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第一部
1-10「決意の夜に(2)」
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一星は、ただひたすらに混乱していた。
――なんで、アイツと同じ高校に。
あの優勝の瞬間が、何度も何度もフラッシュバックする。敗北の瞬間が何度も再生される。
「止めてくれよ!」
幼いころから抱いてきた、甲子園に行くという夢を諦めるために入学した、彩星高校。
中途半端だから、もう野球を気にかける必要さえない。そう思えたはずなのに、あの怪物がいることで夢は現実味を帯びてしまう。
あの黒土に、あの聖地に立つ自分が想像できてしまう。
他ならぬ、空野彗のお陰で。
また、影の立役者で終わる。
どう足掻いても、主役にはなれない。
――どうして、いつまでも付きまとってくるんだ。
歯を食いしばりながら、一星は眠りについた。
※
「兄ちゃん、おかえりー」
彗が家に入ると、まず輝が出迎える。朱里はどうやらテレビにでも夢中なようで、部屋の奥から「おかえりー」と投げやりな言葉が続いた。
「ちゃんと留守番できたか?」
「も、もちろん!」歯切れの悪い返事に引っかかりながらも「お腹空いたよ!」と急かされ、一旦心の中にしまい込んだ彗は帰り道にスーパーで買いこんだ食材を見せてやった。
「さ、今日のクイズだ。晩飯は何だと思う?」
袋の中には、特売だった豚ロースとキャベツ。うーんと悩みながら「とんかつ!」と答えを出した輝。
「残念!」と豚ロースを取り出した。豚ロースは豚ロースでも、とんかつには向いていない薄切りの豚肉だ。
「答えは生姜焼きだ。いいだろ?」
「えー……とんかつのがよかったー」
「文句言うなら晩飯は白米だけだ」
「えっ⁉」
「はっ、冗談だよ。とんかつはまた今度な」
不満たらたらな輝の頭をぐしゃぐしゃと撫でてから台所へ向かう。
昨日退院したばかりの母が、そこに立っていた。
幼いころ、それこそ物心の付く前から見慣れた景色ではある。
唯一の違和感と言えば、似合わないと炎天下でも決して被り物をしなかった母が、水色のニット帽を被っていることだった。
ただ、そのニット帽は、決してオシャレのためではない。抗がん剤の副作用で抜けてしまった髪の毛を隠すためのもの。その証拠に、腕を捲って米を研ぐその両腕は、長い闘病によってやせ細っており、デコピンでもしたら折れてしまいそうなほど華奢だ。
「あ、やるよ」と変わろうとするもグイッと押しのけられて「いいのいいの。アンタはそれ作って」と一心に米を研ぎ続けた。
「どうよ、体調」
キャベツをピーラーで千切りにしながら聞くと、米を研ぎ終えた母は「そりゃもうすこぶる快調よ」と今度は味噌汁づくりに取り掛かっていた。
「無理すんなよホント」
「風邪だろうがガンだろうがドンと来い、って感じ」
恐らく、母親としての意地なのだろう。これだけは譲らないという強い意志を感じながら人数分の千切りを終える。次いで、豚肉に薄力粉を付けてフライパンで炒め、タレをかけて……一連の工程をこなしながら、二人で調理を行うだけでずいぶん楽になるもんだなと、改めて家事の大変さをかみしめていた。
「ありがとね」
不意に、母が呟く。
リビングでテレビを見ている二人に聞こえないくらいの大きさで。
「いや、ふつーだって」
「へぇ、ちょっと大人になったじゃん。もっと甘えてもいいんだぞ?」
「そう? じゃ、一個だけお願い」と、彗は焼きあがった生姜焼きを盛りつけ終わると、母の目を真っすぐ見て、言った。
「改めて、高校でも野球やらせてほしい」
「……やるからには結果残しなさいよ?」
「もちろん」
「そっ。そりゃ結構。期待してる」
そう応える母の目には、うっすらと涙が浮かんでいたが、決してその雫を零さずに「ほら、ご飯できたよ!」と輝と朱里を促す。
はーい、と二人は自分の分の料理を持って行った。
「ほら、早く食べるよ」
「へーい」
大腸ガンの手術には成功した。
ただ、転移が複数発見されている。
余命は、三年。
