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【第4話】最悪ななりゆきの一番最悪な話
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都心の一等地にあるその屋敷は、『光』をコンセプトにして設計されたらしい。元々は遠い雪国にある建築作品の一つだった。それを、須藤家の元会長――つまりは正臣の祖父がいたく気に入り、都内に同じものを作らせ引退後の住まいとした。彼の死後、その屋敷は孫の正臣に相続され、正臣個人の邸宅となっている。
外見は伝統的な日本家屋だが、室内にはところどころコンクリートで作られた壁や天井がある。和洋折衷の兼ね合いが独特のわびさびを生み出し、そこに差し込む太陽光が綺麗に映える。元来豪雪地を想定した作りとだけあって、3メートル程度の高床式だ。地面からその家屋の二階部分に向かって、幅広の階段が伸びていた。その階段の先に、屋敷の玄関がある。
外階段のすぐ近く。そこに、黒塗りのセンチュリーが一台止まった。
運転席からスーツ姿の男が一人、音を立てずに降りる。その男はご丁寧に後部座席へ回ると、恭しくそのドアを開けた。
後部座席には線の細い青年が乗っていた。男に促され、重い腰を座席から離し、車から降りる。
彼――須藤 美斗(スドウ ハルト)は、苦々しい面持ちで屋敷を見上げた。
「美斗さん」
横の男・桐野が、今度は階段を上るようにと促す。
おおよそ十数段からなるその階段は、美斗にとっては死刑台への階段に等しいものだった。
美斗の膝は小さく震えていた。その震える膝を、やっとの思いで一段目の階段へと乗せる。忙しなく目線を左右に向け、どうにか逃げる隙を探した。けれど、桐野は抜かりなくハルトの二段後ろをついてきた。振り返って逃げ出そうとすれば、すぐに桐野に捕まって、今よりもきつい仕置きが待っているだろう。
決心も覚悟もままならないまま、美斗は階段の最上階に到着していた。物々し気な玄関の引き戸が視線の先に現れる。扉に手をかけようとして、美斗は止まった。見かねた桐野が美斗の背後から扉に向かって手を伸ばした。
扉が開かれる。
玄関先に、眉目秀麗な若い男が一人、立っていた。腕を組み、上体を壁に預けている。
皺一つない真っ黒なスーツを着たその男の名は、須藤 正臣という。
彼は、美斗の戸籍上の兄で、美斗の主だった。
「おかえり」
正臣の形のいい唇が開く。肩で切りそろえられた細くしなやかな黒髪を掻き上げると、彼の整った顔立ちが、いっそう際立って見えた。
緩慢な動作で、正臣が美斗を見据える。媚眼秋波な目元の左側には、小さな泣きぼくろが二つ並んでいた。美斗の身体がいっそう大きく震えだす。二、三歩後退りをするが、壊れたロボットみたいに固くなった肉体は、すぐに言うことを聞かなくなった。その場で膝を折る。
その様子を見て、 正臣は薄く口角を上げた。
「あの刑事、Domなんだってな」
彼は、心底楽しそうだ。
「可愛がってもらったか?」
「……っ……ふざけるな」
見上げる先で、美斗は正臣を睨みつける。本能は屈しても、精神まで明け渡してやる義理はない。
すると、正臣はふう、と大げさにため息をついた。
次の瞬間。
「いっ……!」
乾いた音がその場に響き渡った。
バランスを崩した美斗の身体が、玄関フロアに転がる。
一瞬、何をされたのか分からなかった。ジンとした痛みが左頬に広がっていて、殴られたことに気が付く。奥歯からした鉄の味が、その衝撃の強さを物語っていた。
心底鬱陶し気に、正臣は殴った方の手を振った。薬指に、指輪が光っている。美斗の首元につけられたものと、同じデザインだ。美斗は膝を丸めて蹲る。そうすることしか、もう出来なかった。
「桐野。首輪の鍵を外してやれ」
正臣が言うと、後ろに控え、その一部始終を見守っていた男が動いた。痛みで動けない美斗を見下ろすと、彼の首に手をかける。手早く、首輪にかかっていた南京錠が外された。
「三つ」
「え……?」
続けて、頭上から容赦のない声が飛んでくる。美斗は耳を疑った。
それは、兄のお気に入りのお仕置きの一つだった。金属製の首輪は、バックルが連なった腕時計と同じような仕組みになっていて、そこで長さ調節が自由に出来る仕様になっている。
つまり、それを三つ分、きつく締め直せと言っているのである。ただでさえ重苦しい首輪は、ぎりぎりの長さで首に巻き付いている。三つも締められるわけがなかった。二つまでなら締めた経験があるが、それだって相当きつかった。
「い、いやだっ……」
中留の部分を掴み、美斗が抵抗をする。けれど、そんなささやかな懇願を、この男が聞いてくれるわけがなかった。
「聞こえなかったのか? 僕は三つって言ったんだ」
「ひっ……」
向けられたのは、流氷のように冷え切った眼差しで。身体がすくむ。
兄は今、相当怒っているらしい。それもそうか。屋敷を抜け出し、別の男の元に身を寄せ、兄に口答えをした。そういう愚行を、兄が見逃すはずがなかった。数えてみればちょうど三つ分だ。
力の入らなくなった指先で、美斗は首輪の中留を外した。ぐっと力を入れてそれを三つ分、左へと締め直す。予想した通り中留は上手く止まらなくて、首の皮の一部分を噛む。鋭い痛みが走った。首輪の端から艶やかな赤い血が一筋流れていく。
気管がしまり、ただでさえ上手く出来なくなっていた呼吸が、さらに不自由なものへと変わる。空気中の酸素を一つも逃さないようにしないと、すぐに生命が止まってしまいそうだった。
自分は今日、このまま死ぬのかもしれない。いっそ、殺してくれたらいいのに。そうしたらこの地獄から解放されるのだろうか。
だけど、死ぬことすら、兄は許してくれないのだろう。
「いつまで寝転がっているんだ? “Come”美斗。陽の間だ」
向けられたコマンドに、本能が打ち震えた。
行きたくない。出来ることならこのまま玄関を突っ切り、青空のもとへと逃げ出してしまいたい。けれど、本心とは裏腹に、美斗の身体は屋敷の奥へと動き出していた。
