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第二章

30、逃がさん

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 翌日、教室のドアを開けたセルジュの顔は、いつも以上に険しかった。眉間の皺はより深く刻まれ、目の周りにはうっすらとクマができている。
 それもこれも、昨晩ほとんど眠れなかったせいだ。ミラの憂う顔がちらついて、ベッドで何度も寝返りを打っているうちに夜が明けてしまった。

 この苦しみから逃れるためには、ミラと和解する必要がある。
 和解といっても、ミラが今現在セルジュをどう思っているのかは、まだ不明瞭なままだった。シリウスはしきりに、ミラがセルジュに嫌悪感をいだいているだろうと脅してくれたが、それすら定かではない。ミラが、昨日の出来事をなんとも思っていない可能性も、あるにはある。
 だがセルジュは、ミラの気持ちを確認するのが少々恐ろしかった。
 
(……なにを恐れることがある。いずれにせよ、一言謝ってこれを返せばそれですべてが解決する話ではないか)
 
 セルジュはズボンのポケットに入れていたミラのリボンタイを軽く握り、意を決して教室に踏み込んだ。
 そうして、ミラまでの距離を一気に縮める。

「……保刈ほかり

 息を呑んだセルジュが声をかけると、ミラの細い肩がびくりと跳ね上がった。

「……ぁ、美影みかげくん、お、おはようございます……」

 ミラのその、消え入りそうな声の儚さときたら。セルジュの心臓を再び締め上げるには十分過ぎた。
 おまけに、ミラの瞼は微かに腫れていて、充血した跡さえ伺える。ミラがそう遠くない過去に、大粒の涙を流していたことは誰の目から見ても明らかだった。
 ここでミラの泣き腫らした原因が自分ではないと言い張るほど、セルジュは愚かではない。自分のしでかしたことの重大さをまざまざと突きつけられたセルジュは、二言目を紡げず、その場に立ち尽くしてしまった。
 それでもセルジュは喉を無理やり搾り上げ、ミラに謝ろうと試みるのだが。

「美影ー席着けー。HR始めるからー」

 タイミングの悪いことに、担任教諭が教壇に立ってしまった。これではゆっくり話すこともできない。
 こうなっては致し方あるまい。次、ミラにゆっくり声をかけられるのは昼休みだろうかと思案しながら、セルジュは大人しく自分の席に座った。

 しかし、昼休みを迎えた瞬間。
 いざミラに話しかけようとしたセルジュの周りに、他のクラスメイトたちが殺到した。

「なーなー清十郎せいじゅうろう! バスケ部こないか!! お前の身体能力、使わないのはもったいないって!」
「サッカー部にきてくれ! お前なら、いますぐレギュラーになれる!」
「いや、野球部だ! 万年弱小の我が野球部を救えるのは、お前しかいない!」
 と男子生徒陣。

「美影くん、お菓子好き? クッキー焼いてきたんだけど、食べてほしいなー、なんて……」
「お、お昼ご飯、一緒にどうかな……?」
「ね、彼女にして! 期間限定でも、なんでもいいから!」
 と女子生徒陣。

 セルジュが囲われたほんの一瞬の隙に、ミラはサッと立ち上がって教室から出て行ってしまった。まるで、セルジュから避けるように。去り行くミラの背にかけた声も、クラスメイトたちに遮られて届かない。

 転校してきてからというもの、セルジュは休み時間になる度、こうして男子女子問わずに熱烈なアプローチをかけられていた。ミラに妊娠促進剤を飲ますことに苦戦していたのも、彼らの付き纏いが原因である。
 普段なら軽くあしらうか無視を決め込むのだが、ミラとコンタクトを取る機会を邪魔をされたセルジュは、さすがに辟易して声を荒げた。

「保刈に用向きがある」

 そう一言告げると周囲はしんと静まるのだが、それは波がほんの少し引いただけであって、すぐさま激しさを伴って押し返してきた。

「なんだよ、清十郎ー! 保刈さんに気ィある感じ? わかるわかる、保刈さん可愛いし、めっちゃいい子だもんな」
「保刈さんってしっかりしてるけど、意外と抜けてるとこもあって面白いよね。この間なんか、柱にぶつかったのに気づかないまま必死に謝ってて、悪いと思ったけど笑っちゃったもん」

