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【第5話】” ”
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ベランダで、赤いマルボロを取り出す。
煙草は、普段吸わない。けれど持っていれば捜査上便利なため持ち歩いていた。
喫煙を口実に被疑者やその関係者に近づくことができる。
手早くライターを取り出し、火をつける。
深く煙を吸い込んだ。喉につかえるような苦い味に、顔をしかめる。この味を、国近はどうにも好きになれない。
それでも、今は吸いたい気分だった。
ゆっくりと、煙を吐き出す。その横目で、アパートの周辺を観察した。
ジョギング中の中年男性が一人、目線の先を通り抜けていく。
休日とだけあって、どこかから子どもの遊ぶ声が聞こえてきた。
心の中で、国近は呟く。
(ここも、問題なし)
ここに来るまでに寝室の方へ寄って来た。
中央に置かれたベッドにはもう、彼の影はなかった。乱れたままのシーツの上。枕元に控えめに、国近が彼に貸したスマートフォンが載っていた。何か困ったことがあったら連絡するようにと告げていたけれど、結局、彼がそれを使うことはなかった。
腕時計を確認する。
午前11時。
あの場所で彼の頭を撫でてから、そんなに長い時間は経っていないのに、それがずっと昔のことのように感じられた。
再び、国近はアパートの外に目を向ける。
ここと、書斎と、寝室。
国近の部屋にある窓はそれで全部だ。全ての窓を確認した。
怪しげな人影はない。見張りはついていないようだった。目的を達成したのだ。自分に見張りをつけても意味はないと思うが、用心するに越したことはない。
今から国近がやろうとしていることは、敵だけではなく味方も、警戒しなければならないことだった。もう、ミスは許されない。
煙草は、まだ半分ほど残っていた。国近はそれを、乱暴に携帯灰皿に押し付ける。
室内に戻る。
着替えは、すでに終えていた。国近は今、スーツを脱ぎ捨て、ラフな私服姿になっている。
目深に帽子をかぶり、外に出た。
*
約二時間前。警視庁。
「昔、港区の署に勤めていた時、妙な噂があった」
庁内でもほとんど人通りがない廊下で、柏木 誠一警部は口を開いた。
「噂、ですか?」
国近が問いかける。
「ああ。ある家に手を出したら、警察にいられなくなるんだと」
『ある家』という言葉に反応して、国近は柏木の顔を見つめる。それは、国近にも身に覚えがあることだった。
「まあ、単なる噂だ。俺は、当時その署の刑事部にいたんだが、その『ある家』に関わることはなかったし、とりたてて変わったこともなかったよ。でもある日、一人の巡査が刑事部を訪ねてきて言ったんだ」
柏木の話をまとめると、こういうことらしかった。その巡査は、柏木の元を訪ねて一つの依頼をした。大きな家の次男が、妙なことを言っているから捜査をしてほしい。そんな依頼だったという。
巡査は、所轄内の交番に勤めていた。ある日、一人の少年がその交番を訪ねてきたという。
彼はひどく怯えていて、自分はある家の次男であること。家族から虐待――それも主にダイナミクス性を利用した性的な暴行を受けていることを訴えた。
少年の鬼気迫った様子を見て、巡査はすぐに上司を呼び相談した。彼が話していることが本当ならば、それは大きな問題になる。所轄で捜査が必要だと考えた。
しかし、
上司は全く相手にする気がなかった。
『嘘を言うな』と少年に向かってそう返したという。そして奥に戻ると、巡査に向かってこう言った。
『勘弁してくれよ。あの家に手を出したら、俺ここにいられなくなっちゃうよ』
やがて、一人の男が少年を迎えに来た。少年は嫌がっている様子だったが、家に帰されたという。その少年は大きな会社の息子で、どうやら心を病んでいるらしいと説明された。
その場はそれで有耶無耶になったけれど、巡査はどうも納得出来なかったらしい。後日、所轄の刑事部を訪ねて捜査を依頼した。
巡査がたまたま声をかけたのが、柏木だった。巡査から事情を聞いた柏木は、戸惑いながらも独自で調査を開始した。
そんな、ある日のことだった。
柏木は上司に呼び出される。あの巡査は精神を病んでいて、警察を依願退職することになった。彼から依頼された案件は彼の主観に満ちたもので、調べる価値がないから手を引くように。そう言われたという。
どこかで聞いたことがある話だった。
「そんな馬鹿な話があるかと思ったよ。でも、俺はその少年から直接話を聞いたわけじゃないし、 巡査とは音信不通になって、これ以上出来ることはなかった。俺はそのあとすぐに本庁に異動が決まって、この件はそれで終わりだ」
と柏木は言う。証拠がなければ、警察は動けない。柏木を責めることは出来なかった。
「今日、刑事部長からあの青年とお前の写真を見せられた時にピンと来たんだ。あの時の少年と、君の家にいた青年は同一人物だな」
短く頷き、国近は思考を巡らせる。だいたい状況が掴めてきた。柏木の証言からして、国近の仮説はほぼ確定だ。ハルトのパートナーは身内の誰かで、ハルトはその人物に不当な支配をされている。
「……その巡査が、当時勤めていた交番は?」
問いかけた。
国近の予想が正しければ、上層部は須藤家と癒着している。
しかし不正をするなら、それを知っている人間は出来る限り少ない方がいいはずだ。おそらく警察内部でも一部の人間にだけ、須藤家に手を出さないようにと通達を出しているだろう。たとえば、屋敷からほど近い交番の責任者とか。もし逃げ出して、近場の交番に駆け込んでも、そこで相手にしてもらえなければもう警察に頼ろうなどという気はなくなる。そうやって、逃げ道を塞がれたに違いない。
その証拠に、所轄に勤めていた柏木や、長く本庁勤めをしている国近は内部で須藤の名を聞いたことがなかった。
「南町の……」
柏木が答えた。
都内で須藤グループが所有している建物は、膨大な数に上るはずだ。隣県や個人名義の建物にまで視野を広げればもっと多いだろう。その中からピンポイントでハルトの居場所を特定するのは至難の業だ。
けれど、安全地帯が出来ているのなら、同じ場所でことに及んだ方がいい。
その交番からほど近く、中高生(少年というからそのぐらいの年齢だろう)が歩いていける範囲で、須藤家の血筋もしくは会社の名義になっている建物を当たればそこにハルトがいる可能性は高い。
確かに、有益な情報だった。
「ありがとうございます」
国近が頭を下げる。
「……必ず戻ってこい」
と柏木が言った。国近は柏木の顔を見つめた。
「お前みたいな優秀な刑事を放っておけるほど、うちは人手が足りているわけじゃない。彼の今後を作るなら、お前が捜一にいるということは必ず役に立つ」
こちらを見据える柏木の目元には、濃いクマが出来ている。無理もない。彼は今日の明け方まで、国近と同じく強盗事件を追っていた。被疑者の取り調べは、おそらくまだ終わっていない。それでも、自分に力を貸すために彼は駆けつけてくれた。
「はい」
強く、国近は頷いた。大丈夫。一人じゃない。きっと取り戻せる。そう思った。
おもむろに、柏木は胸ポケットから手帳を取り出した。手早くそこにメモを取り、国近に渡す。
「俺は表立っては動けない。刑事部長が目を光らせているし、俺が動けば逆に上に悟られる。ここの住所を訪ねろ。きっと協力してくれるはずだ」
じゃあ、上手くやれよ。そう言って、尊敬すべき上司は国近の肩を叩いた。
*
メモにあった住所は、地下鉄に乗って七駅先のところにあった。そこは大学や短大などが多く立ち並ぶ学生街で、目当ての場所は、商店街を抜けた先にある寂れた二階建てのアパートだった。
101号室。そこが、柏木に指定された部屋だ。