泣き出しそうな瞳が、一度だけ振り返り、玄関先を見る。桐野の横で、引き戸はまだ数センチほど開いていた。
朦朧とする意識の隙間。覗いた空に、青白く光る粒を見た気がして、それが幻覚であると気が付く。
美斗は目線を屋敷の方へと戻す。広い廊下の先に、支配者の背中が見えた。美斗の瞳は、もう諦めたように色を失っていた。
屋敷の最奥。陽の間の襖が、ひっそりと閉められる。
*
最悪ななりゆきの、一番最悪な話をしよう。
その頃、美斗はまだ十歳で、彼はまだ、『須藤』ではなかった。
美斗が生まれ育った町は、一年の半分は雪が降るような山沿いの小さな町だ。
その日は、春先だというのに明け方から降り出した雪が止まず、庭先を白く染め上げていた。点けっぱなしにされたリビングのテレビで、季節外れの降雪情報が流れている。平日だったけれど、雪の影響で学校は休校になり、美斗は暇を持て余していた。午前中は家にある絵本やら児童文学やらを読んで過ごしていたけれど、午後になればそれも読み終えてしまう。
窓の近くに腰を掛け、結露で白く染まった窓ガラスに、指先で絵を描く。そうして遊んでいた。
しばらくすると、奥の部屋から父が顔を出した。窓ガラスに映った父の顔を見つけて、美斗がそちらを振り返る。
父の指先には、無数のペンダコが出来ていた。小指から手の付け根の部分が、黒く染まっている。
美斗の父は小説家だった。インターネットが普及をし始めて、すでに何十年も経っていたけれど、彼は機械の類が全く使えず、手書きで原稿を書いていた。だから、父の利き手はいつもペンダコと、鉛筆の炭が付いていた。
「あら、出かけるの?」
リビングで休んでいた母が、同じように父を見つけた。声をかける。父の手の中には、分厚い封筒があって、その横には財布と車のキーが握られていた。
「ああ、原稿を届けにいかないと」
父の小説は結構好評らしく、雑誌連載をいくつも掛け持ちしていた。美斗の家には時折、出版社の人間が原稿を取りに来ることがあった。今日も担当編集が来る予定だったけれど、雪の影響で県境から最寄り駅までの電車が運休しているらしい。
「雪が止んでからじゃだめなの?」
母が言った。その日、ニュースではこの辺一帯に大雪警報が発令されていた。中心街に出れば少しマシだろうが、危険なことには変わりない。
すると、父はあー……と声にならない呻きを上げた。申し訳なさそうに頬を掻く。
「〆切だいぶ過ぎちゃって。校了日まで時間がないし、今日はこのまま担当さんと直す予定だったんだ」
あらあらと、母の困った声が聞こえてくる。母は数秒悩んで、
「あなた、ここのところ寝てないでしょう? 私が運転するわ」
と言った。父から車のキーを奪う。
美斗は二人の様子を不思議そうに眺めていた。しばらく見つめていると、父と目が合った。
「美斗」
父が呼ぶ。美斗の方へと近づくと、膝をたたんで美斗に目線を合わせてくれた。父の目元が優しげに緩む。
「遅くなるかもしれないけれど、必ず帰るから。だから留守番してて」
そっと、父の手が頭に置かれた。優し気な手つきで美斗を撫でてくれる。万年筆しか握ったことがないような父の手は、薄っぺらくてあまり頼りがいがなかった。けれど、そんな父の手のひらが美斗は大好きだった。
利き手の手のひらとたった一本のペンで、まっさらな原稿用紙に物語を紡ぐ。そんな父が誇らしかった。留守番は寂しかったけれど、父の仕事のためだというのならば耐えられた。
「ああ、分かった」
そう言って、美斗は笑った。その頃、美斗は幸せで、とても良く笑う、明るい子どもだった。
けれど。
美斗が父と母を見たのは、それが最期だった。
自宅へと向かう帰り道。県境。急カーブでスリップしたトラックが、二人の乗った車に突っ込む。
即死だった。
必ず帰ると約束した二人は、二度と、美斗の元には戻ってこなかった。
*
それからのことを、美斗はあまりよく覚えていない。
はじめに連絡をくれたのは担当編集で、父と母が事故にあったと聞かされた。そのあとで親戚が迎えにきて、搬送先の病院で二人の死亡が確認されたと聞いた。
気が付いた時には両親の通夜が始まっていて、美斗は花がいっぱい手向けられた祭壇の前に座っていた。
「可哀そうに。まだ若いのに」
会場で、誰かが話す声が聞こえる。その話題の多くは、両親への同情と、
「美斗くんはどうするんだ」
自分を誰が引き取るのか、ということだった。
彼らは最前列に座った美斗をチラチラと伺い、コソコソと話していた。
「うちは無理よ」
中年の女性の声がした。たぶん、母方の叔母だっただろう。
「あの子、Subでしょう? うちの子に何か影響があったら」
それを聞いて、ぎゅっと、美斗は拳を握った。
ダイナミクス性が発現して、すでに半世紀が過ぎていた。はじめの頃は、深刻な差別もあったそうだが、今では随分と解消されてきている。
けれど、美斗が育った小さな町では、第二性を持つものが極端に少なく、今でもそうした偏見があるようだった。両親は気にしなくていいと言っていたけれど、親戚が自分を遠巻きにしていることに、気が付かないはずはなかった。
第二性は生まれもった性質のようなものだ。誰かに悪い影響を与えることなんてない。
けれど、この町に降り積もる真っ白な雪は、そういう適切な情報から、人々を覆い隠してしまうのかもしれなかった。
目線の先。花がいっぱい飾られた祭壇が見える。その一番上で、遺影が二つ分笑っていた。
もう、帰れない。そのことだけが、美斗には分かった。
その人がやって来たのは、葬式が終わり、いよいよ火葬場に移動しようという時だった。
会場の入り口の方が急にざわめきだして、喪主をしていた父方の叔父がそちらへと向かう。
ほんの少ししてから、叔父が慌ただしく戻ってきて、その後ろには一人の男がついてきた。
男に向かい、叔父の唇が動く。声は聞き取れなかったけれど、「なんでまた」とか、「どうしてここに」とか、そういうことを聞いているのだろうと思った。
