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【第2話】始まりの嘘 3

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 講堂にはおおよそ百人前後の学生が集まっていた。階段状に設置された長机に腰をかけ、各々楽しそうに話している。
 部屋の最下段。教壇の上に立った一ノ瀬は、意外と後ろ側がよく見えることに気が付いた。
 一ノ瀬の右後方からスクリーンが下りてきた。パソコンを操作して、プロジェクターにスライドを投影する。
『第二性の正しい理解のために』
 パワーポイントのテンプレート。シンプルでどこか野暮ったいスライドには、そう書いてあった。
 時計の長針が十二を示す。
 時間になると、さすがは大学生なだけある。雑談はピタリと止んだ。

 総務部企画課被害者支援室の仕事は、大きく分けて二つある。一つはその名の通り、被害者の救済。盗難や振り込め詐欺、性犯罪など犯罪被害にあった人と面会をし、心理ケアが必要であれば適切な機関につなぎ、利用できる救済制度があれば周知を行い、申請の手助けをする。
 もう一つはいわゆる総務としての仕事。会計や警察活動のためのサポートだ。その中には犯罪被害抑止のための広報活動も含まれていた。
 薬物乱用防止やらネット犯罪抑止やら、時折学校を巡って生徒相手に講演会をすることがあるのだが、今日、一ノ瀬はとある大学を訪れていた。
 大学、だったのは今回の講演が中高生相手に行うには少しセンシティブすぎる内容だからだ。
「はじめに、自己紹介をさせていただこうと思います」
 画面が切り変わる。そこには一ノ瀬の写真と、簡単な経歴を書いたプロフィールが映っているはずだった。
「一ノ瀬真紘と申します。所属は警視庁。総務部企画課、犯罪被害者支援室。私は――」

「――全国でも数少ない、Subの警察官です」

 何人かの学生が息を飲んだ。
 現在、全国で第二性持ちの警察官は百人を切る程度だと言われている。中でもSubの割合は低く、Domの四分の一程度しか存在しない。
「……すでに高校でも習っているかと思いますが」
 驚愕を学生たちが噛み砕いたのを見計らって、一ノ瀬は続けた。
「約半世紀前、ダイナミクス性が発生して、男女の性別に新たにDom、Subという二つの性が加わりました。現在、第二性持ちの数は、幾何級数的に増加を続けています。しかし、その一方で増加しているのが、ダイナミクス性を利用した犯罪です。先日の須藤グループの事件は、みなさんも記憶に新しいかと思います。警視庁でも近く、新課を発足する方針です」
 そこで、一度止める。
「今日、この場に集まった人の中には、第二性を持った人もそうでない人もいるかと思います。ただ、今現在第二性がないからと言って、永遠にダイナミクス性と関わらないとは限りません。わずかですが成人してから第二性が発現した事例もありますし、みなさんの子どもがダイナミクス性を持って生まれてくるかもしれません。みなさんがこれから先の時代をより良く生きるためには、理解が必要です。その理解を深めてもらうために、私は今日この場所に来ました」
 序盤のスライドは、第二性に関するおさらい的なものだ。DomとSub、それぞれの欲求と本能。健全なPlayの特徴。コマンドの適切な使い方。注意事項。一ノ瀬にとっては当たり前のことだが、第二性を持たない人間が全てを理解するのは難しい。出来る限りかみ砕いて、時には感覚的な喩えを使いながら説明した。
続いて、昨今起こった事件を一例として紹介する。Dom性の加害者がSub性の被害者を操り、犯罪行為に協力させたケース。欲求不満状態だったSub性の加害者が、見知らぬ被害者を襲ったケース。
中でも一番多いのが、Sub側が不当な支配を受けるケースだ。
基本的に、Play中の主導権はSubが握っている。Domにコントロールを渡すか渡さないか。渡すとしたらどこまで渡すのか。Sub側は選ぶことができる。DomがSubとPlayをするときは、同意を確認し、行き過ぎた行為がないようセーフワードを設定するのが常だ。
ただ時折Sub側が、従う本能を利用されることがある。
 同意もセーフワードもないままコントロールを奪われ、ただDomの欲を満たすだけの玩具にされるのだ。無理やりコントロールを奪われたSubの末路は悲惨だ。Sub Dropという不安定な状態に陥り、精神的肉体的な苦痛を感じるようになる。運よく救い出せればいいが、そうでなければ廃人になるか死んでいく。
 そして、被害を生まないためにはどうしたらいいか、といった趣旨の話をする。第二性を理解すること、おかしいと思ったら身近な人に相談をすること。気休めにしかならないけれど、気休めが何かを変えることもあるだろう。

