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第二章

31、若葉、萌ゆる頃

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 雑草が鬱蒼と生い茂る校舎裏で、セルジュはミラの髪から漂ってくる清々しくも甘い香りを目一杯に吸い込んだ。昨日もこの柔らかなミラの身体を抱いていたはずなのに、もうずいぶんと長いこと離れていた気がする。

(……ああ、なにか、満たされるような……)

 こうしてミラを抱きしめていると、いままでの不安が嘘のように雲散していく。心になにか温かいものが宿り、全身がだんだん心地よい安らぎに包まれていった。
 胸に芽吹いたこの種を大事に育てていけば、幸福という名の果実へと成長するのではないだろうか。半ばそう確信を得たセルジュは、ミラをいっそう強く抱き締めた。

「み、美影みかげくん……あの、もう逃げませんから……は、離してください……」

 ミラの蚊の鳴くような声に、セルジュは反射的に拘束を解く。その顔を見ると、いまにも瞳から雫が零れ落ちそうになっており、セルジュはぎくりと身を強張らせる。
 情交の件を謝らなければ。あまりの抱き心地の良さに、本題をすっかり忘れるところであった。

「──保刈ほかり……」

「ご、ごめんなさい!!」

 どういうわけか、ミラの方がセルジュに向かって頭を下げてきた。それもほぼ直角に。当然ながらミラに謝罪されるような覚えのないセルジュは、軽い混乱状態に陥り、固まる。

「わ、私……美影くんに酷いことしたのに、怖くて、逃げ回ってしまって……」

 小刻みに震えるミラの細い肩を前に、セルジュはいよいよ頭が痛くなってきた。

「……待て。なんだ、酷いことって」

「そ……その、昨日、私が美影くんを襲って……え、え、え、えっちなことを、させてしまったことです……」

 金の髪から覗くミラの耳が、真っ赤に染まり上がっている。

(……まさか、俺が薬を飲ませたことに、気づいていないのか)

 セルジュは困惑しながらも、その結論に至った。そうでなければ、ミラのこの陳謝に説明がつかない。
 ほんの束の間、セルジュは事実を隠したままにしておこうかと考えた。ミラに嫌われているわけではないと判明したいま、いたずらに真実を打ち明けなくてもよいのではないか、と。
 しかしそれは、誠実ではない気がした。セルジュが崇敬の念を寄せるジェバイデッド皇帝ケインリヒから、許しを得たいのであれば誠意を持てと諭されたし、ミラに対しては誠実でありたいと思った。

 そもそも、ミラのような華奢な少女に襲われて撃退できないほど、セルジュの肉体は退化していない。

「保刈、お前は俺を襲ったというが……」

「あ、あのっ、わ……私、その、せ、精液を……精液を摂取しないと、えっちな気分が治まらなくて……そういう、病気というか、体質みたいなもので……」

 ミラの口から飛び出してきた衝撃的な事実に、セルジュが告げんとしていた真実は完全に喉の奥へと引っ込んでしまった。
 まさか、ミラが妊娠促進剤を飲ませた際に起こる副作用と、同じような持病を抱えていたとは。

(地球には、そんなやまいが存在するのか? エニグマチップには記録されていないようだが……)
 
 地球の情報はだいたい網羅されているというエニグマチップを頼って探るが、該当しそうな奇病難病は見つからない。
 セルジュが集積回路を巡っている間にも、ミラは懸命に弁明を続けていた。

「昨日は、それで、我慢できなくて……こんな理由で、美影くんを襲ってしまったことを許してもらおうだなんて、そんな都合のいいことは考えてません。本当に、嫌な思いをさせてしまってごめんなさい……」

「……別に、俺は嫌な思いをしたわけじゃない」

 むしろセルジュの方が、ミラに嫌な思いをさせたと怯え、恐れ、一晩中思い悩んでいた。決して、ミラに対して負の感情を抱いたことはない。
 そう伝えるも、ゆっくりと持ち上がったミラの顔は、不安げなままだった。

「……美影くん、昨日のことを怒っていたんじゃないんですか? だから今朝、怖い顔をしていたんだとばかり……」

「っ、違う、俺は!」

 思いがけず声が荒れてしまい、セルジュは慌てて声を抑えた。こんな調子だから、ミラに怖い顔と言われてしまったのかと、思い改まって。

「……俺は、昨日の一件で、保刈と疎遠になるのが嫌だっただけだ」

 セルジュは一呼吸置き、心の声に従い言葉を紡ぐ。

「最初は、学校に通うなど馬鹿々々しいと、苛立ちを覚えずにはいられなかった。だが……お前に世話を焼かれて、こういう生活もそう悪いものではないと、思った」

 ずいぶんらしくない言辞の羅列だと思う。それでもこれが、セルジュの偽らざる心情だ。

「保刈には、感謝している。昨日の件も、お前に非があるとは微塵も思っていない。だから……逃げないでくれ。この先も変わらず、俺と接してほしい。頼む」

 セルジュはポケットから取り出したリボンタイを、ミラの手にそっと握らせた。
 ミラはきっと、快く承諾してくれる。そんな予感がありながらも、セルジュは処刑のときを待つ罪人になった気分だった。