美斗はぼんやりと、その男の方へと顔を向けた。足元まで覆う、重厚で高級感の漂うコートを身にまとい、背筋を伸ばして叔父の後ろを歩いている。
烏みたいに真っ黒なスーツは、その場にいた誰のものよりも澄んでいて、光沢があった。
それに、見る人が全員振り返るような、整った顔立ちをしていた。
その男の名は、須藤 忠臣という。父方の遠縁にあたる人物だった。美斗が会ったことはなかったけれど、親戚の会話から、東京の大きな会社で取締役をしているのだということは分かった。
忠臣氏はそのまま棺へと近づき、ぞっとするほど綺麗な動作で焼香をした。思わず、目が離せなくなった。
しばらくして目を開けた彼の視線が、祭壇からほど近い位置にいた美斗とかち合う。
おもむろに美斗に近づくと、
「私の家に来るか?」
と言った。
彼は上背が高く、美斗は彼を見上げなければならなかった。
忠臣氏が続ける。
「君よりも少しだけ年上の息子がいるんだが、母親を亡くしてから家に閉じこもりがちでね。私は仕事柄家を空けることが多いし、遊び相手がいた方が安心だ。君と同じで第二性を持っているから、気も合うと思う」
それは、救いのような言葉だった。この場所にいても、自分の居場所がないということは、すでに分かっていた。
それに、『母親を亡くして』『第二性を持っている』という彼の息子が気になった。彼についていけば、自分と同じ状況の子どもに会えるのか。そうしたら、こんなに身がちぎれてしまいそうな孤独も、感じなくなるのだろうか。
親戚が固唾を飲んで二人の様子を見守っている。気がついたら美斗は頷いていた。
こうして、美斗は須藤の家の子になった。
出発の日。
美斗は一人で新幹線に乗り、東京へと向かった。
仕事の都合上、忠臣氏は迎えに来ることが叶わなかったらしいと聞いた。東京駅には別の男が迎えに来た。
「桐野、と申します」
駅のホームで合流したその男は、使用人の一人らしい。物腰が柔らかく落ち着いた雰囲気のある人で、これから迎える新生活や駅を歩く膨大な数の人の波に強張っていた美斗の緊張がほぐれる。
そこから、桐野の運転する車に乗り込む。車を20分ほど走らせた先に、須藤家の屋敷があった。
伝統的な日本家屋に、幅広の階段がついている変わったデザインの屋敷だった。豪雪地を想定して作られたのですよ。と横の桐野が言った。故郷の雪を思い出す。東京の空気は乾いていて、故郷のように湿っぽさがない。
外階段を上がる桐野の後ろをついて歩く。桐野が玄関の扉を開けて、
「ただいま戻りました」と声をかけた。
すると、奥の部屋からブレザー姿の青年が顔を出した。
その整った顔立ちは、葬式会場で会った忠臣氏によく似ていた。すぐに忠臣氏が話していた彼の息子なのだということが分かった。
「へえ? その子? 父さんが言ってたのって」
玄関先に近づく。
アーモンド形の目元が、こちらを見据えた。
「ええ」
桐野が返答する。
なんとなく正臣の瞳の奥に冷たいものを感じて、美斗は目をそらした。すると、そんな様子を見ていた桐野が困ったように微笑んだ。
「美斗さん。この方は正臣様と言って、今日から貴方の兄になる方ですよ」
美斗に向かってそう説明する。美斗は正臣に向かい、挨拶をしようと唇を開いた。
しかし。
「父さんはなんて?」
正臣の視線は、すぐに桐野へと移動してしまった。
「……。『好きに使え』 そうおっしゃっておりました」
「そう。父さんらしいよね」
「……そうですね」
「まあいいや。気に入ったよ。泣き顔は結構そそりそうだし」
「旦那様にはなんとお伝えしましょうか」
「上手くやるよ。会社のためにもね」
「かしこまりました」
「心配かけたね。父さんにも、君にも」
「とんでもございません」
なんの話をしているのだろう。美斗は首を傾げる。
すると、正臣の瞳が再びこちらを見た。
表情を緩めて、美斗に向かって穏やかに笑う。
なんだ、案外優しい人なのかもしれない。そう思った。
次の瞬間だった。
「“Kneel”」
底冷えするような、そんな声がした。神経が反応する。
へたり、と美斗は床に膝をついていた。
なんだ、これ。
どうして自分は、座っているのだろう。
立ち上がらなければ。立ち上がって、それから――。
しかし、どう力を加えても、膝はびくともしない。加えて、身体の奥が熱くなっていく感覚がした。
こんなのは、知らなかった。
「っは。いいね。想像以上かも」
正臣が笑う。どうしてこの人は笑っているのだろう。いったい自分に何をしたのだろう。
救いを求めて、横の桐野を見る。桐野は玄関先に佇み、一部始終を黙って見守っていた。
すると、正臣が美斗の髪を乱暴に掴んだ。
「いっ」
毛根が引っ張られる痛みに、美斗は眉間に皺を寄せる。生理的な涙が零れた。どうやらよそ見をしたことが気に障ったらしい。
「僕が躾けてあげる」
冷徹に、その人は告げた。
自分が引き取られた家が、そういう家だというのを、美斗は後から知った。
徹底的にSub性を蔑視する家。その差別と偏見は、ダイナミクス性が発生した当初、正臣の曽祖父の代から始まったらしい。彼はNormalだったけれど、人に支配されて生きるSub性という人間が受け入れられなかった。Sub性の人間が会社や家系に入ること極端に嫌い、そういう人間の存在が会社の存続を危うくするとまで考えた。以来、社員をDom性かNormalの人間だけで固め、Sub性の人間は排除するようになった。それはいつしか伝統となり、須藤家に受け継がれていく。
しかし、そこに一人の子どもが生まれたことで、状況は一変した。
須藤家の次期当主・正臣である。
彼は、須藤家にはじめて生まれたDom性を持つ子どもだった。
生まれ持って支配欲の強い男だったが、須藤家の歪んだ伝統は、それをさらに加速させる。
思春期を迎える頃には、彼のDom性は、物々しいまでの被虐とそれによる圧倒的な支配になっていた。
