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【第3話】君がいる場所といない場所

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 父が亡くなったのは、高校3年の夏だった。その年の夏はうだるように暑く、隣県で観測史上最高気温を記録したというニュースが連日テレビでとりただされていた。
 父は、国近の唯一の肉親だった。母親は物心ついた時からいなかった。男を作って出ていったと聞いたことがあるけれど、詳しいことは知らない。
 その父が末期の胆のうガンだと診断されたのは約半年前。見つかったとき、ガン細胞はすでに胆のうを包み込んでいたらしい。手の施しようがない状態だった。
 半年かけてガン細胞は成長し、今度は腹部の臓器を飲み込みはじめていた。
 夏休み一週目。昼食を食べたあと、お腹を抱えてうずくまってしまった父を抱えて、かかりつけの病院へと向かった。その頃、父は随分と痩せてしまっていて、国近が運ぶにも、さした労力が必要ないくらいだった。父は、そのまま入院することになった。
「鎮痛剤を出しますね」
 病室が用意されて、そこに移動した後で医師が言った。しばらくして、看護師がシリンジに入った薬を持ってやってきた。

 点滴にセットされたその薬が、穏やかに死んでいくための薬なのだというのを、国近はあとから知った。

 痛い、痛いと父の呻く声が聞こえた。その声は長くは続かなくて、四半時を過ぎたあたりで寝息に変わった。時折、目を覚まして何かを言っていたけれど、二日目からはもう何も話さず、眠るだけになった。それから数日たたずに、父は息を引き取った。

 人は脆く、簡単に死んでしまう。
 それでも、希望がないわけではなかった。火葬場で父を燃やして、当時住んでいたアパートに帰った時。ふと、本棚に並べられた警察小説が目に入った。父は民間の会社員をしていたが、昔は警察官に憧れていたらしい。身体が弱く喘息もちだったためにその夢を諦めざるを得なかったそうだが、警察小説は好んで集めていた。およそ千冊を超える蔵書は、悲しみのどん底にいる国近を、優しく迎え入れてくれた。
 父が、まだそこにいるような気がした。

 警察官になろうと、そう思った。

「本気かい?」
 国近の進路希望を聞いたあとで、担任は問いかけた。当時、国近は大学進学を希望していた。すでに受験勉強をはじめており、志望校をある程度絞り込む段階まできていた。
 それでも、警察官にならなければならない理由があった。父の遺志を継ぎたいという気持ちはもちろんあるが、それだけが理由なわけではなかった。
 警察官になれば、警察学校に入学した時点で給料が出る。遺族年金がもらえるのは18歳を迎えるまでだ。父の遺産も少しはあるけれど、それだけで残りの高校生活と大学の入学金、授業料が払える見込みが立たなかった。学費免除や特待生枠に通れば何とか通えるかもしれないが、それだって確実なわけじゃない。奨学金を借りてアルバイトをして、あと四年。生きていける保証がない。
 それに、父の遺品―あの大量の小説だけは、どうしても処分せず、手元に置いて置きたかった。進学をして家賃が低いところに引っ越せば、それはきっと叶わなくなる。
「もう、決めたので」
 国近はそう返答した気がする。
 国近の意志の強さに、担任は少したじろいで、それからためらいがちに言った。
「警察を志すこと自体、悪いことだとは思わない。でもせめて、大学を卒業してから採用試験を受けたほうがいい。だって、君は――」
――Domだろう。
 あの時、自分はなんて返したのだろう。

 一般的に、第二性を持つ人間に公安職は難しいと言われている。理由は言わずもがな。欲求を管理することが求められるからだ。第二性を持つ人間は、欲求が解消されないと肉体や精神に様々な不調をきたす。ある程度は薬でコントロールが可能だが、それだって万能なわけではない。一定期間の通院をして自分に合った薬を探すことになる。だが、それが上手く出来ている人間は、それほど多くはない。ふとしたきっかけで薬が合わなくなることもあるし、副作用も起こりやすい。自治体や企業が運用しているペアリングサービスもあるけれど、仕事柄激務の警察官にそれを利用する余裕なんてない。非常時に欲求不満の不調や薬の副作用で任務の遂行が出来なかったという言い訳は通用しない。
 その年、警視庁警察学校の初任科入学生は509人いたけれど、第二性を持っていたのは国近を含めて四人だけだった。その中の二人が卒業を待たずに辞めた。警察学校という閉鎖的な空間は、Normalの人間であってもストレスを感じる場所だ。ストレスは欲求を増大させる。国近自身、高校を上がる頃から飲んでいた抑制剤が利かなくなり、それをより強い薬に変えた。
 それでも、国近は努力し続けた。猛烈な副作用と戦いながら、徹底的に欲求を管理し続けた。座学も実技も手を抜かず、常にトップに近い成績をキープした。
 第二性というハンデを抱えながらも警察学校で優秀な成績を収め、その後地域課でも秀でた検挙数を挙げた国近は、自然と同期の中でも目立つ存在になった。
 彼自身、配属先にはこれといったこだわりも興味もなかったが、二年間の地域課勤務の後、すぐに刑事部への異動が決まり、今では花形部署と言われる捜査一課に配属されている。





