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第二章
59、急転直下
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雨上がりの冷たい空気を肩で斬り裂きながら、セルジュは梅雨の宵を行く。
根城からアクアのいる駅までは、直線距離にしておよそ六キロメートルといったところか。このまま建物から建物へと飛び移りながら走り続ければ、二十分ほどで辿り着ける計算になる。
決して遅いということはあるまい。だが、いまのセルジュにはこれでも歯痒かった。
疾く、いまは一秒でも疾く、アクアの元へ向かわなければ。
憤怒か、哀憐か、愛執か。
いずれの情念かは自分でもわからないが、とにかくもう、アクアをあの群衆どもと同じ空の下に居させたくなかった。
セルジュの念が、速度に変わる。
勢いそのままに高層ビルの屋上から飛び降りれば、着地した衝撃で辺りに轟音が響き渡った。
コンクリートの地面に亀裂が走り、破片が舞い上がって視界を乱す。
それでもセルジュは捉えた。
電子端末機で最後に見た場面と寸分変わらぬ光景を──三人の悪漢に囲われ立ち尽くすアクアの姿を。
「……セルジュさん」
アクアのささやかな声と目線に不審を抱いたのか、ヤンキーらがセルジュの方を振り返った。すっかり酔いが回っているのか、皆見るに堪えない赤ら顔をぶら下げており、そのうちのひとりが千鳥足でセルジュに近づいてきた。
「は~はっはっはっはっはっ! おいおいおい、ずいぶんと気合入ってんなぁ! ハロウィンパーティはまだまだ先だぜ、ニンジャスレイヤーさ、ンぶッッ」
ヤンキーの身体が突然宙に浮き上がる。否、ヤンキーはセルジュの足元から伸びる“闇の腕”に首を締め上げられて、夜空に掲げられていた。
「がっ、かひっ……」
苦しみ藻掻くヤンキーを無視して、セルジュはズンズンと音が聞こえてきそうなほどしっかりとした足取りで進んでいく。周囲からはどよめきと息を飲む声が上がり、すぐ背後から腕がなにかを放り投げる気配も伝わってきたが、セルジュは見向きもしなかった。
「やはり地球人は、繁殖するに値しない」
そう吐き捨てたセルジュの鋭く冷たい眼光は、アクアを囲う悪漢どもを真っ直ぐに射抜いている。
セルジュはすでに、手刀を構えていた。あとはこれで、ヤンキーらの額でも喉元でも胸部でも、好きな箇所を貫けばいい。
ああ、そうだな、最初は眉間がいいか。頭蓋を割って、この右掌の指先を脳幹まで届けてくれる。そうすれば内圧で目玉が弾け飛び、もう二度とアクアの美しい姿を捉えることもなくなるだろう。そこから顔面を縦に裂いて、罵詈雑言を吐き出す喉を潰し、邪に染まった心臓をくり抜いて……それから、それから。
心の奥底からとめどなく湧き上がってくる憎悪を原動力にして、セルジュは地面を蹴る。そして貫手が、瞬く間に醜い面を貫いた──はずであった。
四つぞろえの指先は、目と鼻の先でぴたりと止まっている。誰あろう、アクアの楚々とした顔貌の前で、ぴたりと。
アクアは、ヤンキーらを庇うようにしてセルジュの前に立ちはだかっていた。咄嗟の判断で、ヤンキーらを押し退け躍り出てきたのだろう。その頼りない身体ひとつで、細い腕を目一杯に広げて、おそらくアクア自身が貫手の餌食になる可能性があったことも承知の上で。
(……こんな、こんな生かす価値もないような連中であっても、お前は守るというのか)
セルジュは黒頭巾の奥で歯噛みした。
ああ、アクアはそういう女だ。もう何度も思い知ったことだ。
いたいけな少女に心無い暴言を浴びせ嘲笑う輩であっても、この騒動を我関せずとどこか遠い目で眺める配信者らや道行く人々であっても、誰であっても、アクアは決して見捨てたりしない。
