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cocktail
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19時だというのにまだ明るい空と、身にまとわりつく湿気の中を、医大生で現在21歳の島津顕人は時折訪れるバーの重厚なドアを開けた。
外の熱気が一気に静まる空気と、異空間に彷徨ったような薄暗い店内に、現実を全て忘れる錯覚に襲われる。
「顕人くん、いらっしゃい」
いつも穏やかな笑みをたたえているマスターが出迎えた。
顕人はカウンターの椅子に腰かけた。
「今日もめちゃくちゃ暑かったですね」
顕人がマスターに言った。
「本当ですね。熱中症対策をちゃんとしないと。私は午後からずっと店にいるので、外の暑さをあまり感じてないんですが」
涼しい顔でマスターは笑いながら言った。
「それでも水分補給はちゃんとしてください」
真面目な顔で顕人はマスターに忠告した。
「はい。未来の大先生」
マスターがからかい半分言うと、顕人はむくれたフリをした。
まだ21歳の若さで、このバーの常連になれるのだから、普段から生活水準が高いのは容易に窺える。
それもそのはずで、顕人は総合病院の院長を父に持ち、幼い頃から英才教育を受け、現役で医学部に合格し将来を嘱望されていた。
なので父親からも昔から、つまらない場所で遊ぶなと言われ続けたこともあり、同世代とは少しズレた感覚も持っていた。
周りからは医師免許を取得したら、父親と同じ外科を目指すのかとも言われていたが、顕人は将来、小児科医になりたいと思っていた。
それは、友達以上、恋人未満の水原奈利子の影響だった。
水原奈利子は、自身が子供の頃、小児喘息で苦しい思いを経験していた。そして、現在の医療現場から小児科医が減っている事もあり、自分は小児科医になって子供達を助けたいと常に語っていた。
「俺も、奈利子と一緒に小児医療を目指そうかな」
そう言った時、奈利子は不思議そうに顕人を見た。
「顕人の家の病院、確か小児科無かったよね?どちらかと言うと、外科が専門だったよね?」
どうして小児を目指すのか問われた時、奈利子のそばに居たいからとは流石に言えないので
「小さな命を救うっていいじゃない。うちは、婦人科はあるけど産科も無くて子供とは縁が無いけど、俺は小児科医になりたいんだよ」
無理があるかな、と顕人は思ったが奈利子は信じてくれた。
「お互い、いい医師になろうね!」
将来を語る時、奈利子はいつもキラキラしていた。
「……くん。顕人くん?」
マスターの声が近くなり顕人はびっくりした。
「すみません。ボーっとしちゃって」
照れ笑いを顕人はした。
「まだ飲み物決まってなかったから。何になさいます?」
妖しい瞳でマスターは言った。
「ああ、すみません。惚けてしまって。何か夏っぽいさわやかなカクテルお願いします」
しどろもどろ気味に顕人は言った。
「では、モヒートはいかがですか?」
にっこり微笑んでマスターは尋ねる。
「飲んだことないかも」
顕人が答えると、マスターは冷蔵庫からミントを出した。
「ミント使いますが大丈夫ですか?」
物腰柔らかにマスターが言うと顕人は頷いた。
「爽やかなの大好きです」
マスターの美しい指が、魔法のようにカクテルを作る。見た目も涼しげなモヒートを顕人の前に置いた。一口飲むと、ミントの青々しい爽やかさと苦味が口に広がった。
「いかがですか?」
マスターの満足げな瞳が顕人を捉える。
「とても美味しいです」
顕人はそう言うとごくごく飲んだ。そして顕人は眼鏡を外すと、目頭を押さえた。
「最近、レポートとか徹夜続きで、アルコールを入れたら一気に来ました」
はははと顕人は笑ったが、それは嘘だなとマスターは思った。
「何か、悩み事でも?先ほどもボーっとしてましたね」
唇に指を添え、腕組みしながらマスターは尋ねた。
顕人は照れたような苦笑いをする。