 雨の中で拾った青年――ハルトは、今、国近の部屋のリビングでウトウトと舟を漕いでいた。水に浸し忘れた食器を水の中に沈めてキッチンから戻った国近は、青年の横で片膝をつく。
 青年の目の下には、かなり濃い色のクマが出来ている。不眠は、欲求不満で起こる症状の一つだ。国近と出会った日から今日まで欲求を解消できていないとすると、その期間は約ひと月半。国近は上手くコントロールしているから平気だが、普通の第二性を持つ人間にはきつい長さだろう。ましてや、通院も決まった薬も飲んでないなら尚更だ。いったい何日間、ろくに眠れていなかったのだろう。
 あの日、国近は彼に信頼できない相手とのPlayを禁じた。Domに言われたのだ。彼は逆らえなかっただろう。そういう風に仕向けて言った。
 彼が苦しむことを予想できなかったわけではない。けれど、信頼関係にない相手とのPlayは、Subにとって精神的にも肉体的にも苦痛が伴う。Dropする危険が高くなるし、下手をすれば命にだって関わる。抑制剤を渡して、定期的に薬を買ってくれるようになればいいと思った。市販薬でも飲み続けていれば、欲求を解消する回数を減らせるかもしれない。
 だが、それなりに責任も感じていた。
『今日、ちゃんと俺のこと頼れて、偉かったね』
 少しは落ち着くだろうかと思って言った言葉だったが、ここまで効いてしてしまうのは予想外だった。もしかすると、この子は一般的なSubよりも第二性が強いのかもしれない。
「……二回、だな」
 国近は呟く。彼のことで判断を誤ったのはこれで二回目だ。
 一回目は取り調べの時。あの時、彼のパートナーを呼び出そうとしてしまった。
 二回目は取り調べの後、彼の事情を聞かずに帰してしまったこと。まさか帰る家もなく、ネットカフェで生活していたなんて思わなかった。本当に無責任だった。
(嫌になるな)
 自分はいつから、こんなにも、傲慢になってしまったのだろう。
 理不尽に何かを奪われる人間がいる。昨日までの日常が、当たり前ではなくなる恐怖。それでも息をして、生きていかなければならない絶望。安全圏から語られる理想は、当事者たちにとっては机上の空論にすぎず、どこか現実味がない。
 国近自身も知っていたし、何度も見てきたはずなのに。
 どうにかしてやりたい。そう、強く思った。




 それから、約二カ月の月日が過ぎた。
「おい、資料どうなってる?」
「現場から連絡は」
「被疑者との関係性の調査を」
 捜査本部が慌ただしく動いている。都内某所で頻発している強盗事件は、今日だけで十を超える被害が確認されている。数日前から事件の担当を命じられた国近は、喧騒のど真ん中で資料をまとめていた。

 あの後、国近はハルトに同居を申し出て、渋々ではあったが彼は了承してくれた。
 ハルトははじめこそ警戒していた様子だったが、最近は少し気を許してくれているらしい。
 時折、自分の話をするようになった。
 両親がいないこと。出身は、遠い雪国の小さな田舎町であること。学校は義務教育までしか出ていないこと。パソコンの使い方は、中学の時の情報の授業で覚えたらしい。
 ふとした瞬間に彼が零した断片を、国近は結び合わせている。