初めて相対したときもそうだったではないか。手酷く凌辱してしまったというのに、それでもアクアはセルジュを、ジェバイデッドを救いたいと、そう言ってのけたではないか。
本当に、どこまでも献身的すぎる。そんなアクアだからこそ、セルジュは心動かされてここまで来た。それなのに。
アクアの形の良い眉が、酷く歪んでいる。戸惑いに揺れ動く不可思議な色の瞳から、アクアの悲痛な心情が漏れ伝わってくるかのようであった。やはり我々は敵同士なのか、わかり合えないのか、戦いあう運命にあるのか、と。
こんなつもりではなかった。アクアを悲しませるつもりなんて、微塵もなかった。
ただ、アクアをあのまま放っておけなかっただけで……。
──やるせない。
この行き場のない手を、いったいどうすればいい。
喧騒に沸いていた夜の街は、緊張の糸を張り巡らされたかのような沈黙に包まれている。
その静けさを打ち破ったのは、やはり人倫に悖る者どもだった。
「お……脅かしやがって、この変態コスプレ野郎が。へ、へへへ、見かけだおしかよ」
「あぁ、ああぁ、アクアちゃん、ほら、はやくこいつヤッちゃってくれよ。よくわかんねぇけど、ボーコー罪だろ? 暴行罪!」
ヘラヘラと締まりのない、けれども引き攣った笑みを浮かべて、ヤンキーらはアクアの背後に隠れた。それだけでは飽き足らず、アクアの肩や腕を掴み、ぐいぐいとセルジュの前に押し出す始末。
それで、セルジュの中でなにかが切れた。
もはや一分一秒たりともアクアをこの場に留めておいてなるものか、と。セルジュは差し向けていた手でアクアの腕を思いきり引き、大きく一歩踏み込む。アクアと交差するその僅かな隙にヤンキーの顔面を鷲掴みにし、力任せに腕を振り切ってもうひとりのヤンキーの頭に強く打ち付けた。
大の男たちが地面に伏すのも待たずに、セルジュは半身を翻してアクアの華奢な身体を掬い上げる。
「あっ」
アクアの戸惑う声が遠のく。
セルジュはアクアを抱きかかえ、ポストに飛び乗り、突き出し看板を飛び移り、ビルとビルの壁を交互に蹴ってセルジュは夜空へと向かって上昇していった。
夜の街を跳躍していたセルジュは、やがて駅周辺でも抜きんでて高いビルの屋上に到達する。
大型の室外機がいくつも並んだ、さながら迷路のような屋上だった。室外機の無機質な駆動音の他は、微かな風の音しか届かない静かな静かな空間。
そんな室外機に囲まれた狭い場所に、セルジュはゆっくりとアクアを降ろす。それと同時にアクアが後ずさりしようとするので、セルジュは弾かれたように腕を伸ばした。
「きゃ……」
アクアの短い悲鳴が、セルジュの分厚い胸板に吸い込まれて途切れる。
セルジュは引き寄せたアクアを、強く強く抱き締めていた。
温かい。
甘くも爽やかな香りが鼻を、さらさらとした金髪が頬を擽る。柔らかな肌の感触が手に吸い付く、力強い胸の鼓動が、密やかな息遣いが確かに伝わってくる。
──逢いたかった。
やっと、やっとアクアが平穏無事であることを、この手で、この目で直に確かめることができた。
こうしてアクアを腕に抱いていると、心が安らぐ。先ほどまで胸に渦巻いていた漆黒の殺意など、もう跡形もなく消え去ってしまった。
そんなふうにアクアの“命”を噛み締めていると、ふとその身体が強張っていることに気づき、セルジュはほんの少しだけ腕の力を緩めた。
「……なにをそんなに硬くなっている」
「だ、だって……セルジュさんがいきなり現れて、いきなり人を襲ったり、こんなところまで連れてきたりするから……あの、私、混乱してる……」
