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序章
0-00「頂へ」
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うだるような暑さの中、時折吹く生暖かい風が、武山一星の心を嘲笑った。
――……くっそ。
気温は三〇℃ほど。真夏とはいえ、夕方にもなると若干過ごしやすい天気にはなる。
しかし、このグラウンドは、敵味方合わせて十八人が集い、世界一という頂を目指している戦士が集まる場所、言わば戦場に他ならない。
気温以上の何かが、一星を含めグラウンドにいる選手全員にプレッシャーを与えていた。
勝てば日本代表として世界一になる。そんな大事な試合。キャッチャーとして試合をリードし続け、ここまでミスもなくリードも完璧だったのは、一星の集中力がずっと途切れなかった証拠だ。
――しっかし……暑い。
暑さとプレッシャーからか、大粒の汗が滲みだし、髪の毛を伝っていく。
ゆっくりと染みていった汗は、一粒の大きな雫となり、一星の右目を通り過ぎていった。
――あっ。
その瞬間、一星の集中力が途切れた。
たったその一瞬。刹那ともとれるその一瞬だけ、一星は目を閉じてしまった。
次に目を開くと、ボールはもうすぐ目の前に――。
「まずっ!」
慌てて捕球体勢に入るも、もう後の祭り。
ピッチャーが全力で投げたボールは、グンと曲がり見事に空振りを奪った……が、ベース上を通過して一星の股下を奇麗にすり抜けていく。
「くそっ!」
慌てて取りに行くも、一塁には間に合わず振り逃げ。三塁に進んだ走者は自重したため点こそ許さなかったが、満塁で点差は三点。
ホームランが出れば、お釣りなしで逆転サヨナラ。
順調に日本のペースで進んでいた試合だが、最後の最後に大きな山場を迎えることとなった。
タイムを取り、マウンドに駆け寄ると開口一番「ごめん」と一星はエースに声をかけた。
「気にすんな」
ありがとうなのか、もう一度ごめんというべきか。何が正解なのかわからず沈黙していると「ただ、次があいつか……」と、背番号一を背負ったエース、空野彗がバッターボックスへ向かう相手選手を見ながら呟いた。
本来ゲームを支配する女房役が、逆に心配されている。
自らの不甲斐なさを引きずりながら、一星もその選手に視線を移した。
四番、一塁手、左打ち。
名前は、王建成。
その名前と、フラミンゴのような一本立ちから繰り出される豪快なバッティングから、マスコミが〝帝王〟という名をつけた、今大会で一番注目されている選手だ。
大会打率五割超え。今日の試合でも、ホームランこそないが三打数三安打と絶好調で、三振を取ろうとしてもゴロを打たせようとしても、全てを捉えてしまう。
まるで野球の神様に愛されているような、そんな存在。
「変化球のキレは悪くない。まずはカーブとスライダーでカウントを整えて――」と言いかけたところで、彗は「やだね」とグローブで一星の頭を叩いた。
「わかってんの⁉ ここでもし大きいの打たれたら……!」
「前の打席もそれで変化球打たれただろ」
「だからってストレートは……球威も落ちてきてるし、危ないって。せめて最初の一球だけでも――」
「やだね。押し切る」
「それ、本気?」
「中途半端になりたくないんだよ。それに、ようやく肩も温まってきたんだ。もう打たれねぇよ」
「けど……」
「ほら戻った戻った」
よほど前の打席で打たれたことが記憶にあるのだろうか、彗は一歩も引く様子はない。投手らしい向こう見ずで傲慢な態度だが、ここまで抑え込んでいることもまた事実。
――もう勝手にしろ。
気持ちで押した方がいいかと何とか自分を押し殺してしゃがむと、半ば諦めの気持ちで一星はサインを出した。
要望通り、直球勝負。サインを確認した彗は、まるで無邪気な子供のように満面の笑みを浮かべて右足をプレートに付ける。
頭を僅かに動かしてランナーを気にするふりだけすると、若干の制止を挟んでからゆっくりと左足を上げた。
これまで彗は五回から投げ続け、次の投球が丁度50球目。
肩のエンジンがかかったのはうそかホントはわからないが、確かにスムーズに右腕が運ばれているように思えた。
ただ、コースは間違えちゃだめだ――と、精一杯のメッセージのつもりでストライクゾーンギリギリにミットを構える。
しかし、そんな心配を嘲笑うかのように、球はド真ん中へ吸い込まれていった。
ボールが彗の手を離れた瞬間から、一星は景色がスローモーションに見えた。ゆっくりと球が近づき、それに合わせてゆっくりとバットが動いていく。
やられた――そう思うも一瞬。
ブンッ、とバットが空気を切り裂く音とほぼ同時に、ドンッ、とまるで大砲でも放ったかのような音を奏で、ボールはミットに収まった。
「なっ……」
捕球した左手が、痺れている。
数秒の静寂。
敵の野次も、味方の声援も。何も聞こえない時間が、「よっしゃ!」と叫んだ彗の声で打ち破られた。
その瞬間から、明らかにグラウンドの空気が変わった。
後先のない状況が、あのストレートを呼び出したのだろうか。
はたまた、相手がそうさせるのか。
正解はわからない。
ただ一つ確かなこと。
それは、間違いなく今この瞬間、空野彗は怪物だということだった。
「ナ、ナイスボール!」
慌てながら球を返すと、平然と受け取った彗はサインを出す前にセットポジションに入る。
早く投げたい、この感触を忘れたくない。そう主張する目が、一星を覗く。
サインはもちろん一つ。
二球目も同じようにストレート。
相変わらずコースは無茶苦茶。アウトコース要求のボールはやはりストライクゾーンの中心めがけて放たれた。
ただ、そのストレートは衰えるはずもなく。寧ろ、一段と威力を増して直進し、バットに触れることなくミットに収まった。ギュルルルと異常なスピンを伴ってミットの中で暴れるボール。
若干、焦げ臭いにおいが一星の鼻孔《びこう》を突く。
――この威力、このスピード……もしかして!