 意外だったことは、彼がかなりの読書家だったことだ。
 家にいる間、食事と睡眠以外の時間は、ほとんど国近の書斎から小説を持ってきて読んでいた。警察官は嫌いだと言うくせに、警察小説は別らしい。よく分からない。
 彼は賢く、語彙も豊富だった。
 彼なりに生活の術をよく身につけている。
 ある日、国近が家に帰ると、溜めていた洗濯物が全部綺麗に洗濯をされていたことがあった。国近がハルトに問いかけると、
『別に。溜まっていたから片しただけだ』
 という返事が返ってきた。
 口調はぶっきらぼうだが義理堅いところがある。
 返さなくてもいいと言ったネットカフェの料金をきっちり十円単位で返してきた。その後も収入が入れば、その内のほとんどを国近に渡そうとする。
 警察官の収入は一般企業の同年代に比べれば高い方だ。貯金も人並みにある。激務のおかげで経済を回す余裕がない。
 彼一人の食費が増えるぐらい国近にとっては誤差の範囲内だったけれど、彼は律儀にお金を渡してきた。国近はそれを、ハルトに内緒で使わずにいる。その代わりに彼が喜ぶよう、こっそりと本棚の蔵書を増やしていた。
 もう少ししたら、彼にスマホを買ってやろう。今は国近のスマホを貸しているが、彼個人の連絡手段はあった方がいい。連絡先があれば福祉にも繋げることも可能だ。日雇いの仕事で日銭を稼いでいるようだが、決まった仕事も探しやすくなるだろう。今すぐに与えてもいいが、きっと受け取ってくれない。
 ――俺の、パートナーになる?
 ハルトを拾った日、ポロりと口から出てしまった言葉を思い出す。あの時は、自分は彼に同情しているのだと思った。
 けれど今は、違うと分かる。
 これは国近の欲で、本能だ。
 国近のデスクの上。大量の資料と書類が塔のように積み重なっていた。まだ前の事件の後処理も終えていないけれど、犯罪はのんきに待ってはくれない。
(……他人のこと、とやかく言えないな)
 ハードな任務と過酷な現場。気が付くと自分の欲求に鈍感になっている。薬で出来るのはあくまでコントロールであって、解消じゃない。
 きっと、一番欲求が解消出来ていないのは国近自身だ。
 ハルトといると気が休まる。

「国近、出るぞ!」
 部屋の入り口から上司の声がした。被疑者が動き始めたらしい。資料のまとめを中断させて、ジャケットを羽織る。その背中を追った。
 空が青白んでいる。しばらく帰れないと告げてきたけれど、彼はちゃんと食事をしただろうか。




 国近と暮らし始めて、二カ月の月日が過ぎた。
 毎日、寝床を探したり、そのためにお金の心配をしたりしなくていい生活は、思った以上に楽だった。

 今、ハルトは食品加工工場でアルバイトをしていた。ジャムや野菜スープを作っている会社だ。およそひと月半後、都内の大型百貨店で物産展が開かれるらしく、そこに商品を卸すため、人を増員しているらしい。契約期間は物産展が終わるまでと短いが、時間は週五日、9時から17時まで。フルタイム勤務の仕事だ。日給は約九千円。しばらくは楽に生活ができそうだ。
 家も、食事も、国近の世話になっている。せめて生活費ぐらいはきちんと収めたい。
 ベルトコンベアに乗って、瓶詰されたジャムが流れてくる。ハルトの仕事はというと、流れてきたその商品をひたすら丁寧に、小さな箱に詰めるということだった。
『有機栽培いちごで作った優しく爽やかなジャム』
 パステルカラーでデザインされた箱には、そう印字してあった。物産展に出すぐらいだから、それなりに名の知れた商品なのかもしれない。
 箱を組み立て、そこにジャムの瓶を入れていく。

 作業場の時計が17時を指した。大仰なチャイムの音が鳴る。終業の合図だった。
 残りの仕事を、ハルトと交代で来た遅番の社員に引き継いで、ハルトは作業場を後にした。
 
 更衣室で、作業着を脱ぐ。同じく17時上がりのバイトがそこには何人かいて、なにやら楽しそうに話していた。
 流行、アイドル、人身事故。
 それらはどれも、ハルトにとって馴染みのないものばかりだった。
 そして、そのことに対して別段何も感じない。寂しいとも、つらいとも思わない。
 人と関わる方法は、とうの昔に忘れてしまった。
 借り物のロッカーの戸を閉める。
 まだなお盛り上がっている彼らの合間をぬって、更衣室を出た。

