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第一部
1-01「海瀬音葉はヒーローの夢を見る(1)」
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陽炎がたゆたう、真っ黒な土のグラウンド。
ウゥー、と、試合開始のサイレンが鳴る。
うだるような暑さ。
爆発しているような歓声。
「おうっ!」と声を上げ、マウンドへ散っていく選手たち。
それが、ベンチから見た甲子園の景色。
「みんな、頑張って!」
私は、そう声をかける。
――ああ、甲子園って、最高。
後攻の我がチームは、エースがマウンドに立った。
記念すべき第一球。
彼も、気分が高ぶっているのだろう。
いつもよりも、大きく振りかぶって――。
◇
夢から覚めた海瀬音葉は「……いいところだったのに」と口を尖らせた。
ワンテンポ遅れて目覚ましがジリジリ、と鳴り響く。
流石にこの音には興奮しないな、と音葉はベッドをのそのそと抜け出して、前日の内から用意してあった制服に着替えた。
今日から、憧れの高校生が始まる。
高校の名前は、彩星高校。
紺色のブレザーに赤を基調にしたチェックのスカートに興味をそそられて入学。中学生の時に見ていた先輩たちはどこか大人びていて、童顔と呼ばれる自分は似合うのかな、と不安になりながら鏡を見てみた。
――うん、悪くない。
心機一転、ロングヘア―をバッサリと切り、セミロングにしたことが功を奏したのだろう。憧れていた先輩たちに紛れても大丈夫、そんな確信が持てる。袖が少しダボついているのはご愛敬だ。
ポーズを何個も決めていると、一階で朝食の準備をしている母から「音葉、そろそろ起きな!」と声が飛んでくる。
「起きてるよ!」
そう力強く応えると、ドタドタと花壇を駆け下りてリビングへ向かう。どんっ、と勢いよく扉を開くと、まだ出勤前の父・宗司とエプロンをした母・綾子がキョトンとした顔で音葉を見つめた。
「もう着てるのか」
もう朝食を済ませたのだろう。新聞を広げていた父がコーヒーをすすりながら言う。
「待ちきれなくて。どう?」
「大丈夫、似合ってるよ」
「やった!」
自分から新聞に視線を落としたことを確認すると、炊飯器からご飯をよそい、その足で冷蔵庫から牛乳をコップに注いで、いつもの席へ。
「全く……油とか飛ばさないでね、初日からシミとか絶対やめて」と、みそ汁と焼き鮭、卵焼きを持ってきた母に「ほーい」と応えて受け取る。
「……和食だね」
「文句ある?」
「もっとこう……オシャレな感じが良かったな。カフェみたいな」
「そ。じゃ、これ添えてあげる」と、母はミニトマトを二つ添える。
違う、そうじゃない。色合いはよくなかったけど……なんて、今更口答えすることはできず。諦めて「いただきます」と音葉は舌鼓を打った。
ただ、味は抜群。いい塩加減に、程よい甘さの卵焼き。
十分もかからないうちに平らげた音葉は「ごちそうさまでした!」と洗面所に向かった。
歯磨きをしながら、髪を整える。
寝癖ナシ、表情ヨシで、文句ナシ。
何も問題はない。
「……それじゃ、行ってきます!」
意気揚々と家を飛び出た。
四月八日。朝八時。この瞬間から高校生活が始まる。
天気は快晴、風も穏やか。ほんのり暖かい春の陽気が感じられるそんな朝。
まず外に出ると、音葉はすうっと息を目一杯に吸い込んでみた。
高校生としての初呼吸。これまでの自分とは違う解放感。が包み込む。
どこからこの解放感が来ているのだろう、自分が大人になった証拠かな――と立ち竦んでいると、家から母が慌てて飛び出してきた。
「ほら、忘れ物」
そう言って母はスクールバックを音葉に手渡す。
「あっ」
「アンタ、初日からカバン忘れるって」
「……気を付けます」
「しっかりしな」と言い残して家へ入る母。解放感の正体はコレか、と呆れるも一瞬、気を取り直して音葉は自転車の籠にバックを載せ、補助輪を外す。
中学校ではずっと徒歩、遊びに行くときも電車なため、久方ぶりの自転車。少し緊張気味にサドルに跨ったが、体は覚えているものですんなりと漕ぎ出してくれる。
――夏はきつそうだけど、これはこれでいいなぁ。
時折鼻孔を突く花の香り。緩やかな風――春を一番身近に感じられる、そんな時間。
「はー……楽しみだな」
少し早めに出てきたためだろう、まだ他の学生はおらず、車もそこまで走っていない。ふと気が付くと、音葉は自分が鼻歌を歌っていることに気が付いた。宇多田ヒカルの〝SAKURAドロップス〟。別れの曲じゃん、なんて意見は野暮だ。
「あれ?」
曲もサビに差し掛かったところ。土手を走り続けていた音葉は、遠くに見える橋の下、河川敷で一人の不審人物を発見した。