こんな家だから、抑制剤などという発想があるわけもない。彼の欲求はとどまるところを知らず、周囲の人間に危害を加えるようになる。
次期当主がこんな状態なのはまずい。いずれ大きな問題になる前に手を打たなければならない。そんなとき、彼の父親・須藤 忠臣は遠縁に身寄りのないSub性の子どもがいると聞いた。
須藤 忠臣は、はじめから美斗を養育する気などなかった。彼が求めたものは、息子の体のいい性処理具。
Sub性を家に入れることは伝統を破ることになるが、親のいない子どもなら何をされても文句は言えないし、正臣に決まった相手がいるのは都合がいい。
美斗は正臣の歪んだ性癖をなだめる人柱で、彼の単なる玩具だった。
*
その部屋には天窓がついていて、青い空の隙間から、太陽光が差し込んでいた。
淡い光が、そこにいる二人の姿を照らす。一人は服を着ていて、もう一人は裸だった。
痛い、苦しい、もうやめてほしい。そんな言葉を飲み込んで、裸の青年――美斗は唇を噛む。
ほんの数時間の間に、美斗の身体には無数の擦り傷やあざが出来ていた。
首輪は依然きつく締められたままで、呼吸はままならない。
正臣は怒ると後ろを慣らしてくれないから、美斗の蕾は切れて、艶やかな血が流れていた。
朦朧とする意識の端で、どうしてこんなことになってしまったのかを考える。
両親が生きていた頃、自分は幸せだったはずなのに。どうして、彼らは自分の前からいなくなってしまったのだろう。
耳の奥で、父の言葉が聞こえてきた。
『遅くなるかもしれないけれど、必ず帰るから。だから留守番してて』
嘘つきだ。出来ない約束なら、して欲しくなかった。父が死んだせいで、自分を置いていったせいで、ただそれだけで、美斗はこんなにも不幸だった。
ああ、でもそう言えば、あいつはちゃんと帰ってきたな。帰ってくるか不安だったんだ。そう言って、いなくなってしまった人たちを知っていたから。大人しく彼を待っていたのは、彼に言われたからだけじゃない。
彼が無事に帰ってくることを心から願っていた。
もう、きっと会うこともないその人の顔を、繰り返し、美斗は想った。
一筋の涙が、美斗の頬を伝った。
泣けばきっと酷くなるから、どうにか泣かないようにしていた。だけどもう、堪えることは出来なかった。
あの場所に帰りたかった。
502号室に。国近のそばに。
そこだけが、美斗が唯一落ち着ける場所だった。そんなことに、今さら気づかされた。
一度考え出すと、もう止められなかった。
「かえり、たいっ、ぐずっ、ぁ、かえり、たい」
気が付くと、美斗はしゃくりあげて泣いていた。
「ははっ。傑作だなあ」
頭上で、支配者が笑う。
「お前は僕のものだよ。お前の家はここだし、一生僕から逃げられない」
それは、美斗にずっと染みついている呪いの言葉だった。
*
沈黙を破ったのは、ノックの音だった。
「失礼いたします。」
声に反応して、国近は出入り口を振り返る。
「……柏木警部」
一課の上司が立っていた。
「国近警部補をお借りしてもよろしいですか?」
彼は俊敏な動きで机に近づくと、厳かな顔立ちでそう言った。柏木警部は、国近のちょうど一回り年上の刑事で、国近が一課に配属されてからずっと世話になっている人だ。
「彼は今日付けで異動になった。もう君の部下ではないが?」
刑事部長が冷たく返答する。
柏木は動じなかった。
「存じております。ですがあまりに急な異動ゆえ、急ぎの案件がいくつか滞っております。引継ぎを終えなければいつまで経っても警部補は休暇には移れませんが?」
はっきりとした口調でそう告げた。それを聞くと、刑事部長は一瞬眉をピクリと動かし、押し黙った。
長い沈黙の後、
「もう行きなさい」という不本意そうな声が聞こえてきた。
柏木が国近に向き直る。顎だけで合図し、自分についてくるようにと指示を出す。
けれど、国近の腹の中から湧いて出てくる黒い感情は収まらなかった。
まだだ。まだ自分は、この男に聞かなければならないことがある。自分から彼を奪い、彼を苦しめようとしているこの男を、どうしてやろうか。
指の骨を一本ずつ手折っていけば、彼の居場所ぐらいは吐いてくれるだろうか。
国近は刑事部長に手を伸ばす。
「国近!」
柏木の怒号が飛んだ。
「ここで騒ぎを起こしたら、懲戒免職どころじゃ済まないぞ!」
構わなかった。自分はこんなことをするために、警察官になったわけじゃない。
彼を助けられないのなら、喜んでこの地位も名誉も捨ててやる。
刑事部長の黒い瞳が、国近を捕らえる。許せないと、そう思った。
すると、柏木が国近の胸倉を掴んだ。そのまま力づくに国近を引っ張り、壁の方へと乱暴に押し付ける。
「いっ……!」
大きな音と共に、背中が壁に叩きつけられる。身体中が痺れるような衝撃だった。全く抵抗が出来なかった。腕っぷしで、国近は柏木には叶わない。
「……だ?」
耳元で薄く、柏木が囁いた。その言葉にはっとして、国近は柏木の顔を見つめた。刑事部長にはちょうど、国近の顔が見られない位置で、柏木の言った言葉は聞こえていないようだった。見上げて、柏木と視線を合わせる。柏木が一回だけ強く頷いた。
「……すいません」
国近が眉を下げる。
「外に出れるな」
「はい」
柏木の言葉に、国近はゆっくりと身体を起こす。
「きつく言っておきます」
柏木が刑事部長にそう言って、二人はその場を後にした。
*
扉をしめる。廊下で、国近は深く息を吸い込んだ。
興奮していた神経が徐々に弛緩していく。
気が付かないうちにDefense状態になっていたらしい。柏木に止めてもらえなかったら危険だった。あの場で何をしていたか分からない。ため息が口から零れる。
自分はいったい、いつから彼のことを、こんなにも大切に想っていたのだろう。
ハルトのことが心配で堪らなかった。
「面倒なことに巻き込まれたな」
横で、柏木が言った。今しがた柏木から言われた言葉を思い出し、国近は柏木を見つめる。
『君が仕事を失ったら、彼をどう守るんだ?』
国近の耳元で、彼はそう言った。
つまり、言外に自分は味方だと、そう伝えているようだった。