 工場の廊下を歩く。リノリウムの床は、もうずっと昔の学生時代を思い出させた。
「君!」
 後ろから声がかかる。数回呼ばれて、それが自分を呼んでいる声だと気が付いて、足を止めた。振り返る。
 作業着姿の中年の男が、小走りで寄ってきた。バイトの指導係を担当している人だ。
 右手にビニール袋を持っている。それをハルトに差し出しながら言った。
「これ、賞味期限が近くて今朝返品になった商品なんだけれど、よかったら」
 ハルトは袋の中身を覗き込む。ハルトが先ほどまで箱詰めしていたジャムが二つと、スライスチーズが二袋、それからカレールウやパスタソースのパウチなんかが入っていた。そういえばこの会社は、スパイス製品も多く製造していると聞いた。
「良いんですか?」
 ハルトは指導係の男を見上げ、問いかけた。思いのほか、年相応の声が出た。
 ハルト自身料理はからっきしだが、国近に渡せば上手く調理してくれるかもしれない。以前、パスタソースでホットサンドを作ってくれたことがあるけれど、あれは絶品だった。言えばまた作ってくれるだろうか。
 もっとも、『美味しい』なんて中々素直に言えないけれど。
「量が大量でみんなに配っているんだけど、ちょうど君が更衣室から出てくるところが見えたから」
 そう言って、指導係は頬を掻きながら笑った。

 工場を出て、帰路につく。国近の家は、ここから歩いて15分ほどだ。
 太陽が赤く染まっていた。夕焼けが、鮮やかに住宅街の家々を染め上げる。
 心が穏やかだった。




 家に到着した頃には、すっかり日は沈んで、辺りは真っ暗だった。
 合鍵を使い、502号室のドアを開ける。国近はもう帰っているだろうか。
「あ……」
 静まり返った玄関は、外と変わらずに暗いままだ。そこで、気が付く。
 数日前、国近は慌ただしく家を出ていった。
『しばらく帰れなくなるかもしれない』
 都内某所で起きている強盗事件の担当をしているらしい。ニュースにもなっている一件だ。通勤に向かう途中の家電量販店のテレビで目にしたことがある。
 あれから、多分四日。国近は家に帰ってきていない。
 シュン、とハルトは眉を下げた。しばらく、というのはいったいどのくらいなのだろう。
 そこで、またはっと気が付いて、首を横に振った。
 自分は何を考えているのだろう。まるで彼がいないことを、寂しがっているみたいではないか。
「はあ」
 ため息をついて、電気のスイッチを点ける。
 家事でもしよう。洗濯物が溜まっていたはずだ。いつの間にか、国近が食事を作り、ハルトが洗濯と掃除を担当するというルーティンが出来ていた。暗黙の了解というわけではないが、国近は仕事柄忙しく、掃除や洗濯を後回しにしがちなので、何気なくハルトがするようになった。
 その前に食事だろうか。キッチンに向かう。冷蔵庫の扉を開けて、工場でもらってきた食材をまず片づける。ハルトは冷蔵庫の中身を一通り眺めた。卵や数種類の調味料、野菜の切れ端などが目に入る。すぐ下の引き戸、冷凍室の中には、冷凍食品がいくつか入っているはずだ。自分がいない時は、冷凍室のものを温めて食べろと、国近が言っていた。
 ハルトは冷凍室の戸に手をかけた。扉を開けようとして、止まる。
 結局、何も取らずに戸を閉めた。
 肉体労働ではないが、フルタイムで働いてきたのだ。ハルトはたいてい昼食を取らない。今日は朝にトーストを一枚食べただけで、お腹はすいているはずだった。実際、帰路を歩いているときには確かに空腹感があった。
 けれど、何も食べる気にはなれなかった。

 リビングに戻る。
 ソファーに横になって、目を閉じた。
 国近がそばにいるからなのか、毎日きちんと抑制剤を飲むようになった(国近がうるさいので)からなのか、この二カ月の間、ハルトが欲求不満の不調で倒れることはなかった。気分も体調も、以前よりは格段にマシだ。
 けれど、ここのところ、どうも調子が悪い。
 今みたいに、急にやる気が出なくなることがある。
 それに……。

――おいで、“Kneel”
 
 頭の奥で、国近の声がする。コマンドを使った命令口調ではあるが、声色はひどく優しい。
 きちんと出来たら、彼はきっと、自分を褒めてくれるだろう。

 そこで、目を覚ました。
 ここ最近、繰り返し同じ夢を見る。
 国近にはじめて会った日の夢だ。もっと具体的に言えば、国近とPlayをした時の夢。
 身体を起こす。膝が震えていた。
 はあ。帰宅してから数度目のため息をつく。
 それから、少しふらつきながら立ち上がって、ハルトは寝室へと向かった。
 
 半ば倒れるようにしてベッドに横になる。シーツから、彼のにおいがした。
 ほっと、息を吐く。
 こうしていると、少しだけ楽だった。
 ――俺の、パートナーになる?
 この家にはじめて来た日、国近に言われた言葉が繰り返し頭の中でリフレインした。
 パートナーになったら、彼はまた、あの日みたいに触って、撫でてくれるのだろうか。