ゆっくりと、気づかれないように近づきながら目を細めると、自分と同じ彩星高校の制服を身にまとった男子生徒であることに気づく。
――何やってるんだろ。
遠目ではわからなかったが、一定間隔を行っては戻り、行っては戻りを繰り返すシャトルランをしているようだ。
顔は確認できないものの、体は相当がっちりしていることが遠目でも確認できた。
今日は入学式。おそらく朝練が中止になったせいで時間を持て余した先輩が、自主練でもしているのだろう。
熱心だなぁ、とそこまで気にすることなく、音葉は自転車を走らせた。
※
クラスは一年三組。教室に入ると、音葉と同じように気分が高ぶって早めに家を出ただろう生徒がまばらに座っていた。早速会話が盛り上がっている生徒もいれば、キョロキョロとあたりを見渡して様子を見ている生徒もいる。
「おはよう!」
音葉は黒板に貼られていた座席表に沿って自分の席に座ると、後ろの席にいた女子生徒に話しかけた。
「あ、おはよう」
「私、木原真奈美。あなたは?」
「私は海瀬音葉。よろしくね」
「よろしく!」
恐らく席順はしばらくの間この名前の順番のままのはず。後ろの席の人が友好的な人でホッとしていると「ね、海瀬さん。一つ質問してもよい?」と、ぐいぐいと話を進める。
「海瀬さんじゃなくて下の名前でいいよ。どうしたの?」
「じゃ、遠慮なく……音葉さ、どこの部活にするか決めた?」
「うーん……悩んでる」
「そっか。中学じゃ何部だったの?」
「一応、野球部かな。マネージャーとしてって感じだけど」
「そっかぁ。じゃあやっぱりマネージャー系?」
「結構辛いんだよね、マネージャー。ましてや高校ともなると……キツそうだなって。他の、軽音部とか行こうかなって思ってる」
「そうなんだ! じゃあさ、いろんな部活見学会行ってみない?」
「いいね!」
そんなことを話していると、徐々にクラスメイトも集まりつつある。チラッと一通り見渡してみると、空いている席はあと一つだ。
「あと一人だね」
「ね。あんまりかっこいい人いないなぁ……」
「まあまあ……ほら、このクラスだけじゃないし」
そんなことを話していると、始業開始五分前の予冷が鳴る。そのタイミングで、最後の一人が教室に入ってきた。
ワイシャツをまくり、ブレザーを手にかけ、息を切らしながら入ってきたのは、朝、登校中に高架下で見かけた男子生徒だ。
「……間に合ったぁ」
そう汗を拭いながら顔を上げる。
「うそ……」
その顔を見て、音葉は言葉を失った。
その男子生徒の名は、空野彗。
世界一の称号を持つ、怪物だ。
「ごめん真奈美。私やっぱりさ、野球部のマネージャーになるわ」
ウゥー、と、試合開始のサイレンが鳴る。
うだるような暑さ。
爆発しているような歓声。
「おうっ!」と声を上げ、マウンドへ散っていく選手たち。
それが、ベンチから見た甲子園の景色。
「みんな、頑張って!」
私は、そう声をかける。
――ああ、甲子園って、最高。
後攻の我がチームは、エースがマウンドに立った。
記念すべき第一球。
彼も、気分が高ぶっているのだろう。
いつもよりも、大きく振りかぶって――。
◇
夢から覚めた海瀬音葉は「……いいところだったのに」と口を尖らせた。
ワンテンポ遅れて目覚ましがジリジリ、と鳴り響く。
流石にこの音には興奮しないな、と音葉はベッドをのそのそと抜け出して、前日の内から用意してあった制服に着替えた。
今日から、憧れの高校生が始まる。
高校の名前は、彩星高校。
紺色のブレザーに赤を基調にしたチェックのスカートに興味をそそられて入学。中学生の時に見ていた先輩たちはどこか大人びていて、童顔と呼ばれる自分は似合うのかな、と不安になりながら鏡を見てみた。
――うん、悪くない。
心機一転、ロングヘア―をバッサリと切り、セミロングにしたことが功を奏したのだろう。憧れていた先輩たちに紛れても大丈夫、そんな確信が持てる。袖が少しダボついているのはご愛敬だ。
ポーズを何個も決めていると、一階で朝食の準備をしている母から「音葉、そろそろ起きな!」と声が飛んでくる。
「起きてるよ!」
そう力強く応えると、ドタドタと花壇を駆け下りてリビングへ向かう。どんっ、と勢いよく扉を開くと、まだ出勤前の父・宗司とエプロンをした母・綾子がキョトンとした顔で音葉を見つめた。
「もう着てるのか」
もう朝食を済ませたのだろう。新聞を広げていた父がコーヒーをすすりながら言う。
「待ちきれなくて。どう?」
「大丈夫、似合ってるよ」
「やった!」
自分から新聞に視線を落としたことを確認すると、炊飯器からご飯をよそい、その足で冷蔵庫から牛乳をコップに注いで、いつもの席へ。
「全く……油とか飛ばさないでね、初日からシミとか絶対やめて」と、みそ汁と焼き鮭、卵焼きを持ってきた母に「ほーい」と応えて受け取る。
「……和食だね」
「文句ある?」