ネームプレートはついていない。壁が薄いのだろうか。頭上から、上階の部屋の生活音が聞こえてくる。国近はチャイムを鳴らそうと手を伸ばした。
扉が開いたのは、ちょうどその時だった。
「国近 肇さんですね。お待ちしておりました」
扉から顔を出したのは、まだ年端もいかぬ青年で。
「君は……」
意外な人物の登場に、国近は目を見開く。
「柏木 大志と申します」
父がいつもお世話になっております。と頭を下げたその青年は、柏木警部の一人息子のはずだ。
何度か庁内に柏木の着替えを届けに来ていた姿を見かけたことがある。
確か国立夜間大学に通う四回生で、学部は法学部。とても優秀で、在学中に司法試験に合格したと聞いた。将来は弁護士を目指していて、大学を卒業したあとは司法修習が控えているらしい。
国近よりも頭一つ分小さな大志の顔を、国近は見下ろす。灰色交じりのくすんだ黒い髪に、キリリとした目元。今までまじまじと見たことはなかったが、確かに柏木の話どおり、聡明そうな顔立ちをしていた。
「事情は父から聞きました。中へどうぞ」
促され、室内に足を踏み入れる。部屋は1Kで、整頓されたキッチンの奥に洋室があった。
部屋の中央に小さなテーブルがあり、そこに折りたたまれたノートパソコンが載っている。
壁側に置かれたピーコックブルーの本棚には、法学部の学生らしく、判例集や六法全書が並んでいた。部屋の奥の方で、つけっぱなしになったテレビがニュース番組を映し出している。
座ってくださいと言われて、国近はテーブルの近くに腰を掛けた。
テーブルの上に、コピー用紙の束が置かれる。
「須藤グループホールディングス、およびその会長・須藤 忠臣氏、その息子・須藤 正臣氏に関する調査結果です」
束は三つに分かれていて、それぞれバインダークリップで留められていた。
「こんな短時間で調べたのか」
柏木と別れてから、まだほんの数時間しか経っていない。そこから柏木に連絡をもらい、調べたにしては十分すぎるほどの厚みだった。
「あくまで素人が調査できる範囲内ですが……。使ってください」
「ありがとう」
薄く、国近は笑った。柏木の息子なら信用できる。一般人の大学生を巻き込むことはどうかと思ったが、ここまでの調査能力を持っている人間は稀だろう。四面楚歌な国近にとって、柏木親子というピンチヒッターの登場は心強かった。
「細かいところは後で確認する。差し当たって要点だけを早急に教えてくれ」
頼らない手はない。
「了解しました」
短く頷いた大志は、国近の隣に腰を下ろす。一番上に置かれた束を開いた。明朝体で『須藤グループホールディングス 調査結果』と書かれている。
「まず、須藤グループホールディングスですが、不動産業、建築業、ホテル運営事業、リゾート開発事業の主に四つの事業で収益をあげている会社です。現在は不動産業務を縮小しており、ホテル運営とリゾート開発が主な事業のようです。不動産業で所有していた広大な土地を使い、建築業のノウハウを活かして設計されたホテルやリゾートは、各界から人気で、政治家や各国の富豪にも利用されています。須藤グループが運営するホテルは都内に13、全国を合わせれば70近くに上ります。全国に30の支店があり、それを取り仕切っているのが東京丸の内にある本社ビルです」
開かれた資料の中には、須藤グループが経営しているホテルの展開と、支店の場所が書かれた地図が載っていた。
続いて、大志は二つ目の束を開く。それは須藤グループの会長・須藤 忠臣氏に関する調査結果だ。眉目秀麗な荘厳な顔つきをした男の顔写真が露になった。
「須藤グループホールディングスで取締役会長兼社長を務めているのが、須藤 忠臣氏です。敏腕で有名で、彼が着任してから会社の業績は上がり続けているとのことです。総資産は約数百億。リゾート開発事業も、忠臣氏の代から着手した事業です」
しかし、と大志が言い淀む。
「その忠臣氏ですが、三年前にくも膜下出血で倒れ、現在は意識不明の状態が続いているそうです。会長不在のまま役員会で会社を運営しているそうですが、社内の決定権はほとんど嫡男の正臣氏にあると言っていいでしょう」
以上です。と大志は説明を終えた。残った三つ目の束は、須藤 正臣氏に関する調査結果のようだった。前の二つの束に比べて、随分と分厚い。大志は正臣氏が怪しいと思っているのかもしれない。国近も同じ意見だった。忠臣氏が動けないとなれば、ハルトを連れ戻すことが出来るのは正臣氏だけだ。
「ありがとう」
もう一度、国近は大志に礼を言った。
「正臣氏の経歴と、過去に雑誌や新聞に掲載された記事がいくつか見つかりましたので、ピックアップしてあります」
言われて、国近は資料を開く。須藤 正臣は忠臣氏によく似た、とても綺麗な顔をしている男だった。まだ若く、年齢は国近よりも一つ下だ。
順に資料をめくっていく。
しばらくして、雑誌記事の中に一つの記述を見つけた。それは、若き実業家の話をまとめたインタビュー記事のようだった。およそ四ページ半に及ぶ記事で、見開きの片面に大きく、 正臣氏の写真が載っていた。会議室だろうか。机の上で手を組んでいる。
正臣氏の右手、薬指に重厚な金属製の指輪がついていた。そのデザインは、ハルトがつけていた首輪に、とてもよく似ている
――その指輪は、どうされたのですか?
『ああ。十六の時に、父に買ってもらったんです』
国近は目を細めた。
確定だった。
「パソコンを借りても?」
横にいた大志に、声をかける。
「どうぞ」
と簡潔な返事が返ってきた。
書斎のノートパソコンを、国近は持ってこなかった。あとで中を調べられる恐れがあったからだ。帰りにネットカフェに寄ろうかと考えていたが、ここのパソコンを使ったほうが足はつかないだろう。
容疑者は絞り込めた。あとは居場所が分かればいい。
ノートパソコンを開き、検索をかける。
港区で須藤グループが管理している建物は七つ。うち、南町の交番から徒歩圏内にあるのは五つだ。
二つは会社名義になっているホテルとマンションだった。人の出入りが多いところで、怪しい動きはできない。この二つは除外してもいい。
残る三つは、個人用の邸宅のようだ。
一、須藤家本邸
西町にある洋館で、忠臣氏と正臣氏が主に生活している屋敷らしい。
二、須藤家別邸
こちらは東町にある日本家屋だった。建物の形が、少し変わっている。
三、須藤家第二別邸
こちらは南町にある。和館と洋館に分かれた建物だった。普段は人が住んでおらず、主にイベントや茶会などで使っているらしい。
それぞれ、屋敷の名義までは分からなかった。順当にいけば怪しいのは本邸だが、決めつけるのは危険だ。もっと冷静に――。
そこで、国近の意識が飛んだ。大仰な音を立て、机に頭が落ちた。資料が床に転がる。
身体が、動かなかった。
おそらく肉体が悲鳴を上げている。昨日からほとんど不眠不休でここまで動いていたことを思い出した。そして、思い出してしまえば尚更、肉体に溜まった疲労を意識せざるを得なかった。
「国近警部補」
横で、大志が呼ぶ。
点けっぱなしにされたテレビの音が、国近の耳元に届いた。
ちょうどキャスターが、昨夜まで国近が携わっていた事件を伝えていた。
『警視庁は昨夜未明、都内全域で起きていた強盗事件の容疑者の身柄を確保しました。この事件は――』
大志がそちらを、チラリと見て口を開く。
「少し休んでください。あの事件を追っていたと聞きました。眠れていないのでしょう」
「……君たちは」
重くなる瞼を、どうにか閉じないように堪えて、国近は口を開く。柏木と別れてからずっと、気になっていたことがあった。
「どうして協力してくれるんだ」
「……。……俺は、俺の目的のために貴方を利用しているに過ぎません。父も同じです。だから、貴方も、俺たちのことを利用してください」
返事になっているのか分からないような返答だ。国近は目を伏せる。