 数日後、明朝。
 国近肇はようやく帰宅をすることが許された。担当していた事件の被疑者の身柄が確保されたのである。先日の詐欺事件は国近が一人で現場の指揮を任されたが、今日は国近よりも階級が上の刑事が何人かいる。あとは任せても大丈夫だろう。事後処理はまだ残っているが、とりあえずは一件落着だった。
 欠伸を噛み殺しながら、アパートのエレベーターに乗る。もう何日もろくに眠れていない。
 疲れた。早くベッドに横になりたい。
 ふと、胸ポケットに入れた仕事用のスマホの表示を確認する。
 土曜日、8時半。
 最後に家に帰ったのは、一週間前の木曜日だ。丸8日も家を開けてしまった。
 ハルトはどうしているだろうか。
 先週のはじめから、ハルトは食品加工工場でアルバイトをしている。
 仕事があるのは平日だけだと言っていたから、今日は家にいるはずだ。
 部屋の前につく。慣れた手つきで玄関の鍵を開けて、扉を開いた。

 部屋の中は静まり返っていた。まだ眠っているのかもしれない。
 リビングに足を進める。一週間以上も家に帰っていないわりには、廊下は綺麗に掃除がされていて、ホコリ一つ立っていない。きっと、自分がいない間、彼が家を守ってくれていたのだろう。
 リビングの扉を開く。そこで、国近は足を止めた。
 普段、ハルトはリビングのソファーを使って眠っている。国近は自分のベッドを使うように言ったが頑なに断られてしまった。
『Domの布団なんかで眠れるわけねえだろ』
 というのが彼の主張だった。
 ハルトがベッドを使ったのは、はじめて家に来た日の一度きりだ。
 だからきっと、今日もソファーの上にいるのだろうと思った。

 けれど。

 いる、と思っていたその場所に、彼の姿はなかった。

 本に夢中になるうちに書斎で眠ってしまったのだろうか。
 国近はリビングを出て書斎の扉を開けた。ツンとした古本のにおいが鼻を掠める。
 あたりを見回した。本棚の本は、ほんの少しだけ移動させられた形跡はあるが、別段普段と変わらない。窓側の机。ノートパソコンが置いてある。人影はなかった。
 次に、キッチンの奥。洗面所とバスルームを覗き込んだ。そこには、洗濯機が置いてあって、ベランダへとつながっている。洗濯をしている最中なのかと思ったのだ。
 だけど、そこにも彼の姿はなかった。
 国近は顔を青くする。もしかしたら自分のいない間に、家を出て行ってしまったのだろうか。それともまた、何かトラブルに巻き込まれているのではないか。
 いや、話が飛躍しすぎている。案外コンビニに行っているだけかもしれない。
 そこで、たった一部屋だけ、探していない場所があることに気が付いた。そこにいる可能性は限りなく低いけれ ど……。

 国近は寝室のドアを開けた。
「ハ、ルト」
 国近のベッドの中。シーツに丸まって、彼は寝息を立てていた。
 ほっ、と国近は息を吐く。
 何をしているのだろう。この子は。
 Domの布団では眠れないのではなかったのか。

 ベッドの端。彼の頭がある少し上に、国近は腰をかける。穏やかな寝顔だ。顔色も肉付きも、はじめて会った時とは比べ物にならないぐらい良くなった。
 ハルトと暮らすようになってから、なるべく忙しくても家には帰るようにしていた。こんなに長期間、家を空けたのは初めてだ。彼なりに、寂しいと感じてくれていたのだろうか。
 彼の髪を、そっと撫でる。浅葱色の猫っ毛は柔らかく、国近の指に絡まりついてくる。
 ふあ、と二回目の欠伸が、口元から零れた。
 彼の寝顔を再び横目で見ると、いたずら心が芽生えた。
 このまま、隣で自分が眠ったら、目覚めたとき彼はどんな反応をするのだろうか。
 見てみたい気がした。