アクアは胸の内を弱々しく吐露しながら、上目遣いにセルジュを見つめている。状況に頭がついていっていないものの、曲がりなりに悪漢から救出してもらったという意識があるのか強く批判してくることもなく、セルジュの動向を伺っているようである。
それになにより、お互い体面的には敵同士であり、幾度となくぶつかりあってきた。そんな関係にある男に抱きすくめられて緊張するなという方が、どだい無理な話であろう。
平静さを取り戻した頭でそう分析して、セルジュは名残惜しくもアクアを解放する。
「……お前のメッセージを聞いた」
端的に生配信を見たと伝えると、真正面に立つアクアが綺麗な瞳を丸く見開いた。
「それで、気が付いたときにはもうここに来ていた。お前が謂れのない詰りを浴びせられているのが我慢ならなくて……いや」
セルジュは胸の内に芽生え始めていた好意を明かそうとして、やめた。先ほどからアクアの顔の横にチラつく、ミラの姿に憚られて。
「……俺の想いは、お前と同じだ。何事もなく、争うことなく地球に移住できればどんなにいいかと、そう、思っている」
代わりというわけではないが、セルジュはアクアが望んでいたであろう言葉を紡ぐ。
「まだ陛下からの返事を得てはいないが……俺は、俺個人については、お前たちと争うつもりは毛頭ない。それだけでもお前に伝えたくて、ここに来た」
地球人として──美影清十郎として生きたい。それで、図々しくも願い叶うのであれば、隣にはミラがいて欲しい。これが嘘偽ることのない、セルジュの本心だ。
と、ここまで漠然と未来図を思い浮かべて、セルジュははたと気が付いた。
清十郎として生きるということは、セルジュというひとりの人間を捨てることと同義になるではないのか。そしてそうなると、アクアとの接点が消え失せることになるではないのか、と。
正義の味方であるアクアの私生活は、謎に包まれている。普段、どこに住んでどのように過ごしているのかなど知る手立てもないのだから、美影清十郎としてアクアと接触するのはまず不可能だろう。
ならばいっそのこと、暗殺者セルジュとして地球に居つけばいいのか。しかしそれだと、今度はミラとの接触が困難になる。一介の女子高生が異星人に言い寄られて、はいそうですかとすんなり受け入れられるわけがない。
セルジュとして生きればミラを、清十郎として生きればアクアを手放すことになる。
その堂々巡りの事実に戸惑い、セルジュの決意はいまグラグラと揺れ始めていた。
「嬉しい」
アクアの弾むような声に、セルジュは一瞬にして現実へと引き戻される。
「セルジュさんの気持ちが聞けてよかった……やっぱり、セルジュさん本当は優しい人なんですね」
宵闇を仄かに照らしだすような笑みを浮かべて、アクアはセルジュの両手を取ってぎゅっと握り締めた。
「あの森で助けてくれたのも、夢でもなんでもなかったんだ。いまだって私のこと助けてくれて……気持ちを聞かせてくれて、ありがとうございます。私たちが争うことなく生きていける道を、一緒に探していきましょうね」
なにやらアクアは満足げだったが、セルジュは気もそぞろでその内心を推し量ることもできない。
──ミラの笑顔は何度となく見てきたが、アクアの笑った顔は初めて見る。
外貌が瓜二つなのだから当たり前といえば当たり前だが、ミラとの甲乙がつけられないほど愛らしく、眺めているだけで心が和む。
「……もう、大事ないのだな。俺に癒しの術を施して気を違えたときは、本当に肝が冷えた」
そう確信を得て、黒頭巾の奥でふっと微笑んだセルジュであったが、裏腹にアクアからふっと笑みが消え失せた。
「私が、セルジュさんに癒しの術を? いつ?」
「……覚えていないのか? 俺が白の女王の“超次元波動砲”を受けたときだ。その傷を……」
セルジュが詳細を話そうとしたところで、突然アクアから身体中を弄られて言葉が引っ込む。