身体に疲労がたまっている以上、下手に動くのは危険だ。判断力が落ちる。余計なミスをしかねない。ここは素直に大志の提案に載ることにした。
「……二時間経ったら起こしてくれ」
「了解しました」
*
二時間後。国近が目を覚ますと、テーブルの上には新しい資料が数枚用意されていた。
それぞれ、国近が寝る前に調べた建物の写真だった。
「おやすみの間に、下見に行ってきました」
「……助かる」
一度建物の周辺を確認しておきたかったが、自分は顔が割れている。ちょうど頼もうと思っていたところだ。
数枚の写真を国近は見極める。それぞれ、屋敷の正面、横、後ろを映している。カメラワークが少し上からなのは、近場の展望台から望遠レンズを使って撮影したからだろう。抜かりがなかった。今になって柏木が、どうして息子を巻き込んだのか、分かった気がした。
順番に、写真を繰って確認していく。
ふいに、あることに気が付いて、国近は手を止めた。
「ここだ」
それは、須藤家別邸の写真だった。伝統的な日本家屋に、幅広の階段がついている屋敷だ。
「ここだけ監視カメラがない」
それに、他の二つの屋敷に比べて、庭の手入れがあまりされていないようだった。第二別邸の方はイベントや茶会などで使うというから、庭が綺麗に手入れされているのは当たり前だが、本邸の方にも荘厳なイングリッシュガーデンがあり、写真には庭師らしき人物がバラの花を間引きしている様子が写っていた。ここだけ何もしていないというのは違和感だった。
屋敷の外門、セキュリティシステムのシールが貼られているけれど、そのデザインは随分と古い。その警備会社のロゴデザインは、数年前に更新されていて、今は別のデザインのものが使われているはずだった。
よほど外部の人間を入れたくないと見える。
横から、大志が写真を覗き込んだ。
「撮りに行った時に気が付いたのですが、この建物……『太陽の館』ですね」
「太陽の館?」
首を傾げる。
「N県にある建築作品です。建築学科の友人が話しているのを聞いたことがあります」
国近は手元のキーボードを叩き、検索をかけた。該当の建物は、N県で観光名物になっているらしく、検索画面のトップにHPが表示された。
ダブルクリックでHPを開く。トップ画面に屋敷の写真が写った。背景は異なるが、建物の造りは須藤別邸と瓜二つだ。別邸の方は巧妙に作られたレプリカなのかもしれない。
「その友人に、連絡は取れるか?」
国近が問いかける。
「はい、可能です」
「なら間取りが分かるかもしれない。聞いてみてくれ」
「了解しました」
歯切れのいい返事をして、大志は手持ちのスマートフォンを開いた。手早くそれを操作し、メッセージを打つ。
それが終わると、今度はスマートフォンの画面を上に向けて、テーブルに置いた。
「それからもう一つ。父から興味深い情報が届きました」
一件のメールを開き、添付ファイルをタップする。
「ハルトさんは養子です」
画像は、遠い雪国の地方新聞の一面だった。
「十歳の頃にご両親を事故で亡くして、その後遠縁だった忠臣氏に引き取られているようです」
県境で起きた交通事故を伝えている。ハルトの実父は、そこそこ名の知れた小説家だったらしい。その記事の中には小さく、父親の顔写真が載っていた。線の細い顔立ちの優男だ。強い意志の感じられる凛とした目許は、ハルトにとてもよく似ていた。
今朝、刑事部長に言われた言葉が、国近の頭の中で再生された。
――可哀そうに。この青年は心の病を患っていて、虚言癖があるらしい。
「……嘘なんか、一つも吐いてないじゃないか」
薄く、国近は呟いた。
胸が痛んだ。彼は、こんな当たり前の悲しみすら、享受することができないのだろうか。
気丈な振る舞いと、乱暴な口調。線の細い身体。その中に、いったいどれだけの苦悩を抱えていたのだろう。
気付いてやれなかった。きっと、それに気が付くことが出来るのは、自分だけだったはずなのに。
必ず成功させる。
スマートフォンを大志に返却し、手元の資料を開く。確か須藤グループ本社の予定表が入っていたはずだ。それによれば確か――。
「あった」
本社では三日後、名古屋支店で社内講習会が行われる予定だ。役員の何人かも出席するらしく、代表者として正臣氏の名前も載っていた。
「叩くなら、その前でしょうか?」
横で、大志が言った。
これは紛うことなき犯罪だ。
居場所は突き止めた。柏木の証言もある、あとはハルトの訴えがあれば立件はできる。状況証拠だけでは不十分かもしれないが、最悪突入して現行犯で逮捕してもいい。
相手の懐にいる以上、何をされているのか分からない。今この瞬間も、きっと国近が想像もできないような酷い目にあっているかもしれない。
本当は今すぐにでも助けに行きたい。けれど……。
「いや、動き出すのは三日後。正臣氏が家を空けたあとだ」
国近は答えた。こちらを伺うような瞳が、国近を見つめた。
「意味がない。上が絡んでいる以上立件したところで揉み消されて終わりだ。ハルトの保護を優先する。正臣氏が家を空ける三日後なら、確実に救い出せる」
国近の部屋に、荒らされた形跡はなかった。だとしたら、ハルトは自分から着いていったことになる。ハルトのあの性格からして、迎えが来たからといって素直に応じるとは思えない。おおかた国近の異動でもぶら下げて脅されたのだろう。
ほんの短い間の付き合いだが、国近には分かる。ハルトはそういう奴だ。
強がりで、意地っ張りで、でもそのくせ律儀で、義理堅い。
世話になっている人間が、自分のせいで仕事を失うかもしれないと思えば、喜んで出ていくだろう。
助けてほしいとか、どうにかしてほしいだとか、ハルトは絶対に言わない。
だとしたら尚更上手くやらなければ。
国近がこの地位を失ってしまったら、彼はきっと、自分のところに戻って来られなくなる。
「分かりました。では、そのように」
薄く和らげに微笑み、大志が頷く。
「周辺の防犯カメラとNシステムの位置を、柏木警部に送ってもらえないか確認してもらえるか?」
「聞いてみます。他に必要なものは?」
「厚手の手袋と、針金を2本。それから車を一台用意したい」
「了解しました。手袋と針金は明日買ってきます。車の方は、貸してくれるあていくつかあるので、そちらを当たってみますがよろしいですか?」
「ああ」
頷いて、国近は窓の方へと目線を向けた。
もうすっかり日が傾いている。赤い夕陽が部屋の中に差し込み、家具を朱色に変えていた。
道具は揃った。自分がしくじらなければ、ハルトを連れ帰るのは造作もないことだろう。
けれど、問題はもう一つあった。
それは、どこで彼を匿うのかということだ。
国近の家は、もう安全じゃない。あそこに行けば、すぐにまた連れ戻されるだろう。せっかく救い出せてもそれなら意味がない。
別のアパートを用意することが出来ないわけではないが、国近の名義なら同じことだろう。
となれば何処かホテルの部屋を用意するのが現実的だが……。
資料を見つめて、国近は顔を曇らせた。ホテル運営は、須藤グループのメイン事業だ。
調べられればすぐに居場所を突き止められてしまう。
何か策を練らなければ。
額に指を置き、熟考する。
「こちらを」
すると、そんな様子を見ていた大志が、こちらに向き直った。
机の上。一本の鍵が置かれる。キーホルダーも何もついていない、裸の鍵だ。
それは、夕日の光を浴びて、机上できらきらと輝いていた。
「俺の名義になっているマンションです。使ってください。貴方の家には、もう帰れないでしょう」
この子は本当に機転が利く。きっと優秀な弁護士になるだろう。そう思った。
その鍵に、国近は触れる。ひんやりとした金属の感触が指先に伝わっていく。
「ただ、すいません。はじめにお伝えしておきます」
言いながら、大志は申し訳なさそうに目を伏せた。
「事故物件です」
思いがけない言葉に、国近は一瞬目を丸くする。
しかし、すぐに目元を緩め、優しく微笑んだ。