 最後に質疑応答が行われた。
 こういう場では、質問が出ないこともあるけれど、今日は真面目な学生が揃っているらしい。まばらに手が上がった。
 運営を担当していた大学職員が、一人の男子学生を指名する。
「第二性を持った方が公安職を目指すのはとても難しいことだと聞きました。その中でどうして貴方は警察官を目指そうと思ったのですか?」

「……」

 こういうことを聞かれるのは、はじめてではなかった。
 それを躱すことにも、もう慣れていた。
 ふっと、柔く笑みを浮かべて、一ノ瀬は唇を開いた。

「みなさんは、『子どものくせに』と言われた経験はありませんか?」
 ん? と学生の間に疑問符が浮かぶ。
「この場合、『子ども』に入る言葉はなんでも構いません。『女のくせに』とか、『男のくせに』でもいいですし、あるいは『障がい者のくせに』でも、『母子家庭のくせに』でも『生活保護のくせに』でも構いません。そういった言葉を聞いたことぐらいはあるかと思います」
 学生たちは少しずつ疑問符を解きながら、一ノ瀬の話を聞いていた。
「ここには、ステレオタイプ的な偏見があります。例えば、『子どもは大人の言うことに口出しをしないべきだ』『女は慎ましく、男は男らしくあるべきだ』『障がい者は弱々しくあるべきだ』『母子家庭や生活保護の人間は、人生を楽しむべきではない』こんな感じでしょうかね。さて、Subと聞くと、みなさんはどんな人間を思い浮かべるでしょうか。Domに従属する弱々しい人間、そんな姿を思い浮かべるのではないでしょうか。」
 第二性を持った人間が公安職を目指すなら、欲求を管理できるようにならなければならない。それは大前提だ。だからこそ、第二性持ちの警察官は母数が少ない。
それでも、Domに比べてSubの警察官が少ないのは、Subの方が相手探しに苦慮しやすいとか、Dom相手の取り調べが出来ないからだとか、様々な理由が取り沙汰されているけれど、見えない障壁の存在も指摘されている。
つまり、Domに従わなければ生きていけないSubに、警察官は務まらないだろうというバイアスだ。
「私が警察官になったのは、そういう偏見を払拭し、生まれ持った性に関わらず誰もが生きやすい世の中を作りたかったからです」

「思春期を迎えた頃、私は自分が人とは違うということに気が付きました。学校の先生は私の体調をやけに気遣いますし、同級生が話す恋愛の話題からは遠巻きにされました。そして、私のようなSub性が犯罪に巻き込まれるケースが非常に多いということを知りました。その方たちの気持ちが一番分かるのが自分でしょうし、力になりたいと思いました」
 それから一ノ瀬は、母親の部屋にあった一冊の本の話をした。
 普段本は読まないけれど、古典文学が好きな母親が、国内外問わず名作小説を集めていた。
 コアな分野の知識だけは詰め込まれた。
「シャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』という小説に、こんな文があります。『女は一般的に平静であると思われている。しかし女も男と同じように感じる心を持っている。 女だって同じように能力を発揮する必要があり 活動分野を求めている。女があまりに厳 しい抑制に苦しんだり何もしないでいることに悩むのは,男性と全く同じなのである。女はプディングを作ったり、靴下を編んだり、ピアノを弾いたり、刺繍したりしていればよいと言うのは、 女より多くの特権を認められている男性の了見の狭さから出た言葉である。これまで慣習が決めてきた以上のことを女がしたがったり学びたがったりすると、咎めたり笑ったりするのは思いやりのないことである』この小説はダイナミクス性が生まれるよりもずっと前。女性の地位が今よりも低かった時代に書かれた小説ですが、なるほど確信をついていると私は思います。今も世の中にはそういう偏見がたくさんあります」
「おじさんは……」
 最前列の二人組が顔を見合わせた。思わずと言った様子でクスクスと笑う。
 おじさんって年でもなくない? 
 静かな講堂に、声が反響する。
 ごほん、と軽く咳払いをして言い直す。
「『』はSubですが――」
 その場に微かな笑いが広がった。

「――Subである前に一人の人間です。それはみなさんも同じだと思います。人はどう足掻いても生まれ落ちた性からは逃れられないかもしれません。それでも性別という枠組みを超えて、人としてより良く生きていくことはできるはずです。どうかそのことを忘れずに生きてほしいと私は思います」