 ひとりの生徒が感慨深げに呟くと、何人かもそれに同調して深く頷いた。
 どうやらセルジュがミラの人柄に惹かれたように、他の生徒たちも御多分に漏れないらしい。いつの間にやら、生徒たちの関心はセルジュからミラに移っていた。いまならこの場を離れられると踏んだセルジュであったが、その足は聞き捨てならない言葉によってぴたりと止まる。

「んなことより、あのデカ乳だよ。一回揉んでみたいよなぁ」

 男子生徒の下卑た発言を皮切りに、和やかだった昼休みに軽薄で卑猥な空気が漂い始めた。良識のある女子生徒は話を制止しようとしているのだが、一度点いた火は消えず、燃え上がっていく。

「だってさ、保刈のあの身体。男なら死ぬまでに一度はセックスしたいって思うっしょ」

 セルジュはその意見を、否定するつもりはない。実際、ミラを抱きたいと思って行動に移してしまったのだから、異の唱えようがなかった。
 しかしセルジュは、はたと妊娠促進剤の効能を思い出してしまった。あれは、飲んだ人物が身籠らない限り、不定期的に発情するように作られている。
 もしもミラが受精に至っていなかったら。
 いずれまた発情して、性交せずにはいられなくなる。そんな状態のミラが、この性に盛んな男子生徒たちの前に現れたら、まず間違いなく襲われてしまうだろう。

 いまにして思えば、ミラに妊娠促進剤を飲ませて犯したのは本当に軽率だったと、セルジュは舌を打った。そのときは、ただただミラにジェバイデッドの種を宿したい一心で、犯したあとのことなど考えもしなかった。いや、仕方あるまい。ミラを無理やり犯したことで、まさか自分がこんなにも苦しみ、こんなにも厄介なことになるなど、思いも寄らなかったのだから。

(……冗談ではない。この先、保刈と交わるのは俺一人でいい。地球人の子供ごときに、渡してなるものか)
 
 セルジュはこの場にいる男子生徒たちをひとり残らず殺してしまおうかと、秘かに殺気を発し始めていた。いかに弱体化しているとはいえ、地球の子供を軽く捻るだけの力はある。元より、地球侵略に乗り出せばどうせ男たちは皆殺しだ。いまここで始末して、なにを困ることがある。
 しかし、身体が動かない。こんなときでさえエニグマチップに制御されて、暴力に訴えることができないとは。ならばチップを外そうかとも考えたが、ここで正体を明かすのは、どういうわけか躊躇ためらわれた。
 セルジュがエニグマチップの対処に戸惑っているうちに、同級生たちの話は加速していた。

「私、保刈さんが駅前のラブホ街で歩いてるの見たことあるよ」
「マジ!? じゃあ、保刈ちゃんがウリやってるって噂、本当なんだ!」
「あー……なんか、父親と血が繋がってないなんて話もあったね」

 同級生たちからしてみれば、他愛もない噂に花を咲かせているだけなのだろう。だが、セルジュは覚えている。転校初日、ミラに言われた『うちのクラスのみんな、とてもいい人たちだから』という言葉を。

(……これが“いい人たち”か? なぜだか無性に──腹が立つ)

 セルジュの影が、ざわりとうごめきだした。
 
はしれ、“闇のかいな”!)

 影が、セルジュの強い念に応じて床を走っていく。それはクラスメイトたちの足元を掻い潜って背後に回り、間もなくして二本の真っ黒い腕となって立ち上った。
 黒い腕が、セルジュを囲う生徒たちに忍び寄っていく。

「うわっ!?」
「きゃあぁっ!」

 突然、なんの前触れもなく、ふたりの生徒が派手に転倒した。周りのクラスメイトたちはおろか、倒れた本人たちもなにが起きたのかわかっていないようで、教室内は困惑にざわつきだす。
 その滑稽な様子を見届けて、セルジュは静かに教室を出た。生徒たちの足を払った、黒い腕を影に戻して。

(現状、これが限度か。まあいい。いまはとにかく、保刈を捜さねば)