 そこで、胸ポケットのスマホが鳴る。慌てて、横のハルトを見た。マナーモードにしていたから、ハルトは少し身じろぎをしただけだ。
 立ち上がり、音を立てないようにして部屋を出る。
 部屋の入口で、受信ボタンを押した。
「はい、国近」
 電話口の相手は、一課の同僚だった。階級は同じだが国近の三つ上の先輩にあたる。
 最短で昇格し、捜査一課に配属された国近を、嫌な顔一つせず迎え入れてくれた。
「おい国近、お前何やらかしたんだ!」
 その同僚に、開口一番、そんなことを聞かれた。
 はて、と国近は首を傾げる。寝不足の頭を無理やり働かせて、思考を巡らせた。今週は都内某所で頻発していた強盗事件を追っていた。
 こんな仕事だから、いつもどおりと言うのも可笑しな話だが、取り立てて変わったことはなかったはずだ。ましてや、何かとんでもないことを『やらかした』覚えはない。
「上が荒れてる。すぐにお前を呼び出せって聞かないんだ。帰宅して早々悪いけれど、出てこれるか?」
 警察官である以上、急な招集は免れない。うすくため息をついて、
「すぐに」とだけ告げた。
 何が問題だったのかは分からないが、きっと誤解があったのだろう。きちんと釈明すれば分かってもらえるはずだ。
 国近は一瞬だけ、部屋の方へと目線を向けた。名残惜しさを振り切り、仕事モードへと頭を切り替える。
 帰ったら、彼に何か美味しいものを作ってやろう。




 チャイムが鳴っている。
 部屋中に響く甲高い音に、ハルトは一瞬眉をひそめて、薄く目を開けた。
 緩慢な動作で身体を起こし、辺りを見回す。そして、首を傾げた。
 ついさっきまで隣に誰かがいたような気がした。国近が帰ってきたのだろうかと思ったが、部屋の中に、人の気配はない。
 頭に触れる。確かに、撫でられた感触があった。
 またおかしな夢を見ていたのだろうか。

 ピンポーン

 再び、チャイムが鳴った。その音に反応して、ハルトはベッドから降りる。
 ベッドの端に置かれたスマホを見る。国近に借りたものだ。スマホの使い方は相変わらず分からないが、画面を見ると日付や日時が確認できることは学んだ。
 土曜日。午前9時過ぎ。誰だろう。こんな時間に。宅配便だろうか。
 仕事柄忙しい国近は、生活必需品のほとんどをネット通販で買っている。時折、受け取りを頼まれることがあった。
 でも妙だな。宅配便なら先週来たばかりだ。洗剤も石鹸もまだ随分余っているはずだ。それに、国近は普段置き配サービスを利用しているから、宅配員の人とハルトが遭遇することはめったにない。直接受け取りが必要なものは、宅配便が来る前日に教えてくれた。
 近頃、国近は忙しそうだった。伝えるのを忘れていたのだろうか。

 ピンポーン

 もう一度、チャイムが鳴る。ハルトは慌てて玄関へと向かった。
 内鍵を開錠し、扉を開ける。

「こんにちは」
「っ!」
 見知った顔に、ハルトの瞳が大きく見開かれる。
 思わず反対側に閉じようと扉を引いたのを、彼は見逃さなかった。
 扉と部屋の隙間に手のひらが差し込まれ、続いて革靴が入り込んでくる。
 すみやかに部屋の中へと肉体を入れ込ませ、そっと扉を閉めた。
「あ……」
 首元に、手をやる。【それ】は、確かにまだそこにあった。金属製の首輪だ。ハルトのパートナーがつけたもの。近頃の日常は随分と穏やかだから、ハルトはその存在を忘れていた。
 急に、首輪が重くなったような気がした。呼吸が上手く出来なくなって、肩が上下する。
「お久しぶりです。ハルトさん」
 玄関に佇むその男は、兄・正臣の有能な右腕だった。




