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第二章

51、打ちのめされた心を照らして

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 学校を出たミラは、最寄り駅に到着していた。
 いまの時間帯は、駅を利用して帰宅する者、帰宅した者、周囲の商業施設で遊び終えた学生、これから一杯ひっかけようとする社会人などなど……実に多くの人々で賑わっている。

 ミラの傍らを歩く修介しゅうすけが、そんな駅前の光景を眺めながら呟いた。

「──あまり被害がなくてよかったね、一時はどうなることかと思ったけど」

 先日の、駅前森林化騒動のことを言っているのだろう。一部の建造物には軽度の破損が見られ、ところどころ工事中の場所もあるものの、駅前はすっかり日常の姿を取り戻している。
 そうですね、と相槌を打ったミラだったが、どうにも生返事になってしまったように感じ、これはよくない、と自分を戒めた。

 修介は礼も兼ねて清十郎の話でも聞いてくれないか、と言っていたが、十星じゅうじょう高校から駅までの道のり、約二十五分間、ミラとは学校生活における差当たりのない会話しかしていない。肝心要の、清十郎せいじゅうろうのことには一切触れずに。
 いつ話してくれるのだろう、とミラがやきもきしている内に、駅を通り越して更に十分ほど歩いていた。

「学校からだと、結構な距離があるもんだな。歩かせちゃってごめんね、着いたよ」

 とある店の前で立ち止まった修介が、ミラに笑いかける。
 『Old Ash』という文字が綴られた、黒い看板を掲げる小さな店だった。その左右にはアンティーク調のランプがつけてあって、ダークブラウンの外壁とドアも相当に年季が入っているように見受けられる。
 一見すると古き良きカフェのようだが、開店前なのかメニュー表の類も見当たらず、なんの店なのかよくわからない。

「こっちにおいで」

 修介に呼びかけられたミラは店の裏手に回り、従業員用の入り口から乱雑に物が置かれたスタッフルームを通って店内に入った。
 中は薄暗く、やはりなんの店なのかわからなかったのだが、後ろからついてきていた修介がすかさず明かりを点けると、周囲はたちまち琥珀色に浮き上がった。

 店は、外から見た印象よりもずっと広く、縦に長い不可思議な形をしていた。
 外装と同じアンティーク調の店内の端から端までを突き抜けるように、重厚なカウンターが伸びている。それに伴って椅子が二十脚ほど備え付けられており、狭い通路を挟んだところにはテーブル席が三つ用意されていた。
 そして、カウンターの奥。その壁の戸棚にずらりと並んだ、大小、様々な形をした瓶の数たるや、あまりの多さに目が眩んでしまう。

 ミラはもちろん、こういった類の店を利用したことなどない。しかし、ドラマやアニメなどで似たような店を見たことはあり、知識も持ち合わせている。
 ここは、酒を提供する店──バーだ。

「それじゃ、カウンター席のところ、適当に座っててくれるかな。すぐに戻るよ」

 修介はそれだけ言い残すと、ミラが止める間もなくスタッフルームに引っ込んでいってしまった。
 ドアがパタン、と閉まり、店が静けさに沈む。

(い、いいのかな……)

 ひとり店内に取り残されたミラは、修介に言われた通りカウンターの近くまで来たものの、なかなか椅子に座る踏ん切りが付かなかった。
 なにせミラは十六歳の未成年。本来なら、まだバーに足を踏み入れていい年齢ではない。飲酒さえしなければいいのかもしれないが、それにしたってなんだかイケないことをしているようで気もそぞろだ。
 しかしいつまでも突っ立っているわけにもいかないと、ミラがバーカウンターのほぼ真ん中にある椅子に腰掛けた頃、ドアの開く音がした。

「お待たせ」

 戻ってきた修介は、学校に訪れたときの格好ではなかった。
 パリッとした白いフォーマルなシャツに、シンプルながら質の良さそうなクロスタイ。黒いベストの下に、黒い腰掛けのロングエプロン、黒のスラックスを着用し、見事なまでにスマートに纏められていた。

 カウンターの中に入っていった修介を前に、ミラは、ほぅ、と息を吐いて尋ねる。

「バーテンダーさんなんですね……」

「そ。まだ駆け出しなんだけどね。どう? 少しは様になってるかな?」

 修介にふっと微笑みかけられて、ミラは一瞬どきりと胸を高鳴らせた。
 さすが、清十郎の血縁者なだけはある。清十郎──とセルジュは野性味に溢れた美形だが、修介はふたりとはまた違う、大人の余裕を垣間見せるとびっきりの美青年だ。