「いや、十分だ。ありがとう」
国近の記憶が正しければ、柏木は今年四十路になる。大学生の息子がいるにしては若すぎる。そのことを、柏木は何も言わないけれど。
『俺は、俺の目的のために貴方を利用しているに過ぎません』
彼にもきっと、何か事情があるのかもしれない。そう思った。
*
三日後。午後8時。
高級住宅街の入り口で、国近 肇は車を降りた。
目的の建物は、約400メートル先にある。ここから特定の路地裏を通っていけば、周辺の防犯カメラに姿を残さず、屋敷まで辿り着くことができる。
もっとも、周辺の住人は、その路地がカメラの死角になっているとは夢にも思っていないだろうけれど。
一軒一軒の間隔が広いからなのか、この時間帯にしては、人通りはほとんどないに等しかった。
国近は、車へと向き直る。
運転席には柏木 大志の姿があった。国近は一人で向かうつもりだったけれど、自分がいた方が時間を節約できるからと、大志は着いてきてくれた。
目線を合わせ、二人は短く、頷く。
ここから、国近は屋敷の中に忍び込み、ハルトを回収して車に戻る。手順は単純明快だった。
被っていた帽子を、今一度深くかぶり直して、国近は一歩を踏み出した。
足早に、路地を駆けていく。
しばらくして、木製の塀が見えてきた。高さは2メートルぐらいだろうか。ちょうど、国近の身長よりも20センチほど高い位置まで建っている。この塀の向こうに、屋敷があった。
手早く周辺を観察する。
誰もいないことを確認して、国近は塀の上部に手をかけた。
ぐっと力を入れ込み、軽い動作で飛び越える。音も立てずに、芝生の上に着地した。
国近の目線の先に、壮大な日本家屋が現れた。
そこはちょうど屋敷の左横側で、建物の造りがよく分かった。
国近は周辺を観察する。人の気配はない。夕方、大志が屋敷から出発する正臣氏とその部下の姿を確認しているから、おかしなことではないけれど、物音の一つも聞こえないのは異様だった。これだけ広大な土地なら、使用人の一人でも置いていてもいいはずだが。
セキュリティシステムのアラームは、聞こえない。
事前に集めた情報によれば、裏口はないそうだ。正面から入るより他、方法はない。
国近は右手の腕時計を確認する。
急ごう。長居すればするほど見つかる可能性は高くなる。
屋敷の正面へと回り込んだ。
その屋敷は、3メートル程度の高床式で、伝統的な日本家屋に、幅広の階段がついている。
階段の先、建物の2階部分に、屋敷の玄関があった。
周囲を警戒しながらゆっくりと階段を上る。
玄関の扉は引き戸になっていて、漆の光沢で光っていた。鍵の形状は、どうやらそこまで複雑な造りをしてないようだ。
国近はしゃがみこんだ。懐から針金を取り出し、鍵穴に差し込む。
わずか数秒後。カチャリと小気味のいい解錠の音が聞こえた。
(どっちが悪者なのか、これでは分からないな)
心の中でひとり、国近はそう呟き、苦笑した。
引き戸に手をかける。それは、難なく開いて。
国近は屋敷の中へと、踏み出していった。
*
その屋敷には、調度品や家具の類は置かれていない。
あるのは大きなシステムキッチンと、四角い小さな机だけだ。いくつかある収納スペースには、生活必需品の類は備蓄されているだろうが、内部はまるで、空き家と見紛うように殺風景だった。
その屋敷の最奥。陽の間と呼ばれる部屋で、須藤 美斗は、淡い呼吸を繰り返していた。
瞳はかろうじて開いているが、その身体はピクリとも動かない。
その部屋には、天窓があって、淡い月明かりが美斗の身体を照らしていた。
その身体は、ところどころ痣や擦り傷が浮かんでいる。
天窓から差し込む光が、青から黄色、朱色に代わっていくのを、美斗は何回見ただろうか。
よく分からなかった。
美斗の首元。重厚な首輪がついている。
中留は元の位置に戻っているから呼吸は楽だが、南京錠はまだ付けられていない。
きっと、お仕置きはまだ終わっていないのだろう。それは、兄の気分次第で中留がまた締められたり緩められたりするということを意味していた。
鍵がついていようがいるまいが、美斗は囚われていた。
ふいに、襖の向こうで物音がした。
色を失った美斗の目線が少しだけ動き、襖を捕らえる。
次の瞬間。扉が開く。
視界の先に、男の足先が現れた。
「ひっ!」
それを見て、美斗の肩が大きく跳ねる。
「ごめ、ごめんなさっ……!」
もう逃げない、もうやらない、だから許して。早口でそんな言葉を並び立てる。
大粒の涙が、その瞳に浮かんだ。あまり泣いていれば、きっと頬に一撃を食らうだろうから、顔を覆って庇った。
今日は何をされるのだろうか。いったいこの責め苦は、いつまで続くのだろうか。
けれど。
いつまで待っても、平手や拳は飛んでこなかった。
「ハルト」
その代わりに、耳障りのいい、優しい声が自分を呼んだ。
「へ……?」
声に反応して、美斗は腕を解く。
兄では、なかった。
その人は美斗のいる少し手前で立ち止まると、そこで片膝をつく。
ああ。そんなことをしたら、きっと膝が汚れてしまう。場違いに、そんなことを思った。
今日はいったいどうしたのだろう。いつもなら、【彼】ははるか彼方から自分を見下ろして、自分を痛めつけるだけなのに。どうしてこのDomは、美斗の前で膝をついているのだろう。膝をつくのは自分の役目なのに。
骨ばった、大きな手が美斗の頬を撫でた。
この手を知っている気がする。けれど、それをどこで知ったのか、美斗は思い出せなかった。
ふいに、その人が美斗の腕を引っ張り、抱き起こした。そのまま強く、抱きしめられる。
耳に響く心地のいい心臓の音と、嗅いだことのある柔軟剤の香がして、美斗は目を細める。
変な感じだ。
優しくなんか、してもらえるわけがないのに。
自分はまた、おかしな夢でも見ているのだろうか。
遠い意識の端で、誰かの声がした。
『セーフワードは、“ ”』
その言葉の意味を、その時教えてもらった。
『やめてほしい時の合図だよ。俺は君が嫌がることをする気はないけれど、嫌なことは言ってくれなきゃ分からないだろ? どうしても無理だ、出来ないって思ったら今の言葉を口にして』
言っても、いいのだろうか。
もう何度も同じ言葉を言っているけれど、目の前のDomがそれを聞き入れてくれる気配はない。むしろ美斗がその言葉を言う度に、【彼】の行動はエスカレートしていく気がする。
それでも、この手の主だったら、聞いてくれるのだろうか。
「……た」
美斗の唇が、何かを伝えようと小さく開く。掠れた喉は、上手く言葉を紡げなかった。
それでも、その人は美斗の言葉を聞くまで、じっと待っていた。
「“かえりたい”」
その人の肩が、ピクリと動いた。
「……覚えてたのか」
忘れるはずがない。だって、あんな風に気遣ってもらったのは、初めてだった。
「ああ。分かった。ちゃんと言えて、美斗はいい子だね」
そう言って、その人は泣き出しそうな顔で笑った。優しく、美斗の頭を撫でる。
それは、美斗にとって最上級のご褒美だった。
ほっと息を吐いて、ゆったりと瞼を閉じる。
暖かかった。
こういうのが、世間では幸せと言われるのだろうか。
願わくば、これが夢じゃなければいい。
そう思いながら、美斗は意識を手放した。
煙草は、普段吸わない。けれど持っていれば捜査上便利なため持ち歩いていた。
喫煙を口実に被疑者やその関係者に近づくことができる。
手早くライターを取り出し、火をつける。
深く煙を吸い込んだ。喉につかえるような苦い味に、顔をしかめる。この味を、国近はどうにも好きになれない。
それでも、今は吸いたい気分だった。
ゆっくりと、煙を吐き出す。その横目で、アパートの周辺を観察した。
ジョギング中の中年男性が一人、目線の先を通り抜けていく。
休日とだけあって、どこかから子どもの遊ぶ声が聞こえてきた。
心の中で、国近は呟く。