「さて、国近」
柏木が呼ぶ。一瞬だけ、刑事部長室を見た彼の視線が、まっすぐに国近に向かい合った。
「彼を助けに行くというのなら止めはしないが、少しだけ話をしないか? 有益な情報を提供しよう」
外見は伝統的な日本家屋だが、室内にはところどころコンクリートで作られた壁や天井がある。和洋折衷の兼ね合いが独特のわびさびを生み出し、そこに差し込む太陽光が綺麗に映える。元来豪雪地を想定した作りとだけあって、3メートル程度の高床式だ。地面からその家屋の二階部分に向かって、幅広の階段が伸びていた。その階段の先に、屋敷の玄関がある。
外階段のすぐ近く。そこに、黒塗りのセンチュリーが一台止まった。
運転席からスーツ姿の男が一人、音を立てずに降りる。その男はご丁寧に後部座席へ回ると、恭しくそのドアを開けた。
後部座席には線の細い青年が乗っていた。男に促され、重い腰を座席から離し、車から降りる。
彼――須藤 美斗(スドウ ハルト)は、苦々しい面持ちで屋敷を見上げた。
「美斗さん」
横の男・桐野が、今度は階段を上るようにと促す。
おおよそ十数段からなるその階段は、美斗にとっては死刑台への階段に等しいものだった。
美斗の膝は小さく震えていた。その震える膝を、やっとの思いで一段目の階段へと乗せる。忙しなく目線を左右に向け、どうにか逃げる隙を探した。けれど、桐野は抜かりなくハルトの二段後ろをついてきた。振り返って逃げ出そうとすれば、すぐに桐野に捕まって、今よりもきつい仕置きが待っているだろう。
決心も覚悟もままならないまま、美斗は階段の最上階に到着していた。物々し気な玄関の引き戸が視線の先に現れる。扉に手をかけようとして、美斗は止まった。見かねた桐野が美斗の背後から扉に向かって手を伸ばした。
扉が開かれる。
玄関先に、眉目秀麗な若い男が一人、立っていた。腕を組み、上体を壁に預けている。
皺一つない真っ黒なスーツを着たその男の名は、須藤 正臣という。
彼は、美斗の戸籍上の兄で、美斗の主だった。
「おかえり」
正臣の形のいい唇が開く。肩で切りそろえられた細くしなやかな黒髪を掻き上げると、彼の整った顔立ちが、いっそう際立って見えた。
緩慢な動作で、正臣が美斗を見据える。媚眼秋波な目元の左側には、小さな泣きぼくろが二つ並んでいた。美斗の身体がいっそう大きく震えだす。二、三歩後退りをするが、壊れたロボットみたいに固くなった肉体は、すぐに言うことを聞かなくなった。その場で膝を折る。
その様子を見て、 正臣は薄く口角を上げた。
「あの刑事、Domなんだってな」
彼は、心底楽しそうだ。
「可愛がってもらったか?」
「……っ……ふざけるな」
見上げる先で、美斗は正臣を睨みつける。本能は屈しても、精神まで明け渡してやる義理はない。
すると、正臣はふう、と大げさにため息をついた。
次の瞬間。
「いっ……!」
乾いた音がその場に響き渡った。
バランスを崩した美斗の身体が、玄関フロアに転がる。
一瞬、何をされたのか分からなかった。ジンとした痛みが左頬に広がっていて、殴られたことに気が付く。奥歯からした鉄の味が、その衝撃の強さを物語っていた。
心底鬱陶し気に、正臣は殴った方の手を振った。薬指に、指輪が光っている。美斗の首元につけられたものと、同じデザインだ。美斗は膝を丸めて蹲る。そうすることしか、もう出来なかった。
「桐野。首輪の鍵を外してやれ」
正臣が言うと、後ろに控え、その一部始終を見守っていた男が動いた。痛みで動けない美斗を見下ろすと、彼の首に手をかける。手早く、首輪にかかっていた南京錠が外された。
「三つ」
「え……?」
続けて、頭上から容赦のない声が飛んでくる。美斗は耳を疑った。
それは、兄のお気に入りのお仕置きの一つだった。金属製の首輪は、バックルが連なった腕時計と同じような仕組みになっていて、そこで長さ調節が自由に出来る仕様になっている。
つまり、それを三つ分、きつく締め直せと言っているのである。ただでさえ重苦しい首輪は、ぎりぎりの長さで首に巻き付いている。三つも締められるわけがなかった。二つまでなら締めた経験があるが、それだって相当きつかった。
「い、いやだっ……」
中留の部分を掴み、美斗が抵抗をする。けれど、そんなささやかな懇願を、この男が聞いてくれるわけがなかった。
「聞こえなかったのか? 僕は三つって言ったんだ」
「ひっ……」
向けられたのは、流氷のように冷え切った眼差しで。身体がすくむ。
兄は今、相当怒っているらしい。それもそうか。屋敷を抜け出し、別の男の元に身を寄せ、兄に口答えをした。そういう愚行を、兄が見逃すはずがなかった。数えてみればちょうど三つ分だ。
力の入らなくなった指先で、美斗は首輪の中留を外した。ぐっと力を入れてそれを三つ分、左へと締め直す。予想した通り中留は上手く止まらなくて、首の皮の一部分を噛む。鋭い痛みが走った。首輪の端から艶やかな赤い血が一筋流れていく。
気管がしまり、ただでさえ上手く出来なくなっていた呼吸が、さらに不自由なものへと変わる。空気中の酸素を一つも逃さないようにしないと、すぐに生命が止まってしまいそうだった。
自分は今日、このまま死ぬのかもしれない。いっそ、殺してくれたらいいのに。そうしたらこの地獄から解放されるのだろうか。
だけど、死ぬことすら、兄は許してくれないのだろう。
「いつまで寝転がっているんだ? “Come”美斗。陽の間だ」
向けられたコマンドに、本能が打ち震えた。
行きたくない。出来ることならこのまま玄関を突っ切り、青空のもとへと逃げ出してしまいたい。けれど、本心とは裏腹に、美斗の身体は屋敷の奥へと動き出していた。
泣き出しそうな瞳が、一度だけ振り返り、玄関先を見る。桐野の横で、引き戸はまだ数センチほど開いていた。
朦朧とする意識の隙間。覗いた空に、青白く光る粒を見た気がして、それが幻覚であると気が付く。
美斗は目線を屋敷の方へと戻す。広い廊下の先に、支配者の背中が見えた。美斗の瞳は、もう諦めたように色を失っていた。
