。
「仕事はどうだ」
 警視庁で働く父親からの電話だった。
 仕事柄忙しい父の連絡は、そのほとんどがEメールだった。声を聞くのは数か月ぶりだ。
「順調だよ。どうしたの?」
「ああ……来週の食事の件だが」
 はて、と大志は首を傾げる。直近で食事の約束なんかしていない。父と最後に会ったのは、大学の卒業式だった。そのあとは自分も父も忙しくて、連絡を取る機会はほとんどなかった。

 そこで、気が付いた。これはきっと、問題が起こったことを知らせるサインだ。

「……。分かった。俺はこの通りだよ。でも、父さんがそう言うなら控えておくね」
「ああ」
「……」
「……」

 沈黙がその場を支配する。

「父さん?」
 耐えかねて、大志は父を呼んだ。

「……たまには帰ってきなさい。時間を作るから」
 優し気な声が耳元に響く。
 どうやら久しぶりの連絡がこんな形になってしまったことを、彼は気にしているらしい。
 ふ、と大志は柔らかく微笑む。
「もう少し落ち着いたらね。そっちも気をつけて」



 四半時後。

 盛り上がりを見せている宴から抜け出し、須藤正臣はとある客室に入った。
 パーティー会場からツーフロア上がった先にあるその部屋は、本日のセッティングのため、正臣が数日前から借りているスイートだった。
 リビングルームの重厚なソファーに腰を掛け、首元のネクタイを緩める。
「あの反応……君の調査に間違いはなかったみたいだね。乗ってくるか分からなかったけど、試した価値はあった。余計な手間が省けそうだ」

 入り口の方に控えていた桐野が、
「いかがなさいますか」
 と聞いた。
「四葉出版とうちの交流は?」
「直接的な接点はありませんが、週刊『風月』の浅井様の連絡先でしたら調べてあります」
「ああ……」
 言いながら、正臣は思考を巡らせる。
 週刊『風月』と言えば、例の記事を載せた週刊誌か。発行元の出版社は、四葉出版と業務提携を結んでいたはずだ。
 ふ、と正臣は表情を緩める。
 叔父と甥の跡目争いね。あながち間違いでもないじゃないか。温和な顔を装って、あの男が自分にしてきた仕打ちは見るに堪えないものがある。
「連絡をとって。記事の件で話がしたいとでも言えばいい」
うちから情報を盗み取った記者なら相当のやり手だ。せいぜい役に立ってもらおう。
 
「それから予定通り、もう一度国近肇の交流関係の洗い出しを。君のことだ。今日会場に来ていた捜査官の顔は覚えたな? 彼らの家族構成や友人関係にまで視野を広げて調べ直せ。どこかに初野春との繋がりがあるはずだ」



 数時間後。パーティー会場に背を向け、刑事部の公用車は国道を走っていた。
 薄暗い車内の中で、国近と柏木が隣り合っている。

 会場を出て、ちょうど十分ほどが経った時、運転席にいた柏木がおもむろに口を開いた。
「大志は問題ないそうだ。念のため、都築さんとの接触は控えるようにすると言っていた」
「……そうですか」
 話が早くて助かる。
 あの後、一度離脱をする旨を伝えて、国近は公用車の中に戻った。数十分ほど経って様子を見に来た柏木が、国近の顔を見て事情を察して、大志に連絡を繋いでくれた。
「……目的はお前に接触することか?」
 続けて、柏木は尋ねる。
「いえ……それだけではないと思います」

 彼の目的は二つだ。

 一つは自分に近づき、揺さぶりをかけること。おそらく彼は、なんらかの経緯から、初野春が美斗であるという疑いを持った。だが、初野春は全ての素性を隠して執筆活動をしている。正体を探るのは容易ではなかったはずだ。彼は、確実に初野春の素性を把握している人間と接近する必要があった。
 
 例の脅迫メールは、そんな折に、たまたま届いたのだろう。彼にとって、あの脅迫は取るに足らないものだった。いや、というよりはむしろ、取るに足らないものだと分かっていたのだ。
だからそれを逆手に取り、国近に接近するために利用した。
 あんな真似をすれば、自分に警戒されるのは目に見えている。美斗を取り戻すなら、秘密裏にことを進めたほうが成功率は高い。にもかかわらず、あんな手段を取ったのは、初野春が美斗であるという確信が、彼にはなかったからなのかもしれない。