 晴れ空の下、心臓の重く鈍い音が鳴り響く。微風が凪いで、あとには青臭さだけが残った。

「……私も、このまま美影くんとギクシャクするのは、淋しいです」

 ミラが、手を握り返してきた。そして、安堵したかのように頬をふっと綻ばせる。

「最初から、こうやって向き合っていればよかったんですね。逃げたりしてごめんなさい、許してくれて、ありがとう」

 それはまるで、荒れた野原に埋もれていた蕾が、ひっそりと花開くような輝きを放っていた。
 セルジュが過ちを犯してから以後、ずっと拝みたいと願っていたミラの柔らかな微笑。その光に照らされて、セルジュは心が和らぎ、温かくなっていくのを確かに感じ取った。

 いや、そんな生温いものではない。
 熱が、熱を帯びたなにかが心を満たし尽くして、胸から込み上げてくる。
 
 そして、一気に溢れ返った。

「んっ……」

 くぐもった声が、ミラから漏れ出た。
 セルジュは気がつくと、ミラの甘美な唇に食らいついていた。ぷるぷるとした感触が、いやに気持ちいい。だがキスだけではだめだ。極上の遥か上をいく、あの夢のような心地が味わえない。

 もう一度、ミラを抱かなければ。ミラのすべてを味わい尽くし、そしてゆくゆくは──子を産んでもらわなければ。

 男子高校生の身で『子供が欲しい』などと望むのは、かなり異質であるとセルジュは自覚している。だが、子を成すというのはジェバイデッドの民としての急務だ。そしていまのところ、セルジュの子を産めるのは目の前にいるミラと、敵対関係にあるアクアだけ。

 ミラを抱いて堪能したいという一方で、子を儲けなければといているのも事実で。
 どうにも、美影清十郎せいじゅうろう暗殺者アサシンセルジュの意識が、中途半端に混ざっているような気がしてならない。
 
 ふたつの意思に翻弄されながら甘い果実を貪っていたセルジュだったが、その心地よさは不意に離れていってしまった。

「み、美影くん、だめだよっ」

 ミラが、真っ赤に染まった顔でセルジュを見上げていた。

「こ……こういうことは、好きな人とするもの、だよ……」

「……好き、な……?」

 セルジュは間の抜けた声で反芻する。そういえば、アクアを抱いた時も同じことを言われたか。
 女を抱くのは性欲を発散させるため、あるいは子を産ませるためだ。それ以外に、理由などあろうはずもないのに、なぜかミラの言葉は頭に引っかかる。

 セルジュはふと、一連の出来事を振り返ってみた。
 ミラを抱いた時の、得も言われぬ幸福感。その幸福が、強引に合意を得て交わった末に作られた、まやかしだったと思い知った時の絶望感。そして、ミラに嫌われたのではないかと、恐れおののいたこと。嫌われているわけではないと知って、心の底から安堵したこと。
 これらすべては、セルジュが生きてきた中で、初めて味わう感覚だった。

 人は、この名状しがたい感情すべてをひっくるめて、『好き』と呼ぶのだろうか。

(俺は……保刈のことが、好き、なのか……?)

 セルジュは自分自身が打ち出した答えに困惑する。黒の皇帝ケインリヒに、ミラが好きなのだろうと指摘されたときは瞬時に突っぱねたのに、どういうわけか、いまはこの気持ちを否定したくなかった。
 けれども、確信を持てないでいる。殺伐とした世界に生まれ落ちたセルジュには、ミラに対する想いが恋しいと呼んでいいものなのかどうか、わからない。

 胸に芽生えた感情の正体を掴もうと、セルジュは必死に頭を回転させるが、その思考は例の忌々しい声によって遮られてしまった。

「ミーラーちゃーん! お昼ごはん食べよー!」

 振り返ると、可琳かりんがかなり遠くの方から手を振っていた。どうしてこうも、見計らったかのようなタイミングで現れるのか。

「呼ばれたから、行くね。リボン、拾ってくれてありがとう」

 ミラはぴんと伸ばした腰を折ると、セルジュの脇をすり抜けて校舎裏から去って行った。

 ひとまずミラとの和解は叶ったというのに、ひとり残されたセルジュの胸は曇ってすっきりしない。ミラのことが好きなのかどうかという、新たなる悩みの種が、セルジュの胸の奥底に植えつけられてしまった。
 そちらにばかり気を取られていたせいなのか、セルジュは最後まで気づかなかった。
 ミラに、妊娠促進剤を飲ませていたのだと打ち明けられず、謝罪の言葉も述べられなかったことに。
 
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