屋敷の最奥。陽の間の襖が、ひっそりと閉められる。
*
最悪ななりゆきの、一番最悪な話をしよう。
その頃、美斗はまだ十歳で、彼はまだ、『須藤』ではなかった。
美斗が生まれ育った町は、一年の半分は雪が降るような山沿いの小さな町だ。
その日は、春先だというのに明け方から降り出した雪が止まず、庭先を白く染め上げていた。点けっぱなしにされたリビングのテレビで、季節外れの降雪情報が流れている。平日だったけれど、雪の影響で学校は休校になり、美斗は暇を持て余していた。午前中は家にある絵本やら児童文学やらを読んで過ごしていたけれど、午後になればそれも読み終えてしまう。
窓の近くに腰を掛け、結露で白く染まった窓ガラスに、指先で絵を描く。そうして遊んでいた。
しばらくすると、奥の部屋から父が顔を出した。窓ガラスに映った父の顔を見つけて、美斗がそちらを振り返る。
父の指先には、無数のペンダコが出来ていた。小指から手の付け根の部分が、黒く染まっている。
美斗の父は小説家だった。インターネットが普及をし始めて、すでに何十年も経っていたけれど、彼は機械の類が全く使えず、手書きで原稿を書いていた。だから、父の利き手はいつもペンダコと、鉛筆の炭が付いていた。
「あら、出かけるの?」
リビングで休んでいた母が、同じように父を見つけた。声をかける。父の手の中には、分厚い封筒があって、その横には財布と車のキーが握られていた。
「ああ、原稿を届けにいかないと」
父の小説は結構好評らしく、雑誌連載をいくつも掛け持ちしていた。美斗の家には時折、出版社の人間が原稿を取りに来ることがあった。今日も担当編集が来る予定だったけれど、雪の影響で県境から最寄り駅までの電車が運休しているらしい。
「雪が止んでからじゃだめなの?」
母が言った。その日、ニュースではこの辺一帯に大雪警報が発令されていた。中心街に出れば少しマシだろうが、危険なことには変わりない。
すると、父はあー……と声にならない呻きを上げた。申し訳なさそうに頬を掻く。
「〆切だいぶ過ぎちゃって。校了日まで時間がないし、今日はこのまま担当さんと直す予定だったんだ」
あらあらと、母の困った声が聞こえてくる。母は数秒悩んで、
「あなた、ここのところ寝てないでしょう? 私が運転するわ」
と言った。父から車のキーを奪う。
美斗は二人の様子を不思議そうに眺めていた。しばらく見つめていると、父と目が合った。
「美斗」
父が呼ぶ。美斗の方へと近づくと、膝をたたんで美斗に目線を合わせてくれた。父の目元が優しげに緩む。
「遅くなるかもしれないけれど、必ず帰るから。だから留守番してて」
そっと、父の手が頭に置かれた。優し気な手つきで美斗を撫でてくれる。万年筆しか握ったことがないような父の手は、薄っぺらくてあまり頼りがいがなかった。けれど、そんな父の手のひらが美斗は大好きだった。
利き手の手のひらとたった一本のペンで、まっさらな原稿用紙に物語を紡ぐ。そんな父が誇らしかった。留守番は寂しかったけれど、父の仕事のためだというのならば耐えられた。
「ああ、分かった」
そう言って、美斗は笑った。その頃、美斗は幸せで、とても良く笑う、明るい子どもだった。
けれど。
美斗が父と母を見たのは、それが最期だった。
自宅へと向かう帰り道。県境。急カーブでスリップしたトラックが、二人の乗った車に突っ込む。
即死だった。
必ず帰ると約束した二人は、二度と、美斗の元には戻ってこなかった。
*
それからのことを、美斗はあまりよく覚えていない。
はじめに連絡をくれたのは担当編集で、父と母が事故にあったと聞かされた。そのあとで親戚が迎えにきて、搬送先の病院で二人の死亡が確認されたと聞いた。
気が付いた時には両親の通夜が始まっていて、美斗は花がいっぱい手向けられた祭壇の前に座っていた。
「可哀そうに。まだ若いのに」
会場で、誰かが話す声が聞こえる。その話題の多くは、両親への同情と、
「美斗くんはどうするんだ」
自分を誰が引き取るのか、ということだった。
彼らは最前列に座った美斗をチラチラと伺い、コソコソと話していた。
「うちは無理よ」
中年の女性の声がした。たぶん、母方の叔母だっただろう。
「あの子、Subでしょう? うちの子に何か影響があったら」
それを聞いて、ぎゅっと、美斗は拳を握った。
ダイナミクス性が発現して、すでに半世紀が過ぎていた。はじめの頃は、深刻な差別もあったそうだが、今では随分と解消されてきている。
けれど、美斗が育った小さな町では、第二性を持つものが極端に少なく、今でもそうした偏見があるようだった。両親は気にしなくていいと言っていたけれど、親戚が自分を遠巻きにしていることに、気が付かないはずはなかった。
第二性は生まれもった性質のようなものだ。誰かに悪い影響を与えることなんてない。
けれど、この町に降り積もる真っ白な雪は、そういう適切な情報から、人々を覆い隠してしまうのかもしれなかった。
目線の先。花がいっぱい飾られた祭壇が見える。その一番上で、遺影が二つ分笑っていた。
もう、帰れない。そのことだけが、美斗には分かった。
その人がやって来たのは、葬式が終わり、いよいよ火葬場に移動しようという時だった。
会場の入り口の方が急にざわめきだして、喪主をしていた父方の叔父がそちらへと向かう。
ほんの少ししてから、叔父が慌ただしく戻ってきて、その後ろには一人の男がついてきた。
男に向かい、叔父の唇が動く。声は聞き取れなかったけれど、「なんでまた」とか、「どうしてここに」とか、そういうことを聞いているのだろうと思った。
美斗はぼんやりと、その男の方へと顔を向けた。足元まで覆う、重厚で高級感の漂うコートを身にまとい、背筋を伸ばして叔父の後ろを歩いている。
烏みたいに真っ黒なスーツは、その場にいた誰のものよりも澄んでいて、光沢があった。
それに、見る人が全員振り返るような、整った顔立ちをしていた。