「は……“超次元波動砲”を、セルジュさんが!? え、い、生きて……傷は」
顔面蒼白となったアクアに触れられた箇所が、不意に温かくなる。見れば白魚のような手から淡い光を差し向けられていて、それが癒しの術であることはすぐにわかった。
そのらしくない狼狽っぷりに釣られて、セルジュは思わずアクアを抱き留めていた。
「落ち着け! 俺は亡霊でもなんでもない! 確かに“超次元波動砲”を受けはしたが、お前に助けられたんだ! いまはなんともない、息災だ!」
セルジュが思いがけず声を荒げれば、腕の中のアクアがゆるゆると肩の力を抜き始める。それに合わせて、セルジュもアクアを抱き留めていた腕をゆっくりと解いていった。
「そ……そうですよね。セルジュさん、ここにいるのに……私、先日の事件に関して記憶が曖昧で……変なこと言って、ごめんなさい」
アクアは安堵したのか、ほぅっと深く息を吐いた。記憶が曖昧だなんて言う割には、セルジュに助けられたという事実はしっかり覚えているのだから、本当にどこまでいってもとんだお人好しだ。
そんなアクアにどんどん絆されていくのをひしと感じていたのだが、そのとき微風に乗って漂ってきた妙な青臭さに鼻を突かれて、セルジュは眉を顰める。
そして、その臭いの出所に気づいた瞬間、セルジュの血潮が一気に逆流し始めた。
「……おい、その股の間から垂れ流しているものはなんだ」
セルジュは抑揚を取り払った声色で問い、ドレスの裾を乱暴に捲り上げてアクアの下半身を外気に晒す。
ショーツに隠されている陰部から太ももにかけて、半透明の濁った液体が伝い落ちていた。
この体液がなにであるかなどと、そんな馬鹿げたことを確認するつもりはない。
知りたいのは、なぜこれがアクアの体内から漏れ出ているかということだけだ。
そしてアクアの返答は、セルジュを狂わすのには十分過ぎた。
「えっ……な、なんで、ゴムしてもらったのに……」
根城からアクアのいる駅までは、直線距離にしておよそ六キロメートルといったところか。このまま建物から建物へと飛び移りながら走り続ければ、二十分ほどで辿り着ける計算になる。
決して遅いということはあるまい。だが、いまのセルジュにはこれでも歯痒かった。
疾く、いまは一秒でも疾く、アクアの元へ向かわなければ。
憤怒か、哀憐か、愛執か。
いずれの情念かは自分でもわからないが、とにかくもう、アクアをあの群衆どもと同じ空の下に居させたくなかった。
セルジュの念が、速度に変わる。
勢いそのままに高層ビルの屋上から飛び降りれば、着地した衝撃で辺りに轟音が響き渡った。
コンクリートの地面に亀裂が走り、破片が舞い上がって視界を乱す。
それでもセルジュは捉えた。
電子端末機で最後に見た場面と寸分変わらぬ光景を──三人の悪漢に囲われ立ち尽くすアクアの姿を。
「……セルジュさん」
アクアのささやかな声と目線に不審を抱いたのか、ヤンキーらがセルジュの方を振り返った。すっかり酔いが回っているのか、皆見るに堪えない赤ら顔をぶら下げており、そのうちのひとりが千鳥足でセルジュに近づいてきた。
「は~はっはっはっはっはっ! おいおいおい、ずいぶんと気合入ってんなぁ! ハロウィンパーティはまだまだ先だぜ、ニンジャスレイヤーさ、ンぶッッ」
ヤンキーの身体が突然宙に浮き上がる。否、ヤンキーはセルジュの足元から伸びる“闇の腕”に首を締め上げられて、夜空に掲げられていた。
「がっ、かひっ……」
苦しみ藻掻くヤンキーを無視して、セルジュはズンズンと音が聞こえてきそうなほどしっかりとした足取りで進んでいく。周囲からはどよめきと息を飲む声が上がり、すぐ背後から腕がなにかを放り投げる気配も伝わってきたが、セルジュは見向きもしなかった。