「かっこいい、です」

 ミラは修介から漂ってくる色香に当てられて、そう答えるのがやっとだった。

「ふふっ、ありがとう。さ、親切なお嬢さんにお礼をしなくちゃね。なにか食べ物のアレルギーはあるかな?」

 軽く受け流しながら、修介がなにやら器具を触り出したので、ミラは慌ててカウンターに両手をついて立ち上がった。

「お、お酒はダメですっ」

 ミラの鼻先にいる修介は、たいそう驚いたのか切れ長の目をまん丸くしている。それから間もなくして、プッと吹き出した。

「ごめんごめん、店の準備をしないといけないから連れて来ちゃったけど、そりゃ勘違いもするよな。大丈夫、営業停止にでもなったら先代さんに顔向けできないからね。未成年に酒を出したりしないよ」

 やんわりと宥められたミラはなんだか恥ずかしくなってしまい、ゆるゆると腰を椅子に降ろした。肩を小さくして丸まったミラが改めてアレルギーがないことを伝えると、修介が慣れた手付きで“お礼”の準備に取り掛かる。
 そして。

「それで、清十郎だけどね」

 修介の口から清十郎の名前が出たところで、ミラの背筋がピッと伸びた。

「まあ、元気があるかないかでいうと、ないかもね。さっきも言った通り、君のせいじゃない。ちょっとした家庭のゴタゴタさ」

 元気がない、と言われて、ミラの心がズシリと重くなった。
 修介はちらちらと視線をミラに送りながらも、手元ではテキパキとカクテルを作りつつ話を続ける。

「これは清十郎の話というか、俺の話でもあるんだけど。俺たちは生まれ故郷に住んでいられなくなって、この街に移ってきたんだ」

 一体なにが起これば、生まれ故郷に住んでいられないなどという状況になるのだろう。清十郎がなにか尋常ならざる事情を抱えているとは思っていたが、実際は想像の範疇を遥かに超えていたようで、ミラは言葉も出ない。

「でも、もしかしたら、この街にも住み続けられないかもしれなくてね」

 修介からそう告げられた瞬間、石と化していたミラの心に、ぴしりと亀裂が入った。

「ど……どこか行っちゃうんですか……?」

「……清十郎は、えらく気落ちした様子だったよ。俺が思っていた以上に、清十郎はここでの暮らしが気に入ってたみたいだ」

 意味有り気に、淋しげに笑う修介の声が、どこか遠い。
 清十郎が、いなくなってしまう。

(……やだ、美影みかげくんがいなくなるの、やだ)

 まだ謝ってもいないのに。まだ誤解を解いてもいないのに。
 たった三日間、不意に会えなくなっただけでも、こんなにも空虚を感じているというのに。

 いやだいやだ、と唱える度に、ミラのひび割れた心臓はずきずきと痛んだ。
 傷口がどんどん広がっていく。心臓の破片が、ぽろぽろと崩れ落ちていく。

 胸をぎゅぅぅと押さえつけても、鼓動は強くなるばかりで痛みは治まらない。
 このままでは、胸にぽっかりと穴が開いてしまいそうだった。

 そうしてミラは、思い知る。

(……美影くんと一緒にいたい。一緒に勉強したり、みんなみたいにたくさん話もしたい。一緒に帰ったり、遊びに行ったり……)

 そうだ、いつ発情するともわからぬから、と、深入りしないよう自制を心掛けていたが、本当はミラだって、ごくごく普通の高校生として清十郎と付き合っていきたかったのだ。

 けれど、こんな身体ではそんな些細な願いさえ叶わない。
 その事実がどうしようもなく苦しくて、悲しくて、ミラは絶望に打ちひしがれて、俯く。

 そんなミラの心中など知る由もない修介は、淡々と話を続けていた。

「ここは不思議な街だね。都心並みに栄えているせいか治安は悪くて、みんながみんな他人に無関心だ。でも、ふとした瞬間に手を差し伸べてくれる。最初は、清十郎と暮らすのに都合のいい街だな、ぐらいの認識だったんだけど、存外に居心地がいい。俺も……今更になって、この生活を手放すのが惜しくなってる」

「あ、の」

 修介の話を遮ったミラの声は、震えて不協和音を奏でている。

「ご家庭の事情だから、私がとやかく言えるようなことじゃないのは、わかってます。仰る通り、この街の治安も褒められたようなものじゃ、ないですけど……」

 ミラはいっそう顔を沈めて、張り裂けそうな胸の内を少しずつ、少しずつ漏らしていく。

「でも、年中通してイベントがたくさんあって……夏はお祭りだって、たくさん。お大師様では、全国から風鈴を集めて一斉販売や展示を行う大きなお祭りがあって。秋になれば、この国で最大規模のハロウィンパレードだってあります。冬になれば、至る所にクリスマスツリーが飾られて、街中イルミネーションの灯りで賑やかになって……」