(ここも、問題なし)
ここに来るまでに寝室の方へ寄って来た。
中央に置かれたベッドにはもう、彼の影はなかった。乱れたままのシーツの上。枕元に控えめに、国近が彼に貸したスマートフォンが載っていた。何か困ったことがあったら連絡するようにと告げていたけれど、結局、彼がそれを使うことはなかった。
腕時計を確認する。
午前11時。
あの場所で彼の頭を撫でてから、そんなに長い時間は経っていないのに、それがずっと昔のことのように感じられた。
再び、国近はアパートの外に目を向ける。
ここと、書斎と、寝室。
国近の部屋にある窓はそれで全部だ。全ての窓を確認した。
怪しげな人影はない。見張りはついていないようだった。目的を達成したのだ。自分に見張りをつけても意味はないと思うが、用心するに越したことはない。
今から国近がやろうとしていることは、敵だけではなく味方も、警戒しなければならないことだった。もう、ミスは許されない。
煙草は、まだ半分ほど残っていた。国近はそれを、乱暴に携帯灰皿に押し付ける。
室内に戻る。
着替えは、すでに終えていた。国近は今、スーツを脱ぎ捨て、ラフな私服姿になっている。
目深に帽子をかぶり、外に出た。
*
約二時間前。警視庁。
「昔、港区の署に勤めていた時、妙な噂があった」
庁内でもほとんど人通りがない廊下で、柏木 誠一警部は口を開いた。
「噂、ですか?」
国近が問いかける。
「ああ。ある家に手を出したら、警察にいられなくなるんだと」
『ある家』という言葉に反応して、国近は柏木の顔を見つめる。それは、国近にも身に覚えがあることだった。
「まあ、単なる噂だ。俺は、当時その署の刑事部にいたんだが、その『ある家』に関わることはなかったし、とりたてて変わったこともなかったよ。でもある日、一人の巡査が刑事部を訪ねてきて言ったんだ」
柏木の話をまとめると、こういうことらしかった。その巡査は、柏木の元を訪ねて一つの依頼をした。大きな家の次男が、妙なことを言っているから捜査をしてほしい。そんな依頼だったという。
巡査は、所轄内の交番に勤めていた。ある日、一人の少年がその交番を訪ねてきたという。
彼はひどく怯えていて、自分はある家の次男であること。家族から虐待――それも主にダイナミクス性を利用した性的な暴行を受けていることを訴えた。
少年の鬼気迫った様子を見て、巡査はすぐに上司を呼び相談した。彼が話していることが本当ならば、それは大きな問題になる。所轄で捜査が必要だと考えた。
しかし、
上司は全く相手にする気がなかった。
『嘘を言うな』と少年に向かってそう返したという。そして奥に戻ると、巡査に向かってこう言った。
『勘弁してくれよ。あの家に手を出したら、俺ここにいられなくなっちゃうよ』
やがて、一人の男が少年を迎えに来た。少年は嫌がっている様子だったが、家に帰されたという。その少年は大きな会社の息子で、どうやら心を病んでいるらしいと説明された。
その場はそれで有耶無耶になったけれど、巡査はどうも納得出来なかったらしい。後日、所轄の刑事部を訪ねて捜査を依頼した。
巡査がたまたま声をかけたのが、柏木だった。巡査から事情を聞いた柏木は、戸惑いながらも独自で調査を開始した。
そんな、ある日のことだった。
柏木は上司に呼び出される。あの巡査は精神を病んでいて、警察を依願退職することになった。彼から依頼された案件は彼の主観に満ちたもので、調べる価値がないから手を引くように。そう言われたという。
どこかで聞いたことがある話だった。
「そんな馬鹿な話があるかと思ったよ。でも、俺はその少年から直接話を聞いたわけじゃないし、 巡査とは音信不通になって、これ以上出来ることはなかった。俺はそのあとすぐに本庁に異動が決まって、この件はそれで終わりだ」
と柏木は言う。証拠がなければ、警察は動けない。柏木を責めることは出来なかった。
「今日、刑事部長からあの青年とお前の写真を見せられた時にピンと来たんだ。あの時の少年と、君の家にいた青年は同一人物だな」
短く頷き、国近は思考を巡らせる。だいたい状況が掴めてきた。柏木の証言からして、国近の仮説はほぼ確定だ。ハルトのパートナーは身内の誰かで、ハルトはその人物に不当な支配をされている。
「……その巡査が、当時勤めていた交番は?」
問いかけた。
国近の予想が正しければ、上層部は須藤家と癒着している。
しかし不正をするなら、それを知っている人間は出来る限り少ない方がいいはずだ。おそらく警察内部でも一部の人間にだけ、須藤家に手を出さないようにと通達を出しているだろう。たとえば、屋敷からほど近い交番の責任者とか。もし逃げ出して、近場の交番に駆け込んでも、そこで相手にしてもらえなければもう警察に頼ろうなどという気はなくなる。そうやって、逃げ道を塞がれたに違いない。
その証拠に、所轄に勤めていた柏木や、長く本庁勤めをしている国近は内部で須藤の名を聞いたことがなかった。
「南町の……」
柏木が答えた。
都内で須藤グループが所有している建物は、膨大な数に上るはずだ。隣県や個人名義の建物にまで視野を広げればもっと多いだろう。その中からピンポイントでハルトの居場所を特定するのは至難の業だ。
けれど、安全地帯が出来ているのなら、同じ場所でことに及んだ方がいい。
その交番からほど近く、中高生(少年というからそのぐらいの年齢だろう)が歩いていける範囲で、須藤家の血筋もしくは会社の名義になっている建物を当たればそこにハルトがいる可能性は高い。
確かに、有益な情報だった。
「ありがとうございます」
国近が頭を下げる。
「……必ず戻ってこい」
と柏木が言った。国近は柏木の顔を見つめた。
「お前みたいな優秀な刑事を放っておけるほど、うちは人手が足りているわけじゃない。彼の今後を作るなら、お前が捜一にいるということは必ず役に立つ」
こちらを見据える柏木の目元には、濃いクマが出来ている。無理もない。彼は今日の明け方まで、国近と同じく強盗事件を追っていた。被疑者の取り調べは、おそらくまだ終わっていない。それでも、自分に力を貸すために彼は駆けつけてくれた。
「はい」
強く、国近は頷いた。大丈夫。一人じゃない。きっと取り戻せる。そう思った。
おもむろに、柏木は胸ポケットから手帳を取り出した。手早くそこにメモを取り、国近に渡す。
「俺は表立っては動けない。刑事部長が目を光らせているし、俺が動けば逆に上に悟られる。ここの住所を訪ねろ。きっと協力してくれるはずだ」
じゃあ、上手くやれよ。そう言って、尊敬すべき上司は国近の肩を叩いた。
*
メモにあった住所は、地下鉄に乗って七駅先のところにあった。そこは大学や短大などが多く立ち並ぶ学生街で、目当ての場所は、商店街を抜けた先にある寂れた二階建てのアパートだった。
101号室。そこが、柏木に指定された部屋だ。
ネームプレートはついていない。壁が薄いのだろうか。頭上から、上階の部屋の生活音が聞こえてくる。国近はチャイムを鳴らそうと手を伸ばした。
扉が開いたのは、ちょうどその時だった。
「国近 肇さんですね。お待ちしておりました」
扉から顔を出したのは、まだ年端もいかぬ青年で。
「君は……」
意外な人物の登場に、国近は目を見開く。
「柏木 大志と申します」
父がいつもお世話になっております。と頭を下げたその青年は、柏木警部の一人息子のはずだ。
何度か庁内に柏木の着替えを届けに来ていた姿を見かけたことがある。
確か国立夜間大学に通う四回生で、学部は法学部。とても優秀で、在学中に司法試験に合格したと聞いた。将来は弁護士を目指していて、大学を卒業したあとは司法修習が控えているらしい。
国近よりも頭一つ分小さな大志の顔を、国近は見下ろす。灰色交じりのくすんだ黒い髪に、キリリとした目元。今までまじまじと見たことはなかったが、確かに柏木の話どおり、聡明そうな顔立ちをしていた。