「やはり地球人は、繁殖するに値しない」
そう吐き捨てたセルジュの鋭く冷たい眼光は、アクアを囲う悪漢どもを真っ直ぐに射抜いている。
セルジュはすでに、手刀を構えていた。あとはこれで、ヤンキーらの額でも喉元でも胸部でも、好きな箇所を貫けばいい。
ああ、そうだな、最初は眉間がいいか。頭蓋を割って、この右掌の指先を脳幹まで届けてくれる。そうすれば内圧で目玉が弾け飛び、もう二度とアクアの美しい姿を捉えることもなくなるだろう。そこから顔面を縦に裂いて、罵詈雑言を吐き出す喉を潰し、邪に染まった心臓をくり抜いて……それから、それから。
心の奥底からとめどなく湧き上がってくる憎悪を原動力にして、セルジュは地面を蹴る。そして貫手が、瞬く間に醜い面を貫いた──はずであった。
四つぞろえの指先は、目と鼻の先でぴたりと止まっている。誰あろう、アクアの楚々とした顔貌の前で、ぴたりと。
アクアは、ヤンキーらを庇うようにしてセルジュの前に立ちはだかっていた。咄嗟の判断で、ヤンキーらを押し退け躍り出てきたのだろう。その頼りない身体ひとつで、細い腕を目一杯に広げて、おそらくアクア自身が貫手の餌食になる可能性があったことも承知の上で。
(……こんな、こんな生かす価値もないような連中であっても、お前は守るというのか)
セルジュは黒頭巾の奥で歯噛みした。
ああ、アクアはそういう女だ。もう何度も思い知ったことだ。
いたいけな少女に心無い暴言を浴びせ嘲笑う輩であっても、この騒動を我関せずとどこか遠い目で眺める配信者らや道行く人々であっても、誰であっても、アクアは決して見捨てたりしない。
初めて相対したときもそうだったではないか。手酷く凌辱してしまったというのに、それでもアクアはセルジュを、ジェバイデッドを救いたいと、そう言ってのけたではないか。
本当に、どこまでも献身的すぎる。そんなアクアだからこそ、セルジュは心動かされてここまで来た。それなのに。
アクアの形の良い眉が、酷く歪んでいる。戸惑いに揺れ動く不可思議な色の瞳から、アクアの悲痛な心情が漏れ伝わってくるかのようであった。やはり我々は敵同士なのか、わかり合えないのか、戦いあう運命にあるのか、と。
こんなつもりではなかった。アクアを悲しませるつもりなんて、微塵もなかった。
ただ、アクアをあのまま放っておけなかっただけで……。
──やるせない。
この行き場のない手を、いったいどうすればいい。
喧騒に沸いていた夜の街は、緊張の糸を張り巡らされたかのような沈黙に包まれている。
その静けさを打ち破ったのは、やはり人倫に悖る者どもだった。
「お……脅かしやがって、この変態コスプレ野郎が。へ、へへへ、見かけだおしかよ」
「あぁ、ああぁ、アクアちゃん、ほら、はやくこいつヤッちゃってくれよ。よくわかんねぇけど、ボーコー罪だろ? 暴行罪!」
ヘラヘラと締まりのない、けれども引き攣った笑みを浮かべて、ヤンキーらはアクアの背後に隠れた。それだけでは飽き足らず、アクアの肩や腕を掴み、ぐいぐいとセルジュの前に押し出す始末。
それで、セルジュの中でなにかが切れた。
もはや一分一秒たりともアクアをこの場に留めておいてなるものか、と。セルジュは差し向けていた手でアクアの腕を思いきり引き、大きく一歩踏み込む。アクアと交差するその僅かな隙にヤンキーの顔面を鷲掴みにし、力任せに腕を振り切ってもうひとりのヤンキーの頭に強く打ち付けた。
大の男たちが地面に伏すのも待たずに、セルジュは半身を翻してアクアの華奢な身体を掬い上げる。
「あっ」
アクアの戸惑う声が遠のく。
セルジュはアクアを抱きかかえ、ポストに飛び乗り、突き出し看板を飛び移り、ビルとビルの壁を交互に蹴ってセルジュは夜空へと向かって上昇していった。