 国近肇は、今、警視庁の刑事部長室にいた。
 あの後国近が警視庁に戻ると、電話をかけてきた同僚が駆け寄ってきて、すぐにここに行くようにと言われた。
 国近の目の前。三角札が置かれたデスクがある。そのデスクに、一人の男が腰を掛けていた。かなり大柄の、熊のような風貌をした男だ。こんな風に向かいあったのは数えるほどしかない。彼の直属の上司のそのさらに上司、刑事部長である。
 デスクの横で、日本国旗が揺れていた。
「これはどういうことかね、国近警部補」
 刑事部長は一枚の写真をデスクの上に置くと、そう切り出した。
 写真の中央。見知った顔が二人、映っていた。一人は国近自身、もう一人は、国近の家に身を寄せている青年・ハルトの姿だった。背景にはクリーム色の外壁が見える。おそらく家の前だろう。
 何度かハルトと一緒にスーパーに買い出しに行ったことがある。その時に撮られた写真だろうか。
「どう、とは?」
 プライベートな話だ。それを聞くためだけに、わざわざ呼び出したわけではないはずだ。
 質問の意図するところが分からず、国近は問いかける。
「この青年は、須藤グループホールディングス会長の次男坊だ。数か月前から行方が分からなくなっていて、捜索願が出されていた。その青年が、どうして君の家にいるんだ?」
 須藤グループホールディングス。それは、主に不動産経営で大きくなった会社だ。古くは財閥の一つだったらしい。現在は事業展開をより多岐に広げ、建築事業やホテル運営、リゾート経営など大きな収益を挙げている。日本を代表する企業の一つ。国近のような一公務員でも、名前ぐらいは知っている会社だった。
 思いがけない単語に、国近の表情が曇る。ハルトの生活と、彼の実家の話が、頭のなかで上手く嚙み合わなかった。それに、国近はハルトから両親はいないと聞いていた。
 一抹の違和感を覚えながらも、国近は唇を開く。
「……三カ月ほど前、とある事件で彼と遭遇しました。行くところがないと言っていたので、自宅で保護しておりました」
「素性も聞かずにか? 少し調べれば彼が行方不明の青年だということぐらい、簡単に分かったはずだ」
「……申し訳ありません」
 ここで下手に誤魔化すのは逆効果だろう。国近がハルトの素性を調べなかったのは事実だ。国近は素直に謝罪した。
「今、捜査官を一人、君のアパートに向かわせている。その捜査官と一緒に、彼は自宅に返す。それでいいね」 
 刑事部長の提案に異論はなかった。
 少し名残惜しい気もするが、頼る先があるならそちらを頼ったほうが彼も安心だろう。
 国近に対してお咎めはあるかもしれないが、自分が叱られて話が済むのならば御の字だ。
 家に帰れば、あの首輪のパートナーとも簡単に別れることができるはずだ。
「かしこまり……」
 言いかけて、国近は止まる。

 パートナー?

 急速に、頭の奥が冴えていくのを感じた。
 何かがおかしい。
 そもそも、ハルトはなぜ家出なんかしたのだろう。いや、仮に家出をするのに相応な理由があるとしても、彼の生活は随分と不安定だった。
 ハルトは賢い青年だ。彼なりに生活の術を身に着けている。拾ったネットカフェの会員証を使って寝床を確保するぐらいだ。学校は中学までしか出ていないようだが、中学卒業程度の基礎的な教養は完璧に覚えていた。それぐらい賢い青年なら、行政に頼り、生活保護をはじめとした生活困窮者支援の申請をすることぐらい簡単に思い浮かんだはずだ。
 けれど、彼はそれをしなかった。
 その代わりに、契約期間の決まった日雇いの仕事ばかりを探してやっていた。
 行政や福祉に頼れなかったのは、扶養照会を恐れたため。日雇いのバイトを好んでやっていたのは、見つかる確率が低くなるため。そう考えれば全て説明がつく。
 行先を転々としている人物を探すのは難しいが、長期間同じ職場に勤めている人物を探し出すことなら簡単だ。