「事情は父から聞きました。中へどうぞ」
促され、室内に足を踏み入れる。部屋は1Kで、整頓されたキッチンの奥に洋室があった。
部屋の中央に小さなテーブルがあり、そこに折りたたまれたノートパソコンが載っている。
壁側に置かれたピーコックブルーの本棚には、法学部の学生らしく、判例集や六法全書が並んでいた。部屋の奥の方で、つけっぱなしになったテレビがニュース番組を映し出している。
座ってくださいと言われて、国近はテーブルの近くに腰を掛けた。
テーブルの上に、コピー用紙の束が置かれる。
「須藤グループホールディングス、およびその会長・須藤 忠臣氏、その息子・須藤 正臣氏に関する調査結果です」
束は三つに分かれていて、それぞれバインダークリップで留められていた。
「こんな短時間で調べたのか」
柏木と別れてから、まだほんの数時間しか経っていない。そこから柏木に連絡をもらい、調べたにしては十分すぎるほどの厚みだった。
「あくまで素人が調査できる範囲内ですが……。使ってください」
「ありがとう」
薄く、国近は笑った。柏木の息子なら信用できる。一般人の大学生を巻き込むことはどうかと思ったが、ここまでの調査能力を持っている人間は稀だろう。四面楚歌な国近にとって、柏木親子というピンチヒッターの登場は心強かった。
「細かいところは後で確認する。差し当たって要点だけを早急に教えてくれ」
頼らない手はない。
「了解しました」
短く頷いた大志は、国近の隣に腰を下ろす。一番上に置かれた束を開いた。明朝体で『須藤グループホールディングス 調査結果』と書かれている。
「まず、須藤グループホールディングスですが、不動産業、建築業、ホテル運営事業、リゾート開発事業の主に四つの事業で収益をあげている会社です。現在は不動産業務を縮小しており、ホテル運営とリゾート開発が主な事業のようです。不動産業で所有していた広大な土地を使い、建築業のノウハウを活かして設計されたホテルやリゾートは、各界から人気で、政治家や各国の富豪にも利用されています。須藤グループが運営するホテルは都内に13、全国を合わせれば70近くに上ります。全国に30の支店があり、それを取り仕切っているのが東京丸の内にある本社ビルです」
開かれた資料の中には、須藤グループが経営しているホテルの展開と、支店の場所が書かれた地図が載っていた。
続いて、大志は二つ目の束を開く。それは須藤グループの会長・須藤 忠臣氏に関する調査結果だ。眉目秀麗な荘厳な顔つきをした男の顔写真が露になった。
「須藤グループホールディングスで取締役会長兼社長を務めているのが、須藤 忠臣氏です。敏腕で有名で、彼が着任してから会社の業績は上がり続けているとのことです。総資産は約数百億。リゾート開発事業も、忠臣氏の代から着手した事業です」
しかし、と大志が言い淀む。
「その忠臣氏ですが、三年前にくも膜下出血で倒れ、現在は意識不明の状態が続いているそうです。会長不在のまま役員会で会社を運営しているそうですが、社内の決定権はほとんど嫡男の正臣氏にあると言っていいでしょう」
以上です。と大志は説明を終えた。残った三つ目の束は、須藤 正臣氏に関する調査結果のようだった。前の二つの束に比べて、随分と分厚い。大志は正臣氏が怪しいと思っているのかもしれない。国近も同じ意見だった。忠臣氏が動けないとなれば、ハルトを連れ戻すことが出来るのは正臣氏だけだ。
「ありがとう」
もう一度、国近は大志に礼を言った。
「正臣氏の経歴と、過去に雑誌や新聞に掲載された記事がいくつか見つかりましたので、ピックアップしてあります」
言われて、国近は資料を開く。須藤 正臣は忠臣氏によく似た、とても綺麗な顔をしている男だった。まだ若く、年齢は国近よりも一つ下だ。
順に資料をめくっていく。
しばらくして、雑誌記事の中に一つの記述を見つけた。それは、若き実業家の話をまとめたインタビュー記事のようだった。およそ四ページ半に及ぶ記事で、見開きの片面に大きく、 正臣氏の写真が載っていた。会議室だろうか。机の上で手を組んでいる。
正臣氏の右手、薬指に重厚な金属製の指輪がついていた。そのデザインは、ハルトがつけていた首輪に、とてもよく似ている
――その指輪は、どうされたのですか?
『ああ。十六の時に、父に買ってもらったんです』
国近は目を細めた。
確定だった。
「パソコンを借りても?」
横にいた大志に、声をかける。
「どうぞ」
と簡潔な返事が返ってきた。
書斎のノートパソコンを、国近は持ってこなかった。あとで中を調べられる恐れがあったからだ。帰りにネットカフェに寄ろうかと考えていたが、ここのパソコンを使ったほうが足はつかないだろう。
容疑者は絞り込めた。あとは居場所が分かればいい。
ノートパソコンを開き、検索をかける。
港区で須藤グループが管理している建物は七つ。うち、南町の交番から徒歩圏内にあるのは五つだ。
二つは会社名義になっているホテルとマンションだった。人の出入りが多いところで、怪しい動きはできない。この二つは除外してもいい。
残る三つは、個人用の邸宅のようだ。
一、須藤家本邸
西町にある洋館で、忠臣氏と正臣氏が主に生活している屋敷らしい。
二、須藤家別邸
こちらは東町にある日本家屋だった。建物の形が、少し変わっている。
三、須藤家第二別邸
こちらは南町にある。和館と洋館に分かれた建物だった。普段は人が住んでおらず、主にイベントや茶会などで使っているらしい。
それぞれ、屋敷の名義までは分からなかった。順当にいけば怪しいのは本邸だが、決めつけるのは危険だ。もっと冷静に――。
そこで、国近の意識が飛んだ。大仰な音を立て、机に頭が落ちた。資料が床に転がる。
身体が、動かなかった。
おそらく肉体が悲鳴を上げている。昨日からほとんど不眠不休でここまで動いていたことを思い出した。そして、思い出してしまえば尚更、肉体に溜まった疲労を意識せざるを得なかった。
「国近警部補」
横で、大志が呼ぶ。
点けっぱなしにされたテレビの音が、国近の耳元に届いた。
ちょうどキャスターが、昨夜まで国近が携わっていた事件を伝えていた。
『警視庁は昨夜未明、都内全域で起きていた強盗事件の容疑者の身柄を確保しました。この事件は――』
大志がそちらを、チラリと見て口を開く。
「少し休んでください。あの事件を追っていたと聞きました。眠れていないのでしょう」
「……君たちは」
重くなる瞼を、どうにか閉じないように堪えて、国近は口を開く。柏木と別れてからずっと、気になっていたことがあった。
「どうして協力してくれるんだ」
「……。……俺は、俺の目的のために貴方を利用しているに過ぎません。父も同じです。だから、貴方も、俺たちのことを利用してください」
返事になっているのか分からないような返答だ。国近は目を伏せる。
身体に疲労がたまっている以上、下手に動くのは危険だ。判断力が落ちる。余計なミスをしかねない。ここは素直に大志の提案に載ることにした。
「……二時間経ったら起こしてくれ」
「了解しました」
*
二時間後。国近が目を覚ますと、テーブルの上には新しい資料が数枚用意されていた。
それぞれ、国近が寝る前に調べた建物の写真だった。
「おやすみの間に、下見に行ってきました」
「……助かる」
一度建物の周辺を確認しておきたかったが、自分は顔が割れている。ちょうど頼もうと思っていたところだ。
数枚の写真を国近は見極める。それぞれ、屋敷の正面、横、後ろを映している。カメラワークが少し上からなのは、近場の展望台から望遠レンズを使って撮影したからだろう。抜かりがなかった。今になって柏木が、どうして息子を巻き込んだのか、分かった気がした。
順番に、写真を繰って確認していく。
ふいに、あることに気が付いて、国近は手を止めた。
「ここだ」