夜の街を跳躍していたセルジュは、やがて駅周辺でも抜きんでて高いビルの屋上に到達する。
大型の室外機がいくつも並んだ、さながら迷路のような屋上だった。室外機の無機質な駆動音の他は、微かな風の音しか届かない静かな静かな空間。
そんな室外機に囲まれた狭い場所に、セルジュはゆっくりとアクアを降ろす。それと同時にアクアが後ずさりしようとするので、セルジュは弾かれたように腕を伸ばした。
「きゃ……」
アクアの短い悲鳴が、セルジュの分厚い胸板に吸い込まれて途切れる。
セルジュは引き寄せたアクアを、強く強く抱き締めていた。
温かい。
甘くも爽やかな香りが鼻を、さらさらとした金髪が頬を擽る。柔らかな肌の感触が手に吸い付く、力強い胸の鼓動が、密やかな息遣いが確かに伝わってくる。
──逢いたかった。
やっと、やっとアクアが平穏無事であることを、この手で、この目で直に確かめることができた。
こうしてアクアを腕に抱いていると、心が安らぐ。先ほどまで胸に渦巻いていた漆黒の殺意など、もう跡形もなく消え去ってしまった。
そんなふうにアクアの“命”を噛み締めていると、ふとその身体が強張っていることに気づき、セルジュはほんの少しだけ腕の力を緩めた。
「……なにをそんなに硬くなっている」
「だ、だって……セルジュさんがいきなり現れて、いきなり人を襲ったり、こんなところまで連れてきたりするから……あの、私、混乱してる……」
アクアは胸の内を弱々しく吐露しながら、上目遣いにセルジュを見つめている。状況に頭がついていっていないものの、曲がりなりに悪漢から救出してもらったという意識があるのか強く批判してくることもなく、セルジュの動向を伺っているようである。
それになにより、お互い体面的には敵同士であり、幾度となくぶつかりあってきた。そんな関係にある男に抱きすくめられて緊張するなという方が、どだい無理な話であろう。
平静さを取り戻した頭でそう分析して、セルジュは名残惜しくもアクアを解放する。
「……お前のメッセージを聞いた」
端的に生配信を見たと伝えると、真正面に立つアクアが綺麗な瞳を丸く見開いた。
「それで、気が付いたときにはもうここに来ていた。お前が謂れのない詰りを浴びせられているのが我慢ならなくて……いや」
セルジュは胸の内に芽生え始めていた好意を明かそうとして、やめた。先ほどからアクアの顔の横にチラつく、ミラの姿に憚られて。
「……俺の想いは、お前と同じだ。何事もなく、争うことなく地球に移住できればどんなにいいかと、そう、思っている」
代わりというわけではないが、セルジュはアクアが望んでいたであろう言葉を紡ぐ。
「まだ陛下からの返事を得てはいないが……俺は、俺個人については、お前たちと争うつもりは毛頭ない。それだけでもお前に伝えたくて、ここに来た」
地球人として──美影清十郎として生きたい。それで、図々しくも願い叶うのであれば、隣にはミラがいて欲しい。これが嘘偽ることのない、セルジュの本心だ。
と、ここまで漠然と未来図を思い浮かべて、セルジュははたと気が付いた。
清十郎として生きるということは、セルジュというひとりの人間を捨てることと同義になるではないのか。そしてそうなると、アクアとの接点が消え失せることになるではないのか、と。
正義の味方であるアクアの私生活は、謎に包まれている。普段、どこに住んでどのように過ごしているのかなど知る手立てもないのだから、美影清十郎としてアクアと接触するのはまず不可能だろう。
ならばいっそのこと、暗殺者セルジュとして地球に居つけばいいのか。しかしそれだと、今度はミラとの接触が困難になる。一介の女子高生が異星人に言い寄られて、はいそうですかとすんなり受け入れられるわけがない。