――それが身内となればなおさら。

 胸騒ぎがした。そして、もしこの予想が正しければ、ハルトのパートナーは――。

「お待ちください! 彼をこのまま帰すのは危険です。 もしかしたら彼は――」
「君はDomだったね」
 国近の言葉は、刑事部長の厳かな発言によって遮られた。
「そして、この青年はSubだ。彼になにかを言われたのだろう。可哀そうに。彼は心の病を患っていて、虚言癖があるらしい。もう随分と長いようだ。さて、国近警部補。君は彼の嘘をあたかも真実であると認識し、あろうことか第二性が違う相手を保護という名目で家に置いたのかね?」
 何が言いたいのか、分からなかった。刑事部長は続ける。
「第二性を持っている人間は、人口の10パーセントを下回る。中々パートナーを見つけるのに苦労すると聞く。君は彼に出会った時、こう思ったんじゃないか?『自分のものにしたい』と。だから家に連れ帰った。」
 国近の違和感が渦のように増大していく。刑事部長はデスクの引き出しを開けた。二枚の書類を写真の横に載せる。
「ダイナミクス性を持っている君に、捜査一課は荷が重すぎたのかもしれないね。少し休んだほうがいい。君は一か月の休暇ののち、地域課に異動してもらう。」
 二の句が継げなかった。
 刑事部長の言うことは筋が通っている。だからこそ不自然だった。本当に問題にするのなら行政処分が妥当だ。あの詐欺事件の現場で、国近はハルトの調書に少しばかり恣意的な手を加えている。それだけで処分するには十分すぎる理由だろう。
 けれど目の前に差し出された書類は、辞令と有給休暇の許可書。つまり表向きは処分ではなく、体調を崩した捜査官の人事異動と長期の休養。それでことを済ませようとしている。
 国近は確信した。
「刑事部長」
 呼びかける。切れ長の目がこちらを見据えた。
「あなたは私に、彼を見捨てろと、そうおっしゃるのですか?」
 真っ直ぐな目線でそれを言うと、ほんの一瞬、刑事部長はたじろいだ。
「……。……君は優秀な捜査官だと聞いている」
 そう言って、目線を少し下に向ける。
 こういうことは以前にもあった。国近の脳裏に、高校時代の担任の顔が浮かんだ。警察採用試験を受けると告げた時、あの人も今の刑事部長と同じように目線を下に向けた。
これは、何かを言いづらいことを言い出すときの仕草だ。
「こんなところで、キャリアを潰したくはないだろう」
「なっ!」
 そこで、電話が鳴った。
「失礼」
 断って、刑事部長が電話を取る。
「ああ、はい」
 電話口の声は、こちらには聞き取れなかった。何かを話している刑事部長の顔を見つめながら、国近は拳を強く握りしめる。
 先ほどの口ぶりからして刑事部長はグルだ。いや、もしかしたら上層部全体が須藤家とつながっているのかもしれない。
 はじめて会った日、ハルトは国近の提示した警察手帳を見て、ひどく怯えた顔をした。その理由が、今ようやく分かった気がした。きっと、何度も警察を頼り、その度に裏切られてきたのだろう。
 ハルトのパートナーがハルトを連れ戻しに来る可能性を、一度も考えなかったわけじゃない。だけど、警察官である自分がそばに居れば、彼を守れると思っていた。
 身の回りに敵がいる可能性に、今日までまるで思い至らなかった。
(くそっ……!)
 まただ。また判断を誤った。
 これは自分の怠慢だ。

 刑事部長の声が止まる。
 受話器を置いた。

「今しがた、青年を無事に保護したそうだ。もうこの件に、首を突っ込んではいけないよ?」





 その男は、名を桐野と言う。元々は須藤家で使用人をしていた人物だ。あまりに優秀だったので、兄が会社へと引き入れた。以来、彼は須藤家の使用人と兄の部下、二つの仕事を兼任して勤めている。彼が休んでいるところを、ハルトは見たことがなかった。
 年齢はハルトよりも10は年上のはずだが、その聡明な顔立ちは、衰えることを知らない。ハルトがはじめて会った時、彼はすでに二十代の後半だったはずだけれど、外見はその頃から一切変化していなかった。
「俺が何をしにきたのか、ハルトさんなら分かりますか?」
 分かるよ。嫌味なほどに。こういうことは何度もあったから。
 ハルトが逃げ出す度に、この男は兄に代わって自分を連れ戻しに来た。
 ハルトは肩を上下させる。呼吸が、上手く出来ない。身体がこの男を拒絶している。
 ぐっと、ハルトは自分のシャツの胸倉を掴んだ。
「っ……俺はもう、あの家には行かない」
 ハルトの抵抗を、まるで聞いていないかのように、桐野は国近宅の玄関――辺りの靴箱やカーペットを一通り見まわした。
 それから、再びハルトに向き直り、意味ありげに目を細める。
「……国近警部補、今日付けで地域課に飛ばされるそうですよ」
「へ……?」
 国近? どうしてここで国近の名前が出てくるのだろう。
 それに、飛ばされたとはどういうことだ。
「可哀そうに。捜査一課なんて花形部署、誰でも勤められるわけではないのに。それもあの若さで……。きっと血のにじむような努力をされたのでしょうね」
 警視庁刑事部捜査一課。そこがどういう場所なのか。どういう立ち位置なのか、ハルトは知っている。国近の書斎にある小説の中で、繰り返し題材にされていた。
 国近は優秀な刑事だ。出会った日も、彼は現場の指揮を担当していた。
 そんな国近が飛ばされたというのなら、それはきっと兄の圧力だ。そして、その圧力をかけさせたのは……。
「……俺の、せい?」
 違うと言ってほしい。関係ないと言ってほしい。
「ええ、そうです。ハルトさんのせいです」
 けれど、淡い希望は、簡単に打ち砕かれてしまった。
「貴方が壊したんです。彼の努力を一瞬で」
 言葉が出ないハルトに、桐野は追い打ちをかける。
 さて、ハルトさん。と桐野が続けた。
「それでも、ここに居たいですか?」
「……っ! 手を出さないでくれ!」
 薄く、桐野が笑う。その表情から、彼の本心はうかがえなかった。


「行きましょう。ハルトさん。お屋敷で正臣様がお待ちです」
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