 違う。言いたいことは、伝えたいことは、そういうことではなくて。

「あの、もっと、この街に居て欲しいです。この街での暮らしを、楽しんで欲しいです……どこにも、行かないで」

「──清十郎に、そう伝えておけばいい?」

 優しげな声に顔を上げれば、微笑を浮かべた修介が待っていた。

「……清十郎と離れ離れになるのは、泣くほど辛い?」

「え……」

 ミラは、修介に指摘されるまで気づかなかった。
 心の破片ばかりか、涙まで零れ落ちていたことに。

 驚いた弾みで涙を拭うミラを見なかったことのようにして、修介は目の前のカウンターにグラスと皿をそっと差し出した。
 極々薄い黄色に色づく炭酸水に角切りのレモンと氷、ミントの葉が入った、見るからに爽やかなカクテルとトリュフチョコレートがふたつ、ミラの前に置かれている。

「これは、俺と清十郎を助けてくれたお礼だよ。これで元気を出してくれたら、嬉しいんだけどな」

 どうやらこのカクテルとトリュフチョコレートが、修介の礼らしい。道案内の対価としては少々行き過ぎな気もするが、それよりもミラは修介の言葉の方に引っ掛かりを覚えた。

「私、美影くんを助けたことなんてありません」

 むしろ迷惑をかけてばかりだ、とミラは首を横に振るが、修介は頑として譲らなかった。

「いつだったか清十郎から、ずいぶんと親身になって面倒を看てくれる同級生がいるって聞かされてね。君の名前を聞いたとき、そのことを思い出したんだよ。よほど嬉しかったんだろうな、清十郎の奴。あいつのあんな穏やかな顔は、初めて見たよ」

「──……」

 ミラには、修介の言う清十郎の“あんな穏やかな顔”が、どんなものを差しているのかは、わからない。
 けれど、そこには決して、嫌悪や憎悪といった負の感情は含まれていないのだろう。

 修介は唇に薄い弧を描いて、目を細めている。

「君がいたから、清十郎も学校で上手くやっていけてたんだと思う。だから、ね。これは俺からの感謝の気持ちだ。深く考えたりしないで、召し上がれ」

 清十郎はきっと、ミラのことを憎からず想ってくれていた。少なくとも先日、性交をおこなうまでは、きっと、きっと。 
 健全な身体だったら、いまごろ清十郎と仲良くやれていたのだろうか。

 そんな有り得たかもしれない未来を想像していたら、なんだかまた目の奥が滲んできてしまって、ミラはそれを紛らわすようにグラスを手に取った。
 いただきます、と告げて一口含むと、ミントの清々しい香りが鼻を抜けていった。そのすぐ後から、レモンやオレンジといった柑橘類の酸味と強い炭酸が追いかけてくる。見た目通りの爽やかな味が、瞬く間に体内を駆け抜けていく。

 ミラは、ほんの少しだけ心が軽やかになった気がした。そのままトリュフチョコレートをフォークで割って口に運ぶと、思いがけなかった滋味が口内を満たして、頬が極々僅かに綻んだ。

「おいしい……チーズが入ってる……」

「そうそう、生クリームの代わりに、クリームチーズを使ってるんだ。先代さんから受け継いだ自家製でね……うん。そうやって笑ってる方が、可愛いよ」

 楽しげな修介の声に導かれて、ミラは顔を持ち上げる。

「──清十郎のこと、気にかけてくれてありがとう」

 修介は微笑みながらも、少しだけ困ったように眉をひそめていた。

「……さっきは、この街にいられないかもって言ったけどね、それはあくまでも可能性の話だ。俺も、なるべくこのまま暮らせるように手を尽くすつもりでいる。だから、これからも変わらず、清十郎と仲良くしてやってくれないかな」

 それは、ミラにとっては願ってもないことで。
 反射的に返答しようとしたミラは、ハッと思い留まって唇をきゅっと結んだ。

(……こんな身体のままじゃ、ダメだ)

 ミラは、半ば無理やり笑顔を作り出して、答えを濁す。

「美影くんさえ良ければ、喜んで」


※:


 帰り際、タクシーでも呼ぼうか、という本気とも冗談とも思えぬ修介の提案を丁重に断り、ミラはバーを後にした。

 今日は電車を使わず、鉄道の線路に沿って家路をこう。
 空に、星が煌めき始めていた。そんな星々を見上げ、ミラは憂う。

(元の身体に戻ったら、美影くん、許してくれるかな……)

 精液を必要としている間は、どんな誠意を以て清十郎と接しても、不快感を与えるだけだろう。それはミラの望むところではない。

 そもそも前提が間違っていたのだと、ミラは反省する。発情を抑えるために精液を求めるのではなく、その大元、発情する身体を元に戻すことに尽力すべきだったのだ、と。
 健全な身体を取り戻すまで、時間がかかるかもしれない。その間に、清十郎が去ってしまうかもしれない。それ以前に、清十郎はもうミラを軽蔑して見限っているかもしれない。
 それでも、清十郎と仲良くなれる可能性が、ほんの少しでも残されているのなら──。

 ミラは初夏の星座に決意を示して、しっかりとした足取りで歩きだした。
 
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