それは、須藤家別邸の写真だった。伝統的な日本家屋に、幅広の階段がついている屋敷だ。
「ここだけ監視カメラがない」
それに、他の二つの屋敷に比べて、庭の手入れがあまりされていないようだった。第二別邸の方はイベントや茶会などで使うというから、庭が綺麗に手入れされているのは当たり前だが、本邸の方にも荘厳なイングリッシュガーデンがあり、写真には庭師らしき人物がバラの花を間引きしている様子が写っていた。ここだけ何もしていないというのは違和感だった。
屋敷の外門、セキュリティシステムのシールが貼られているけれど、そのデザインは随分と古い。その警備会社のロゴデザインは、数年前に更新されていて、今は別のデザインのものが使われているはずだった。
よほど外部の人間を入れたくないと見える。
横から、大志が写真を覗き込んだ。
「撮りに行った時に気が付いたのですが、この建物……『太陽の館』ですね」
「太陽の館?」
首を傾げる。
「N県にある建築作品です。建築学科の友人が話しているのを聞いたことがあります」
国近は手元のキーボードを叩き、検索をかけた。該当の建物は、N県で観光名物になっているらしく、検索画面のトップにHPが表示された。
ダブルクリックでHPを開く。トップ画面に屋敷の写真が写った。背景は異なるが、建物の造りは須藤別邸と瓜二つだ。別邸の方は巧妙に作られたレプリカなのかもしれない。
「その友人に、連絡は取れるか?」
国近が問いかける。
「はい、可能です」
「なら間取りが分かるかもしれない。聞いてみてくれ」
「了解しました」
歯切れのいい返事をして、大志は手持ちのスマートフォンを開いた。手早くそれを操作し、メッセージを打つ。
それが終わると、今度はスマートフォンの画面を上に向けて、テーブルに置いた。
「それからもう一つ。父から興味深い情報が届きました」
一件のメールを開き、添付ファイルをタップする。
「ハルトさんは養子です」
画像は、遠い雪国の地方新聞の一面だった。
「十歳の頃にご両親を事故で亡くして、その後遠縁だった忠臣氏に引き取られているようです」
県境で起きた交通事故を伝えている。ハルトの実父は、そこそこ名の知れた小説家だったらしい。その記事の中には小さく、父親の顔写真が載っていた。線の細い顔立ちの優男だ。強い意志の感じられる凛とした目許は、ハルトにとてもよく似ていた。
今朝、刑事部長に言われた言葉が、国近の頭の中で再生された。
――可哀そうに。この青年は心の病を患っていて、虚言癖があるらしい。
「……嘘なんか、一つも吐いてないじゃないか」
薄く、国近は呟いた。
胸が痛んだ。彼は、こんな当たり前の悲しみすら、享受することができないのだろうか。
気丈な振る舞いと、乱暴な口調。線の細い身体。その中に、いったいどれだけの苦悩を抱えていたのだろう。
気付いてやれなかった。きっと、それに気が付くことが出来るのは、自分だけだったはずなのに。
必ず成功させる。
スマートフォンを大志に返却し、手元の資料を開く。確か須藤グループ本社の予定表が入っていたはずだ。それによれば確か――。
「あった」
本社では三日後、名古屋支店で社内講習会が行われる予定だ。役員の何人かも出席するらしく、代表者として正臣氏の名前も載っていた。
「叩くなら、その前でしょうか?」
横で、大志が言った。
これは紛うことなき犯罪だ。
居場所は突き止めた。柏木の証言もある、あとはハルトの訴えがあれば立件はできる。状況証拠だけでは不十分かもしれないが、最悪突入して現行犯で逮捕してもいい。
相手の懐にいる以上、何をされているのか分からない。今この瞬間も、きっと国近が想像もできないような酷い目にあっているかもしれない。
本当は今すぐにでも助けに行きたい。けれど……。
「いや、動き出すのは三日後。正臣氏が家を空けたあとだ」
国近は答えた。こちらを伺うような瞳が、国近を見つめた。
「意味がない。上が絡んでいる以上立件したところで揉み消されて終わりだ。ハルトの保護を優先する。正臣氏が家を空ける三日後なら、確実に救い出せる」
国近の部屋に、荒らされた形跡はなかった。だとしたら、ハルトは自分から着いていったことになる。ハルトのあの性格からして、迎えが来たからといって素直に応じるとは思えない。おおかた国近の異動でもぶら下げて脅されたのだろう。
ほんの短い間の付き合いだが、国近には分かる。ハルトはそういう奴だ。
強がりで、意地っ張りで、でもそのくせ律儀で、義理堅い。
世話になっている人間が、自分のせいで仕事を失うかもしれないと思えば、喜んで出ていくだろう。
助けてほしいとか、どうにかしてほしいだとか、ハルトは絶対に言わない。
だとしたら尚更上手くやらなければ。
国近がこの地位を失ってしまったら、彼はきっと、自分のところに戻って来られなくなる。
「分かりました。では、そのように」
薄く和らげに微笑み、大志が頷く。
「周辺の防犯カメラとNシステムの位置を、柏木警部に送ってもらえないか確認してもらえるか?」
「聞いてみます。他に必要なものは?」
「厚手の手袋と、針金を2本。それから車を一台用意したい」
「了解しました。手袋と針金は明日買ってきます。車の方は、貸してくれるあていくつかあるので、そちらを当たってみますがよろしいですか?」
「ああ」
頷いて、国近は窓の方へと目線を向けた。
もうすっかり日が傾いている。赤い夕陽が部屋の中に差し込み、家具を朱色に変えていた。
道具は揃った。自分がしくじらなければ、ハルトを連れ帰るのは造作もないことだろう。
けれど、問題はもう一つあった。
それは、どこで彼を匿うのかということだ。
国近の家は、もう安全じゃない。あそこに行けば、すぐにまた連れ戻されるだろう。せっかく救い出せてもそれなら意味がない。
別のアパートを用意することが出来ないわけではないが、国近の名義なら同じことだろう。
となれば何処かホテルの部屋を用意するのが現実的だが……。
資料を見つめて、国近は顔を曇らせた。ホテル運営は、須藤グループのメイン事業だ。
調べられればすぐに居場所を突き止められてしまう。
何か策を練らなければ。
額に指を置き、熟考する。
「こちらを」
すると、そんな様子を見ていた大志が、こちらに向き直った。
机の上。一本の鍵が置かれる。キーホルダーも何もついていない、裸の鍵だ。
それは、夕日の光を浴びて、机上できらきらと輝いていた。
「俺の名義になっているマンションです。使ってください。貴方の家には、もう帰れないでしょう」
この子は本当に機転が利く。きっと優秀な弁護士になるだろう。そう思った。
その鍵に、国近は触れる。ひんやりとした金属の感触が指先に伝わっていく。
「ただ、すいません。はじめにお伝えしておきます」
言いながら、大志は申し訳なさそうに目を伏せた。
「事故物件です」
思いがけない言葉に、国近は一瞬目を丸くする。
しかし、すぐに目元を緩め、優しく微笑んだ。
「いや、十分だ。ありがとう」
国近の記憶が正しければ、柏木は今年四十路になる。大学生の息子がいるにしては若すぎる。そのことを、柏木は何も言わないけれど。
『俺は、俺の目的のために貴方を利用しているに過ぎません』
彼にもきっと、何か事情があるのかもしれない。そう思った。
*
三日後。午後8時。
高級住宅街の入り口で、国近 肇は車を降りた。
目的の建物は、約400メートル先にある。ここから特定の路地裏を通っていけば、周辺の防犯カメラに姿を残さず、屋敷まで辿り着くことができる。
もっとも、周辺の住人は、その路地がカメラの死角になっているとは夢にも思っていないだろうけれど。
一軒一軒の間隔が広いからなのか、この時間帯にしては、人通りはほとんどないに等しかった。
国近は、車へと向き直る。
運転席には柏木 大志の姿があった。国近は一人で向かうつもりだったけれど、自分がいた方が時間を節約できるからと、大志は着いてきてくれた。