返球するふりをして立ち上がり電光掲示版を見ると、一星の予想通り150キロ、と数字が表示されていた。
日本の中学野球史上、最速タイ記録。
「へっ」と、にやつきながらボールを受け取る彗を、ただただ眺めるだけしかできない一星。
打たれる気配のない、もはや魔球の域に達しているそのサインを出す。
サインはストレート。
コースはど真ん中。
怪物から放たれた三度目のストレートは、それまでの二球さえも凌駕した。
眼に留まることすら知らない彗星のようなストレートが、一星のミットに収まる。
最後の一球は、バットを振る隙すら与えない最高のストレート。
怪物と帝王の戦いは、152キロという日本最速を更新する形で、怪物に軍配が上がった。
最後のボールを抑え、マウンドに駆け寄る内野手たち。
アウトのコールを確認してマウンドに集まっていく外野手三人。
一人、また一人と空に人差し指を立てて歓喜の輪ができていく。
みんな、笑顔を浮かべていた。歓喜の声がグラウンド上に響く。
唯一、あの球を受けた一星だけがその場に取り残されていた。
「何してんだ、お前も来いよ!」
彗に促され「あ、あぁ」と一星は歓喜の輪へ歩みだす。
創り笑顔で歓喜の輪に混ざる一星は、一つの確信を得ていた。
――僕は一番じゃない。
自らが一番だと自負していた天才が、人生で初めて敗北を味わった瞬間だった。
――……くっそ。
気温は三〇℃ほど。真夏とはいえ、夕方にもなると若干過ごしやすい天気にはなる。
しかし、このグラウンドは、敵味方合わせて十八人が集い、世界一という頂を目指している戦士が集まる場所、言わば戦場に他ならない。
気温以上の何かが、一星を含めグラウンドにいる選手全員にプレッシャーを与えていた。
勝てば日本代表として世界一になる。そんな大事な試合。キャッチャーとして試合をリードし続け、ここまでミスもなくリードも完璧だったのは、一星の集中力がずっと途切れなかった証拠だ。
――しっかし……暑い。
暑さとプレッシャーからか、大粒の汗が滲みだし、髪の毛を伝っていく。
ゆっくりと染みていった汗は、一粒の大きな雫となり、一星の右目を通り過ぎていった。
――あっ。
その瞬間、一星の集中力が途切れた。
たったその一瞬。刹那ともとれるその一瞬だけ、一星は目を閉じてしまった。
次に目を開くと、ボールはもうすぐ目の前に――。
「まずっ!」
慌てて捕球体勢に入るも、もう後の祭り。
ピッチャーが全力で投げたボールは、グンと曲がり見事に空振りを奪った……が、ベース上を通過して一星の股下を奇麗にすり抜けていく。
「くそっ!」
慌てて取りに行くも、一塁には間に合わず振り逃げ。三塁に進んだ走者は自重したため点こそ許さなかったが、満塁で点差は三点。
ホームランが出れば、お釣りなしで逆転サヨナラ。
順調に日本のペースで進んでいた試合だが、最後の最後に大きな山場を迎えることとなった。
タイムを取り、マウンドに駆け寄ると開口一番「ごめん」と一星はエースに声をかけた。
「気にすんな」
ありがとうなのか、もう一度ごめんというべきか。何が正解なのかわからず沈黙していると「ただ、次があいつか……」と、背番号一を背負ったエース、空野彗がバッターボックスへ向かう相手選手を見ながら呟いた。
本来ゲームを支配する女房役が、逆に心配されている。
自らの不甲斐なさを引きずりながら、一星もその選手に視線を移した。
四番、一塁手、左打ち。
名前は、王建成。
その名前と、フラミンゴのような一本立ちから繰り出される豪快なバッティングから、マスコミが〝帝王〟という名をつけた、今大会で一番注目されている選手だ。
大会打率五割超え。今日の試合でも、ホームランこそないが三打数三安打と絶好調で、三振を取ろうとしてもゴロを打たせようとしても、全てを捉えてしまう。
まるで野球の神様に愛されているような、そんな存在。
「変化球のキレは悪くない。まずはカーブとスライダーでカウントを整えて――」と言いかけたところで、彗は「やだね」とグローブで一星の頭を叩いた。
「わかってんの⁉ ここでもし大きいの打たれたら……!」
「前の打席もそれで変化球打たれただろ」
「だからってストレートは……球威も落ちてきてるし、危ないって。せめて最初の一球だけでも――」