セルジュとして生きればミラを、清十郎として生きればアクアを手放すことになる。
その堂々巡りの事実に戸惑い、セルジュの決意はいまグラグラと揺れ始めていた。
「嬉しい」
アクアの弾むような声に、セルジュは一瞬にして現実へと引き戻される。
「セルジュさんの気持ちが聞けてよかった……やっぱり、セルジュさん本当は優しい人なんですね」
宵闇を仄かに照らしだすような笑みを浮かべて、アクアはセルジュの両手を取ってぎゅっと握り締めた。
「あの森で助けてくれたのも、夢でもなんでもなかったんだ。いまだって私のこと助けてくれて……気持ちを聞かせてくれて、ありがとうございます。私たちが争うことなく生きていける道を、一緒に探していきましょうね」
なにやらアクアは満足げだったが、セルジュは気もそぞろでその内心を推し量ることもできない。
──ミラの笑顔は何度となく見てきたが、アクアの笑った顔は初めて見る。
外貌が瓜二つなのだから当たり前といえば当たり前だが、ミラとの甲乙がつけられないほど愛らしく、眺めているだけで心が和む。
「……もう、大事ないのだな。俺に癒しの術を施して気を違えたときは、本当に肝が冷えた」
そう確信を得て、黒頭巾の奥でふっと微笑んだセルジュであったが、裏腹にアクアからふっと笑みが消え失せた。
「私が、セルジュさんに癒しの術を? いつ?」
「……覚えていないのか? 俺が白の女王の“超次元波動砲”を受けたときだ。その傷を……」
セルジュが詳細を話そうとしたところで、突然アクアから身体中を弄られて言葉が引っ込む。
「は……“超次元波動砲”を、セルジュさんが!? え、い、生きて……傷は」
顔面蒼白となったアクアに触れられた箇所が、不意に温かくなる。見れば白魚のような手から淡い光を差し向けられていて、それが癒しの術であることはすぐにわかった。
そのらしくない狼狽っぷりに釣られて、セルジュは思わずアクアを抱き留めていた。
「落ち着け! 俺は亡霊でもなんでもない! 確かに“超次元波動砲”を受けはしたが、お前に助けられたんだ! いまはなんともない、息災だ!」
セルジュが思いがけず声を荒げれば、腕の中のアクアがゆるゆると肩の力を抜き始める。それに合わせて、セルジュもアクアを抱き留めていた腕をゆっくりと解いていった。
「そ……そうですよね。セルジュさん、ここにいるのに……私、先日の事件に関して記憶が曖昧で……変なこと言って、ごめんなさい」
アクアは安堵したのか、ほぅっと深く息を吐いた。記憶が曖昧だなんて言う割には、セルジュに助けられたという事実はしっかり覚えているのだから、本当にどこまでいってもとんだお人好しだ。
そんなアクアにどんどん絆されていくのをひしと感じていたのだが、そのとき微風に乗って漂ってきた妙な青臭さに鼻を突かれて、セルジュは眉を顰める。
そして、その臭いの出所に気づいた瞬間、セルジュの血潮が一気に逆流し始めた。
「……おい、その股の間から垂れ流しているものはなんだ」
セルジュは抑揚を取り払った声色で問い、ドレスの裾を乱暴に捲り上げてアクアの下半身を外気に晒す。
ショーツに隠されている陰部から太ももにかけて、半透明の濁った液体が伝い落ちていた。
この体液がなにであるかなどと、そんな馬鹿げたことを確認するつもりはない。
知りたいのは、なぜこれがアクアの体内から漏れ出ているかということだけだ。
そしてアクアの返答は、セルジュを狂わすのには十分過ぎた。
「えっ……な、なんで、ゴムしてもらったのに……」
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