 しかし、それでも国近が揺さぶりに乗って来るか来ないかは一種の賭けだったはずだ。

 彼の最大の目的は、現場にいた警察官の情報収集だ。
 約一年前、美斗が連れ戻された時、彼は自分の素性を調べ上げたことだろう。近しい親族がいないこと、激務が災いして親しい友人とは、年一回か二回の付き合いになっていること。
 状況から親族や友人は頼らない。それに、人を隠すなら、警察関係者に協力を仰いだ方が上手くいく。
捜査官の表面的な情報は彼なら手に入れることが可能だろう。だが、彼はより実践的な情報が欲しかったのだ。
 今回のようなケースなら、自ずと現場の人員配置は、その場の捜査官がやりやすいようなものになる。国近を渦中に巻き込めば、自然と国近にとって都合のいい人間を把握できる。
 実際、自分がいた班は、そのほとんどが一課の時に親しかった同僚で構成されていた。一年のブランクのある自分が、連携を乱さないように、動きやすいように――。

 後悔が、胸に突き刺さる。
 何かあると分かっていたのにこのざまだ。自分は一体、いくつの手掛かりを彼に与えてしまったのだろう。
 応援に入ることを断っていたら。脅迫メールを送った犯人を、パーティーの前に捕まえられていたら。彼の挑発に乗らなければ……。

 頭に最大熱量の血が昇ったあの一瞬。自分はおそらくDefense状態だった。抑制剤を飲んでいても、どれだけ経験を積み、理性を保つことに慣れていても、抗えない本能がある。
 この性質で美斗を救うことが出来ても、同じように、この性質で美斗を傷つけてしまうことがある。

「申し訳ありません。任務を途中で投げ出しました」
「……。本来なら叱りつけるべきところなのだろが……」
 ハンドルから手を離さないまま柏木は国近を一瞥した。
「構わない。その顔で居られても迷惑なだけだ。お前は十分よくやった」
 公用車に戻ったあとDefenseはすぐに収めることが出来た。けれど、目の奥のGlareは消えなかった。
 第二性を持っていない柏木が分かるなら、自分は相当ひどい顔をしているはずだ。
 柏木は目線を前に戻す。神妙に一度、唇を結ぶと、

「舐められたものだな。酷い茶番だ」

 そう、苦々しげに吐き捨てた。
 柏木が自分と同じ熱量で怒ってくれたことで、国近は幾分か救われた気分になった。
「切り替えろ。今回の件は避けようがなかった」
 分かっていた。たとえ今回の応援を断っていたとしても、彼はなんらかの手段を使って国近に接触しようとしていただろう。それを回避できたとしても、今度は警察の上層部に目を付けられ、自分は身動きが取れなくなっていた。
「どうとでもできる。無事でさえいてくれれば」


 車がスピードを落とす。ふと前を見ると、軽い渋滞にはまっているようだった。近場の公道で工事が行われているらしい。脇道を通れなくなった車が、国道に集中しているのだ。ここから警視庁のある霞が関までは十数分ほどの距離だが、今日はもう少し時間がかかるかもしれない。