その男の名は、須藤 忠臣という。父方の遠縁にあたる人物だった。美斗が会ったことはなかったけれど、親戚の会話から、東京の大きな会社で取締役をしているのだということは分かった。
忠臣氏はそのまま棺へと近づき、ぞっとするほど綺麗な動作で焼香をした。思わず、目が離せなくなった。
しばらくして目を開けた彼の視線が、祭壇からほど近い位置にいた美斗とかち合う。
おもむろに美斗に近づくと、
「私の家に来るか?」
と言った。
彼は上背が高く、美斗は彼を見上げなければならなかった。
忠臣氏が続ける。
「君よりも少しだけ年上の息子がいるんだが、母親を亡くしてから家に閉じこもりがちでね。私は仕事柄家を空けることが多いし、遊び相手がいた方が安心だ。君と同じで第二性を持っているから、気も合うと思う」
それは、救いのような言葉だった。この場所にいても、自分の居場所がないということは、すでに分かっていた。
それに、『母親を亡くして』『第二性を持っている』という彼の息子が気になった。彼についていけば、自分と同じ状況の子どもに会えるのか。そうしたら、こんなに身がちぎれてしまいそうな孤独も、感じなくなるのだろうか。
親戚が固唾を飲んで二人の様子を見守っている。気がついたら美斗は頷いていた。
こうして、美斗は須藤の家の子になった。
出発の日。
美斗は一人で新幹線に乗り、東京へと向かった。
仕事の都合上、忠臣氏は迎えに来ることが叶わなかったらしいと聞いた。東京駅には別の男が迎えに来た。
「桐野、と申します」
駅のホームで合流したその男は、使用人の一人らしい。物腰が柔らかく落ち着いた雰囲気のある人で、これから迎える新生活や駅を歩く膨大な数の人の波に強張っていた美斗の緊張がほぐれる。
そこから、桐野の運転する車に乗り込む。車を20分ほど走らせた先に、須藤家の屋敷があった。
伝統的な日本家屋に、幅広の階段がついている変わったデザインの屋敷だった。豪雪地を想定して作られたのですよ。と横の桐野が言った。故郷の雪を思い出す。東京の空気は乾いていて、故郷のように湿っぽさがない。
外階段を上がる桐野の後ろをついて歩く。桐野が玄関の扉を開けて、
「ただいま戻りました」と声をかけた。
すると、奥の部屋からブレザー姿の青年が顔を出した。
その整った顔立ちは、葬式会場で会った忠臣氏によく似ていた。すぐに忠臣氏が話していた彼の息子なのだということが分かった。
「へえ? その子? 父さんが言ってたのって」
玄関先に近づく。
アーモンド形の目元が、こちらを見据えた。
「ええ」
桐野が返答する。
なんとなく正臣の瞳の奥に冷たいものを感じて、美斗は目をそらした。すると、そんな様子を見ていた桐野が困ったように微笑んだ。
「美斗さん。この方は正臣様と言って、今日から貴方の兄になる方ですよ」
美斗に向かってそう説明する。美斗は正臣に向かい、挨拶をしようと唇を開いた。
しかし。
「父さんはなんて?」
正臣の視線は、すぐに桐野へと移動してしまった。
「……。『好きに使え』 そうおっしゃっておりました」
「そう。父さんらしいよね」
「……そうですね」
「まあいいや。気に入ったよ。泣き顔は結構そそりそうだし」
「旦那様にはなんとお伝えしましょうか」
「上手くやるよ。会社のためにもね」
「かしこまりました」
「心配かけたね。父さんにも、君にも」
「とんでもございません」
なんの話をしているのだろう。美斗は首を傾げる。
すると、正臣の瞳が再びこちらを見た。
表情を緩めて、美斗に向かって穏やかに笑う。
なんだ、案外優しい人なのかもしれない。そう思った。
次の瞬間だった。
「“Kneel”」
底冷えするような、そんな声がした。神経が反応する。
へたり、と美斗は床に膝をついていた。
なんだ、これ。
どうして自分は、座っているのだろう。
立ち上がらなければ。立ち上がって、それから――。
しかし、どう力を加えても、膝はびくともしない。加えて、身体の奥が熱くなっていく感覚がした。
こんなのは、知らなかった。
「っは。いいね。想像以上かも」
正臣が笑う。どうしてこの人は笑っているのだろう。いったい自分に何をしたのだろう。
救いを求めて、横の桐野を見る。桐野は玄関先に佇み、一部始終を黙って見守っていた。
すると、正臣が美斗の髪を乱暴に掴んだ。
「いっ」
毛根が引っ張られる痛みに、美斗は眉間に皺を寄せる。生理的な涙が零れた。どうやらよそ見をしたことが気に障ったらしい。
「僕が躾けてあげる」
冷徹に、その人は告げた。
自分が引き取られた家が、そういう家だというのを、美斗は後から知った。
徹底的にSub性を蔑視する家。その差別と偏見は、ダイナミクス性が発生した当初、正臣の曽祖父の代から始まったらしい。彼はNormalだったけれど、人に支配されて生きるSub性という人間が受け入れられなかった。Sub性の人間が会社や家系に入ること極端に嫌い、そういう人間の存在が会社の存続を危うくするとまで考えた。以来、社員をDom性かNormalの人間だけで固め、Sub性の人間は排除するようになった。それはいつしか伝統となり、須藤家に受け継がれていく。
しかし、そこに一人の子どもが生まれたことで、状況は一変した。
須藤家の次期当主・正臣である。
彼は、須藤家にはじめて生まれたDom性を持つ子どもだった。
生まれ持って支配欲の強い男だったが、須藤家の歪んだ伝統は、それをさらに加速させる。
思春期を迎える頃には、彼のDom性は、物々しいまでの被虐とそれによる圧倒的な支配になっていた。
こんな家だから、抑制剤などという発想があるわけもない。彼の欲求はとどまるところを知らず、周囲の人間に危害を加えるようになる。
次期当主がこんな状態なのはまずい。いずれ大きな問題になる前に手を打たなければならない。そんなとき、彼の父親・須藤 忠臣は遠縁に身寄りのないSub性の子どもがいると聞いた。
須藤 忠臣は、はじめから美斗を養育する気などなかった。彼が求めたものは、息子の体のいい性処理具。