「もっとこう……オシャレな感じが良かったな。カフェみたいな」
「そ。じゃ、これ添えてあげる」と、母はミニトマトを二つ添える。
違う、そうじゃない。色合いはよくなかったけど……なんて、今更口答えすることはできず。諦めて「いただきます」と音葉は舌鼓を打った。
ただ、味は抜群。いい塩加減に、程よい甘さの卵焼き。
十分もかからないうちに平らげた音葉は「ごちそうさまでした!」と洗面所に向かった。
歯磨きをしながら、髪を整える。
寝癖ナシ、表情ヨシで、文句ナシ。
何も問題はない。
「……それじゃ、行ってきます!」
意気揚々と家を飛び出た。
四月八日。朝八時。この瞬間から高校生活が始まる。
天気は快晴、風も穏やか。ほんのり暖かい春の陽気が感じられるそんな朝。
まず外に出ると、音葉はすうっと息を目一杯に吸い込んでみた。
高校生としての初呼吸。これまでの自分とは違う解放感。が包み込む。
どこからこの解放感が来ているのだろう、自分が大人になった証拠かな――と立ち竦んでいると、家から母が慌てて飛び出してきた。
「ほら、忘れ物」
そう言って母はスクールバックを音葉に手渡す。
「あっ」
「アンタ、初日からカバン忘れるって」
「……気を付けます」
「しっかりしな」と言い残して家へ入る母。解放感の正体はコレか、と呆れるも一瞬、気を取り直して音葉は自転車の籠にバックを載せ、補助輪を外す。
中学校ではずっと徒歩、遊びに行くときも電車なため、久方ぶりの自転車。少し緊張気味にサドルに跨ったが、体は覚えているものですんなりと漕ぎ出してくれる。
――夏はきつそうだけど、これはこれでいいなぁ。
時折鼻孔を突く花の香り。緩やかな風――春を一番身近に感じられる、そんな時間。
「はー……楽しみだな」
少し早めに出てきたためだろう、まだ他の学生はおらず、車もそこまで走っていない。ふと気が付くと、音葉は自分が鼻歌を歌っていることに気が付いた。宇多田ヒカルの〝SAKURAドロップス〟。別れの曲じゃん、なんて意見は野暮だ。
「あれ?」
曲もサビに差し掛かったところ。土手を走り続けていた音葉は、遠くに見える橋の下、河川敷で一人の不審人物を発見した。
ゆっくりと、気づかれないように近づきながら目を細めると、自分と同じ彩星高校の制服を身にまとった男子生徒であることに気づく。
――何やってるんだろ。
遠目ではわからなかったが、一定間隔を行っては戻り、行っては戻りを繰り返すシャトルランをしているようだ。
顔は確認できないものの、体は相当がっちりしていることが遠目でも確認できた。
今日は入学式。おそらく朝練が中止になったせいで時間を持て余した先輩が、自主練でもしているのだろう。
熱心だなぁ、とそこまで気にすることなく、音葉は自転車を走らせた。
※
クラスは一年三組。教室に入ると、音葉と同じように気分が高ぶって早めに家を出ただろう生徒がまばらに座っていた。早速会話が盛り上がっている生徒もいれば、キョロキョロとあたりを見渡して様子を見ている生徒もいる。
「おはよう!」
音葉は黒板に貼られていた座席表に沿って自分の席に座ると、後ろの席にいた女子生徒に話しかけた。
「あ、おはよう」
「私、木原真奈美。あなたは?」
「私は海瀬音葉。よろしくね」
「よろしく!」
恐らく席順はしばらくの間この名前の順番のままのはず。後ろの席の人が友好的な人でホッとしていると「ね、海瀬さん。一つ質問してもよい?」と、ぐいぐいと話を進める。
「海瀬さんじゃなくて下の名前でいいよ。どうしたの?」
「じゃ、遠慮なく……音葉さ、どこの部活にするか決めた?」
「うーん……悩んでる」
「そっか。中学じゃ何部だったの?」
「一応、野球部かな。マネージャーとしてって感じだけど」
「そっかぁ。じゃあやっぱりマネージャー系?」
「結構辛いんだよね、マネージャー。ましてや高校ともなると……キツそうだなって。他の、軽音部とか行こうかなって思ってる」
「そうなんだ! じゃあさ、いろんな部活見学会行ってみない?」
「いいね!」
そんなことを話していると、徐々にクラスメイトも集まりつつある。チラッと一通り見渡してみると、空いている席はあと一つだ。
「あと一人だね」
「ね。あんまりかっこいい人いないなぁ……」
「まあまあ……ほら、このクラスだけじゃないし」
そんなことを話していると、始業開始五分前の予冷が鳴る。そのタイミングで、最後の一人が教室に入ってきた。
ワイシャツをまくり、ブレザーを手にかけ、息を切らしながら入ってきたのは、朝、登校中に高架下で見かけた男子生徒だ。
「……間に合ったぁ」
そう汗を拭いながら顔を上げる。
「うそ……」
その顔を見て、音葉は言葉を失った。
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