『無事でさえいてくれれば』

 まるで、助けられなかった人がいるかのような口ぶりだなと思った。
 神経が過敏になっているせいか、今はいつも以上に頭が冴えている。ふいに、国近は大志の言葉を思い出していた。
――俺は、俺の目的のために、貴方を利用しているに過ぎません。父も同じです。
 結局、あの言葉の真意を、国近は聞いていない。
 唇を開く。
「……高校の同級生に、お前たちと同じように第二性を持っていた人がいたんだ。Subだと聞いた」
 先に言葉を発したのは柏木だった。
「明るい人だったんだけど、ある時から傷ばかりを作るようになって……。噂で、他校のあまり評判のよくない男と付き合うようになったと聞いた。俺はその人と家が近くてな。見かける度に何度も大丈夫かと尋ねた。けれど返答はいつも同じだった。『自分が望んでやっていることだ』と。俺は第二性のことはよく分からなかったから。そういうものかと思っていた。高校を卒業してすぐに彼女は家を出て、それきり音沙汰もなかった。だけど……」
 皺の浮いた顔に、影が落ちる。
「数年後。俺が警察官になってから再会したその人は、もう動かなくなっていた。現場にいたその人の息子が、自分の母親はDomである父親に『死ね』と言われて飛び降りたと証言した」
 国近は目を見開いた。『死』を強要するコマンドは、Domの中では禁忌の一つになっている。真っ当な神経をしていれば使わない。なによりも柏木の話が衝撃的だった。
「すまなかったな。港区にいたころ、私が彼と直接話をしていれば、今回の結果はまた違ったのかもしれない。私の落ち度だ」
「いえ……」
 国近は首を振る。
 港区の警察署に勤めていた頃、柏木は、交番の巡査から『須藤家の次男』について相談を受けていたと聞いた。結局美斗に直接事情を聞くことは叶わず、有耶無耶にされたらしい。
 それは、同級生を亡くしたその事件のあとだったのだろうか。
 柏木は誰よりも正義感が強い。苦しんでいる可能性のある人間を見捨てることに、どれだけ苦しんだのか。
   想像に難くなかった。

 そこで、ひた、とあることに気が付いて。国近は柏木の方へと身体を向けた。同級生の息子というのはもしや……。
 ずっと、不思議に思っていた。柏木の薬指に指輪がないことを。年齢の割に、大きな子どもがいることを。何か事情があるのだと思っていた。
「……だから、引き取ったんですか。大志くんを」
 彼女への償いのために。
 柏木は何も言わなかった。一瞬だけ薄く笑うと、
「……ここから先、私と大志を巻き込むことは気にしなくていい。今回の件で大志に危害が及ぶかもしれないが、あれが望んでやっていることだ」
 と言った。

 国近は目を伏せる。落ち着こう。失敗ばかりに囚われていては、守れるものも守れない。
 再び開かれた瞳にはもう、Glareの光はなかった。
「……脅迫の犯人ですが、正臣氏は分かっていたと思います」



 中庭の樹が風に揺れている。この部屋は、宴会場と同様、パノラマ式に日本庭園が見下ろせる造りになっていた。ソファーの肘置きに腕を置き、優雅な所作で頬杖をつく。そうしながら、須藤正臣は地上を見下ろしていた。
「佳史叔父さんにも困ったものだね。まさかこんなに幼稚な手に出てくるとは思わなかった」
 得意げに来賓客の前に立っていたあの人は、自分が致命的な証拠を残したことに気が付いているだろうか。それを、正臣の指示で、桐野が消してやったことにも。
 体よく自分のことを、新事業の中心から追い出せたと思っているかもしれない。
 いつもそうだ。意地の張り合い。腹の探り合い。足の引っ張り合い。自分が生まれたときから、彼らがそれを辞めることはなかった。
 この家はいつも、澱んだ空気が流れている。
「だが、おかげで手掛かりは手に入った。ここ数日随分と火消しに駆けずり回されたんだ。おまけぐらい貰わないと割に合わないからね」

 目線を、中庭から外す。顔を桐野の方へと向けた。
「父さんの容態は?」
「本日は安定しているとのことです」
「そう……」
 長い睫毛が揺れる。
 安心したように一度、正臣は深く息を吐いた。

 しばらくして、冷淡な口調で告げた。
「見つけ次第連れ戻せ。四肢さえ揃っていれば、何をしても構わないよ」
 こめかみに長い指を置く。慢性的な頭痛は治まることを知らない。先月に入ってからは上手く眠れなくなった。だが、そんな日々は、もう終わるだろう。
 鬼ごっこはもう終わりだ。

 ふいに正臣の頭に浮かんだのは、あの本の一文だった。

(正しく生きることが許されているのは、ね)

 腐った血が流れている。彼らも。
――自分にも。



 初夏。

 502号室のリビングは、暗闇が支配していた。
 ソファーの上に腰をかけ、国近肇は思考する。

 もう、時間がないのかもしれない。
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