その期間で、最高の恩返しをするだけ。
――やることは明確だな。
決意を決めた夜の出来事だった。
――なんで、アイツと同じ高校に。
あの優勝の瞬間が、何度も何度もフラッシュバックする。敗北の瞬間が何度も再生される。
「止めてくれよ!」
幼いころから抱いてきた、甲子園に行くという夢を諦めるために入学した、彩星高校。
中途半端だから、もう野球を気にかける必要さえない。そう思えたはずなのに、あの怪物がいることで夢は現実味を帯びてしまう。
あの黒土に、あの聖地に立つ自分が想像できてしまう。
他ならぬ、空野彗のお陰で。
また、影の立役者で終わる。
どう足掻いても、主役にはなれない。
――どうして、いつまでも付きまとってくるんだ。
歯を食いしばりながら、一星は眠りについた。
※
「兄ちゃん、おかえりー」
彗が家に入ると、まず輝が出迎える。朱里はどうやらテレビにでも夢中なようで、部屋の奥から「おかえりー」と投げやりな言葉が続いた。
「ちゃんと留守番できたか?」
「も、もちろん!」歯切れの悪い返事に引っかかりながらも「お腹空いたよ!」と急かされ、一旦心の中にしまい込んだ彗は帰り道にスーパーで買いこんだ食材を見せてやった。
「さ、今日のクイズだ。晩飯は何だと思う?」
袋の中には、特売だった豚ロースとキャベツ。うーんと悩みながら「とんかつ!」と答えを出した輝。
「残念!」と豚ロースを取り出した。豚ロースは豚ロースでも、とんかつには向いていない薄切りの豚肉だ。
「答えは生姜焼きだ。いいだろ?」
「えー……とんかつのがよかったー」
「文句言うなら晩飯は白米だけだ」
「えっ⁉」
「はっ、冗談だよ。とんかつはまた今度な」
不満たらたらな輝の頭をぐしゃぐしゃと撫でてから台所へ向かう。
昨日退院したばかりの母が、そこに立っていた。
幼いころ、それこそ物心の付く前から見慣れた景色ではある。
唯一の違和感と言えば、似合わないと炎天下でも決して被り物をしなかった母が、水色のニット帽を被っていることだった。
ただ、そのニット帽は、決してオシャレのためではない。抗がん剤の副作用で抜けてしまった髪の毛を隠すためのもの。その証拠に、腕を捲って米を研ぐその両腕は、長い闘病によってやせ細っており、デコピンでもしたら折れてしまいそうなほど華奢だ。
「あ、やるよ」と変わろうとするもグイッと押しのけられて「いいのいいの。アンタはそれ作って」と一心に米を研ぎ続けた。
「どうよ、体調」
キャベツをピーラーで千切りにしながら聞くと、米を研ぎ終えた母は「そりゃもうすこぶる快調よ」と今度は味噌汁づくりに取り掛かっていた。
「無理すんなよホント」
「風邪だろうがガンだろうがドンと来い、って感じ」
恐らく、母親としての意地なのだろう。これだけは譲らないという強い意志を感じながら人数分の千切りを終える。次いで、豚肉に薄力粉を付けてフライパンで炒め、タレをかけて……一連の工程をこなしながら、二人で調理を行うだけでずいぶん楽になるもんだなと、改めて家事の大変さをかみしめていた。
「ありがとね」
不意に、母が呟く。
リビングでテレビを見ている二人に聞こえないくらいの大きさで。
「いや、ふつーだって」
「へぇ、ちょっと大人になったじゃん。もっと甘えてもいいんだぞ?」
「そう? じゃ、一個だけお願い」と、彗は焼きあがった生姜焼きを盛りつけ終わると、母の目を真っすぐ見て、言った。
「改めて、高校でも野球やらせてほしい」
「……やるからには結果残しなさいよ?」
「もちろん」
「そっ。そりゃ結構。期待してる」
そう応える母の目には、うっすらと涙が浮かんでいたが、決してその雫を零さずに「ほら、ご飯できたよ!」と輝と朱里を促す。
はーい、と二人は自分の分の料理を持って行った。
「ほら、早く食べるよ」
「へーい」
大腸ガンの手術には成功した。
ただ、転移が複数発見されている。
余命は、三年。
その期間で、最高の恩返しをするだけ。
――やることは明確だな。
決意を決めた夜の出来事だった。
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