「実は進路のことで父親ともめてる。父は外科医になれと言っているんです。俺が長男だから、跡を継がせたいのは分かってる。でも、俺は小児科医を目指そうと思ってるんです」
マスターは微笑んだ。
「なぜ小児科医になりたいんです?」
流石にそれは言えないと口を噤んだ。
「好きな相手が小児科医を目指しているとか?」
マスターの言葉に顕人は焦った。
「なんでわかるの?」
顕人がつい本音を漏らすと、マスターは妖しい笑みで笑った。
「顕人くん、こう言ってはなんですが、女性経験少ないでしょ。一途になりやすいタイプだと思いました」
図星を突かれて顕人は反論できない。流石に目の肥えたマスターは騙せない。
「彼女とは友達。でも俺的に友達以上恋人未満の感情がある。彼女は正直裕福な家庭から医学部に入ってきた訳じゃないんです。一生懸命勉強して首席で入って、学校から大学独自の奨学金を貰ってるんです」
顕人の通う大学の医学部は、私学の中でもトップレベルだった。その割に学費は他の大学の医学部よりは安い。が、安いと言っても医学部である。卒業するまでに数千万はかかる。
「彼女は小児科医を目指していて、将来は海外の貧しい子供達を助けたいと言ってる。だから今は必死に勉強して、大学の医局に入って経験を積んで、最終的に小児外科医になりたいみたい。俺と違って彼女はしっかりしてる。でも俺も彼女と同じ方向を向きたいんです」
顕人が話を終えると、マスターはホワイトラムの瓶を持って顕人に見せた。
「キューバって医療費がただってご存知ですか?乳幼児の死亡率も先進国の米国よりも低い。想像つかないでしょ。キューバと言ったら読書好きの顕人くんならヘミングウェイぐらいしかパッと浮かばないかもしれないけど、医療はとても素晴らしいんです。彼女も将来、腕を磨いて世界の発展途上国の医療をより良いものにしたいと思っているのでは?だから1番弱者の子供の命を救いたいんじゃないですか?顕人くんは、もっと自分のビジョンを持たないと彼女に振り向いてもらえませんよ」
優しげな瞳で語るマスターの言葉に顕人はなにも言い返せなかった。
自分は親の金で大学に通い、彼女と同じ場所に居たいからと言うだけで、将来の選択を決めようとしていた。甘い人間なんだと思い知らされた気がした。
外の熱気が一気に静まる空気と、異空間に彷徨ったような薄暗い店内に、現実を全て忘れる錯覚に襲われる。
「顕人くん、いらっしゃい」
いつも穏やかな笑みをたたえているマスターが出迎えた。
顕人はカウンターの椅子に腰かけた。
「今日もめちゃくちゃ暑かったですね」
顕人がマスターに言った。
「本当ですね。熱中症対策をちゃんとしないと。私は午後からずっと店にいるので、外の暑さをあまり感じてないんですが」
涼しい顔でマスターは笑いながら言った。
「それでも水分補給はちゃんとしてください」
真面目な顔で顕人はマスターに忠告した。
「はい。未来の大先生」
マスターがからかい半分言うと、顕人はむくれたフリをした。
まだ21歳の若さで、このバーの常連になれるのだから、普段から生活水準が高いのは容易に窺える。
それもそのはずで、顕人は総合病院の院長を父に持ち、幼い頃から英才教育を受け、現役で医学部に合格し将来を嘱望されていた。
なので父親からも昔から、つまらない場所で遊ぶなと言われ続けたこともあり、同世代とは少しズレた感覚も持っていた。
周りからは医師免許を取得したら、父親と同じ外科を目指すのかとも言われていたが、顕人は将来、小児科医になりたいと思っていた。
それは、友達以上、恋人未満の水原奈利子の影響だった。
水原奈利子は、自身が子供の頃、小児喘息で苦しい思いを経験していた。そして、現在の医療現場から小児科医が減っている事もあり、自分は小児科医になって子供達を助けたいと常に語っていた。
「俺も、奈利子と一緒に小児医療を目指そうかな」
そう言った時、奈利子は不思議そうに顕人を見た。
「顕人の家の病院、確か小児科無かったよね?どちらかと言うと、外科が専門だったよね?」
どうして小児を目指すのか問われた時、奈利子のそばに居たいからとは流石に言えないので