Sub性を家に入れることは伝統を破ることになるが、親のいない子どもなら何をされても文句は言えないし、正臣に決まった相手がいるのは都合がいい。
美斗は正臣の歪んだ性癖をなだめる人柱で、彼の単なる玩具だった。
*
その部屋には天窓がついていて、青い空の隙間から、太陽光が差し込んでいた。
淡い光が、そこにいる二人の姿を照らす。一人は服を着ていて、もう一人は裸だった。
痛い、苦しい、もうやめてほしい。そんな言葉を飲み込んで、裸の青年――美斗は唇を噛む。
ほんの数時間の間に、美斗の身体には無数の擦り傷やあざが出来ていた。
首輪は依然きつく締められたままで、呼吸はままならない。
正臣は怒ると後ろを慣らしてくれないから、美斗の蕾は切れて、艶やかな血が流れていた。
朦朧とする意識の端で、どうしてこんなことになってしまったのかを考える。
両親が生きていた頃、自分は幸せだったはずなのに。どうして、彼らは自分の前からいなくなってしまったのだろう。
耳の奥で、父の言葉が聞こえてきた。
『遅くなるかもしれないけれど、必ず帰るから。だから留守番してて』
嘘つきだ。出来ない約束なら、して欲しくなかった。父が死んだせいで、自分を置いていったせいで、ただそれだけで、美斗はこんなにも不幸だった。
ああ、でもそう言えば、あいつはちゃんと帰ってきたな。帰ってくるか不安だったんだ。そう言って、いなくなってしまった人たちを知っていたから。大人しく彼を待っていたのは、彼に言われたからだけじゃない。
彼が無事に帰ってくることを心から願っていた。
もう、きっと会うこともないその人の顔を、繰り返し、美斗は想った。
一筋の涙が、美斗の頬を伝った。
泣けばきっと酷くなるから、どうにか泣かないようにしていた。だけどもう、堪えることは出来なかった。
あの場所に帰りたかった。
502号室に。国近のそばに。
そこだけが、美斗が唯一落ち着ける場所だった。そんなことに、今さら気づかされた。
一度考え出すと、もう止められなかった。
「かえり、たいっ、ぐずっ、ぁ、かえり、たい」
気が付くと、美斗はしゃくりあげて泣いていた。
「ははっ。傑作だなあ」
頭上で、支配者が笑う。
「お前は僕のものだよ。お前の家はここだし、一生僕から逃げられない」
それは、美斗にずっと染みついている呪いの言葉だった。
*
沈黙を破ったのは、ノックの音だった。
「失礼いたします。」
声に反応して、国近は出入り口を振り返る。
「……柏木警部」
一課の上司が立っていた。
「国近警部補をお借りしてもよろしいですか?」
彼は俊敏な動きで机に近づくと、厳かな顔立ちでそう言った。柏木警部は、国近のちょうど一回り年上の刑事で、国近が一課に配属されてからずっと世話になっている人だ。
「彼は今日付けで異動になった。もう君の部下ではないが?」
刑事部長が冷たく返答する。
柏木は動じなかった。
「存じております。ですがあまりに急な異動ゆえ、急ぎの案件がいくつか滞っております。引継ぎを終えなければいつまで経っても警部補は休暇には移れませんが?」
はっきりとした口調でそう告げた。それを聞くと、刑事部長は一瞬眉をピクリと動かし、押し黙った。
長い沈黙の後、
「もう行きなさい」という不本意そうな声が聞こえてきた。
柏木が国近に向き直る。顎だけで合図し、自分についてくるようにと指示を出す。
けれど、国近の腹の中から湧いて出てくる黒い感情は収まらなかった。
まだだ。まだ自分は、この男に聞かなければならないことがある。自分から彼を奪い、彼を苦しめようとしているこの男を、どうしてやろうか。
指の骨を一本ずつ手折っていけば、彼の居場所ぐらいは吐いてくれるだろうか。
国近は刑事部長に手を伸ばす。
「国近!」
柏木の怒号が飛んだ。
「ここで騒ぎを起こしたら、懲戒免職どころじゃ済まないぞ!」
構わなかった。自分はこんなことをするために、警察官になったわけじゃない。
彼を助けられないのなら、喜んでこの地位も名誉も捨ててやる。
刑事部長の黒い瞳が、国近を捕らえる。許せないと、そう思った。
すると、柏木が国近の胸倉を掴んだ。そのまま力づくに国近を引っ張り、壁の方へと乱暴に押し付ける。
「いっ……!」
大きな音と共に、背中が壁に叩きつけられる。身体中が痺れるような衝撃だった。全く抵抗が出来なかった。腕っぷしで、国近は柏木には叶わない。
「……だ?」
耳元で薄く、柏木が囁いた。その言葉にはっとして、国近は柏木の顔を見つめた。刑事部長にはちょうど、国近の顔が見られない位置で、柏木の言った言葉は聞こえていないようだった。見上げて、柏木と視線を合わせる。柏木が一回だけ強く頷いた。
「……すいません」
国近が眉を下げる。
「外に出れるな」
「はい」
柏木の言葉に、国近はゆっくりと身体を起こす。
「きつく言っておきます」
柏木が刑事部長にそう言って、二人はその場を後にした。
*
扉をしめる。廊下で、国近は深く息を吸い込んだ。
興奮していた神経が徐々に弛緩していく。
気が付かないうちにDefense状態になっていたらしい。柏木に止めてもらえなかったら危険だった。あの場で何をしていたか分からない。ため息が口から零れる。
自分はいったい、いつから彼のことを、こんなにも大切に想っていたのだろう。
ハルトのことが心配で堪らなかった。
「面倒なことに巻き込まれたな」
横で、柏木が言った。今しがた柏木から言われた言葉を思い出し、国近は柏木を見つめる。
『君が仕事を失ったら、彼をどう守るんだ?』
国近の耳元で、彼はそう言った。
つまり、言外に自分は味方だと、そう伝えているようだった。
「さて、国近」
柏木が呼ぶ。一瞬だけ、刑事部長室を見た彼の視線が、まっすぐに国近に向かい合った。
「彼を助けに行くというのなら止めはしないが、少しだけ話をしないか? 有益な情報を提供しよう」
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