「やだね。押し切る」
「それ、本気?」
「中途半端になりたくないんだよ。それに、ようやく肩も温まってきたんだ。もう打たれねぇよ」
「けど……」
「ほら戻った戻った」
よほど前の打席で打たれたことが記憶にあるのだろうか、彗は一歩も引く様子はない。投手らしい向こう見ずで傲慢な態度だが、ここまで抑え込んでいることもまた事実。
――もう勝手にしろ。
気持ちで押した方がいいかと何とか自分を押し殺してしゃがむと、半ば諦めの気持ちで一星はサインを出した。
要望通り、直球勝負。サインを確認した彗は、まるで無邪気な子供のように満面の笑みを浮かべて右足をプレートに付ける。
頭を僅かに動かしてランナーを気にするふりだけすると、若干の制止を挟んでからゆっくりと左足を上げた。
これまで彗は五回から投げ続け、次の投球が丁度50球目。
肩のエンジンがかかったのはうそかホントはわからないが、確かにスムーズに右腕が運ばれているように思えた。
ただ、コースは間違えちゃだめだ――と、精一杯のメッセージのつもりでストライクゾーンギリギリにミットを構える。
しかし、そんな心配を嘲笑うかのように、球はド真ん中へ吸い込まれていった。
ボールが彗の手を離れた瞬間から、一星は景色がスローモーションに見えた。ゆっくりと球が近づき、それに合わせてゆっくりとバットが動いていく。
やられた――そう思うも一瞬。
ブンッ、とバットが空気を切り裂く音とほぼ同時に、ドンッ、とまるで大砲でも放ったかのような音を奏で、ボールはミットに収まった。
「なっ……」
捕球した左手が、痺れている。
数秒の静寂。
敵の野次も、味方の声援も。何も聞こえない時間が、「よっしゃ!」と叫んだ彗の声で打ち破られた。
その瞬間から、明らかにグラウンドの空気が変わった。
後先のない状況が、あのストレートを呼び出したのだろうか。
はたまた、相手がそうさせるのか。
正解はわからない。
ただ一つ確かなこと。
それは、間違いなく今この瞬間、空野彗は怪物だということだった。
「ナ、ナイスボール!」
慌てながら球を返すと、平然と受け取った彗はサインを出す前にセットポジションに入る。
早く投げたい、この感触を忘れたくない。そう主張する目が、一星を覗く。
サインはもちろん一つ。
二球目も同じようにストレート。
相変わらずコースは無茶苦茶。アウトコース要求のボールはやはりストライクゾーンの中心めがけて放たれた。
ただ、そのストレートは衰えるはずもなく。寧ろ、一段と威力を増して直進し、バットに触れることなくミットに収まった。ギュルルルと異常なスピンを伴ってミットの中で暴れるボール。
若干、焦げ臭いにおいが一星の鼻孔《びこう》を突く。
――この威力、このスピード……もしかして!
返球するふりをして立ち上がり電光掲示版を見ると、一星の予想通り150キロ、と数字が表示されていた。
日本の中学野球史上、最速タイ記録。
「へっ」と、にやつきながらボールを受け取る彗を、ただただ眺めるだけしかできない一星。
打たれる気配のない、もはや魔球の域に達しているそのサインを出す。
サインはストレート。
コースはど真ん中。
怪物から放たれた三度目のストレートは、それまでの二球さえも凌駕した。
眼に留まることすら知らない彗星のようなストレートが、一星のミットに収まる。
最後の一球は、バットを振る隙すら与えない最高のストレート。
怪物と帝王の戦いは、152キロという日本最速を更新する形で、怪物に軍配が上がった。
最後のボールを抑え、マウンドに駆け寄る内野手たち。
アウトのコールを確認してマウンドに集まっていく外野手三人。
一人、また一人と空に人差し指を立てて歓喜の輪ができていく。
みんな、笑顔を浮かべていた。歓喜の声がグラウンド上に響く。
唯一、あの球を受けた一星だけがその場に取り残されていた。
「何してんだ、お前も来いよ!」
彗に促され「あ、あぁ」と一星は歓喜の輪へ歩みだす。
創り笑顔で歓喜の輪に混ざる一星は、一つの確信を得ていた。
――僕は一番じゃない。
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