 とはいえ、宛がない。闇雲に捜し回っていては、休み時間が終わってしまう。
 セルジュがどうすべきかと廊下のど真ん中で悩んでいると、背後から底抜けに明るく不快な声が飛んできた。

「ちーっす。清十郎せーじゅーろーくん。ちょうどいいところに居てくれたね!」

 確認しなくともわかる。この声は、ルビーメダリオンに似たあの女子生徒、火野爪ひのづめ可琳かりんのものだ。
 ただでさえ関わりたくないというのに、ミラの発見が急がれるいま、可琳は邪魔もの以外の何ものでもない。
 一句、恫喝でもして追い払おうと振り返ったセルジュの眼前に、三枚の紙切れが突き付けられた。

「……なんだ、これは」

 セルジュは紙切れ越しに可琳を睨む。しかし可琳がニコニコと笑ったまま手を引っ込めないので、セルジュは仕方なく紙切れを手に取った。
 紙切れは、レシートだった。一枚はブラウス。もう一枚はりんご飴数本。そして最後の一枚は、やたらめったら長いが、なんの商品を買った証明なのかわからなかった。

「それねー、清十郎せーじゅーろーくんがびりっびりに破いたミラちゃんの服の替え買ったときのレシート。私が立て替えてたから、請求しにきたよ! あ、りんご飴はおまけー」

 可琳にあっけらかんと告げられて、セルジュは目を見開いてしばし固まる。

「……待て、俺と保刈が保健室でなにをしていたか、知っているのか?」

「逆になんで知らないと思うんだ? 私が鞄取りに行って保健室に戻ってくるのに、五分もかかるかって話ですよ」

 つまり可琳は、昨日の保健室で起きた出来事の、ほぼ一部始終を把握しているというわけだ。それで特段、セルジュになにか困ることがあるわけでもないのに、なんとなく居心地が悪い。
 しかし、可琳がミラの衣服代を立て替えていたとは。さすが幼馴染みといったところか。

 ──幼馴染み。

 セルジュはミラと可琳の関係に思うところがあり、一縷の希望を持って尋ねた。

「火野爪とかいったな。お前、保刈の居場所に覚えはないか? 捜している」

「んあ? ミラちゃんになんの用事ー?」

「……その、昨日の件を、謝りたい」

 セルジュが小声で告げると、今度は可琳が目を丸くした。

「はえー、清十郎せーじゅーろーくんに“謝る”なんて選択肢コマンドがあったとは!」

「……俺のことをなんだと思っている」

 昨日の今日知り合ったぐらいで、とセルジュは可琳に嫌悪感を露にする。

「んーとね、性獣。清十郎せーじゅーろーだけに。ま、その殊勝しゅしょーな心がけに報いてあげようではないか、感謝したまえ~」

 上手いことをいったつもりらしい可琳はひとしきり笑い倒すと、パーカーのポケットからスマホを取り出して耳に当てた。

「あ、ミラちゃーん。いまどこにいるのー? ん? おー! 花壇作るって言ってたところだ」

 可琳は通話を切ると、廊下の窓を開けてセルジュを手招く。
 セルジュが導かれるままに窓の下を覗き込むと、いた。満開のときを間近に控えた、アジサイの群れの前に立つ、ミラが。

「やっほーい、ミラちゃーん!」

 窓枠から身を乗り出さん勢いで、可琳は校舎裏のミラに手をぶんぶんと振る。それに気づいたミラが、こちらを見上げてきた。
 ところがミラは、可琳の隣に立つセルジュの姿を認めるとあからさまに狼狽し、挙句の果てには花壇に背を向けて走り出してしまったではないか。

「あははははー、ミラちゃん逃げちゃったねぇー」

 可琳の笑い声は癇に障るが、いまはそちらに構っている余裕などない。
 セルジュは窓枠に足をかけ、跳んだ。

「え、ちょぉ、ここ三階!」

 間の抜けた可琳の声が遠ざかる。セルジュは空に放物線を描きながら、アジサイもミラの頭上をも超えていく。
 やがてセルジュは、上半身を捻って地面に着地すると、真正面から走ってくるミラを抱き留めた。

「きゃあっ」

「……もう、逃がさん」
 
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