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第一部
1-16「神様のいたずら(2)」
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それは、正に静寂。
まるで、時間が止まったの? とさえ思うような静けさ。唯一、柱に当たって跳ね返ったボールが〝テンテン〟と小さく鳴くのが精々で、そこに言葉は一切なかった。
完璧にとらえた一星も、完璧に打たれえた彗も、その場に立ち竦むだけ。
どのくらいの時間だったのだろう。時間にしてみれば、たったの数秒かもしれないし、数分だったかもしれない。そんな異質な空間を振り払ったのは、音葉の背後から鳴った〝パチパチ〟という、一星を称賛しているだろう拍手だった。
我に返った音葉は、ようやくここで彗が負けたことを理解する。
「武山くん、ちょっと待って――」
何とか説得を試みようとするも、音葉と同じく拍手で我に返った一星は、いの一番に自転車の方へ駆け出していた。
野球をやっていたとはいえ、ただの女子生徒と世界一の捕手。電動自転車の力でも借りなければ追いつけるはずがない。
自転車に跨ると、最後まで何も喋らないまま脇目も振らずに逃げ去っていった。
残された三人。
計画は全部失敗。
崩れるようにして地面に座り込んだ彗は「あー、もったいねーわ、ホント」と嘆いた。
音葉はため息を零しながら運命を決めたボールを拾い、彗の側へ近寄る。
よほど悔しかったのだろう。制服が汚れることを躊躇うことなく、大の字になって寝転んだ彗を覗き込むようにして「なんであんな勝負にしたの?」と純粋な疑問を音葉はぶつけてみた。
「あ?」
「いくらなんでも不利でしょ。一打席で、真ん中ストレートだけって……せめてコースくらいはさ」
「あー……何て言うかなー……賭けたんだよ」
「賭けた?」
「そう。野球の神様ってのがいるんなら、無理矢理にでもアイツに野球をやらせるだろうって」
「……なにそれ」
「バカみたいだろ? でもさ、こうでもしなきゃ、アイツがもう一度バットを持ってる姿なんて拝めなかっただろ?」
「野球、一番嫌いだって言ってたからねぇ」と、真奈美も近寄る。
「それが見れただけで、今日はもー充分さ」
怪物、空野彗。
その表情には悔しさが滲み出ていて、自分と同じ高校一年生なんだな、と当たり前なことを再確認してから音葉も「……そうだね」と呟いていた。
間違いなく、甲子園からは一歩遠のいた。
ただ、画面の中の怪物でしかなかった空野彗がいやに身近な存在に感じられて、どこか不思議な感情になりながら音葉は「帰ろっか」と笑ってみせた。
※
――打った……打ったんだ、僕が、あの球を。
河川敷から逃げかえるようにして立ち去った一星は、自転車を漕ぎながら何度も何度もあの瞬間を頭の中で繰り返していた。
たった、三球の出来事。
コースもわかっていたし、ストレートも来ることが分かっていた。
傍から見れば、勝って当たり前の勝負なのかもしれない。
この話を聞いて「何が嬉しいんだ」と罵る人だっているかもしれない。
ただ、それでも。
誰にも祝福されない勝利だとしても。
あの球を打ち返せたことが、ひたすら嬉しく、この上なく誇らしく、ひどく清々しく。
もう無理だ、と心から溢れ出してきた喜びを抑えきれずに「やった!」と言葉として吐き出した。周囲の目なんか気にしていられない。それほどまでに、高揚している。
来るときはあれだけ煩わしかった都会の騒音も、今は何も気にならない。寧ろ、自分の胸の高鳴りで何も聞こえていないくらいのレベルだった。
ボールを取り、絶望している忌々しい記憶から、あの怪物のボールを打ち返す自分へ上書きされていく。
そんな新しいイメージが、網膜に焼き付いてくれている。
まるで、時間が止まったの? とさえ思うような静けさ。唯一、柱に当たって跳ね返ったボールが〝テンテン〟と小さく鳴くのが精々で、そこに言葉は一切なかった。
完璧にとらえた一星も、完璧に打たれえた彗も、その場に立ち竦むだけ。
どのくらいの時間だったのだろう。時間にしてみれば、たったの数秒かもしれないし、数分だったかもしれない。そんな異質な空間を振り払ったのは、音葉の背後から鳴った〝パチパチ〟という、一星を称賛しているだろう拍手だった。
我に返った音葉は、ようやくここで彗が負けたことを理解する。
「武山くん、ちょっと待って――」
何とか説得を試みようとするも、音葉と同じく拍手で我に返った一星は、いの一番に自転車の方へ駆け出していた。
野球をやっていたとはいえ、ただの女子生徒と世界一の捕手。電動自転車の力でも借りなければ追いつけるはずがない。
自転車に跨ると、最後まで何も喋らないまま脇目も振らずに逃げ去っていった。
残された三人。
計画は全部失敗。
崩れるようにして地面に座り込んだ彗は「あー、もったいねーわ、ホント」と嘆いた。
音葉はため息を零しながら運命を決めたボールを拾い、彗の側へ近寄る。
よほど悔しかったのだろう。制服が汚れることを躊躇うことなく、大の字になって寝転んだ彗を覗き込むようにして「なんであんな勝負にしたの?」と純粋な疑問を音葉はぶつけてみた。
「あ?」
「いくらなんでも不利でしょ。一打席で、真ん中ストレートだけって……せめてコースくらいはさ」
「あー……何て言うかなー……賭けたんだよ」
「賭けた?」
「そう。野球の神様ってのがいるんなら、無理矢理にでもアイツに野球をやらせるだろうって」
「……なにそれ」
「バカみたいだろ? でもさ、こうでもしなきゃ、アイツがもう一度バットを持ってる姿なんて拝めなかっただろ?」
「野球、一番嫌いだって言ってたからねぇ」と、真奈美も近寄る。
「それが見れただけで、今日はもー充分さ」
怪物、空野彗。
その表情には悔しさが滲み出ていて、自分と同じ高校一年生なんだな、と当たり前なことを再確認してから音葉も「……そうだね」と呟いていた。
間違いなく、甲子園からは一歩遠のいた。
ただ、画面の中の怪物でしかなかった空野彗がいやに身近な存在に感じられて、どこか不思議な感情になりながら音葉は「帰ろっか」と笑ってみせた。
※
――打った……打ったんだ、僕が、あの球を。
河川敷から逃げかえるようにして立ち去った一星は、自転車を漕ぎながら何度も何度もあの瞬間を頭の中で繰り返していた。
たった、三球の出来事。
コースもわかっていたし、ストレートも来ることが分かっていた。
傍から見れば、勝って当たり前の勝負なのかもしれない。
この話を聞いて「何が嬉しいんだ」と罵る人だっているかもしれない。
ただ、それでも。
誰にも祝福されない勝利だとしても。
あの球を打ち返せたことが、ひたすら嬉しく、この上なく誇らしく、ひどく清々しく。
もう無理だ、と心から溢れ出してきた喜びを抑えきれずに「やった!」と言葉として吐き出した。周囲の目なんか気にしていられない。それほどまでに、高揚している。
来るときはあれだけ煩わしかった都会の騒音も、今は何も気にならない。寧ろ、自分の胸の高鳴りで何も聞こえていないくらいのレベルだった。
ボールを取り、絶望している忌々しい記憶から、あの怪物のボールを打ち返す自分へ上書きされていく。
そんな新しいイメージが、網膜に焼き付いてくれている。
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