目線を合わせ、二人は短く、頷く。
ここから、国近は屋敷の中に忍び込み、ハルトを回収して車に戻る。手順は単純明快だった。
被っていた帽子を、今一度深くかぶり直して、国近は一歩を踏み出した。
足早に、路地を駆けていく。
しばらくして、木製の塀が見えてきた。高さは2メートルぐらいだろうか。ちょうど、国近の身長よりも20センチほど高い位置まで建っている。この塀の向こうに、屋敷があった。
手早く周辺を観察する。
誰もいないことを確認して、国近は塀の上部に手をかけた。
ぐっと力を入れ込み、軽い動作で飛び越える。音も立てずに、芝生の上に着地した。
国近の目線の先に、壮大な日本家屋が現れた。
そこはちょうど屋敷の左横側で、建物の造りがよく分かった。
国近は周辺を観察する。人の気配はない。夕方、大志が屋敷から出発する正臣氏とその部下の姿を確認しているから、おかしなことではないけれど、物音の一つも聞こえないのは異様だった。これだけ広大な土地なら、使用人の一人でも置いていてもいいはずだが。
セキュリティシステムのアラームは、聞こえない。
事前に集めた情報によれば、裏口はないそうだ。正面から入るより他、方法はない。
国近は右手の腕時計を確認する。
急ごう。長居すればするほど見つかる可能性は高くなる。
屋敷の正面へと回り込んだ。
その屋敷は、3メートル程度の高床式で、伝統的な日本家屋に、幅広の階段がついている。
階段の先、建物の2階部分に、屋敷の玄関があった。
周囲を警戒しながらゆっくりと階段を上る。
玄関の扉は引き戸になっていて、漆の光沢で光っていた。鍵の形状は、どうやらそこまで複雑な造りをしてないようだ。
国近はしゃがみこんだ。懐から針金を取り出し、鍵穴に差し込む。
わずか数秒後。カチャリと小気味のいい解錠の音が聞こえた。
(どっちが悪者なのか、これでは分からないな)
心の中でひとり、国近はそう呟き、苦笑した。
引き戸に手をかける。それは、難なく開いて。
国近は屋敷の中へと、踏み出していった。
*
その屋敷には、調度品や家具の類は置かれていない。
あるのは大きなシステムキッチンと、四角い小さな机だけだ。いくつかある収納スペースには、生活必需品の類は備蓄されているだろうが、内部はまるで、空き家と見紛うように殺風景だった。
その屋敷の最奥。陽の間と呼ばれる部屋で、須藤 美斗は、淡い呼吸を繰り返していた。
瞳はかろうじて開いているが、その身体はピクリとも動かない。
その部屋には、天窓があって、淡い月明かりが美斗の身体を照らしていた。
その身体は、ところどころ痣や擦り傷が浮かんでいる。
天窓から差し込む光が、青から黄色、朱色に代わっていくのを、美斗は何回見ただろうか。
よく分からなかった。
美斗の首元。重厚な首輪がついている。
中留は元の位置に戻っているから呼吸は楽だが、南京錠はまだ付けられていない。
きっと、お仕置きはまだ終わっていないのだろう。それは、兄の気分次第で中留がまた締められたり緩められたりするということを意味していた。
鍵がついていようがいるまいが、美斗は囚われていた。
ふいに、襖の向こうで物音がした。
色を失った美斗の目線が少しだけ動き、襖を捕らえる。
次の瞬間。扉が開く。
視界の先に、男の足先が現れた。
「ひっ!」
それを見て、美斗の肩が大きく跳ねる。
「ごめ、ごめんなさっ……!」
もう逃げない、もうやらない、だから許して。早口でそんな言葉を並び立てる。
大粒の涙が、その瞳に浮かんだ。あまり泣いていれば、きっと頬に一撃を食らうだろうから、顔を覆って庇った。
今日は何をされるのだろうか。いったいこの責め苦は、いつまで続くのだろうか。
けれど。
いつまで待っても、平手や拳は飛んでこなかった。
「ハルト」
その代わりに、耳障りのいい、優しい声が自分を呼んだ。
「へ……?」
声に反応して、美斗は腕を解く。
兄では、なかった。
その人は美斗のいる少し手前で立ち止まると、そこで片膝をつく。
ああ。そんなことをしたら、きっと膝が汚れてしまう。場違いに、そんなことを思った。
今日はいったいどうしたのだろう。いつもなら、【彼】ははるか彼方から自分を見下ろして、自分を痛めつけるだけなのに。どうしてこのDomは、美斗の前で膝をついているのだろう。膝をつくのは自分の役目なのに。
骨ばった、大きな手が美斗の頬を撫でた。
この手を知っている気がする。けれど、それをどこで知ったのか、美斗は思い出せなかった。
ふいに、その人が美斗の腕を引っ張り、抱き起こした。そのまま強く、抱きしめられる。
耳に響く心地のいい心臓の音と、嗅いだことのある柔軟剤の香がして、美斗は目を細める。
変な感じだ。
優しくなんか、してもらえるわけがないのに。
自分はまた、おかしな夢でも見ているのだろうか。
遠い意識の端で、誰かの声がした。
『セーフワードは、“ ”』
その言葉の意味を、その時教えてもらった。
『やめてほしい時の合図だよ。俺は君が嫌がることをする気はないけれど、嫌なことは言ってくれなきゃ分からないだろ? どうしても無理だ、出来ないって思ったら今の言葉を口にして』
言っても、いいのだろうか。
もう何度も同じ言葉を言っているけれど、目の前のDomがそれを聞き入れてくれる気配はない。むしろ美斗がその言葉を言う度に、【彼】の行動はエスカレートしていく気がする。
それでも、この手の主だったら、聞いてくれるのだろうか。
「……た」
美斗の唇が、何かを伝えようと小さく開く。掠れた喉は、上手く言葉を紡げなかった。
それでも、その人は美斗の言葉を聞くまで、じっと待っていた。
「“かえりたい”」
その人の肩が、ピクリと動いた。
「……覚えてたのか」
忘れるはずがない。だって、あんな風に気遣ってもらったのは、初めてだった。
「ああ。分かった。ちゃんと言えて、美斗はいい子だね」
そう言って、その人は泣き出しそうな顔で笑った。優しく、美斗の頭を撫でる。
それは、美斗にとって最上級のご褒美だった。
ほっと息を吐いて、ゆったりと瞼を閉じる。
暖かかった。
こういうのが、世間では幸せと言われるのだろうか。
願わくば、これが夢じゃなければいい。
そう思いながら、美斗は意識を手放した。
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短編集から久々に、肩慣らししていく予定です。
よろしくお願いします!
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王道学園の冷徹生徒会長、裏の顔がバレて総受けルート突入しちゃいました!え?逃げ場無しですか?
名無しのナナ氏
BL
王道学園に入学して1ヶ月でトップに君臨した冷徹生徒会長、有栖川 誠(ありすがわ まこと)。常に冷静で無表情、そして無言の誠を生徒達からは尊敬の眼差しで見られていた。
そんな彼のもう1つの姿は… どの企業にも属さないにも関わらず、VTuber界で人気を博した個人VTuber〈〈 アイリス 〉〉!? 本性は寂しがり屋の泣き虫。色々あって周りから誤解されまくってしまった結果アイリスとして素を出していた。そんなある日、生徒会の仕事を1人で黙々とやっている内に疲れてしまい__________
※
・非王道気味
・固定カプ予定は無い
・悲しい過去🐜
・話の流れが遅い
・作者が話の進行悩み過ぎてる
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いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
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