 講堂を出て、案内係と一緒に廊下を歩く。
「本日はありがとうございました」
 と微笑みながら頭を下げた彼女に、
「いーえ。みなさん真面目ですね。とても話しやすかったですよ」
 と少しばかり素に戻った態度で返す。
 出入口まで見送るという申し出を丁重に断って、退館手続きを済ませよう受付の窓口に向かった。
 奇遇なことに見覚えのある灰色まじりの髪がそこにいた。
「あ……」
 こちらに気づいた彼と目が合う。その瞳が、二、三度静かに逃げ道を探して左右に瞬いて、諦めたように一ノ瀬に向き直った。
「……書類を受け取りに。母校なんです」
 最低限の礼儀だけを備えた簡素な声だった。
「ああ……。なるほど」
 見れば彼――柏木大志の左腕には、角型2号の封筒が抱えられている。そちらをチラリと見やりながら、一ノ瀬は頷いた。
 落ち着いて見えるけれど、そういえば少し前まで大学生だったのか。
 大人びた表情が、急に幼く見えた。
「……一ノ瀬さんは?」
 大志が自分を避けないのなら、答えない理由はなかった。
「講演会」
 言いながら、冊子を掲げる。学生に配ったものだ。注意を仰ぎつつも余計な恐怖心は与えないようファンシーなイラストが描かれている。表紙のキャラクターは、今警視庁が力を入れているマスコットキャラクターで、行政職員の女性が可愛いと騒いでいたような気がするけれど、一ノ瀬には触覚の生えた得体の知れない生き物にしか見えなかった。
 中には今日一ノ瀬が話したことが、より簡潔にまとまられている。
「……こんなこともするんですね」
 冊子を見やりながら、大志が頷く。
「これは今年からな。新課ができるからアピールしたいんだよ。でも新課の人間はみんな他のことで忙しいだろ? そしたらあら不思議、支援室にちょうどいいSubの警察官がいるじゃないか。ってな。押し付けられた」
「はあ……」
 曖昧な頷きに、自然と笑いが零れた。
「まあ、啓蒙活動も立派な仕事。今は試験的に都内の大学を回っているけれど、将来的には全国に広げて、第二性への理解と性犯罪の抑止を目指す方針だ」
「一冊やるよ」
 束から一部を取り出した。向きを直さないまま大志の方へと差し出す。
 無表情にほんのわずかに戸惑いの色が浮かんだけれど、大志はそれを受け取った。
 初めの数ページをパラパラと弄ぶ。
「……こないだは悪かったな。気が立っていたんだ」
 触れられたくない部分に触れただろう。大人げないことをした。
 彼だって守られる側の人間であるはずだ。
 普段だったら上手く流すのに、あの日はどうもダメだった。
「……いえ」
 パンフレットに落ちたまま、大志の瞼が一回だけ伏せた。
「こちらこそ、不躾に申し訳ありませんでした」
 幾分か柔らかな声でそう言った。
 堅い空気がほぐれて、一ノ瀬は小さく息を吐いた。
「この大学、偏差値高いだろう。優秀なんだな」
「……ああ、いえ、俺は二部課程だったので。少し楽をしました」
「へぇ……」
 エントランスの窓はガラス張りで、そこから黄昏の夕焼けが差し込んでいた。
 冬が近い今分では、外はもう木枯らしが吹いていて時折肌を凍らすけれど、陽光が集まるこの場所は温かい。二人の後ろを何人かの学生が通りすぎた。ギグケースを背負った子は、これからサークル活動にでも向かうのだろうか。
 一ノ瀬は大学には行かなかったから、大学生活というものをよく知らない。
微笑ましくもどこか感傷的な気分を感じながら、一ノ瀬は唇を開いた。

「……俺が、あの子に嘘をついたのは――」

そこで、電話が震える。
「……失礼」
 断って、ジャケットの胸ポケットからスマートフォンを取り出す。通話ボタンを押した。
 電話口の相手は一ノ瀬の直属の上司で同僚、綿貫の声だった。
 四十代になる女性で、支援室の室長を務めている。朗らかな人柄だけれど、しっかりとしたリーダーシップのある人だ。美魔女だともっぱら評判の佳人で、すでに家庭も持っているのに密かなファンも多いと聞く。
『監査の書類どこかわかる? 提出日間違えてたらしいのよぉ、取り急ぎ提出してって言われて』
 その綿貫にそんなことを言われる。
 間の抜けた声だが、それが彼女の通常運転だった。
「ああ。それなら私の机の上に……」
『それが見当たらなくてさー……』
「ああ、そしたら……。あー……」
 説明するより行った方が早いだろうか。
「いや、分かりました。すぐに戻ります」
 画面をタップし、通話を切る。

「悪いな。この話はまた今度」

 不思議そうにこちらを見つめる彼に、そう言い残して。
 一ノ瀬はその場を後にした。

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