「小さな命を救うっていいじゃない。うちは、婦人科はあるけど産科も無くて子供とは縁が無いけど、俺は小児科医になりたいんだよ」
無理があるかな、と顕人は思ったが奈利子は信じてくれた。
「お互い、いい医師になろうね!」
将来を語る時、奈利子はいつもキラキラしていた。
「……くん。顕人くん?」
マスターの声が近くなり顕人はびっくりした。
「すみません。ボーっとしちゃって」
照れ笑いを顕人はした。
「まだ飲み物決まってなかったから。何になさいます?」
妖しい瞳でマスターは言った。
「ああ、すみません。惚けてしまって。何か夏っぽいさわやかなカクテルお願いします」
しどろもどろ気味に顕人は言った。
「では、モヒートはいかがですか?」
にっこり微笑んでマスターは尋ねる。
「飲んだことないかも」
顕人が答えると、マスターは冷蔵庫からミントを出した。
「ミント使いますが大丈夫ですか?」
物腰柔らかにマスターが言うと顕人は頷いた。
「爽やかなの大好きです」
マスターの美しい指が、魔法のようにカクテルを作る。見た目も涼しげなモヒートを顕人の前に置いた。一口飲むと、ミントの青々しい爽やかさと苦味が口に広がった。
「いかがですか?」
マスターの満足げな瞳が顕人を捉える。
「とても美味しいです」
顕人はそう言うとごくごく飲んだ。そして顕人は眼鏡を外すと、目頭を押さえた。
「最近、レポートとか徹夜続きで、アルコールを入れたら一気に来ました」
はははと顕人は笑ったが、それは嘘だなとマスターは思った。
「何か、悩み事でも?先ほどもボーっとしてましたね」
唇に指を添え、腕組みしながらマスターは尋ねた。
顕人は照れたような苦笑いをする。
「実は進路のことで父親ともめてる。父は外科医になれと言っているんです。俺が長男だから、跡を継がせたいのは分かってる。でも、俺は小児科医を目指そうと思ってるんです」
マスターは微笑んだ。
「なぜ小児科医になりたいんです?」
流石にそれは言えないと口を噤んだ。
「好きな相手が小児科医を目指しているとか?」
マスターの言葉に顕人は焦った。
「なんでわかるの?」
顕人がつい本音を漏らすと、マスターは妖しい笑みで笑った。
「顕人くん、こう言ってはなんですが、女性経験少ないでしょ。一途になりやすいタイプだと思いました」
図星を突かれて顕人は反論できない。流石に目の肥えたマスターは騙せない。
「彼女とは友達。でも俺的に友達以上恋人未満の感情がある。彼女は正直裕福な家庭から医学部に入ってきた訳じゃないんです。一生懸命勉強して首席で入って、学校から大学独自の奨学金を貰ってるんです」
顕人の通う大学の医学部は、私学の中でもトップレベルだった。その割に学費は他の大学の医学部よりは安い。が、安いと言っても医学部である。卒業するまでに数千万はかかる。
「彼女は小児科医を目指していて、将来は海外の貧しい子供達を助けたいと言ってる。だから今は必死に勉強して、大学の医局に入って経験を積んで、最終的に小児外科医になりたいみたい。俺と違って彼女はしっかりしてる。でも俺も彼女と同じ方向を向きたいんです」
顕人が話を終えると、マスターはホワイトラムの瓶を持って顕人に見せた。
「キューバって医療費がただってご存知ですか?乳幼児の死亡率も先進国の米国よりも低い。想像つかないでしょ。キューバと言ったら読書好きの顕人くんならヘミングウェイぐらいしかパッと浮かばないかもしれないけど、医療はとても素晴らしいんです。彼女も将来、腕を磨いて世界の発展途上国の医療をより良いものにしたいと思っているのでは?だから1番弱者の子供の命を救いたいんじゃないですか?顕人くんは、もっと自分のビジョンを持たないと彼女に振り向いてもらえませんよ」
優しげな瞳で語るマスターの言葉に顕人はなにも言い返せなかった。
自分は親の金で大学に通い、彼女と同じ場所に居たいからと言うだけで、将来の選択を決めようとしていた。甘い人間なんだと思い知らされた気がした。
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